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辻潤著作集月報5

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辻潤著作集 月報5
昭和45年7月

オリオン出版社
東京都中央区銀座8丁目19番地3号・和泉ビル

辻潤渡仏記念号
秋山清

 畠山清身・清行兄弟と和田信儀らでやっていた『悪い仲間』の第四号には「虚無思想改題・文明批評併合」の文字がはいっている。そしてその次号の『悪い仲間』(昭和三年二月号)が「辻潤渡仏送別記念号」である。とはいっても至って簡素、語るに足るほどの記事もないながら、巻頭に岡田竜夫の描いた「辻潤の顔」があってその下に「おうる・ぼあ」という次のような辻の別れの辞がある。

 浮遊不知所求
 猖狂不知所往

とわが南華先生がおっしやいました。
 私は仰に従って、なるべく師の名を恥ずかしめないつもりです。
 では御機嫌よう。

 こうして辻は関係していた雑誌『虚無思想』 の結末をつけて、パサパサした思いでパリヘ出かけていったものらしい。そこに宮嶋資夫は「辻潤を送る」を書いて次の言葉がある。

「辻の性格とか、彼に対する期待とか、いう事よりも、僕はただ欣快だけを申し述べたい気持が何よりも第一に胸に浮かぶ。当分は喧嘩相手のなくなる淋しさはあるが、彼の高言する通り、毛唐の中に立ち交って、その日本人らしいダダと教養とを存分に発揮して、大いに国威を海外に輝かして貰いたい事を第二に希望する。――日本にも亦斯くの如き、ゲンカイ不思議な人物のなる事と、西洋の文明を解する上に、尺八のよく吹けることを示して貰えるだけでも全く愉快な話である」

 また「巴里――辻潤」と題して新居格はこういっている。

「桜さく国のダダイスト、巴里に行く。巴里! このわれらの仲間を歓迎せよ! この日本が有する最も特異な変な男を、巴里よ、意義を以って迎えいれてもよさそうだ。辻こそはこだわりをもたない天成の自由人、われらのアパッシュ! われらこの敬愛するコスモポリタンを今巴里に送る。巴里! われらの仲間の消息は彼からきいてくれ。」

 この他に畠山清身の詩「送別賦」、畠山清行の「本誌海外特派員派遣」などあるなかに、高橋新吉の言葉が、

「生きて又いつ相見る事が出来るであろうか。万里異境の地に追放さるる辻潤先生よ。限りを知らぬ世とはいえ、限りある身を」

 といって、意外にしんみりしている。近頃辻潤をダダの後進みたいにいいたがる彼も、一たび巴里行きともなればしんみりしたというのであろうか。これら送別の言葉から今私か感知するのは、当時の日本にパリがなかなか遠かったということであろうか。
 とにかく、四十数年前の辻渡仏送別記念号の概略-(詩人)

辻潤と森戸辰男
塩長五郎

 何か奇妙な組合せのようで変に思われるかもしれないが、ここに辻潤の一面かあるのではないかと思うので書く。昭和三年辻潤がフランスに旅立つ少し前のこと、私は大岡山の彼の家を、古田金重に引張られて訪問した。その次手にかねがね私の胸中に懸案になっていたものを聞き正したかった。それは当時森戸辰男が大原社会問題研究所雑誌に「スチルナーの無政府主義とマルクスの国家観」という論文を発表されていた。私はこれを読み、当時はスチルナーに熱中している時分だったので、この論文にスチルナーがマルクスより低く評価されているようなのが不服で、その不満を当時唯一のスチルネリアンとして自他共に許す辻潤に訴え、彼の意見を知りたかった。当時は風潮として――学者に労働者の気持が解るか、学者の思考など愚劣だ、――などブルジョア知識人に対する憤りのようなものがあった。おそらく辻潤もスチルネリアンのコケンの上からこれに似た言葉で無視するだろうと私は予想していた。ところが彼は謹厳な顔をして、「あれは立派なものだよ」と言下にほめた。私はハッとして二の句が出なかった。立派なものだよという彼の語音には何か強い響があった。森戸辰男はスチルナーの著書の一言一句をもゆるがせにせぬ厳正な研究者であるとほめたのである。当時のアナキストの風潮からおしても、また彼が平生、一切は無だ、と豪語し、無頓着の代名詞のように人々に思われているその半面に、このような厳然とした眼の光りをみせられ、私は何か以外な感じをその時うけた。しかしこれは私にとって実によき啓発だったのである。それから何年か後に、森戸辰男の無政府主義と題する小冊子(岩波書店発行世界思潮付録)を読んだ時、辻潤の言葉を思出し熟読吟味、成程と森戸辰男の人格に触れた思いがした。(評論家)

私のなかの「辻潤」
宍戸恭一

 松尾邦之助の諸著作を読んだことが直接の契機になって、私のなかに辻潤が住みつきはじめた。辻潤と私との関係は、まだ一〇年足らずの短いものであるが、私のなかの辻潤は次第次第に大きな存在になり、今では、私の生活の奥底を揺り動かすほどまでになっている。
 第二次大戦直後の一九四八年に、「各人の生命は、人がそれをイデオロギーに屈従させようとするや否や、抽象的なもの以外ではあり得なくなる」、そして、イデオロギーに囚らわれた人間は、死の側にいる「法則の証人」であり、それに対して、生の側にいる人間は「肉の証人」である、といったのは、カミュであったが、私自身、日共的イデオロギーの囚人であったことが、結果的には幸いして、辻潤を知ることが出来だのではなかろうか、と考えている。
 私にとっては――それは、何にもまして、「肉の証人」の意味を全的に表現する存在である。そして、大学問題で反大学闘争を唱えた知識人も、極く少数を除けば「法則の証人」でしかなかったこと、また過日の京都知事選は、その本質において、体制維持派内部の主流と反主流との争いで反主流が勝ったにすぎないことを、「民主」勢力が勝ったとするが如き政治的イデオロギーの囚人が数多くいる限り、辻潤の存在は、ますます新しく、かつ、大きいといわざるをえない。
 萩原朔太郎や松尾邦之助が的確に指摘する如く、辻潤の文学は「生活そのもの、人格そのもので表現する文学」である以上、私たちの辻潤評価は、単に言語表現に止まることなく、ひとりひとりが辻潤的人間となり、自己の生活の全領域で生き方そのものの中で表現しなければならない。もし、辻潤的人間で充満するならば、そのときこそ、初めて世界は真の人間のものになるにちがいない、と私は考えている。(評論家)

潤さんのこと
山内我乱堂

 そうだな、昭和八、九年から十五年頃のあいだだったかな、葉書が一銭五厘から二銭のころ、辻潤は何回もやってきた。小田原には、潤さんの妹婿の津田光造が住んでいたので、はじめはそこからおれんところにきたのだろう。
 よう覚えとらんが、ながいときは半年ぐらいいたこともある。潤さんは落ちぶれていても、贅沢だったよ。朝早う起きて、首に手拭を巻きつけて、朝風呂に出かけよった。銭さえあれば、その帰りは上酒を一ぱい引っかけよった。おれんとこは、子沢山で貧乏しよったが、潤さんは居候なのに、食いものに注文つけよった。だけんど、何もありはせん。あり合わせのものを出しよっと、默って食ったよ。たまさかに稿料かお布施がはいると、どこかへぶらりと出かけよった。胃袋孝行にでも出かけよったのかも知れん。
 おれんとこでも、銭があるときは、酒を買ってきたよ。潤さんは、それを朝っぱながら引っかけて、寝転んどった。何ば思っていたか知らんが、しごとのことでもあろう。そうだな、潤さんのことを、不精者というものがいるが、そうかな、おれんとこにはよく通知のようなものを寄こしよったよ。いま残っているものだけでも、四、五十枚ぐらいはあろう。そうだったな、あれはいつだったか、潤さんに銭をこしらえていくから、一ぱいやろうと約束しとった。東京の神楽坂あたりで、潤さんはおれを待ちきれんで、イナガキタルホとかいう人とはじめよったらしい。ところで、おれは銭の算段がつかんで、とうとう待ちぼうけを食わせてしもうたよ。そんだったら、あとできくとブタ箱だったそうな、あんときは、潤さんに気の毒したよ。
 「癡人の会」というのがあって、おれも出かけていったことがある。これは潤さんの読者の集まりみたいなものだったが、特別に有名人もきよったが、会費は一円五十銭ぐらいで、くだくだいって、ヘベレケだったな。
 辻潤が、おれんところにいるとき、若い者がきて、潤さんに字を書かせて売り歩いたことがあったよ。そんだったら、少しは売れたが、潤さんはその度にニヤリとしていたな。原稿じゃなくて、書が売れた照れかくしだったのかも知れん。おれは、そんな潤さんが好きだった。京都のほうにいきたいというので、無理して切符代をこしらえてやったら、汽車が休みじやったといって帰ってきよったよ。ワリ戻しにして、やらかしたらしい。
 そうだな、おれんとこにはいろんなのがきてくれたが、そのうちで、とくに潤さんと、坂口安吾が忘れられぬ。あの二人は、えらかったが、またぬけたところもあったよ。(小田原市在、看板屋)

辻潤と福岡
原田種夫

 辻潤の名を覚えたのは、「自我経」(辻潤訳)を愛読しはじめてからである。いまも愛読書として「螺旋道」や「ぼうふら以前」を机上に置いている。「自我経」は、ニイチエやショウペンハワーとともに、わたしに生き方を教えてくれた大切な本である。
 大正十二年の新年に「駄々」という変った名の雑誌が店頭に出た。水茶屋で古本屋をしていた古賀光二の主宰で、二月号には、高橋新吉の「ダダ仏問答」辻潤の「ふあんたじあ」その他松本淳三などが書いていた。同人募集広告に「芸術家、非芸術家を問わず。但しダダ主義者に限る」とある。裏表紙に「ダダ講演会の予告があり、弁士は辻潤、高橋新古、大泉黒石となっている。不幸にしてその会に出られず、辻潤の声咳に接する機会を失った。
 行った友人の話によると、入場料三十銭を払って公会堂に入ると、黒ソフト、黒マントのままで、一人の男が壇に上り、ビールを飲みながら二時間ばかりしゃべったという。そのマントの男が辻潤であった。たぶん「駄々」を出した古賀光二は、辻潤の弟子か、又は崇拝者だったにちがいない。古賀はしばしば自殺をはかって新聞面をにぎわしたが、その後の消息を聞かない。しかし、少くとも、辻潤のいわゆる「低人教」の影響が福岡にも芽を出しかけていたということは面白いことだと思う。
 も一つ辻潤と福岡のつながりは、彼の妻となった伊藤野枝は、当時の人形浄瑠璃で有名な会津の出身である。野枝が後に大杉栄にはしり、関東大震災の折、甘粕大尉らに惨殺されたことは誰でも知っている。こういったつながりもあってか、わたしは今も辻潤が好きだし、彼を「低人」ではなくて「超人」として尊敬しているのである。(作家)

編集室だより
◇第五回配本をお届けいたします。大幅な増頁、どっしりした手ごたえ、読みごたえがあろうかと存じます。
◇本書は辻潤の翻訳集であり、彼ならずばの独持な作品です。緑陰で読書感を味わって下さい。

編集委員
松尾邦之肋
村松正俊
添田知道
安藤更生
辻まこと
片柳忠男
菅野青顔
高木護
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