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飼い猫を亡くした話(1)

9日前に、飼い猫を亡くした。

まだ若いメス猫で、彼女との別れが来るのは、もっとずっと先だと勝手に思っていたから、なかなか心の整理ができない。

ずっとどんよりとして、いつもどこか上の空で、泥沼に浸かって歩いてるような気分。
時々、不意に悲しみがこみ上げてきて、何度も涙が出た。
職場で、なに食わぬ顔でいながら「ウチの子が亡くなったのに、何で仕事なんかしてんだ?」と、何十回も心の中で呟いて過ごした。

ようやく、僕も周りも少し落ち着いてきたけれど、本当に穏やかな気持ちで彼女のことを思い出せるのは、まだ、だいぶ先のことだろう。

ただ、この何日かの感情がそのうちに消えてしまうのは、なんだか寂しいし、数年に渡る彼女との記憶が、次第に色褪せてゆくのも、嫌に思う。
だから、忘れないうちにnoteに残すことにする。

彼女と出会ったのは、5年前の保護猫譲渡会だった。
真正の猫好きな妻(当時はまだ結婚していなかったが紛らわしいので妻と記す)に連れられて、会場へ行った。
まだ少し暑い、秋の日曜日だった。

妻は最愛の猫を数年前に亡くして、新しい子を飼う気になれずにいたのだけど、ようやくそんな気持ちになったのだ。

会場には、子猫は数えるくらいしかいなかった。
そのなかで、彼女は一番活発でかわいらしく見え、妻はその場で貰うことを決めた。

妻の実家にやって来たとき、彼女は産まれて2ヶ月くらい。初めての場所に戸惑って、隅で小さくしていた姿を、今も覚えている。
譲渡会で見たときよりも成長して、さらに愛らしく魅力的になっていた。

妻の家は、これまで4匹の猫と2頭の犬を育ててきたベテランで、当時は犬と猫それぞれ1匹ずつが居たのだけど、新顔を迎えるのは久しぶり。
家中がワクワクした雰囲気に包まれていて、彼女もこの家できっと幸せになれるだろうな、と感じた。

果たしてその通りになった。
妻はかいがいしく彼女の世話をし、妻の両親にとっては、新しい孫がやって来たようなものだった。
瞬く間に、彼女は家庭の中心に収まり、皆が彼女を可愛がった。
少し粗っぽいところがあるために先住猫たちに嫌われていた妻の父ですら、「この子は今までの猫とは違うね、良い子だよ」と頬を緩めたものだ。
先住者の猫と犬も、母性あふれるおばちゃん&ばあやだったから、優しく世話を焼いてくれていた。
妻に貰われて、彼女は本当に幸せだったと思う。

それから、半年くらい経って、僕と妻は同棲を始めることにした。
もちろん彼女も連れていくつもりでいて、ペット可物件を探して回り、妻の実家から徒歩数分の場所にちょうど良い部屋を見つけた。
「猫は家に付く」という話もあるから、引っ越しは不安だったのだけど、彼女はすぐに新しい部屋に馴染んでくれた。新しい同居人の僕とも。

彼女は、お姫様だった。
自信満々でとびきり愛らしくて、誰に対しても物怖じせず、自由奔放。
子猫のころの彼女は、まさしく輝いて見えた。少女マンガで花を背負ってるキャラクター。
初対面の人にもグイグイ近よる警戒心の無さに、はじめは心配したけれど、そういう子なんだと慣れてしまった。
他人からひどいめに遭わされるかも……なんて事は、つゆほども考えてない様子で「全ての人間はわたしを可愛がるためにいる」といった態度だった。
実際、それはほとんど真実だったのだけど。

新しい部屋で暮らしていた頃の彼女を、今でもよく覚えている。

部屋をパトロールしては、普段開いていないところ(トイレとかクローゼットとか引き出しとか)を目ざとく見つけて入り込んでしまうこと。
朝、仕事に行く僕を見送ってくれた後、遊び相手がいなくなって不機嫌になること。
窓からよく外を眺めては、鳥たちに威嚇している姿。
料理をしている妻を監視するのが日課で、時々邪魔しては怒られていたこと。
早朝まだ寝ている時に、お腹を空かせて、(ご飯係である)妻の鼻に噛みついて起こすこと。
気分屋で、ご飯を出しても、気に入らないと砂をかける素振りをして、プイと行ってしまうこと。
結局あとでしっかり食べること。
降りるのが苦手なくせにカーテンに登っては、助けを求めて鳴く声。
ミカンが嫌いで、僕が食べ始めるとすぐに逃げていってしまうこと。
手製のキャットタワーに置いてあるオモチャから、その時のお気に入りを持ってきて遊んで欲しいとねだる様子。
よく部屋のなかを走り回っては、一緒に走ろうと鬼ごっこに誘う姿。
妻のベッドが大好きで、トランポリンで遊ぶ子どものように勢いよく飛び込んできては、寝ている人を驚かせること。
普段はあまりゴロゴロ言わないのに、夜に布団の中で撫でてあげる時だけ、微かにゴロゴロしてしまう愛らしさ。

いくつも思い出せる。
なかでも思い入れが深いのは、彼女との散歩の時間だ。

彼女は外に出るのが好きだった。
ベランダの手すりの上を歩いてみたり、アパートの中庭で草の匂いを嗅いで回ったり、僕が抱いて一緒に散歩したり。
抱っこが好きな子だったから、リード無しで抱っこしたまま、近所をぶらぶらとよく歩いた。
彼女はウキウキした様子で、周りを見渡したり鼻をヒクヒクさせたり、いつも楽しそうだった。
もっと自由に遠くを見たい時は、僕をよじ登って肩に乗るのだけど、逃げ出して迷子にならないか、少しヒヤヒヤしたものだ。
肩に乗っている彼女は、映画の“ボブ”そっくりで可笑しかった。(『ボブという名の猫 幸せのハイタッチ』)
じきに、彼女は毎日のように散歩に誘うようになり、僕は彼女に「散歩係」として認められたのだった。

妻との生活では、僕の鈍感さから妻を怒らせてしまうことが多かったのだけど、彼女の存在がいつもクッションになってくれていた。
新しい住み家でも、彼女はみんなの中心でヒロインだった。

やがて、僕と妻は結婚し、式と披露宴は、猫をコンセプトにした僕ららしいものに仕上がった。
彼女には、最も重要な神父の役割を担ってもらい、式場に連れていけない彼女の代わりに、羊毛フェルトで人形を作った。人前式ならぬ“猫前式”というわけだ。
結婚式は、快晴に恵まれた風の強い日だった。
彼女が貰われてきた日の、ちょうど2年後だった。