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謎解き『舞姫』⑩(森鷗外)――豊太郎が真意を語らなかった理由――

5 豊太郎が真意を語らなかった理由
 この手記の目的、それは「人知らぬ恨みを消すこと」です。
 「人知らぬ恨み」とは何でしょうか。
 それは身ごもった上に発狂したエリスをドイツに残してきたことへの悔恨です。
 エリスが身ごもったことも発狂したことも、元をたどれば豊太郎の思慮のない言動により引き起こされたことです。
 何としてもエリスを救い出さねばなりません。
 しかし、豊太郎は、エリスを捨てることを条件に帰国と復職が認められました。
 彼の決意は公表できることではありません。
 「実は、公には内緒にしてあるし、またほかの誰にも言っていないが、自分が帰国した後で、内々にエリスとその子を呼び寄せ、正式に結婚し、子供も認知するつもりだ」などと言えるはずがありません。
 帰国前にその決意を漏らしたなら、当然、豊太郎の帰国は取り消されます。
 しかし、日本に帰国しさえすれば、エリスを呼び寄せ、親子三人何とか生活することができます。
 東大を首席で卒業し、ドイツ語とフランス語が堪能な太田豊太郎のことです。
 きっと引く手あまたなのではないでしょうか。
 豊太郎は三人の今後を考えて、日本に戻ることを決意したのです。

 ですが、これは上を欺く決意であり、当時の規範意識や道徳観念から逸脱した行為です。
 ただ、道徳や規範は時代の制約下にあるものであり、それらが必ずしも絶対的に正しいものではありません。
 場合によっては、時代の通念に抗うことが正しいこともあります。
 例えば、杉原千畝氏の行為を今の時代に否定する人は皆無に近いのではないでしょうか。
 もちろん杉原千畝氏の人道的行為と豊太郎の個人的決意とを同列に考えることはできませんが、道徳や規範に反しているからといって誤りであると判断する根拠にはならない点では同じです。

 太田豊太郎の行為を振り返ってみましょう。
 彼は、気の毒な踊り子に経済的な援助をし、そのことを讒誣され、そのために免官になりました。
 この時まだ、豊太郎とエリスとは深い関係にはありません。
 さて、現代に生きる私たちの中に、豊太郎のこの行為は許しがたく、免官に相当すると考える人がどのくらいいるでしょうか。
 豊太郎以外の人々と比較してみましょう。
 豊太郎の同輩の中には、官費留学生でありながらドイツ新聞の社説すら読めなかったり、カフェで客を引く女と戯れたり、――勿論その女は売春の客引きをしていたのでしょうが――そのような者たちもいました。
 現代人の価値観からすれば、豊太郎とその者たちとどちらが免官、または譴責に値すると言えるでしょうか。
 また、ロシア宮廷での豊太郎の活躍を見ればわかる通り、近代化を目指す明治の日本にあって彼のような存在は必要不可欠ですし、彼ほどの力量を持つ者が大勢いたとは思えませんが、その得難い人材を誣告した同輩や免官に向けて働いた上官は「有罪」であると言えるのではないでしょうか。
 豊太郎は処罰すべほどの罪を犯してはいません。

 それでも、豊太郎の「エリスとその子を日本に呼び寄せる」という決意は、上を欺き、天方伯や恩人の相沢を裏切る行為だと言えます。
 それは否定できません。
 ですが、その「悪」とエリスやその子を捨てる「悪」と、どちらが重いと言えるでしょうか。
 私は比べるまでもなく、後者の「悪」が重いと考えます。
 豊太郎は、やむを得ず上を欺く決意をしたのです。
 帰国後、エリスとその子を呼び寄せれば、すぐに露見するでしょう。
 豊太郎は自分が処分される前に、自ら身を引く覚悟をしていたかもしれません。
 今までの「名声」はすべて消え去り、豊太郎に残るのは「汚名」だけです。
 しかし、それもエリスとその子を捨てることに比べれば、たいした問題ではありません。

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