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「今さら」と「やっと」の間 ー 小説『20160118』

その報せは、稲垣吾郎さんの誕生日を祝福するTL(タイムライン)上に、突然現れた。

「SMAP×SMAP」(フジテレビ系)の放送作家としても知られる鈴木おさむ氏が書き下ろしたというその小説には、『月刊文藝春秋』公式による「2016年1月18日の謝罪生放送の舞台裏を想像させる」との惹句が付いている。
早速クリックしてみると、発売予定の本誌からの抜粋として、その一部分が引用されていた。
内容は読んでいただければと思うが、一読した直後に私が投稿したのはこれだ。

それは引用部分にあった『その放送にスタッフとして、放送作家として参加した僕も戦犯である。だから。僕はテレビ番組を作る人間として。あの時。終わったのだと思う。死んだのだ。』を受けての呟きだ。

たとえそれが「小説」という名を借りているにしても、公式さえもが「想像させる」と書いているように、タイトルにもなっている「20160118(2016年1月18日)」という日付、そして作者が長年関わってきた「SMAP×SMAP」という番組で起こった出来事と、その小説の内容が深く関係していることは疑いようがない。

あの異様な「公開謝罪」の生放送。
「5人」の様子にただならぬものを感じ、その発言が決して自発的になされたものではないと直感したのはファンだけではなかったはずだ。それは、あの生放送が巷で「公開処刑」と呼ばれたことにも表れている。
それにもかかわらず、それを放映したテレビの側がその違和感や問題性を真っ向から指摘するのを見たことが無い。(それどころか、後にあの放送に「愛を感じた」と語った局関係者さえいたことには唖然とした)
翌1月19日には、テレビ局を問わずに同場面の映像が無批判に流され、「解散しないと聞いて安心した」などという、肯定的な意見ばかりの街頭インタビューが流れた。

以来、年が明ければもうじき7年が過ぎようという長い時間、あの日、ファンや多くの視聴者が感じた違和感、明らかに「心にもないことを言わされていた」異常さが認められることはなく、それらの声は現実を受け入れられないファンの思い込みとして、時には揶揄や攻撃の対象にすらなった。

それが「小説」という冠をつけているとはいえ、番組に深く関わった関係者が、あの日の彼らの発言は「言わされたこと」であり、「誰か」に言われるままに、それを止められずに放送した自分は「戦犯」だと認めたことは、あの日のファンや視聴者の直感が全く正しかったことを意味している。

この突然の「告白」に、ファンは揺れている。
受けた傷の生々しさゆえに、あるいはもう前を向きたいから、今さら知りたくないという気持ち、このような小説になることについて、ご本人たちの意思はどうなのかと案ずる気持ち、それでもあの時何が起こったのかを知りたい、それが関係者が「戦犯」と自認するような事態なら、尚更そうさせた「誰か」の責任を明らかにしたいという気持ち。

私自身は以前
加害者としてのテレビ ー 2016年1月18日 SMAP「公開謝罪」
で書いたように、ずっと「あの時何が起こったのかを知りたい、そうさせた何かの責任を明らかにしたい」という気持ちを持ち続けている一人ではあるけれど、それ以外の心情も理解できるつもりだ。
そして選ぶ道は違っても、その誰もがあの出来事から受けた大きな傷を抱えていることに変わりはない。また、恐らく「中の人たち」も好きで「戦犯」になったわけじゃないということもわかっている。
しかし、だからこそやはり知りたいとも思う。この全ての人たちから、楽しいはずのエンタメが奪われた理由とその責任の所在について。

「小説『20160118』」の情報が出てから、名の知れた「テレビマン」たちから鈴木氏に贈られた「勇気がいったことだろう」の賛辞や、鈴木氏ご本人が語ったという「思い切って書きました」などの言葉に感じる強い違和感は何だろう。
確かにこの7年近くもの間、誰一人それについて証言しなかったことを考えれば、今回のこれは、少なくともあの業界に関わる人たちにとって「勇気」と「思い切り」を必要とすることなのかもしれない。

しかし、その業界の外にいる私にとっては、なぜこれをすること ー 事実の「暴露」ですらなくあくまでも小説という体裁で ー にそこまでの勇気が必要とされるのか、その理由になっているものを変えない限り、これから先も何も解決しないと思える。
もちろん、今回のことがそのための一歩であることを心から願うけれど、それが内輪での「勇気」の称え合いに終わるのであれば、またしてもテレビは私たちを落胆させるだけだ。

―――――――――
と、ここまでは抜粋版を読んだ時点で書いたものだ。

その後、鈴木氏がこの「小説」の原稿料全額を寄附するとしたインタビューを読み、書店で掲載誌を購入し、今読み終えてこれを書いている。

一つだけ言えることがある。
鈴木氏が念を押すように、これは小説だ。
小説なのだから、それはこう続いても良いはずだ。

「あれから7年の時が過ぎようとしている。ようやく番組関係者の口から真実が明らかにされたことで、同じようにキャスティング、映像使用、楽曲使用などを含めた様々な点で不本意な番組作りをさせられてきた多くのテレビ関係者が、その後も次々に声を上げた。

また2016年当時は、本人からの訴えがないという理由で調査を見送ったBPOは、改めて当該番組放映に関する経緯調査に着手した。公取委も、この放送の背後に優越的地位の濫用があった可能性が高いとして、行政処分も視野に入れた調査に入った。

さらに、一芸能プロダクションの上層部が私的な目的のために番組の内容を視聴者、番組制作者、出演者が望まぬ方向へと改変させ、公器たるテレビ放送を私物化したことについても放送法に抵触する恐れがあるとして、多くの法律家から、それを指示した者とテレビ局の責任を追求する声が上がっている。

小説が発表されたことをきっかけとしたこのような動きは、結果的にタレントの人権を守り、メディアが特定プロダクションの強い影響下に置かれないための法整備へと繋がりつつある。

何より大きなことは、20160118に貶められた彼らの名誉が回復されたこと。
そして、彼らと彼らを愛する全ての人たちのもとに、その宝物が返ってきたことである。」

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