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こぎん 青森県

こぎんは”小巾”と書かれていました。刺し小巾といわれた時代もあったことからみると、小幅の布地に生地を補強する目的から刺し子を施したことを「刺し小巾(さしこぎん)」と呼んだことが「こぎん」の語源といわれていますが諸説あります。(小衣(こぎぬ)を語源とする説もあり)

弘前市付近の農村、通称「津軽地方」は木綿が入手しにくく、そのうえ津軽藩は「農民倹約分限令」という衣食住全般に渡っての厳しい倹約令を出し、そのなかに「農民の着るものは麻の単衣(ひとえ)の労働着」とあり、これが「こぎん(小巾)」と呼ばれました。したがって農民は麻布を四季の衣料として用いていたのです。そこで保温や補強の目的から、麻糸で刺し子をしたのです。初めのころは縞状など単純な刺し方であったものが、江戸後期頃からだんだん刺し子に工夫が加えられ、文様化されていったのです。

複雑で美しい文様が刺されるようになったのは、木綿の普及と紡績糸が利用されるようになった明治時代になってからです。


こうして文様化されますと、同じ津軽地方でも、弘前市を中心として東の方「東津軽」のものを「東小巾(ひがしこぎん)」、西の方である西津軽のものを「西小巾(にしこぎん)」、北の北津軽のものを「三縞小巾(みしまこぎん)」とそれぞれに独特なこぎん模様が作られるようになったのです。

三縞こぎん (五所川原市HPより引用)

ただし、共通した刺し方というと、津軽こぎんは布目に対して奇数で刺していくことから、全て「たてびし」の連続に刺されているということです。
これに対して、近くの青森県三戸地方には、「よこびし」の連続で刺し模様を作りだす「南部菱刺し」があります。津軽同様に、紺麻地に白木綿の刺しものなのですが、全くこぎんと菱刺しの交流はなかったというのですから、いずれも農民芸術の独自性の素晴らしさを物語るものといえるのです。

現在、津軽こぎんは「弘前こぎん研究所」が、南部菱刺しは八戸の「南部菱刺研究会」が、いずれも精力的にそれぞれの伝承及び振興に努めています。

参考
弘前こぎん研究所 

南部菱刺研究会


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