見出し画像

【インタビュー】土器から学んだ「いのり」の心ー陶芸家・畑中篤さんが作品に込める想いとは。

私が畑中篤 はたなかあつしさんのうつわにはじめて出会ったのは、2020年の冬。
場所は奈良県のとあるギャラリーだった。

畑中篤HPより

パッと見たとき、それはそれはうつくしい佇まいのうつわたちが並んでいるなぁと思った。触れるとさらにつくり込まれた世界観が伝わってくる。こわいくらいに、という表現がはたして適切かどうかわからないけれど、ほんとうにこわさを感じるほどだったのだ。

陶芸家の畑中篤さんは、とても柔らかな雰囲気をまとった人だった。
技術的なことやできあがりの過程を細かく説明してくれる。まるで、話しながら一つひとつの不安を潰していく脆さも持ち合わせているような人だった。

正直なことをいうと、最初、私は畑中さんのうつわを選ぶことができなかった。自分が向き合ってきた陶芸家さんとは正反対の性格だったからだ。

しかし、私の夫は、畑中さんの話に惹かれてマンガン釉のマグカップを選んだ。それから家で彼が使っているのを見て、だんだん「いいなぁ」と思うようになり、すぐに私も愛用するようになった。あまりにも早すぎる自分の変化に自分で驚いたし、実際に使ってみると繊細だけではなく力強さもあるところがとてもよかった。焼きもしっかりしていてガシガシ使えるし、持った感じもしっくりきて超使いやすい。あれれ、当初思っていたイメージと全然違うじゃないか。



それから畑中さんのことが気になって、話を聞いてみたくなってしょうがなくなり、思いの丈を込めたインタビュー依頼の文章を送った。
しかし、数日後にお返事があって、そこには断りの文章が綴られていた。しかも、まぁまぁ長めの私の依頼文に対して、畑中さんは1.5倍の文字数で返してくれた。そこには「インタビューを受けられない理由」がびっしり書かれていた。

それからいつしか、畑中さんとはコンタクトを取り続けて、お店と陶芸家さんの関係でお付き合いするようになった。草々オープン時にもうつわを届けてくれたし、同じ市内に住むこともあり、工房にもよく通うようになった。

あれから約3年、ようやく腰を据えてお話を聞かせてもらえることができたのが今回のインタビュー。畑中さんの工房でたっぷりお話を伺いました。

畑中篤プロフィール:
1979年 奈良市生まれ。京都市立芸術大学工芸科を卒業後、奈良県の元興寺文化財研究所で縄文土器や須恵器、埴輪の修復を行う。2005年に愛知県常滑市にて陶芸家 吉川正道さんに弟子入りし、2007年に独立。2010年拠点を奈良に移してからは、奈良でとれた土などを使った表情豊かな作品作りに励んでいる。



陶芸と、違和感。

ー畑中さんのうつわは「繊細」という言葉がぴったりだなと思います。いい意味で、脆く、なにか訴えかけてくるような力強さを感じます。
畑中さんはどういうきっかけで陶芸をはじめたのでしょうか。

(畑中)幼い頃から漠然と「ものをつくりたい」という気持ちがあり、京都市立芸術大学の工芸科に入りました。当時、漆や染織などいくつかのコースがあったのですが、陶芸のコースを選んだことをきっかけにはじめましたね。
それから大学で主に学んだことは、「表現をすること」でした。

ー表現をすること、ですか?

(畑中)たとえば「つくるとは」「あなたにとって焼きものとは」「なぜ焼くの?」「なぜ土なの?」など、漠然とした課題を出されるので自分なりに答えを生み出して形にするんです。

ーうわぁ、それは難しそう。

(畑中)課題が出されるたびに真剣に取り組んでいたのですが、そもそも自分は「なにがつくりたいのか」がわからなくてずっとモヤモヤしていました。

(畑中)そして、全国の作品が集まる公募展へいったことがありましたが…違和感を感じました。作品を見て、全然おもしろいと感じることができなかったんです。

ーそうなんですか。

(畑中)これは、陶芸をやっている以外の人が見て果たしておもしろいんだろうか、と。技術的にはなにかすごいことをやっているような気がする。でも、ひとつの「もの」として見たときに、おもしろいって思うのかなぁ?って。

ーあぁ…。

(畑中)おもしろさの感覚って人によって違うと思うのですが、僕にとっては、なぜだかわからないけれど、たくさんあるなかでふと足を止めてしまうもの。なにがいいかはわからないけれど、気になってじっと見たくなるもの。この展示会ではそんな作品に出会うことができなかったんです。
…それで、陶芸という世界がますますわからなくなりました。

ーいいものってなんだろう、と考え込んでしまいそうですね。

(畑中)そのまま大学を卒業して、とりあえず実家の一室に板を貼って、知り合いからもらった電気ろくろを置いて作業ができるようにしてみました。ですが、「課題」を自ら生み出さなくてはいけない環境になり、そもそもなにをつくったらいいかよくわからなくなったんです。

(畑中)ただ、毎日をぼーっと過ごすわけにはいかないので、ひとまずお金を稼ぐ目的でしばらくはアルバイトをしながら暮らしていました。派遣に登録して色々な仕事をやりましたね。正直めっちゃしんどかったのですが、とにかく「なにかやらなくちゃ」と不安でいっぱいだったんですよ。

ーあぁ、私も似たような時期があります。家でダラダラしてたら親から怒られるからアルバイトを転々としたことがありました。
ちなみにその間は、陶芸はしていたのですか?

(畑中)いや、ほとんど制作はしていなかったんです。ただ、この生活がほんとうに嫌になって…。車で一人旅に出たことがありました。どこへ行こうかも無目的でただひたすらに走る。鳥取砂丘にひとりで降り立ってみたり、知り合いのいる岡山の山奥へ行ったりしました。

ーへぇ、ずいぶん遠くまで出かけたのですね。

(畑中)ただ、その旅に出ているとき、転機となるようなことがあったんですよ。当時、僕は工芸と美術の教職の免許を持っていたのですが、教育委員会の方から突然「近所の公立中学校ですが、美術の講師をやりませんか?」と電話がかかってきて。非常勤のフルタイムで、というお話でしたが…断りました。

ーえっ、断ったんですか。

(畑中)はい、断りました。しかもね、二件も同じような電話があって、二件とも断ったんです。

ー二件も。すごいタイミングですね。しかも断った。

(畑中)電話を切ったあと、「断ってしまった…」と思いましたが、そのときも漠然と「ものをつくりたい」という気持ちがはっきりとありました。具体的になにをというのはなかったのですが、とにかく先生になるのは違うなぁと思った。なにかをつくりたいという気持ちにブレはなかったんです。

腑に落ちた。

(畑中)ただ、ほんとうにありがたかったのは、その流れでもう一つ電話をいただいたんです。あれは、大学の先輩からでした。「元興寺の文化財研究所の土器の修復の欠員が出たからやりませんか?」って。

ーえっ、またすごいタイミング。元興寺って、奈良市にあるあのお寺のことですか?


(畑中)はい、そうです。元興寺は家から近いし仕事内容もおもしろそうと思い、やってみることにしました。実際は車で30分ほどの山奥でしたが、そこで約3年間、須恵器や縄文土器、埴輪の修復の仕事をしました。

ーへぇ!おもしろそう。

(畑中)そこでの仕事は、博物館や研究施設などで展示されていた土器を一度バラバラに解体して、破片をクリーニングした上で再度組み上げていく。辻褄が合わないと形にならないので、専門家の意見や現場での話し合いを重ねて、下から順番に組み上げていくのですが、縄文土器だったら縄をつくるところからやったんです。欠けているピースを樹脂でつくるため、パテの上に縄をコロコロと転がしてつながるように成形しました。そこでなによりおもしろかったのは、うつわの内側を見れたことですね。実際に縄文人が残した指の跡も見れたんですよ。

ーあぁ、それはすごい。なかなかできない経験ですね。

(畑中)さらに休憩時間のひまつぶしに研究所にあった土器関係の文献をパラパラと眺めていたら衝撃が走りました。教科書で見たようなものを遥かに超える縄文土器、とくに火焔型土器かえんがたどき(燃え上がる炎のような形の土器)が世の中にはあることがわかって。種類の多さ、造形のすごさに圧倒されました。

実際に畑中さんが見た資料のコピー(写真提供:畑中篤さん)

ー火焔型土器、私も美術館で見るたびにあの装飾の力強さ、華やかさに驚きます。なぜあの時代に、ここまでのデザインが必要だったのだろう..と。

(畑中)そのあとも興味が湧いて、実物の土器を見たくなり、新潟県にある十日町市博物館へ行ったことがありました。その美術館にはおおよそ復元されたものだったのですが、火焔型土器がそれはもうたくさんありました。
ただ、正直「心地よい」ものではありませんでした。実際それが目の前にあるとすこし気分が悪くなるような感覚にさえなって。空間を歪ませてしまうのではないか、というくらいの迫力がありました。

そうして関心ついでに何冊か本を読んでみたり、その時代について調べたりしていくなかで、『いのり』という言葉に出会いました。

ーいのり、ですか..。

(畑中)ここからは実際に現地へ行って、文献を読んだりするなかで感じた僕の憶測ですが、当時は目に見えない悪霊や呪いなどが信じられた時代でした。疫病や自然災害が頻繁に起こるなかで「死」への恐怖感が圧倒的に強かったのだろうと思います。そのなかで、呪術も含めて行う『いのり』が、不安から解放される一つの方法だった。生きることへの切実な気持ちを形になってあらわしたものが「火焔型土器」なのではないか、と。

僕はこの考えに至ったとき、ものの感じ方、見方がガラッと変わったんです。

(畑中)そのあと、海外の民族博物館でも同じような体験をしました。あれは、たしかイギリスだったかなぁ。どこかの地域の民族衣装が展示されていたのですが、その衣装から、さまざまな想いが込められているのがすごく伝わってきたんです。身近な人や家族のことを想って、祈りを込めてつくったのだろうと。その洋服の佇まいに、「うつくしい」というのはこういうことなのかと思って、心が震えましたね。

ーなるほど…。その文脈でいうと、「手編みのセーター」なんてまさにそうかもしれませんね。

(畑中)そうそう。ものって、大事な人がいてつくられているんだ、と。そういう気持ちの込め方が、「ものができる理由」としてようやく腑に落ちたんです。

すべてを込める。

ー畑中さんにとって、縄文土器との出会いは大きな転機になったのですね。

(畑中)ただ、相変わらず作家として生きていく像が見えなくてモヤモヤする時期が続いて…。そんななか、修復の仕事をしながら関わったプロジェクトがありました。それは、愛知県の常滑で活動する吉川正道さんという陶芸家のお手伝いで、中部国際空港の1階ロビーに飾る陶壁(焼きものでつくった壁のアート作品)をつくる仕事でした。

写真提供:中部国際空港株式会社

ーへぇ、陶壁。おもしろそう。

(畑中)このとき僕は初めて「焼きものの産地」を訪れたんです。当たり前ですが、右を向いても作家、左を向いても作家。刺激になりましたね。

ー常滑は、有名な産地ですもんね。

(畑中)この陶壁プロジェクトを通して、本格的に「つくって生きること」を産地で学びたい気持ちが高まって、修復の仕事を終えたあとはそのまま常滑で吉川正道さんのもとで勉強することになりました。

そして初めて吉川さんのお宅にいったとき、同じく陶芸家である奥さまの吉川千香子さんにこう聞かれたのをよく覚えています。
「あなたも ”焼きもの屋 "になりたいの?」って。

ー焼きもの屋、ですか。

(畑中)常滑は焼きものの産地だったので、自然にそう聞かれたのだと思います。ただ、当時の僕にはピンとこなかった。「焼きもの」という言葉が新鮮で、定着していなかったんです。だから聞かれたときはとても困惑しました。焼きものってなんだ?どういうこと?って…。

(畑中)そもそも僕には「土を焼く」ことの感覚があんまりなかった。大学では主に電気の窯で土を焼いていたのですが、レバーで温度は調節できるし、「火」そのものを見る機会はほとんどありませんでした。

しかし、常滑に住んでいるとだんだんとその意味がわかってきました。
あちこちに見え隠れする巨大な煙突、人が住めそうなくらいの巨大な窯、甕や土管など、まちの風景に「焼きもの」が溢れていた。陶芸家は、ガス窯や薪窯、登り窯などで土を焼き、そこから出てきた表情やうつくしさをおもしろがる。そういう人にたくさん出会いました。山から土を採ってくる人もいて、「土」と「火」と「水」による焼きものの仕事を体感し、いつのまにか魅力的に感じるようになりました。


常滑にある「土管坂」。明治時代の土管や昭和初期の焼酎瓶が壁をおおい、坂道には滑り止めの焼きものが埋め込まれている(写真提供:畑中篤さん)

(畑中)とくに魅力を感じたのは、常滑の「焼きもの」が、生活と深く繋がっていたことでした。日常的に「使う」ということ。それは、生活のため、家族のため、友人のためにつくられたものであること。
いずれにしても、誰もが一生懸命にものをつくっていた。そういうものには、やはり力があるなぁと。

ーはぁ、なるほど。先ほどの「いのり」に通じる話ですね。

(畑中)さらに、常滑の焼きもの祭である作品に出会ったことも大きかったです。大きめの鉢だったのですが、それは「使う」ことに徹していてシンプルなものだった。けれど、伸び伸びとした形で、おおらかで、とても魅力的だった。今まではそんなふうに感じたことはなかったけれど、これでいいんだ!と。

それから、器というものに対して少しずつ向き合い方が変わり、自分でも少しずつつくりはじめました。そうして最初につくったものの一つが、「刻紋こくもん」の作品です。

畑中篤HPより

ーこれは..すごい。緻密すぎる。なにか、気迫のようなものを感じます。

(畑中)最初は友人へのプレゼントをきっかけにスタートしたシリーズで、あれはたしか、ショットグラスだったと思うのですが、「自分のすべてを込める」ことをテーマにしてつくりましたね。そこから、量産していっぱいつくって稼ごう!ではなくて、時間がかかってもいいから、一つひとつを丁寧に、一生懸命につくる。偶然出会った方が、気に入って作品を持ち帰る。その一連が自分にとっての心地よさになったんです。

ー「すべてを込める」ってきっと簡単にできることではなくてどこかで妥協して折り合いをつける場面って多くなると思うのですが…。
このうつわに触れるとなにかこう、その「すべて」が伝わってくるような気がします。

(畑中)正直いうとこれは決して日常的に使えるような作品ではないのですが、この刻紋シリーズをきっかけに少しずつ「込める」ことと「日常使い」のバランスを考えてものをつくるようになりました。

最終的には、窯頼み。

(畑中)それから色々なものをつくってきましたが、最近はとくに「急須」をつくるときがおもしろくて。これまで学んできたことを活かして制作できる、自分にとってバランスが良いアイテムなんです。

畑中篤HPより

ーあぁ、畑中さんの急須ってすごいですよね。存在感、なのでしょうか。お店に置いていると、けっこうな確率で引き寄せられるお客さんが多いです。

(畑中)急須はね、つくる工程は手間がかかるし面倒くさいけれど、一つの作品として造形的にもあそべるし、生活の道具として必要なもの。「造形」と「機能」が両立するうつわだから、つくっていておもしろいんです。

ー畑中さんはこういう作品をつくるとき、どんな心持ちで向き合っているのでしょうか。

(畑中)うーん…ひたすら「一生懸命に」ですね。まず、土や釉薬のテストピースからつくる形を決めます。色々な角度から見たり、他の急須とのバランスを考えながら、ボディに合わせて口も取手も少しずつ変えたりする。できあがった表情がしっくりこないときは、土と釉薬と焼きの組み合わせを何度もテストしながら試験して、自分の心地いい形を目指して向き合う。

(畑中)とはいえ、生活の道具としてつくるときは使えなければ意味がないので、機能面含めて色々なバランスを考えて、どこでブレーキをかけるかの葛藤はいつもするのですが、手を込めるなら徹底的に込める。そうしないと、できたものに魅力は出ないと思っています。

ーはぁ。根気がいりそう..。

(畑中)そもそも大前提として僕は、「つくって、使われて、いいでしょ?」という一連のたのしみをわかっていないのかもしれません。一つひとつを、ただただ「完成させること」を重視してしまう。できあがったら「いいやん」と思うところで止まってしまう。
マグカップなんかも心地いい形を見つけたらずーっと同じ角度を求めてしまう。

(畑中)だから、たまにお客さんに「このお皿、なにに使うんですか?」と聞かれると困るときがあります。

ーあぁ、なるほど。そこは陶芸家さんによって個性が出てくるところだと思いますが…畑中さんが考える、「いい作品」ってどんなものでしょう。

(畑中)僕の経験上、魅力的だなと思う人が「いい作品」をつくるなと思います。ものとして形になるとき、その向こうにいる人の魅力が、すごく出てくると思うんです。

(畑中)たとえばよくあるのが、パッと見て作品は自分の好みではなかったけれど、作家と出会い話をすることで、その人と作品が繋がって家に持ち帰りたくなる。これって物欲が働いているのではなくて、「この人の感覚をものとして持って帰りたい」ということなんです。あまり話をしない内気そうな人がつくっていても、その人だからこそそういうものができるんだ、と。せっかく出会ったんだし、気持ちのいい人だから欲しいなぁ、と。

ーああ、その感覚すごくよくわかります。私も、持ち帰りたいと思うときは同じ気持ちです。そういう意味で、畑中さんのうつわを選ぶお客さんもまた同じだと思います。

(畑中)それは、どういうことですか?

ーなんていうのでしょう。畑中さんのうつわに惹かれる方って、この繊細さに心奪われる人が多いんです。ウンウン唸りながらつくっている、手間暇がかかりすぎているのもよくわかる。でも、ちゃんといいものをつくりあげる根気というか、気迫というか。ピンと糸を張った緊張感を保ちながら、よくも悪くも「人間っぽさ」が滲み出ているところが、いいなぁと思うんです。

(畑中)あぁ、そうですか。

ーちなみにいまの畑中さんは、自分のことをなんと呼びますか?職業を説明するときは、陶芸家、でしょうか。

(畑中)(うーんとしばらく考えて…)そういう括りよりも、一人の「ものづくり」として生きていきたいという気持ちが強いです。ジャンルを問わず、社会の色んなバランスを見ながら「ものをつくる人」として生きていく。色々自問自答してきたのですが、年齢を重ねるうちに、陶芸家とは、焼きもの屋とは、など細かなところにこだわりがなくなってきました。

ーものをつくる人。すべてが入っているようで、なんだかいいですね。

(畑中)さらに、現実的なこととして、「資源や環境の問題」があります。僕は奈良県の月ヶ瀬で取れた土をつかって作陶していますが、この土も限られた量しかないので、いまのストックを使い切ったらおしまいです。
他の地域でも土や釉薬など限られた資源がほとんど失われてきているので、無責任につくれない。いっぱいつくって、いっぱい焼いて、ハイ次!のような考え方にはなれない。僕は子どももいるので、次世代になにを残していきたいかも考えながら、「ものをつくる人」として生きていきたいです。

ー資源の問題は、最近ほかの陶芸家さんからもよく話を聞きます。材料がなくてもうつくれない瀬戸際まできているものがあると。聞くたびに、心が痛みます。
最後に、一つお聞きしたいことがあります。畑中さんにとって…その、「ものづくり」は、たのしいですか?

(畑中)とてもたのしいですよ。手を動かしているときは、没頭しますから。ただ焼きものって、最終的には「窯頼み」なところがあります。試行錯誤してつくりあげて最後、窯に作品を詰めて焼くとき、思わず手を合わせて「よろしくお願いします」と祈ってしまいますね。最後は窯に委ねるしかないのが、こわくもあり、たのしいところでもあります。

(畑中)そうして、焼き上がったものを見ていいものができると救われた気持ちになります。心からホッとして、もう少しものづくりを続けてみようかなと思えるんです。その、繰り返しですね。

あとがき:
このインタビューを書き終わったあと、私は大きな勘違いをしていたことに気づきました。冒頭にも書いたように、私は畑中さんのことを「繊細」という二文字でまとめようとしていた。ぐらぐらしていて、支えたくなるような脆さが人の心を惹きつけるのだろうと。でもなんだか、その考えと、実際につくるものとのギャップにしっくり来ていない自分もいて、書きながら少しずつ畑中さんのことを知っていったのが、このインタビューでした。

畑中さんは、いつも会うと「考えていること」を話してくれる。
決してそこに答えはなくて、悶々とぶつかって悩んでいることを話してくれる。

畑中さんは、どんどんつくりながら前に進む陶芸家さんとは対照的に、一つひとつ足場を確認しながら、ときには戻ったり、自分で自分を戒めながら、それでもはいつくばって前に進むような人だ。

今回畑中さんは、この記事の原稿を丁寧に読み込んで、一生懸命に朱入れしてくれた。言いづらいことも、わざわざお店まで来て話してくれたし、文中に出てくる言葉の定義も、何度も話し合って解釈をすり合わせた。

正直最初は、公開まで持っていけるか不安だったけれど、その過程がすべて畑中さんそのものだったことに書きながら気づいて、ハッとした。
『込める』ことのほんとうの意味と、その先に生まれるものが放つ魅力の意味を、私はこのインタビューで畑中さんから教えてもらったような気がします。

そんな畑中さんに、私は今年最初に草々で開催する「個展」をお願いしました。実はずっとやってほしいなと思っていてしつこく声をかけ続けてきたのですが、あたたかくなるころに、草々でぜひやってほしいと。畑中さんは戸惑いながらも、数日置いて、お返事をしてくれました。

期間は5/24(金)〜6/2(日)。きっとね、畑中さんの「いま」が見れるようなすばらしい個展になると思いますよ。
詳細はまたお知らせします。ぜひたのしみにしていてくださいね。

***

今回も長いインタビューを読んでいただきありがとうございました。
いただいた感想やコメントはすべて畑中篤さんに伝えますので、なにか感じたことなどありましたらぜひお気軽にいただけると嬉しいです。

うつわと暮らしのお店「草々」

住所:〒630-0101 奈良県生駒市高山町7782-3
営業日:木・金・土 11:00-16:00

▼インスタグラム

https://www.instagram.com/sousou_nara/

▼フェイスブック


▼金継ぎサービスはじめました!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?