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規定現象と奇跡を内包する空間を偏りなく多く視る

世界や日常は、いつもそうイメージした空間を通過し、創造されていく。
自分を取り巻いている世界は、受動的に取り巻かれているのではなく、自分の偏った思考や解像度の低いレンズが写し、主体的に取り巻いている。
それなりのプロセスやアクション、思考を重ねれば、試行錯誤をしながらも、概ね自らの思考のレールから外れることはなく、心を満たす幸福感に浸ろうと思えば実現できる主体的な世界である。
毎秒無数にも枝分かれしている運命があることは理解できるが、肌で感じる想定外は日常には少ない感覚がある。
そして、その居心地の良さを無意識に守り続けるさまは、まるでサウナ後の水風呂→外気浴のように、必ず訪れる心地よさをつかみに行くアクションと似ている。


【誰もが「明日死にたくない」と感じている人】という大前提のもとに成り立っている今日、そして明日。


人間誰しもが死の恐怖から逃れたくて、できるだけ死(ストレス)から遠い選択を半ば無意識的に日々意思決定をし、身体的・心理的安全な環境で今日も暮らしている。
ソクラテスは死刑判決後、死が悪だとなぜ断定できるのかと弟子たちに主張していたようですがここでは置いておくだけにします。

「誰もが死や死後の世界のことを知らないのに、死を悪の最大のものだと恐れるのは賢人を気取ることだ」~ソクラテス~

プラトン『パイドン――魂について』


さておき、
私たちは安全な日々を追い求めて、進化してきた。
明日死なない環境を求めて、明日死にたくない思いを一心に、安全な環境は日々良かれと変化をし続けてきた。

・世の中に溢れている情報はほぼすべて、小さな河川が合流を繰り返しながら大きな海を成すように、この世界全体がいつの間にか設定している大きなゴールへと収斂されていくことに。


・それはつまり、この世界が、【誰もが「明日死にたくない」と感じている人】という大前提のもとに成り立っていると思われている、ということでもあります。

朝井リョウ『正欲』


おそらく、誰もが明日死にたくなく、そのために生き延びる術(暇つぶしとしての○○なども)を探し、もがき、放浪し、工夫する。
その生存競争に勝利することで、日々の生活から危険を排除し、自分がおさまるコンフォートゾーンを作り出す。ごく当たり前の活動であり、当然のことである一方で、人間の歴史をみてもこれだけ安全な世界、生活様式というのは極めて最近に整ったものであるそうだ。

常に外敵や外界の脅威と隣り合わせで進化してきた人類が、常に身の安全を確保して生活できる時代はここ最近であり、そのような環境下で生命力はどう変化していくのだろうか。
自らの環世界はノーリアクションで何か劇的に変わるのだろうか。

・幸福を探求する必要がなく、ただ満足を維持している「人間の終わり」

・人間は世界を世界として経験でき、世界そのものにかかわることができる。これは人間の特権。

國分 功一郎『暇と退屈の倫理学』


あくまでも僕の周りにおいては既定現象として明日死ぬリスクは限りなく低い。とても幸せで、有り難いことである。
上記の表現は耳に届く方によっては不謹慎かもしれないが少なからずこの文章を読めている方は同じ環境の可能性が高いだろうと思う。

日々自分が見ることができてない環世界はたくさんある。ノーリアクションではなにも”みえる”ようにはならない。
しかしながら、いかようにも「環世界のありのままを視覚する眼」は養える。


自分の気持ちでしていると思っている自分の意思決定は、その瞬間までの経験と現環境と習慣がほぼしていて、それらにコントロールされている。そこに「その瞬間の純度100%の自分の思考」はほぼ存在し得ない。

大きな概念や枠組みや環境を作り、その大きな力を用いて、なるべく思考をしない状態を作ろうとする。それは、必ずその環境に適応することを意味していて、段々と、無意識に恐怖を遠ざける。

これらの力を活用しながらも、どこかのタイミングごとで、想定内の想定外を生み出し(人生の周期をずらし)、人間がもつ生命力を、もっと育まなければならない。野生動物は、日々想定外のタイミングでよそ者に命を狙われている。

積み上げてまた叩き壊して
今僕が立っている居場所を憎みながら愛していく
ここにある景色を讃えて

Mr.Children「The song of praise」


「生きる」ということは思っている以上に泥臭くて、困難で、うまくいかない。
そして、地に足をつけ、汚らしい活動であると太宰治も言っている気がする。

・生きるということ。生き残るということ。それは、大変醜くて、血の匂いのする、汚らしい事のような気もする。

・人間、失格。もはや、自分は完全に、人間でなくなりました。

太宰治『斜陽』、『人間失格』



ある様式

貴方は「何者であるか」が問われていて、何者に見え・何を持っているか、は甚だどうでもいいように思える。
何者かに見せる・見せたいという装飾的な虚栄はその場しのぎの虚像である。
資産としては何も積み重ならず、ただただ”当期(瞬間)の消費活動”として認識され仕訳される感覚だ。


”何かを手に入れ(装飾す)る”=To Have(持つ様式) という感覚ではなく、
”何かであり続ける”=To Be(ある様式) という感覚が大事な気がしていて、その延長で、「内の内から”何者かになる”」が含まれているかもしれない。

私たちの目的は多く「ある」ことでなければならず、多く「持つ」ことであってはならない。 〜マイスター・エックハルト〜

エーリッヒ・フロム『生きるということ』


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