鋼鉄乙女のモン・サン=ミシェル戦闘記(45)
再び目覚めたとき、傍らに鋼鉄色の少女の姿はなかった。
そのためだろう。周囲に気を配ることもせず、ラドムはぼんやりと天井を見上げただけであった。
「えっと……」
記憶が混乱している。
ここが故郷(ポーランド)じゃないのは分かる。
密航船の中でもない。
ならばモン・サン=ミシェル? いや、違う。
それならば、あの廃墟か?
狭いものの、清潔で近代的な造りの部屋を見回す。
先にあげた何処とも違うことは分かった。
だが、混濁する意識。蓄積された疲労が、眠気となって襲いかかる。
──こんなこと、してられない。
ここがどこかなど関係ない。
為すべきことは一つ。
寝かされていたベッドから起き上がりかけたその時だ。
「おい、どこ行く気だよ」
突然のその声に、ラドムはびくりと身を震わせた。
振り返った先──部屋の端に立っていた赤毛の女にようやく気付いて眼を見張る。
「どこ行く気かって聞いてんだよ」
ドスの利いた声で女は繰り返した。
無言でこちらを見やる少年の元へ近付いたかと思うと、女は彼の金髪をつかんでベッドに押し倒したのだ。
「絶・対・安・静・だ!」
「うっ……」
言葉を失った少年に、女は乱暴に布団をかけた。
アタシはマディー・グリフィン。医者だよ、と簡単に自己紹介してからこう続ける。
「アンタ、すごい怪我だ。生きてんのが不思議なくらいだよ。そもそも何でユダヤ人がこんな所にいるんだよ」
ユダヤ人──この時代としては致命的なその単語を吐いた口を、少年はキッと睨みつける。
「ほぅ……ユダヤの子供のくせに物怖じしねぇな」
マディーのその言葉は素直に関心の念からくるものだったようだが、不躾な言い方はまずかった。
「み、民族を理由に虐げられるいわれはないっ!」
子犬が吠えるように、傷だらけの少年が叫んだのだ。
しかし女はそれを笑い飛ばした。
「お勉強が大好きな子供って感じの言い草だな! うまく立ち回らなきゃすぐ死ぬぞ? ああ、悪ぃ悪ぃ。で、アンタの名は?」
用心深く少年はラドムと己の名を名乗る。
「ラドムか、変なガキだな。ユダヤ人なのに」
何せ時代が悪かった。
生まれたときから不当な差別を受け、学ぶ術も立ち入る場所も制限されてきた民族だ。
子供とはいえ、虐げられることに慣れている。
だから、こんな台詞を吐くうユダヤ人は珍しいはずだ。
「闘うことを諦めるなよ。それは大事だな、うん」
「な、何言ってんだよ……」
何かを感じたか、ラドムの表情が曇る。
「そんなことより、病院って言ったな。場所はどこ? 僕は何日眠ってた?」
丸二日だな、とマディーは答える。
「……僕をここに連れて来た人は?」
知らん。女医の返答は素っ気無い。
「あの……銀髪で髪が長くて僕よりちょっと背が高くて、ボーっとした胸の大きい女の子が連れてきたんじゃない?」
「そんな女は知らん」
「でも……」
自分で言っておいて、もっと他の言いようはなかったかと自問するラドム。
更に何事か呟くもののラドムが動けないのは、女医が少年の額をベッドに押さえつけているためだ。
「久々の患者だけど、どうせ金なんて持ってねぇだろ。治療費が払えねぇなら怪我治ってから働かせるから、そのつもりでいろよ」
それはマディーなりに、裏を返せば回復するまで面倒をみてやるという意味だった。
しかし少年には、彼女の真意まで読めはしない。
「二日も経って……」
ぎゅっと閉じられた眼から透明な雫が溢れでる。
マディーは驚いたように手を退けた。
「わ、悪ぃな。痛かったか? ラドム?」
「ちが……、……しいんだよ」
少年は首を小さく横に振る。
何だ?
問い返したマディーの耳に届く嗚咽は、次第に高くなっていった。
「……大人ぶって偉そうに言ったわりに彼女を守れず、助けられて、あげく置いてかれたのが悔しいんだよって言ったんだよっ!」
両手で顔を覆い、少年は声を殺して泣いた。
「おい? ちょっ、勘弁してよ……」
女医の戸惑いの声が次第に遠退いて……そして彼は再び眠りに落ちたのだった。
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