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謎解き『舞姫』⑬(森鷗外)――「まことの我」に目覚めた豊太郎――

8 「まことの我」に目覚めた豊太郎
 『舞姫』は決してクズな男の話ではありません。
 ただ、天方伯や相沢への裏切りに不快を感じる方もおられることでしょう。
 しかし、人はいつも100%正しいことだけを選択しながら生きているわけではないですし、まして豊太郎の場合は追いつめられた状況にあったのです。
 100%善の行為と100%悪の行為との選択、というような勧善懲悪的な文学観は、豊太郎の当時でさえすでに乗り越えられようとしていました。

 『舞姫』はエリートの自己正当化の話でもありません。
 常人にはなしがたい覚悟を決めた男の話なのです。
 「世間的には最強のエリートであったが、実は内心弱い男であった」豊太郎が、「自分の業績や名誉、未来など全てを捨てても、つまり世間的には最弱になっても、内心は最強な男となる」という、「劇的な物語」なのです。
 
それが「所動的、器械的の人物」ではない豊太郎であり、「まことの我」に目覚めた豊太郎なのです。

 私の考察について、豊太郎は家の名誉と国家の未来を背負って渡欧した人物だから、そのような個人的なことを優先するはずがない、という反論もあるかもしれません。
 ただ、その考えは、鷗外自身が否定しています。
 石橋忍月との論争の中で、鷗外は次のように言います。
 「太田は弱し。其大臣に諾したるは事実なれど、彼にして家に帰りし後に人事を省みざる病に罹ることなく、又エリスが狂を発することもあらで相語るをりもありしならば、太田は或は帰東の念を断ちしも亦知る可らず。
 彼は此念を断ちて大臣に対して面目を失ひたらば、或は深く慙恚して自殺せしも亦知る可らず。
 臧獲も亦能く命を捨つ。
 况や太田生をや。
 其かくなりゆかざりしは僥倖のみ」と。
 「豊太郎は天方伯の帰国の誘いに承諾の返事をしたが、帰宅後豊太郎が発病せず、エリスも発狂せず、二人で話し合っていたとしたら、豊太郎は帰国を断念していたかもしれない。
 ただその場合、豊太郎は天方伯に対して面目を失うことになるので、彼は自殺したかもしれない。
 そうならなかったのは運がよかったからである」という意味です。
 豊太郎が国家や家を優先する男なら、このような選択はあり得ません。

9 終わりに
 それにしても、鷗外の言うことには理があります。
 エリスが狂ったことがよかったとは言えません。
 しかし、もし二人が正常な状態で話し合ったなら、鷗外の言うとおり、豊太郎は今後も欧州で生きていく覚悟を決めたことでしょう。
 その決定は豊太郎の自殺に繋がる可能性が高いと思われます。
 そして、豊太郎が自殺すれば、エリスは狂ってしまうか、後を追って死んでしまうのではないでしょうか。
 豊太郎はこの先、日本で狂女と嬰児を抱えて生きていくことになります。
 しかも、凄まじいバッシングに見舞われます。
 官の仕事も再び失うことでしょう。
 ただ、もはや「所動的、器械的の人物」ではない豊太郎は、きっとそれらを乗り越えていくのではないでしょうか。
 フィクションではありますが、豊太郎の一家が困難を乗り越え、幸せな家庭を築き、再び「楽しき月日を送る」ことを願わずにはいられません。

 いかがでしょうか。
 『舞姫』の主人公、太田豊太郎という人間について考えていただく際の参考になれば幸いです。

〈初出〉YouTube 音羽居士「謎解き『舞姫』」2022年7月、「謎解き『舞姫』Ⅱ」2023年6月 両者を再構成した。

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