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辻潤著作集月報2

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辻潤著作集 月報2
昭和45年1月

オリオン出版社
東京都中央区銀座8丁目19番地3号・和泉ビル

辻潤追慕
高橋新吉

 「辻潤著作集」が出ることは、よろこぶべきだが、私にとっては、甚だ迷惑なことでもある。先年、「ニヒリスト」という本が、松尾邦之助編で出たときも、「当時の辻潤は、詩人新吉を『メガロマニヤ』で『ニンフォマニア』(慕男色情狂)だといっている」と松尾は書いている。それで、「ですぺら」をさがして読んでみたが、辻潤は、「少年の日からたった一人の女を恋し続けている彼は恐らくニンフォマニヤであるかも知れない、自分の書いた片言隻辞に恐ろしい執着を持つ彼は又メガロマニヤであるかも知れない」と書いているが、″慕男色情狂″とは、辻潤は書いてはいないのである。
 松尾は、ネグロの女以外は、「あらゆる国籍の白人女どもと、とことんまで――した」と書いている。松尾邦之助に対して、辻潤は、色情狂といったのかもしれぬ。悪口雑言を、辻潤は、誰彼に、浴せているので、その余波が、こちらにハネカエッテくるのであるが、おまけに、松尾のように、辻潤の書きもしない文句までつけて、辻潤以上に、こちらを軽蔑したんでは、私はかまわぬとしても、わが愛する娘たちが、不憫でならぬのだ。
 辻潤は、四国の八幡浜市へ、二、三度来たことがあるが、私の父にも逢っている。
 「新吉がとう\/発狂した」などと、辻潤は、新聞に書いたが、まもなく辻潤も、発狂して、狂人病院に入院したのである。同気相求むるというか、同病相憐れむというか、私と辻潤のあいだには、類似する点が、多少ある。
 私は、辻潤の思想や、その生活についても、私なりに、見極めているが、これまでに、何度も書いてぃるので、ここにはふれない。
 つづまり私は、二十九歳の年に、ここに筆にするに忍びぬ罵言を、父に放って、それが為に、父は、悲惨な生を終った。私はこの事を回想すると、腸を断つ思いが今でもするのである。
 私の性格に、度し難い、悪魔的なものが、ある故でもあろうか。私は、ダダを、一九二四年以後は、棄てて、かえり見なかったが、マルクスを学び、禅を習った点では、正しく辻潤の先生であったといっても、辻潤は、苦笑いをするだけで、否定はしないだろう。
 私の父を殺したのは、ダダでも、マルクスでも、禅でもない。詩でも、文学でもない。私以外に、殺したものはいないのだ。この事実に対する悔恨が、私のその後の生涯の主調音になっている。
 なお、「明治四十年八月六日、東京角筈十二社、社会主義夏期講習会における写真」に、大杉栄、堺利彦、片山潜、幸徳秋水、山川均、その他数十人が、うつっているが、この写真は、八幡浜市の織物業者で、初代市長になった酒井宗太郎から、辻潤が、もらって持って帰ったものだと、私は記憶している。(詩人)

辻潤の思想
片柳忠男

 私はある期間辻家と家族ぐるみでつきあった時代があった。
 辻賜が伊藤野枝との恋愛に破れた後のことであり、とにかく辻潤を主人として辻家がまことに平凡のように営まれていた。しかし平凡に見える辻家は決して平凡なものではなかったのである。
 時代的にいって、新しい思想の乱立期であったし、辻潤の思想は、当時の華やかな思想の下積みとなり、したがって、辻潤には活躍というような形容詞はどこを探しても出てこなかった。死んだ私の女房がよく、“潤さんのいってること、なんだかさっばりわからないワ”といった。潤さんは“わからなくていいんだ”それをくりかえしていっている頃をなつかしく思い出すのである。
 いま、「ニヒリスト」に続いて「辻潤著作集」が刊行の運びとなった。現代の混沌たる世相の中で、かつて四十年前に私の妻がいった“さっぱりわからないワ”という辻潤の思想が今日ほどわかるときはないのである。
 しかしながら、辻潤の思想は辻以前において、人間の心の底を流れてきた根強い宗教のようなものであったが、それが何であるかの解明が行なわれぬままであった。その宗教的と思われる思想を人間の中で解明しつづけて、辻教としたのが辻潤である。このような仕事をしていたのだから、その日の家計にも家族は苦労をしていたのを私は知っている。家族が、我家へお米を借りにきたのも再三であったが、それは女同志のこととして、私も辻さんもかつて一度も囗に出したことはなかった。このような辻家でありながら、辻家は決してジメジメしていなかったし、何か超然としたような一種独特な風格があったし、妙に人なつこい温かみを思い出すのだから不思議である。こんどこの著作集の編集委員に名をつらねている長男のまこと君はまだ小学校在学中だったが、明かるいすこしも影のない少年で、私の一家は、この少年をことのほか愛していた。したがって我家の庭は、この少年の遊び場であり、我家の犬や猫は、まこと君の友達でもあった。少年時代にすでにすばらしい画才があったが、それが今日、彼が特異性のある画家として知られるようになったのは少年時代を知っている私にはうなづけることなのである。
 かつて筆にしたことがあるが、潤さんは、酒が好きであった。当時一週間に、二度や三度は、我家を自分の家と心得えて、一時間や二時間は我家で私と共に酒杯を手にしていた。その酒杯の中で、私は辻哲学を聞かされてきたのである。
 人間とは何であるのか、社会とは何か、政治とはどういうものか、あらゆる現代の苦悩を辻潤は半世紀前に苦悩し解明しようと努力した。しかも、利害関係を度外視し、人間の尊さを純真な心で追究した。そして、それが、偽りに満ちた社会への怒りとなって、自からを痴人とした。いまこそ多くの痴人を必要とする社会なのである。彼は真の自由とは何かを現代社会へ遺言として残していった。そうも私には感じられるのである。(画家・オリオン社々長)

ある思い出
菅野青顔

 古い。三十五年も前の話だ。
 春、四月。友人の広野重雄(画家)に連れられて、東京に行ったとき、住所不明で断念していた先生(辻潤)に、ひょっこり会うことができたので嬉しくてたまらなかった。十年ぶりに見る東京なんかは、騒々しいばかりで、サッパリ珍らしくはなかったが、先生に会えた一事だけで、東京に来た甲斐があると思ったものだ。
 夜であった。先生の弟子が開いている道玄坂下の「智登利」という酒場で、仲間と一緒に幾本かの銚子を空にしたあと、誘われるままに、俺だけが、大森の先生の宿を訪ねることにした。着ながしの小柄な先生の後についてく、禿頭・長髪、異様な俺の洋服姿は、まさに十九世紀へ逆転の滑稽なものだったろうが、俺は内心“この人を見よ”の優越感にひたっていたのであった。
 渋谷駅から省線で、大森までは僅かの間であった。街頭の薄暗い露地をいくまがりも歩いたところに先生の宿があった。夜はだいぶ更けて、家々の寝息がふるえているようだった。遠く響いてくる省線の音が、物悲しく感じられた。
 「オーイ、寝たのかネ」
 先生の静かな呼び声に、二階の窓がガタリ開いて、坊主頭の大入道がのぞきだしたと見ていたら、すぐ引込んで、ドシンドシンと階段を降りてくる音、カケガネを取り外す音、やがて真暗な階段を手探りで上り、招ぜられた部屋は十燭光の電燈が、ポッカリついているたった三畳の間だった。先刻の坊主頭の大入道は髯だらけの顔を酒に輝かして、長髪の男と対いあってカラカラ笑っているところだった。俺は咄嗟に、天台の国清寺にいたという寒山拾得の古事を思いだし、自分もクックッと笑いたくなった。
 この二人に、「これが気仙(キセン)の青顔だよ」と、先生は二コニコしながら紹介してくれた。
 坊主頭の大入道は、先生の「ですぺら」や「虚無思想研究」誌などで、お馴染のエリゼニ郎氏で、長髪の男は、先生の三男坊アキオ君を生んだ小島きよ女史の現在の亭主Tという洋画家であったのだ。
 いわば先生とエリゼ氏とは、小島きよ女史等の巣に居候をしていたのだ………バイブルの「……されど人の子には枕するところなし」有難い文句の生活をしていたのだった。俺はひとり千万無量の思いであった。
 友遠方より来たッてわけで、打揃って近所の十銭バーに出かけ、酔っぱらって宿にかえったのは真夜中の二時頃でもあったろうか、俺を胴中にして、先生は窓ぎわ、エリゼ氏は戸囗のそば、そしてT氏夫妻は唐紙をへだてての八畳間に、かくして一夜を蚕のように眠ったのであるが、俺は、この一夜の経験で、未だ知り得なかった、尊い人生の「あるもの」を感知することができたのであった。
 爾来、先生の断簡零墨ことごとくを蒐めることに、いよいよ熱をあげ、先生より六年生き恥をさらしていながら、尚その熱が下らず、むかしながらの“ツジマニヤ”を以って任じている俺なのである。(評論家)

三つの因縁
三島寛

 辻潤とわたしとは、三つの因縁でむすばれている。その一つは、少年時代、わたしが彼の翻訳「天才論」を読んだことだ。そしてはじめて人間の心の世界のふしぎさと妖しさに驚異の眼をみはらされた。その後いろいろな紆余曲折はあったが、とどのつまり精神科医になって、辻潤が三十数年前入院したことのある慈雲堂病院に現在勤めている。
 もう一つは、わたしの異母兄・武林無想庵が、辻と肝胆相照す仲となり、一時は彼を食客として遇したことがある。兄貴がフランスに去ってからも、辻は追っかけるようにしてパリに出かけた。その後兄貴の娘イヴォンヌは、辻の長男まこと君と結婚し、三子を挙げたが、ふたりは別れてしまった。どういうわけがあったのか、わたしはまだその真相をきき洩らしている。
 わたしが辻潤に会ったのは、あとにもさきにも唯一度なりで、彼がパリから帰ってまもなくのころだ。兄貴との関係とは別に、いちど会ってみたい人物だったからである――少年時代に読んだ「天才論」が、よほどわたしの心に灼きついていたためだろう。
 最後の因縁は、「ニヒリスト・辻潤」のために、一文を書かされる始末になった、ことである。編集上の都合で、辻の晩年に関する部分だけが掲載されたが、全文は〈変貌する自画像〉と題して、日本医事新報に発表した。その別刷を辻ファンのかたがたに贈呈したところ、意外に熹ばれて、礼状やら新しいエピソードなどを頂戴した。
 さいきん金剛出版社の企画で、パトグラフィ双書ができることになり、わたしもその第四巻を担当するはずである。書名は 「辻潤・自己愚弄の天才」とするつもりであるが、内容は彼の精神医学的スケッチで、前者を増補加筆したものになるだろう。辻潤の人間と思想に興味をもたれるかたがたの参考になれば、望外のよろこびである。(医博)

さいごに会った辻さん
神近市子

 夏の暑いさなかだった。
 私は上落合に住んでいて、半裸体の格好で二階の書斎で何か書きものをしていた。玄関の石段あたりで近所の子供達と遊んでいた長女が、大きな声で私を呼び立てた。
 母さん、変な人が来たよ! はやく来て!
 私か階下に降りてみると、それは辻潤氏だった。酔っていられる風で、パンツに下着のシャツ一枚のなるほど「変な風態」だった。
 私は、こんな辻さんを見るのは初めてだった。思索と孤独な風貌、キチンとした着付けに、少しどもる位の静かな語調――私にはそれが辻さんの個性とイメージであった。私はおどろいた。
 ――どうかなさいました? あまり変な様子などで私はこう訊ねた。
 ――いやあ、そこのKのところで三人で飲んでいるのだが、ビールがきれた。ビールがあったら二、三本下さい。
 さいわいビールは貰いものがあった。私はそれを四、五本と、別に缶詰のようなものがあったので、手伝いの人をつけて辻氏にお伴させてやった。
 その後姿を見送って、私は複雑な気分になっていた。二人が共通の立場に立ち、私は自分では世間の非難と戦い抜いた気持でいたが、辻氏の戦いは専ら内面的なもので表面にはあらわれていなかった。それが、松尾氏の共感を得て今度発表されるのは喜ばしいことである。
 ついでにいえば、辻氏が令息のアパートで餓死されたと聞いたのは、その後あまり長くは経っていない。K氏宅での会合は、辻氏にとっては最後の饗宴でもあったろう。忘れえない思い出である。
 一昨年だったか辻氏が眠られる西福寺で、あの大墓石の美しさに見とれた。住持に頼まれた色紙をまだ送っていない。はやく送ることにしよう。(評論家)

編集室だより
・辻潤の本質とは何だ。――哲学者ではない。哲人でもない。一個の陀仙だ。ここに彼の本髄がある。それは、彼自身が「自己」というものを追求してゆく努力なのだ。従って本書は、その自己追求の過程を表現したものといっていい。――と解説で村松正俊氏は書いておられます。
・絶望の書〈一巻〉お読みになりましたか。ぜひとも、ご意見、ご希望、ご叱言などなどおよせ下さい。
・次回配本は三月中旬「浮浪漫語」解説・辻まこと氏
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