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辻潤著作集月報4

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辻潤著作集 月報4
昭和45年5月

オリオン出版社
東京都中央区銀座8丁目19番地3号・和泉ビル

辻さんが生きていたら
一瀬直行

 今度の辻潤著作集第二巻の中に「あさくさ・ふらぐまんたる」という章があり、その中で、
「自分は自分の生まれた日本のうちでも特別に東京が好きなのだ。東京の中でも浅草が好きなのだ。いや好きだった」と、書いている。
 この頃の浅草はつまらなくなったと、しばしばきく。東京の盛り場はどこも同じようで、浅草についても亦いえる。そしていやらしいことがはばをきかしているうちに、いつかいやらしいことがあたり前なことになる。それが今日の世相だといえばそれまでだが、到底親しむわけにいかない。
 けれど浅草には身贔屓になるかもしれないが、長年のよさが土壌にしみ込んで今日でも残っている。それは表通りより日のささない裏通りに一層生き残っている。
 おそらく今日辻さんが生きていたら、やっぱり浅草の酒はうまいというに違いない。もっとも辻さんは酒の味がうまいとか、まずいとかうい程度で、酒を愛していたのではない。
 私は年のせいか酒をのみながら、よくあくたれをつく。相手がいやがるのに遠慮会釈なくきり込んでゆく、そして酔いがさめれば、あと味が悪い。いわずもがなの憎まれ囗を酔いの力をかりていうのは卑怯だ。重苦しい自虐におちるが、多分に文学的な自虐であるだけに尚更あと味が悪い。
 同じ二巻に出て来る「あるばとろすの言葉」の中で、
「人間は醉うとみんなたいてい『本音』を吐くものである。その人間がどの位の程度の人間だかということは、酔っている時に一番よくわかるものであるというのをよんで、救われた気がして来る。(作家)

辻潤と谷崎潤一郎との交友の一断面
大岩鉱

 ご両人の交友の一断面を筆者は「作家の翻訳」を特集した中央公論昭和二年歳末特集号で知りました。この翻訳競争に参加した作家は正宗白鳥(E・A・ポウの「沈黙」)谷崎潤一郎(トマス・ハァディの「グリーブ家のバァバラの話」)山本有三(シュテファン・ツワィク「永遠の兄弟の眼」)佐藤春夫(王秀楚記「揚州十日記」)の四人です。谷崎は前書きで「ハァディ翁の小説にA Group of Noble Dames というのがあるが、この話しはその第二話、そのあらすじは……」と紹介し「私は語学に自信がなく、翻訳に馴れていないので出来上ったものを読み返して見ると、少しギコチない所があり、我ながら飽き足らぬふしが多い。折よく旧友辻潤君が遊びに来たので、二、三箇所同君にも相談したが、勿論間違いもあるであろう……」
 と書いています。これによってみると、辻潤は谷崎とは木戸ご免の間柄だったようです。
 次に「小説界」昭和二十四年八月号に正宗白鳥、武林無想庵、谷崎潤一郎の「青春回顧」を軸とした座談会〈紙面には出ていないか白鳥(談)によると舟橋聖一氏陪席〉記事が載っているが、その中で、藤村は好きな人と嫌いな人がある、という話しをうけて、武林無想庵が「藤村はそういう感じを起させるものね、一種のね、なんというか、エクセントリックなものを持っているのだ。辻潤みたいに、それがさせるポーズで嫌わせるのでね」
 といっています。筆者は辻潤については殆んど何も知らないが、谷崎や無想庵などとは気のおけない友人関係があって、愛されていたようです。それはともかくこの座談会で筆者が感銘をおぼえた一つは無想庵が、例えば「正宗君のキリスト教というのは根が深いね」といっているように、よい眼をもっていた事ですがその無想庵が辻潤を引き合いに出しているのは注目すべきでしょう。(作家・白鳥研究家)

「ですぺら」の一語
松永伍一

 「きみ、要するに辻潤しかいないよ」とその先生は言うのである。リンゴ箱に本をつめたまま、それを三列にならべて五六段積んでいるその書斎で、私はツメ襟のカラーをはずしたりしていた。
 中学五年生にとって辻潤とは遠すぎる存在であった。宮沢賢治などにいかれていた私は目を白黒させていたが、また「ですぺら」と言いかけ、「きみ、ですぺらがわがらなければ本ものの文学者にはなれないよ」と、退屈そうな顔を先生はした。
 灰皿に吸いがらがあふれ、出してこられたコーヒー茶碗に新しい吸いがらが投げこまれるのを、私は不精な人だなとおもって見ていた。
 私は家に帰ってから『広辞林』を引いた。「ですぺら」という言葉はなかった。さて、一体「ですぺら」とは何だろう。私は、右翼だった兄の書斎に辻潤の本がないことを知っていたから、近くのお寺の坊さんのところへ行った。大杉栄全集とならんで辻潤の『絶望の書』が見つかった。頁をめくったがさっぱりわからない。
 坊さんは「辻潤は読まぬ方がいい。あなたは宮沢賢治を読みなさい、人生に希望がもてます」と言うのである。「ですぺら」の意味がそのときわかった。意味がわかっただけである。
 私はものを書くようになって東京に住んだ。すると、母校の修学旅行団につきあわされることが再々である。十年ばかり前になるが、永井先生が引率して上京された。むかし以上に退屈そうな顔つきにみえた。齢からいえば校長になれるのに、まだ平教員であった。
 私があいさつに行くと、小さな部屋があるから来いと合図して私を誘い、酒をもって来させ、「きみ、“ですぺら”がわかるかね。え?」と質問の形になって酒盃が充たされた。「ですぺら」で乾杯というわけである。さびしそうであった。
 その翌年、送ってきた同窓生名簿によって永井先生の死亡を知った。
 ついこのあいだ、「あなたの詩集『草の城壁』が早稲田の古本屋でみつかりました」と持ってきた学生があったので、それを見ると「永井寛先生」に著名して贈ったものだった。私は「ですぺら」の一語を前よりも深く理解することができたようにおもった。(詩人)

往事渺茫都似夢
宮前一彦

 なに分にも四十年ちかい昔のこと、歳月のヴェールを透しての想い出は大方良いことばかりになり易いもの。しかし辻潤と云う文人、その歿年を超えたいまの私にとっても終生忘れられぬ人であり、或意味では自分なりの人間の生き方を知らされた師匠だったと思っている。彼はよくニヒリストは裏返しされたアイデアリストだと云い、又つねに「フイリスティン」を軽蔑した。わたしは、彼をニヒリスト以前に多分に基督教的なヒューマニストであり元来心のやさしい親切な人だったと考えている。ただ通り一ぺんの人道主義的な云わば世俗的な倫理を解脱しようとして徹し得ないいら立ちがあの風狂ぶりとなり、まわりの者へのわざとのいやがらせとも見えるあの酒癖となったのではないかと考えられるフシが多分にあった。例の天狗になって屋根から飛んだ時(その以前からよく役の小角のことを話した)誰かが若しかしたら佯狂ではないかと云ったが、私か慈雲堂病院を訪ねたのは大分日にちが経ってからだったが、同室の病者や自分に向っての話しぶりその内容など、たとえ一時的にもせよ発狂した人とは到底思えなかった。
 文は人なり、と云うがまことに辻さんにこそこの言葉がうってつけのものはない。書くものに嘘がない、日常酒の上でもしらふでも話すこと、行動がそのとおり文になっていること、文人としてこれほど立派なことはない。近頃文学に余りにもウソが多すぎる。今更私などの昔話をきくより、当然のことながらその書いたものをよく読かのが辻潤という人の場合は特にその理解を深める唯一の方法だと思います。私など浮浪漫語などから好んで近づいたのだったが、実に読んで想像したとおりの人であり、無口のうちにも青年を理解し、気持の暖かい人と云うのが第一印象としていまだに忘れない。事実そんな人柄でなければ、二十以上も若輩の私などと一緒になってたとえ泥酔の果てとは云え品川あたり場末の遊女屋にそれこそ浮浪するような馬鹿げたことなど出来るわけのものではない。(辻潤の友人)

綺羅 ――辻潤に寄せて――
坂元漠

このミクロコスモスには
天空はない
落下した一個の星だけが生きのこり
心臓に化けて青く光り
血脈の埠頭に
ランプを掲げる
黄金分割と皆殺しの歌
沖は暗い
舟はいつの日か波にさらわれ
肉体の孤島に
火を燃やす
でんでん虫の晩餐
綺羅の極北             (70・4・2)

辻潤と私
久保田一

 昨年か一昨年前頃から、辻潤は私の理想だ――と思い続けていた。そして、その頃は確かにそうだと思っていた。だがそれは違っていた、と云うより違って来た。そう云った方が良いかも知れない。
 どんなふうに違って来たかと云うと、辻潤は理想と云う終点ではないのであり、人生の起点ではないかと感じはじめたのである。
 雛が初めて大空に飛び立つ、あの瞬間が辻潤であると思うようになった。だからと云うわけではないが、彼の行動や言動の総べてに共鳴しなくても良いと思う。そして、私達若者にとって一番大事なのは辻潤の遺産をただ研究する事ではなく、私達と辻潤と変る時代との共通点を見い出す事にあるはずだ。
 私はそれを見い出す事によって辻潤と云う起点に一刻も早く到達し、そこから飛び立つ事にあると思う。もし私達にそれがなかったらいかに辻潤を語ろうとも無意味の他ならないからだ。

生きる
机無太郎

 教育基本法という法律がある。この中にある一条、八条、九条を読まれた方も多いと思うが、実に意義深いことを云っている。勿論、教育法規だから教育者に直接関係することにきまっているが、あながち教育者のみに必要な法律とはいえないと私は思う。辻潤が文学してきた世界観、社会観がこの三つの条文に生き生きと脈打っていると私は見るのである。第一条などは辻潤の云っている個人の尊厳そのままである。辻潤はあの大正期の迷盲の中で、昭和初期にかける動乱の中ですでに教育基本法第一条の精神を云い当てている。
 彼は確にニヒリストである。それはニヒリストなるが故に正しい社会観が創造されていたのである。この第一条が実は辻潤のような無頼の文学者によってその養土が掘られ、たがやされていたのかと思うと興味深いものかある、更に第八条、第九条を読んでみたまえ、まったく辻潤の偉大さがわかろうというものだ。なぜもっと人間は正しく個人を掘って自我に醒めた人間として生きることができないのだろうか。知識として政治を、教養とし宗教を学ぶことは、大変よいことである。併しどうだ、最近のマスコミに毒され溺れた人間の多いこと。彼等は、政治やであり、おがみやではないか。彼等はどうして他人の言をいとも簡単に信用するのだろうか。私は不思議でならない。彼等は常に不安なのかな、彼等はたえず欲望のとりこになっているのではないかな、私は組織の善、組織の悪というものを、もっともっと個人が知らねばならないと思う。人間の組織がけっしてたのみになるものでなく、強靭なものでもないことを深く知る必要があると思う。デモクラシーという言葉が実は個人というもっとも大切なものを表現していることを私は知っている。最近の日航機の事件や学生騒動その他数多くの社会現象は、私には何の関係もない。私は自分の生活が何より大切である。私は自分のために、これからも生きたい。(教師)

編集室だより
◇この著作集〈全六巻〉を読んでいただければ辻潤のいだいていた“絶望”がわかっていただけると思う。
◇辻潤にはその作品が辻潤そのものであるのです。この書を読んで、「本当の生きた読者」が生まれることを期待しています。
◇次回配本〈五巻〉ぼうふら以前・螺旋道は大幅な増頁のため、定価九五〇円になる予定です。ご了承下さい。

編集委員
松尾邦之助
村松正俊
添田知道
安藤更生
辻まこと
片柳忠男
菅野青顔
高木護
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