『辻潤著作集』月報の入力作業と覚え書き
<関連する辻潤書籍>
1969年『辻潤著作集』をオリオン出版社より刊行。
『辻潤著作集1 絶望の書』(1969年11月20日発行)
『辻潤著作集2 癡人の独語』(1970年01月20日発行)
『辻潤著作集3 浮浪漫語』(1970年03月xx日発行)
『辻潤著作集4 ですぺら・どうすればいいのか?』(1970年05月xx日発行)
『辻潤著作集5 螺旋道・ぼうふら以前』(1970年07月xx日発行)
『辻潤著作集6 唯一者とその所有』 (1970年10月xx日発行)
『辻潤著作集 別巻 年譜』(1970年12月01日発行)
月報は第1巻から第6巻の付録。別巻は付録ナシ。
<特徴と収録内容>
・生前刊行の単行本をそのまま新字新仮名で収録している。
・ただし著作集収録は時系列ではない。詳細は下記の通り。
1:『絶望の書』(1930年)
2:『癡人の独語』(1935年)
3:『浮浪漫語』(1922年)
4:『ですぺら』(1924年)、『どうすればいいのか?』(1928年)
5:『螺旋道』(1929年)、『孑孑以前』(1936年)
6:『唯一者とその所有』(1929年改造文庫版か?)
<入力作業の公開>
・辻潤著作集月報1(1969年11月『辻潤著作集1』付録)
・辻潤著作集月報2(1970年01月『辻潤著作集2』付録)
・辻潤著作集月報3(1970年03月『辻潤著作集3』付録)
・辻潤著作集月報4(1970年05月『辻潤著作集4』付録)
・辻潤著作集月報5(1970年07月『辻潤著作集5』付録)
・辻潤著作集月報6(1970年10月『辻潤著作集6』付録)
<入力作業と覚え書き>
辻潤著作集月報1
・末松定「辻潤の翻訳モノについて」
神近が大杉を刺したのは、いわゆる葉山日陰茶屋事件。大正5年(1916年)11月8日のことである。末松定が高等学校に入ったのは大正12年(1923年)頃と。「この時は英雄大杉よりも、フラレ男の辻潤の方に万腔の同情をそそいだものであった」とは、日陰茶屋事件の報にリアルタイムで接した所感ではなく、過去の事件を知った時の感想となる。
・山本正一「思い出話」
第六話が衝撃的。
・戸田達雄「落魄してから」
尺八でトロイメライやユーモレスク。後者が例の「ふもれすく」の由来。
辻潤著作集月報2
・菅野青顔「ある思い出」
エリゼニ郎の別名は百瀬二郎。辻潤にアン・リネルやジョルジュ・パラントを紹介したのは彼。語学達者な上に嗅覚の鋭い人。小島きよの第二の夫、洋画家Tは玉生謙太郎。それにしても凄い光景だ。先妻の家に別れた夫とその友人が居候しているんだぜ。
辻潤著作集月報5
・原田種夫「辻潤と福岡」
著作集月報で最も価値あるのがこの寄稿。キーワードは「古賀光二」「駄々」「ダダ講演会」。古賀光二に関する件は「陀々羅行脚」に詳しい。講演会を開く側の内情を垣間見ることができる。
辻潤著作集月報6
・花園宥運「辻さんと私」
西福寺住職のお話。辻潤年譜作成者にとって貴重な情報満載。父六次郎氏の命日は1910年(明治43年)01月11日、その住所は上駒込八四〇番地と特定可能となる。
・岩崎太郎「辻潤さんの想い出」
ちょっと面白いと思ったのが雑誌『ニヒル』についてのくだり。
フランスから帰られてからのことでしょう、「ニヒル」という雑誌が送られて来たのか持ってみえたのか、家に沢山積んでありまして、私も此の雑誌はところどころ読んだものでした。尤も「ニヒル」はあまり売れなかったものか売れすぎたものか、父の所へは三回ぐらいで来なくなりました。
雑誌『ニヒル』は1930年(昭和4年)2月刊行、3号で廃刊となる。つまり、岩崎氏宅には全て揃っていたのだ。
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