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人力飛行機と琵琶湖と私

私にはこれまでの人生の中で大きな挫折が2回ある。
これはそのうちの1回目、人力飛行機で飛ぶことを志して、叶わなかった人の話。

■人力飛行機との出会い

大学に合格し、兵庫の片田舎から上京した私はサークル勧誘の荒波に揉まれ、たどり着いたのが人力飛行機を作るサークルだった。
理由はものづくりが好きだから、とか、飛行機やロケットが好きだから、そんなところだったと思う。

私のいた人力飛行機の制作サークルは大きく分けて以下の5つのパート+1人で成り立っていた。

・主翼パート
・尾翼パート
・フェアリングパート
・駆動系パート
・プロペラパート
・パイロット

私は駆動系パートと呼ばれる、パイロットのペダリング動作をプロペラに伝える部分を作ったり、飛行機の骨格となるフレームを作るチームに所属した。

人力飛行機は全重量はおよそ30kgほどしかなく、その構成部品はほとんどが発泡スチロール・スタイロフォーム・サランラップの親分みたいなフィルム・カーボン繊維強化樹脂でできている。
小さなころからプラモデルばかり作っていた私は駆動系パートを志願した。
発泡スチロールやサランラップの親分みたいな柔らかいものを工作するのは向いていないと思ったからだ。

人力飛行機を語る上で最も重要なイベントといえば鳥人間コンテストだろう。
通常7月の終わり頃に読売テレビ主催で開催されるこのイベントは、人力飛行機を作る人間にとっては、1年かけて作った飛行機を思う存分に飛ばす最初で最後の機会となる。

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私のいたサークルではこのイベントを終えると3年生の先輩が引退し、2年生の先輩がチームを引き継ぐ。

私が1年生のときの鳥人間コンテストは台風接近に伴う悪天候のため、途中で中止という結果に終わった。
飛行機を飛ばすことは出来たのでその点は良かったが、先輩方は悔しい思いだったことだろう。
そして私は思った。

パイロットになりたい

体重が軽かったので適正はあったし、持久系のスポーツにも自信があった。
ロードバイクを購入し、トレーニングに励むようになった。

■パイロットになって、そして

2年生のときの鳥人間コンテストは失格という結果だった。
飛行禁止区域を飛んでしまったからだ。
風に流された機体は操舵が効いていなかった。
それでもしっかり空を飛んでいたので、先輩方は晴れやかそうに引退していった。

そして私は次のパイロットに選ばれた。

とても嬉しかった。

一方で問題が生じていた。
慢性的な人手不足で私はパイロットだけではなく、駆動系のパートリーダーも務めることになった。

1年生はあまり作業に来なくなった。
パートリーダーの自分がメンバーをマネジメントできていなかったことに原因があると思う。
荒れた。
活動に対する方針の違いから心無い言葉を仲間に言ってしまったこともある。
10年以上経っても鮮明に覚えている。
なんであんなことを言ったのかと。
表面上は仲裁もあって和解したものの、本当の意味で和解できたのは何年も後になってからだったように思う。
思えば心の底から人と感情をぶつけ合ったのはあれが最後かもしれない。
そのくらいみんな一生懸命だったことは確かだった。

人力飛行機は通常、7月に開催される鳥人間コンテストでズタボロに壊れてしまう。
なので次の年の機体はほぼ全く新しく作ることになる。
だいたい8月から作業して次の年の4月に試験飛行ができるレベルになる。

試験飛行というのはとてもエキサイティングなイベントだ。
金曜日の夜中に解体した人力飛行機をトラックに積み込み、富士川や利根川にある滑走路まで運ぶ。
そして現地でまだ夜も明けない午前3時頃から組み立てを始めて、数本の練習飛行をするというものだ。
徹夜に近い疲労感と絶対に機体を壊してはいけないという緊張感に包まれるのだが、これまで作ってきた飛行機が人力で空を飛ぶ、という点がこのイベントの何者にも代えがたい価値だった。

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そして3年生のときの私は、パイロットとしてその中心にいた。
試験飛行は順調だった。
鳥人間コンテスト前の試験飛行では一度に400mを超える距離を飛んでみせた。
去年抱えていた操舵の問題も解決したように見えた。
全てが上手くいくと信じていた。

しかし結果は残酷だ。
私の乗った機体はプラットフォームから飛び出した後に速度を上げるも揚力を得られず、水面に落下。
記録はたったの62mだった。

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琵琶湖に沈み、脱出を補助するダイバーの皆様に助けられながら水面から見上げた空を私は生涯忘れることはないだろう。

私がペダルを漕いた力でプロペラが回って飛行機が空を飛ぶ。
それは今考えれば完全にファンタジーのような話だ。
こんな機会をくれた仲間にはいくら感謝しても足りない。

■私の中に残ったもの

この2年半は私に何をもたらしただろうか。
あれから10年以上が経って、このサークル活動は会社組織で働くということの予行演習だったように思える。
計画を立て、設計をして、それが妥当なものであるかを検証する。
チームに一つのゴールを示して、それに向かって行けるように支援する。
そういった学びは全てこのサークルでの体験が出発点だったように思う。

この体験が失敗だったか?と聞かれると、その評価は難しい。
このサークルでパイロットになったからロードバイクに出会えたし、そのあとの学生生活は完全に自転車競技一色だった。
その後10年以上もの間、熱中するものに出会うきっかけを与えてもらった。
その熱に浮かされて、就職まで自転車業界に進んでしまった。
今になって思えば、サークルの選択が人生の選択だったのかもしれない。
選んだ本人にそんな気がなくても、結果的にはそうなっている。

飛ぶために飛行機を作って、飛ぶためにパイロットになった。
しかし本番では飛ぶことができなかった。

結果だけ見れば失敗だ。
鳥人間コンテストが終わった直後は、この世が終わるかのような絶望があった。
それでも、今の自分の中に残ったものを見てみると、希望がいっぱい残ったように思う。

何が失敗かを決めるのは難しい。
しかし、その瞬間は”失敗した”と思っても後になって評価が変わることはある。
大事なことはネガティブな事象から何を学ぶか、どんな意味づけをするかだと思う。



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