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些末なものばかり撮っている理由

些末なものを美しく感じるから撮っているというのが結論なのですが、今日はふと思い立って、その理由やそれが建前や綺麗ごとではなく本心であるということを、少し詳しく書くことにしました。

この世が存在するためには必ず2以上の点が必要

早速ですが、「この世」とは必ず2つ以上の何かがあって成り立っています。マクロな話に限らずミクロな視点でもそうです。「構造」をもたない完全に単一の存在があるとしても、それが存在するための場も必要であるためです。

ちなみに「世」という漢字は、「長い時間の流れ」というのが語源、というか成立時の意味だそうです。流れなのです。冒頭で述べたように、やはりある一点の時ではなく、ある時からある時への遷移、あるいっときの状態ではなく、ある状態からある状態への遷移なのです。

状態・時間・知覚についての補足

仮にある物Xについて、ある状態の物Xを〇、それとは別の状態の物Xを◉と表すこととします。
「ある状態である」というのは時間をもたず静的・固定的であるということだと思っています。行きつく先は同じなのですが、より正確には「時間が無限に短い」ということだと思います。

そして人間が何かを知覚するためには必ず時間が必要だとも思っています。感情・心の働き、思考はすべて生理的な反応の結果であるところ、時間が与えられなければ身体や組織や細胞は一切動けないからです。そういうわけで、人が物Xについて実際に知覚している99.999%は、〇から◉への遷移過程なのではないか、というのがぼくの考えです。

この→の無限のパターンに人は何かを見出す

本題:なぜ些末なものばかりを

では本題の「なぜ些末なものばかり撮っているか」「なぜ些末なものをいちいち美しいと感じるか」という話に戻ります。

これはぼくの感性が鋭いから、とか、繊細だから、とかそんな褒められた理由ではなく、生活するうえですべきことのほとんどをないがしろにして、ただただ狭い視野でこの世を眺めていて、さらに〇→◉の速すぎる遷移についていくのが本当に、死ぬほど面倒臭い、だるいからです。あと朝起きるのが苦手なため1日の活動時間が短く、お金もなく、友達もひとりもいないので、遊びに出かけることなんてなく、物理的にも狭い範囲で暮らしてきたからです。

狭い範囲だけに視野を向けていればその分じっくり観察できます。
時間をかければ魅力にも気付きやすいです。
関わる人、時間が経って知っていくとだいたい良い人、ってのと同じです。

ということで、些末なものばかり撮っているのは下記が理由では?と自己分析しています。

  1. そもそも人が見る99.99%は些末なものであり、それがこの世の本質だと思っている

  2. 抽象的にも物理的にも狭い範囲を見ているおかげで些末なものを観察し、些末なものの美を発見する十分な時間を持てている

  3. 2と同じ理由から、常に変わりゆくこの世がたまに見せる決定的な美をほとんどスルー=見逃しており、スレていない

と、ここで「…いや待てよ、それはこの世のあらゆるものは元来美しい、という前提があってこそ成り立つ話では?論理が破綻しているのでは?」と思った方がいると思います。
その通りだと思います。
だからぼくは写真を撮っています。
絶対に不可能ですが、仮にこの世のあらゆるものを撮ることができたとして、それがすべてが美しかったとき、はじめてこの前提は真であると言える、というか、それが実現しない限り本来この前提は使えません。
だから撮るしかないです。

そして最後に誤解されてはいけないので補足を。あらゆるものは美しい、と聞くと、じゃあ人を死に至らしめること、いじめ、差別なども美しいのか?と思う方がいるかもしれません。
しかしここで話しているのは、常に遷移過程にある”物質・物体”についてです。
ですから、人を死に至らしめる人物について美しさを見出せるのだとしても、それはあくまでもその人物の”身体”や”動作”であって、思想や性格や行為にではないのです。

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