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謎解き『舞姫』⑫(森鷗外)――豊太郎は断じて「クズ」ではない――

7 豊太郎は断じて「クズ」ではない
 さて、今までの考察に同意していただけたなら、豊太郎が「クズ」ではないことにも同意していただけるのではないでしょうか。
 しかし、それでもまだ豊太郎の言い訳がましさを快く思わない方もおられることでしょう。
 確かに、豊太郎の告白の中には責任転嫁や自己弁護と思われるところが多々あります。
 例えば、エリスの手紙を読んで、初めて自分の置かれている立場を自覚したところ。
 愛か仕事かという二者択一の問題にすり替え、読者の同情を誘うような書き方をしているが、豊太郎がいかにエリスのことを考えていなかったかがわかる場面だという、手厳しい批判があります。
 また、相沢の世話によって帰国と復職が実現していながら、「脳裡に一点の彼を憎む心」が今でも残っているというのは、忘恩であり逆恨みだという批判もあります。
 いろいろな方の指摘される豊太郎批判を読んでいると、『舞姫』全編これ豊太郎の言い訳全集、という感じです。

 ただ、どうなのでしょう。
 仮に豊太郎の言い分に責任転嫁や自己弁護などが多く含まれていたとしても、それがそんなに罪深いことなのでしょうか。
 責任転嫁も、実際に無実の人に罪や責任を押し付けてしまったなら、それはあってはならないことです。
 しかし、豊太郎は内心の不満を語っているだけで、実際に相沢などに何らかの抗議をしたり、補償を求めたりしたわけではありません。
 また、自己弁護も潔い行為とは言えない場合もありますが、誰でもやっていることですし、自己の正当性の主張だと考えれば、誰しもやるべきことだと言えます。
 まさか、豊太郎は世間からの批判に一方的にさらされるべきで、一言も弁明してはならないというわけでもないでしょう。

 私たちは物語の結果を知っているし、世界のすべてが見えているから、どうすればよかったかがわかります(わかったような気になります)。
 しかし、豊太郎にもエリスにも、この先に何が起こり、どのような結末を迎えるのか、全く見えていないのです。
 テストの正解を予め知っている者が、テストで間違えた者を侮蔑する行為には、正当性も道徳性もありません。

 豊太郎自身、述べています。
 「余は我が身一つの進退につきても、また我が身に係わらぬ他人の事につきても、決断ありと自ら心に誇りしが、此の決断は順境にのみありて、逆境にはあらず。
 我と人との関係を照らさむとするときは、頼みし胸中の鏡は曇りたり」と。
 順境であれば、誰しも正しい判断ができます。
 しかし、逆境に陥った時、人は同じように正しい判断ができるものでしょうか。
 私は、「逆境に陥っても、正しく判断したい」と考えていますが、その自信があるかと問われれば、胸を張って「そうだ」と答えることはできません。
 そうなってみないと分からない、というのが正直なところです。
 そもそも豊太郎に「クズだ、クズの中のクズだ」と悪態をつく人たちは、自分が職を失い、ただ一人の家族である母にも死なれ、「本国をも失ひ、名誉を挽きかへさん道をも絶ち、身はこの広漠たる欧洲大都の人の海に葬られ」そうになっても、正しい判断ができるとお考えなのでしょうか。〈注⑧〉

 豊太郎が「クズ」にならないためには、欧州の片隅で狂った妻と幼い子を抱え、極貧の一生を送る覚悟をせねばならないのでしょうか。
 いいえ、欧州に残ることだけが、豊太郎に残された唯一の道だというわけではありません。
 私は、豊太郎は「自分が先に帰国し、生活の道を確保した後、世間からどのような非難を受けようとも、エリスとその子を日本に迎え入れる」覚悟を持ったと考えました。
 それが豊太郎にとっても、エリスとその子にとっても、考え得る一番よい選択だからです。
 そして、その覚悟は立派であり、もしそれが実現できたなら、私も鷗外同様、彼のことを「愛すべき人物」だと思います。

 大事なことは、どういう道を選択するかであり、どういうことを発言するかではありません。
 泣き言や恨み言は言わないに越したことはないですが、言ったところで大したことではありません。
 そもそも人にとって「何を言ったか」より「何をしたか」の方が何倍も大切なことです。
 私は豊太郎が何を言ったかではなく、何をしようとしているかを重視したいと考えます。
 だから、そのなしがたい覚悟をなした豊太郎は立派な男であり、断じて「クズ」などではありません。
 鷗外は忍月に言いました、「足下らは能く太田生に慙づる所なきか」と。
 豊太郎の覚悟を知りつつも、なお形式的な道徳にこだわって彼を批判する人や、豊太郎の毛を吹いて疵を求め、常人にはなしがたい覚悟をなした彼を承認しない人、自らは順境にいながら、逆境に陥り苦しみつつも何とかそこから抜け出ようと足掻く豊太郎をあざ笑うがごとき人がもしいたとしたら、私はその人たちに鷗外と同じ言葉を贈りたいと思います。

〈注⑧〉ある女性の方が、どこかで「豊太郎をクズ男だという人は、本物のクズ男を知らない」という趣旨のことをおっしゃっていました。「わが意を得たり」と感じました。

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