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古典擅釈(1) 本心を語るということ『伊勢物語』①

――若い頃、古典を読むことで気を散じていました。その際、書き散らした駄文がいくつかあります。誰かに読んでもらうというつもりもなく、ただ自分のために書いていました。それらに若干手を加え、古典擅釈と題して順次披露させていただきます。――


 『伊勢物語』は愛の古典です。
 在原業平と目される「昔男」の、元服から臨終までの、愛の軌跡を描いた名作です。
 百二十五の小段から構成され、それぞれに必ず歌を添えており、文学史では最古の歌物語と位置づけられています。
 その多くが愛を巡る物語なのですが、おしまいの二段だけは様子を異にしています。

 最終段は業平五十六歳の辞世です。

  むかし、男、わづらひて、心地死ぬべくおぼえければ、
   つひにゆく道とはかねて聞きしかどきのふけふとは思はざりしを

〈訳〉昔、男が病気になって、病状がすぐれず死にそうに思われたので、このように詠んだ。
  死は結局は誰しも行かねばならない道であると、昔より聞いていたものだが、自分の場合だけは、よもや昨日、今日といった間近に迫っていようとは思いもしなかったことであるよ。

 実に素直な歌です。
 『玉勝間』によると、契沖の批評に、「これは人の真情であって、教訓としてもよい歌である。後世の人は、死に際に臨んで、仰々しい辞世を詠み、ともすれば道を悟ったかのような趣旨を歌などにするが、嘘っぽいことであって、ひどく気に入らない。平生であるならば、大袈裟に飾り立てた表現もよかろうが、せめて今はの際ぐらいは、真率な心に戻れと言いたい。この業平朝臣は、その一生のまことがこの歌に現れ、後世の人は、その一生の偽りを表して死んでいくものだ」とあるそうですが、宣長も「法師の言葉に似ず、とても尊い」と賛意を表しています。

 『伊勢物語』の業平の一生は、契沖の言うとおり「まこと」を貫いた一生でした。
 さまざまな女性の愛に、“誠実”で“無垢”な思いで応えてきました。

 ところが、臨終の段の直前、第百二十四段には、次のような歌が配されています。

  むかし、男、いかなりけることを思ひけるをりにかよめる。
   思ふこといはでぞただにやみぬべきわれとひとしき人しなければ

(訳)昔、男がどんなことを思った時であろうか、このように詠んだ。
  思うことを言わないで、そのままにしてしまおう。自分と同じ人なんてどこにもいないものだから。

 自分の率直な思いを歌に託して、愛する女性に伝えてきた業平が、晩年になって、どうして人間不信と絶望に駆られたような歌を詠んだのでしょう。
 愛など、所詮、当てにならない幻に過ぎないと気づいたのでしょうか。
 それとも、愛の名において、多くの女性を欺いてきた罪の報いなのでしょうか。
                             〈続く〉

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