日常の記 20200907-0913
● ○ ● 9月8日 ○ ● ○ ● ○
『サイコだけど大丈夫』が佳境にさしかかってきた。終盤一気にサスペンス要素が強まってきたけれども、コ・ムニョンとムン・ガンテ(キム・スヒョン)が抱える苦悩は大きくなるばかり、これを見ていてあるドラマを思い出した。坂元祐二が手がけたドラマ『それでも、生きてゆく』だ。満島ひかりを筆頭とした加害者家族と瑛太ら被害者家族の心が通いあうことができるか、という難題に挑戦したドラマだ。ああ、サイコのどうしようもない辛さはそれでも生きてゆくに通じていたのだ。ただサイコには、この2人のどうしようもない辛い状況を救おうとする術がこれでもかと用意されている。まずは自閉症スペクトラムを持つガンテの兄ムン・サンテ(オ・ジョンセ♡)。空気を読まず、過去も気にせず、ただ目の前にいる2人に対峙する存在。そして、チングたちだ。ガンテには「おまえは弱い。弱い者たちは団結したら強くなる(的なこと)」と言ってくれるジェスがいて、ムニョンは最初孤独だったが今はジュリがいる(イ社長もいるけどね)。コ・ムニョンが部屋に閉じこもっていたところに、ムン・サンテが現れて、うずらの卵入りおかゆを食べさせるシーンは、もう、なんというか。号泣。コ・ムニョンは激情型でよく怒鳴るし叫ぶしと思うけど、あれは弱さの裏返しなのであって、コミュ障を絵に書いたような双葉(満島ひかり)だと思うとさらに泣けてくるよね。弱い人たちがきちんと連帯して、立ち向かっていく様が描かれていた。結局最後まで見てしまった。
韓国ドラマで、隅々まで理解できてああすっきりとなったあとには、なんだかよくわからないものが見たくなる。Netflixからプッシュされた『もう終わりにしよう』を見る。チャーリー・カウフマンの最新作だ。イアン・リードによる原作の映画化。映画観賞後の感想は、こりゃ原作読みたいな、だった。さっそくアマゾンでポチった。
ある雪の日、つき合い始めて6週間という彼ジェイク(ジェシー・プレモンス)と恋人のルーシー(ジェシー・バックリー。髪形かわいい)カップルが実家を訪ねる。メインとなるのは彼の実家へ向かう車の中での会話なのだが、彼女の中である彼に対する一抹ではあるが絶対的な不安がある。映画では彼女の心の内がナレーションで語られ、その言わんともし難い、でもとてつもない何かが浮き彫りになってくる。実家に向かうとジェイクの父(デヴィッド・シューリス最高)、母(トニ・コレット、『ヘレディタリー継承』の主役の俳優さんね、もう最高)が待ち受けていた。
いろいろ書こうかと思ったら↓このブログにかなり詳しく解説というか解釈が書いてあった。
https://watashidakenobookclub.hatenablog.com/entry/2020/09/06/145221
なるほど。
ちょうどbluerayが届いたので思い出したけど『ミッドサマー』にも近いのかもしれないと思った。彼との関係を不安を感じていたダニーが、スウェーデンの架空の村ホルガで陰惨な夏至祭のメイクイーンになっていくという話だが、ダニーの心の揺れ動きとだんだんと明るみになっていく村の因習が重ね合わせて表現されることで、見ている方もだんだんと不安になっていくし、不思議で不吉なことがどんどん起こる。
この映画もそうだ、彼の実家に初めて行くというのに憂鬱そうな顔をして、実家に帰ることの鬱とした気分を「帰省はただ惨め」と読み上げたポエム「骨の犬」を暗唱するルーシー。自分から度々電話がかかってきていたが、これは心の声なんだろうか。だんだんと現実と非現実の境がなくなってきて、すべての境がなくなっていく、ルーシーとジェイクの境も。用務員さんはもう一人のジェイクなのか? 最後、ダンサーの華麗な舞いからのノーベル賞(?)授賞式からのミュージカルでの大団円! これは脳みそが大混乱して大笑いするしかない。さすがチャーリー・カウフマンだし、ジェシー・プレモンス。一瞬フィリップ・シーモア・ホフマンに見えたよね、彼が。
● ○ ● 9月9日 ○ ● ○ ● ○
約半年ぶりに劇場へ行った。ロロのいつ高シリーズ「心置きなく屋上で」を見るためだ。前日になってチケットが見つからず、大騒ぎして家中のバッグをかき回し、一緒に行く友人にも見つからなかったら中華街でご飯食べて帰ろうごめんと連絡をして、チケットがなくてもなんとか入れないものかと問い合わせ窓口にもメールを入れた。その直後、レシートと一緒に袋に入れてしまったのでは?と夫にいわれ、はたと袋の中を見ると、あるじゃーん。友人と劇団の担当者に申し訳ありませんと一報し、チケットを財布にしまう。よく考えたら、この劇団コロナ中の初めての公演で、対策やらなんやらものすごく大変なところに、こんなチケットなくしたオオカミ少年騒ぎで連絡を入れてしまった。申し訳ない。自分がイベントの担当者だったら、こういうのやめてくれよーって思うんだろうな、ほんとすみませんでした。
ロロの芝居は最初に見たときは、あのキラキラとした世界に少し面食らってしまってあんまりなじめなくて、1本見てからしばらく間をおいていたのだけど何かのきっかけで「いつ高」を見に行ったら、開眼してしまった。決してあり得ないファンタジーのなかに生きるいつ高生たちの世界に、完全にハマってしまったのだ。彼らはもう何年もいつ高の中で生きているのだと思うし、俳優たちも年を取っていくんだろうけど、それでもいい、見守り続けたいという気持ちになったのだ。ということで、60分の旅に出た。相変わらずいつ高生たちはまばゆくて、当たり前に不思議なことが起こって、あっという間に終わる。60分という時間もいいのかもしれない。ああ、もう終わっちゃうんだというあたりでぷつんと切れて、次のいつ高に話がつながっていくのだ。コロナが起きて、人と人の距離というものに意識が向けられている現在でも、通学してる学生たちを見てるとやっぱりくっついてる。小学生も中学生も高校生も。ベタベタしながら歩いてる。距離に敏感になっているから余計にか、子供たちがベタベタしてるのを見ると泣けてくる。その距離感は、いくつになると失われてしまうのかと考える。
観劇後は友人と食事をしながら、ロロの素晴らしさを語り、昨今のドラマや映画におけるジェンダー像の描かれ方の変化や、男性が自身の感情を吐露することについて話をした。新しい物語が描かれているという確かな感触はあるが、それを必要としている人たちに届いているのかという疑問も立ち上がる。その中でメディアにかかわる自分たちにできることは何だろうかを問うと同時に、これからどうやって生きていこうかねという話になって、少し酔いながらも背筋がピッとした。
● ○ ● 9月10日 ○ ● ○ ● ○
どうにもたまらず『もう終わりにしよう』の原作を購入してしまった。
どういう原作でこういう映画になったのかを知りたくなったのだ。原作はイアン・リード。カナダの作家で本作が長編小説デビューだという。オンタリオ州の農場で生まれ、大学で哲学を専攻したという彼の経験がたっぷり詰まった小説で、映画を見た後で読んでもやっぱり脳がこそばゆくなるもので、結婚という血のつながりのない他人と何十年も生活することへの恐怖、「私」とは誰か、私を私たらしめるものは何なのか、私と他人との境界はどこにあるのかという問いとその不確かさを考えさせられた。映画は原作の台詞を忠実に再現しているシーンもたくさんあったが、私たちの脳は嘘(フィクション)で固められていて、それは思考としてウイルスのように広がっているという話や、社会が冷たくなったという話、そして冒頭の「骨の犬」の詩やダンスシーン、最後のノーベル賞スピーチのようなシーンは映画独自のものだった。だいたい原作ありきの作品だと、原作を超えることはないなって思ってしまうんだけれど、これは違う。完全に映画として原作のエッセンスは守りつつも、映画的な別の作品に仕上がっていた。原作を読んで、もう一度映画を見たくなる。そのループが楽しめる作品だった。チャーリー・カウフマンの過去作品をまた見直したくなった。
● ○ ● 9月11日 ○ ● ○ ● ○
Twitterでこんな映画祭の情報が流れてきた。
“Deep South – Deep South Movie Matchmaking:Cerebration of Okinawa and Thai Deep South Filmmakers”
https://www.artsincovid19.geidai.ac.jp/post/deep-south-deep-south-movie-matchmaking-cerebration-of-okinawa-and-thai-deep-south-filmmakers
program 1-5のリンクがやってきたので、さっそくいくつか見た。program5が面白かった。ヒーサン・チェママ監督による『I’m Not Your F***ing Stereotype』は、深南部の厳格なイスラム教の地域からバンコクに引っ越してきた女子高生が、自らの名前、宗教などすべての情報を変えたいと市役所にやってきて、その理由を打ち明けるという話。9.11以降、イスラム教というだけでISISの仲間なのかと友人たちから疑われたり、学校でヒジャブをかぶっているのは一人だけだったり。彼女の母は敬虔なイスラム教徒なのだが、彼女の日常とイスラム教の生活には乖離があり、うんざりする毎日であるという現代の若者の姿をポップに描いていた。
サマック・コセム、ナラシット・ケサプラシット、アヌワット・アピムックモンコンの『Neverland』もよかった。海辺で一人の男性と思われる人物が大きな布を身にまとい、優雅に踊る。その立ち居振る舞いは男性には見えない。その彼(彼女、または性別不祥)が踊っている様を、周囲の人々は不思議そうに見ている、あるいは冷ややかな目線で笑う人たちもいる。これはタイ南部のイスラム教の人たちが多く集う海岸で撮影されたものだそうだ。
5本くらいあった短編のうち一番よかったなと思ったのがパンタウィット・テープジャンの『The Journey of Isolation』。タイ深南部パッターニ県のイスラム教が色濃い地域では、分離主義派という人たちが立ち上がり、何度となくタイからの独立運動をしているらしい。そこで超法規的に当局に殺されたというパウイー・ターサモという人物を巡り、一人の女性ジャーナリストが立ち上がり、本人の家族や周囲に取材を行ったというドキュメンタリー作品だ。何かの事件が起きてもメディアは軍部のいいような報道しかしないので、誰も真相がわからないと地元の人が話をする場面があった。タイトルにもあるが、場所として孤立してしまっているのだという。内容ももちろん深刻なものだったが、映像の撮り方、音楽、光の入れ方などがすごく洗練されていて(アピチャッポンとかに影響受けてるのかしら)、きちんと映像としても美しく、そんな美しい風景の中でこんな残酷な状況があるという点で事実も刺さってくる、そんな作品だった。
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