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20年ぶりに振り返る京都コムニタス設立までのドラマ

皆さん
こんにちは。
心理系大学院受験専門塾 京都コムニタス塾長の井上です。
あちらこちらで言っていますが、京都コムニタスは今年で設立20年になります。主任講師の吉山を筆頭にほとんどのスタッフが教え子で、10年以上勤務している者も少なくありません。数多くの塾生と、有能なスタッフに長く支えられて、京都コムニタスの今があります。

この20年間走り続けてきて、あまり後ろを振り返ることもありませんでしたが、ちょうど区切りがいいので、このnoteデビューしたことも含めて、新しいことを進めていくにあたり、少し、自分たちの歴史を振り返ってみたいと思います。
特に『心理職大全』に書かなかったことを書いていきたいと思います。

以下、かなりの長文ですが、お付き合いいただけましたら幸いにございます。
これから特に心理系大学院や臨床心理士・公認心理師を目指そうと考える方々に私の経験でもって少しでも利益になる話ができるくらいのキャリアにはなってきたかなということで、少し語ってみたいと思います。


少子化直前の塾のあり方の変化


私が、大学に入った頃は、まさか自分が研究を生業にする人間になるとは全く考えていませんでした。ただ、私の場合、大学生になって、師匠を筆頭に出会った人に恵まれたことが、後の人生に大きな影響を与えました。

その影響もあって大学院修士課程で、もっと学び「専門分野」を持とうと考え、進学しました。ただ、この時点でも、将来論文書きになるとは全く思っていませんでした。個人的なことを言えば、私はスポーツの記者になりたいという気持ちが強くありました。

一方、大学生の時から塾講師のアルバイトはをしていましたし、塾には強い関心がありました。
当時、小中学生用の塾のあり方が大転換期といってよい時期でした。
私たちが子どもの頃の塾は、どちらかというと、勉強のできる子がさらに学力を上げて、有名中学や高校に入るためのものでした。もちろん、私にはさっぱり縁のない世界でした。
しかし、私が教え始めたころは、「誰もが塾に行き、塾は学校の定期テストの補助的役割」が中心になっていました。
つまり市場幅を一気に拡大したのです。
かつて一流と言われた塾も門戸を拡大して、比較的安価な受講料で大量の生徒の確保につとめる。そんな時代の始まりの時期でした。そのまっただ中にいたため、大学卒業前後の私の目に、「これから絶対伸びる産業」と映ったのです。『二月の勝者』という漫画は、私の心に刺さる漫画です。

今にして思えば、言ってみればブランドの安売りと同じ商法で、来る少子化時代に対応するためのいち早い対策すぎなかったのですが、当時はまだ少子化という言葉は今ほどの実感はありませんでした。

塾のあり方が変化したことに伴って、学校教育現場にも少なからず影響がありました。学校で学ぶことは、定期テストと入試のことだけで、テストの数字を上げることだけが目的化するようになります。そうすると、さらに塾の目的が明確化し、
「テストで良い点をとるためだけの最低限の勉強」
をさせることに特化していきます。いわゆる大手でもそんな状況でした。

しかし、一度こうなってしまうと、企業は後戻りができないのです。そして、塾の本来の目的や存在意義とは何だったのだろうか?
そんな疑問が、私の中で強く出てくるようになりました。しかし、もはやこのままでは、状況は悪くなることはあっても、良くなることはありません。
そうなると、自分が作るしかないという結論に行きつくのは自明です。
私もそんな意識が強くなり、大学院修士課程の時には自分のスクールを持ってみたいと考えるようになりました。
もちろんすぐにはできるはずもありません。講師の先輩で、独立開業した人も、当時はたくさんいました。「一緒にやろう」と声をかけていただくことも何度もありました。しかし、残念ながら、そのほとんどは今生き残っていません。
何となくそのあたりは、当時の私の中で予見できていました。
そこから講師の技術に加えて、様々な修行(下積み)を始めました。

そして修行の旅に出た


自分のスクールを作りたい、と考えて、簡単にできるほど、世の中は甘くはありません。私の中で、
「とりあえず、修行をしよう」
ということになりました。何の修行かと言うと、教える技術の修行というよりは、塾経営の修行です。というのも塾経営の本を見て見ると、新規参入の塾の平均寿命が半年という記述がありました。こうなると、教え方というよりは、経営の仕方に問題点があると考えました。
よほど経営の方法の知識がなければ、設立だけで終わると考えるようになりました。

そこでまずは家庭教師のテレアポの会社に入りました。
(今では個人情報の問題でできません。まだ家電が普通で、携帯が一般化していなかった時代です)
二件の業者で同時にしていたのですが、もちろん、なんとなく電話だけかけていると、相手の方に怒られますので、かなりの緊張感を持って電話をかけていました。
だいたい1日に100件を目安にしていました。ここで特に心掛けたことは、
相手が話をしてくれた場合、変な言い方ですが、必死で話を聞きました。
場合によっては単なる愚痴の時もありましたが、とにかく聞くことを重視しました。これは今のカウンセリング技術に生きているかもしれません。
電話は顔が見えないので結構難しく、聞いていても、ただ黙っていても、電話の向こうの相手は不安になりますので、相手が聞いて欲しいであろうと推測できることを質問しました。
ただこの時は私は未熟でしたので、営業という意識は希薄でした。
それよりも、とにかく話を引き出して、聞いて長く話すことを意識していました。
ただ、そのうちに中には「話を聞いてくれてありがとう」
なんて言われることも出てきて、次第にアポイントがとれるようになり、そして家庭教師契約も取れるようになってきました。自分でアポイントをとって、自分で原付を飛ばして、自分で子どもと話して、自分で家庭教師を派遣するという一連作業ができるようになってきました。
ここで一つ問題が生じてきました。

何かが違う

会社が派遣する家庭教師なのですが、私の目にははっきり言って、能力的に
足りていない、とりあえず大学生みたいな人を派遣されるのです。
これには納得できず、もう少し良い家庭教師を送ってくれと頼むと、
じゃあ自分で行けとなり、結局自分が家庭教師になってしまったこともありました。
でも・・・何かが違う。これでは本末転倒ではないかと思い始め、
自分で講師を育てでもしないと、結局顧客から信用してもらって家庭教師を派遣しても、納得のいかない講師を送ってしまう・・・といって、自分で行ってしまっては、身体がいくつあっても足りない・・・最大10人の家庭教師をしていたこともありましたが、誰に何を教えているのかがわからなくなってくることもあり、結局質が下がりかねない・・・このジレンマにしばらく苛まれました。

そしてこれ以上、家庭教師派遣をしてもあまり意味がないと考え、身につけたテレアポ能力を活かして、別の仕事をしようと考えました。
これが教材販売です。

教材販売の奥深さを思い知る

そこでまず教材販売の勉強をしてみることにしました。
理由として、家庭教師派遣会社をいくつか見たり、聞いたりしているうちに、多くの会社は純粋に家庭教師を派遣するというよりは、実は教材屋がメインで、家庭教師は付属物という見方をしているということを学びました。
それはそれで企業として一つの考え方だとは思うのですが、私には違和感がありました。
つまり教材屋なら堂々とそう名乗るべきだと考えていました。それならいっそ教材販売をしてみようということで、大手教材屋で営業マンをしました。
当時修士課程の2年の終わりごろで、博士課程に進むかどうか迷っている時でした(というより9割くらいあきらめていた)。
さらにというか当然のことながら修士論文で追い込まれている時期でもありました。ついでにどうでもいいことですが、料亭でもアルバイトをしていて、なぜかおかみさんに嫌われていて(仲の良かった料理長情報)、そろそろ辞めようとしていた時期でもありました。

当時、京都で一人暮らしを始めて2年目くらいでしたが、夜はホテルの夜勤をしていましたので(私の中では英語の勉強になると思ってのことです)、
ほとんど家に帰らず、ノートパソコン(当時は少なかった) と資料をどでかいカバンに入れて持ち歩き、暇があったらパソコンを開くといった生活でした。修論はほぼホテルで書いたな・・・
ホテルの私のロッカーは仏教書でいっぱいで、隣のあいているロッカーも勝手に使うという始末。我ながらシュールなロッカーでした。

そんな時期に教材販売を始めたのですが、確たる根拠はなかったのですが、上に記した経緯と経験から、なんとなく自信がありました。多分料亭とホテルににいたことで、人当たりがマシになったはず。
最初にアルバイトで入った大手の教材屋で、運がよかったと思いますが、ある程度成績をあげたことで全国1番(圧倒的に)の販売成績を上げている人と(会社からするとご褒美的に)一緒に回らせてもらいました。

この人、50歳くらいの女性でしたが、全国1位は決してダテではありませんでした。
稚拙な表現ですが、すごかったです。
何がすごいかというと、小学生の教材フルセットをまだ見ぬ孫のために、おじいさんやらおばあさんに売るわけです。今ならコンプラは大丈夫か?と思ってしまうかもしれない、スーパー営業マンでした。

同時に私がやりたい仕事はこれではないとも思いました。
企業にとって数字を上げることは最も重要なことです。
株式会社ってのはそういう法律の中で存在しています。

しかし、それが目的化してしまうと、経営者としての理念が形成されるまでに、数字だけに追いかけ回されてしまうとも思いました。もちろん、そういう経験も必要です。
だから、その人からは本当にたくさんのことを教えてもらいました。
「教材を売りたければ、子どもと仲良くなりなさい」
(この人は子どもがいなくても売るのですがね)
「早く靴を脱ぎなさい」
(この人はすぐに脱げる靴をいつも履いていました)
「ご飯を食べさせてもらうまでは一人前ではない」
(この人はご飯を食べさせてもらいすぎて20キロ太ったそうです)
などといった言葉はいまだに強く残っています。
とりあえず目標設定金額(全国2位:1位はこの人が私のダブルスコアでいるのでとても無理)を設定して京都市内で達成できず、結局福知山まで連れていってもらい(連れていかれ)、達成して、(惜しまれながら)教材販売をやめました。
私の難点は、結局、自分で教えに行ってしまうのです。
お客さんから、「わからないことがあったらどうしたらいいの?」と聞かれると、
つい勢いで後先考えず「私が行きます!」
と言って買っていただくわけですが、福知山まで行くのは正直つらかった・・(だって修論を抱えていたのです)

しかし、ここで得た学びは、販売能力を持って、経営を学ばねばならないということでした。

そしてプレイングマネージャーになる


そこで、名前の知れた大手塾や、大学受験や高校受験対象ではなく看護学校受験予備校など、複数の予備校の講師になりました。当初は原点回帰のつもりでした。

原点回帰ということで、また講師になりましたが、今回は一つの予備校で、単に教えるだけというより、経営面、運営面もタッチする立場として入りました。塾の運営というのは、結構難しいことを、この時にリアリティーを持って知ることができました。生々しい話ですが、入金状況、生徒の入退塾状況、生徒の成績状況、出席状況、講師管理、等々、あらゆることを把握
しておかねばなりません。また、スタッフとの情報共有も必要です。
いわゆるプレイングマネージャーになりました。

これはかなり大変な仕事だと思いました。しかも経営の方針は、当然のことながら塾によって異なります。しかし、私自身浅はかだったと反省したのは、支店がいくつもある塾に入ったことです。
こういった大手塾は当然ながら、統一された経営方針です。しかし、これでは個別対応ができないことは明らかです。
だから、生徒対応も完全に集団対応で、個別対応は禁止されている場合もありました。このような塾ですと、運営側は「生徒」という目でしか見ず、集団で一つのかたまりと見なす見方が定着してしまっています。

塾に来る「生徒」はそんなことを希望しているはずはありません。
私は、あくまで個別対応をすることを教育と考えている
ということをこの時強く認識するに至りました。
私は自分のスクールではこのようなオートメーション化されたことはしたくはありませんでした。ということで、半年くらいで辞めたと思います。
きっかけは、そこの支部長さんの一言。
「井上、俺と一緒にこの●●校を盛り上げようぜ」
一見、熱い言葉なのですが、盛り上げると言われても、どうするのかがわかりませんし、盛り上げてどうするのかもわかりません。
夏期講習前に授業が一区切りついたところで辞めました。

さて、どうしたものかと考えたのですが、家庭教師派遣、教材販売、経営参入と経験したのですが、それぞれ何かが違う。ということで、さらにマンツーマン指導の塾を経験してみようと考えました。これなら個別対応のはずです。そして、自分が教えるのではなく、スタッフを作ったり、生徒集めを自分でしてみたり、やはり経営、運営にもう少し関わってみようと考えました。

この時、(文字通り命の危険があるくらい働いていたので、何とかお金をひねり出して)博士課程に進んでおり、20代半ばになってきたこともあり、少しずつ世の中の仕組みや、会社システムなども少しずつわかってくることもあり、ある意味「大人の対応」が少しずつ身体にしみこんでくるような気がしてきた時期でした。
人生が少し動き出すのを感じた時期でもありました。

私の中で個別対応ができなければ、それは教育機関ではないと考えています。よく「個を大切にする」「個性を伸ばす」と宣伝しているのを見ますが、当たり前のことです。

今の京都コムニタスでも、研究計画にせよ、志望理由にせよ、みんな違っていて当然です。それぞれが最高のパフォーマンスが発揮できるように、能力を作るのが我々の仕事です。

自分の目指すところが、少しずつ見えてきた二十代半ばで、私はマンツーマン指導の塾二つに行きました。この時、いろいろな意味でたくさんのことを学びました。それまでは「学ぶ」ということはどちらかというと「良い」ことで、勉強すると、人から(親から)誉められるものであるという意識が、まだどこかにありました。

まだまだ甘かった20代半ば

話はそれますが、京都コムニタス開業間なしのころ、
学生だけで運営するフリーペーパーの会社が問い合わせて来て、ビジネスライクの話がしたいと言います。要するに彼らのフリーペーパーに広告を掲載して欲しいとの主張でした。
正直、フリーペーパー自体の出来は稚拙で、広告掲載する意味を感じなかったのですが、代表者が自ら来て、「学生たちが頑張って…云々」
の寝言を言わず、ビジネスとして、お互いの利益になる話がしたいと申し入れてきました。その心意気を買って、とりあえず彼らの話を聞いたのですが、ビジネスライクとは、広告料が高いだけでこちらのことを全く勉強していませんでした。一人、学生の取材者のような人をよこして、突然授業を見学させろといい、しかも15分で退席。
文字通りお話にならないので、断りました。そうすると、その取材者から涙ながらの謝罪と、「もう一回チャンスを…」と懇願のあとは、いつの間にか自分たちが被害者的発言…結構うんざりしましたが、私も彼らと変わらない程度の時期がありました。

20代半ばは、まず自分の甘さに気づかされた時期でした。

どのあたりの甘さかというと、まずは、根本的なことですが、仕事に対する意識です。以前は●●時から●●時まで「勤務」しているのだから、その分のお金はもらって当たり前と思っていました。
しかし、経営者からしてみれば、これは違います。
社長で社員に給料を出して、自分の生活費はアルバイトをしている。
そんな人を私はたくさん知っています。お金は降ってはきません。地面からも生えてきません。だから「労働」をしたら金が入ってくるというのは、単なる思い込みにすぎないということを思い知らされる出来事が、この時期たくさんありました。

この時、仕事というものは、「一生懸命する」のではなく、「365日24時間営業」でありつつ「合理的に」「顧客目線で」「顧客のベネフィットのために」「個別対応して」「顧客の望む結果につなげる」という意識ができました。

次に「人(従業員)を使うということ」に対する甘さです。この当時、私に経営について様々なことを教えてくれた人が(本人は教えているつもりはなかったと思いますが)よく言っていた言葉があります。それは
「企業にとって人は血液である」
というものです。一見至言ですし、実は結構いろんな人が同じことを言っています。しかし、その人物は、ちょっと違った意味で言っています。それは
「悪い血液は体外に出せ」
という意味です。ただしこの人物は新しい血をいれて悪い血を出すという循環の発想ではなく、ただただ、悪い血を出せというだけの発想でした。
要するに、役に立たなければ、早く切り捨てろ、という意味です。

はっきり言って、この点について全く共感しませんが、悪い血を出すということは、別に間違っていません。問題は「悪い」と判断できる目があるかどうかです。何にとって悪いか、誰にとって悪いか、もう良くはならないか、このあたりについてはドライな目線が必要です。

しかし、目が曇ってしまうと、実は自分が一番「悪い血」になってしまっていたりするのです。こうやって他者を使うという意味が少し分かってきました。それまでは、自分がすべてやらねばならないという考えが強くありました(今もありますが)。しかし、従業員を信用して、かつドライな目で企業にとって必要な血液であるかどうかを見る目線が少し養われていきました。
やっと人を雇う資格ができてきたかも、と思える時期でもありました。

経営について考え始めた

20代半ばで学んだことで、もう一つ重要なことがあります。
それは、無理なものは無理。できることはできる。ということです。言い方を変えれば、当たり前のことを当たり前にやるということでもあります。それまでは、「できないことをできない奴は経営者にあらず」と意味不明なことを考えている自分が確かにいました。
そんなこんなで無理なことをしなくなりました。その分、できることを限界ギリギリまでやるようになりました。そこで身につけたことは、「他人の倍働く」ということです。
よく「他人の3倍」とか「10倍」とかいう人がいますが、それは無理です。倍ならギリギリ可能ラインです。正確には倍近くです。スローガンとしては、なんとなく弱々しいのですが、普通の人が1日8時間、週5日で合計40時間×4週で160時間働いていると仮定して、その倍なら、1週間休みなく働けばなんとかなると考えました。要するに、1日11時間未満で1ヶ月320時間以上働けるわけです。これは全く可能数字ですし、多分これ以上働いている人はいるだろうと考えました。以来、今に至るまで、だいたいこのくらいか、それ以上は働いていると思います。特に働きすぎとも思いませんし、ワーカーホリックとも思いません。私の立場なら妥当だと思います。
だから特につらいこともなければ、取り立てて休みが欲しいとも思わなくなりました。(まぁモノは考えようで納得させているだけかもしれませんが)

無理がなくなってくると(あくまで自分の中で)、仕事も余計な動きが減ってきます。根拠もなく1ヶ月で1000万円売り上げたいとか、手狭でもないのに会社を拡張するとか意味不明な行動はほぼ取らなくなります。そうすると、いよいよ、自分個人で動きたくなってきました。

ただし、京都コムニタス設立まではまだまだ紆余曲折あります。
まだもうしばらく個別指導塾で働いていました。
と同時に個人活動も開始しました。

まだ、京都コムニタス設立までの行程の半分くらいですが、
この頃は、博士課程で、年3回が学会発表をしようと、腹を決めて、仏教学を学んでいましたし、パーリ語なんていう言語を愛知県まで教えに行ったりもしていました。

一方、この時期になると、自分の将来を考えなければならない時期でもあり、自分が考える塾にするには、自分で出すか、他人の塾を乗っ取るか、暖簾分けしてもらうかの3種の方法しかないと考えており、どれもできずにいるといった状態でした。資金力もありませんでした。
個人の収入面は、奨学金と個別指導塾二つ、看護系予備校、大学の研究室事務の給料、ホテル・・・今思えば、結構な収入になっていましたが、学費(これがなかなか大変)やら、書籍費(これがさらに大変:つい買ってしまう)やら、生活費やらで消えていました。自分では決して浪費家ではないつもりですが、本はつい買ってしまうという癖ができてしまったのもこの時期です。
当時は研究者としての自分とビジネスマンとしての自分とを完全に切り離していました。だから、研究の方面でのドラマもたくさんありますが今は触れていません。
ただ、この頃から、切り離しきれなくなってきます。研究もしたい、でもそれだけでは生活はできない。ビジネスの能力も身に付けたい。生活も、食べていける収入は欲しい
(研究者業界ではこの点については複雑です)
ここまで何とか二足(というか、たくさんの)のわらじがはけたのは、院生という身分があったことは否めません。
しかし、院生の身分がなくなることが見えてきた時、ちょっと人生をリセットして考えないと、そのままの勢いだけでは突き進めないと感じるようになりました。このあたりは『心理職大全』に書きましたので、ここでは割愛します。

人生が動き始める

また、その頃、幸い?なことに塾を引き継いで欲しいとか、支店を神戸(出身地の近く)に出すから、経営をして欲しいとか、いくつかお話をもらっていました。
(ついでに言えば、祇園で店を出させてやろうという人もいました。)

チャンスと言えばチャンスだったと思うのですが、当時は、リセットの時期でしたので、正直どれも受ける気持ちにはなれませんでした。
人生の岐路だったと思います。結果、院生の身分以外を一度全部捨てました。すべての仕事を辞めたのでした。そして大学院博士課程も、迷ったのですが、3年で出ることに決めました。
本当はもう一年とも思っていたのですが諦めました。
普通「退路を断つ」という言い方がありますが、退路も進路も自ら断ちました。
ある意味驚くほど身軽になりました。意外と不安にもなりませんでした。
退路だけ断ったり、進路だけがないと不安になるのでしょうが、何もなくなると、不安もなくなると、この時初めて気づきました。そんな時、大学から
非常勤講師の話をいただきました。また人生が動きだしました。

これも『心理職大全』に書いたのですが、
大学の非常勤講師の話をいただき、ある意味では、いままで苦労してきたことが報われた気になりましたし、何かご褒美をもらったような気になりました。この考え方が間違っていることに気づくのは数年たってからのことです。もちろん大学の非常勤講師の身分はご褒美ではありません。いずれにせよ、再度人生が動きだしました。そこで、大学院を出るまでの間、また何か仕事をすることにしましたが、何をするのか、ちょっと困りました。
もっと専門の勉強をする時間を確保したいという気持ちもありましたし、
あわてずゆっくり考えたいという気持ちもありました。
そんな時、昔の同僚(後輩)から、塾経営コンサルタントをやろうと声がかかり、一緒にすることになりました。コンサルタントといっても、今から思えばですが、拙いもので、いわゆる(得意の)どぶ板営業からのスタートでした。ただ、この時の経験は京都コムニタス創成期において大いに役立ちました。教材販売時代の経験と人脈と教材確保ルートを活かして、一件ごとにピンポン営業をしました。そうやって一件の塾が運営できるだけの生徒になりうる人を確保して、新規で塾を立ち上げた人の経営を改善する業務をしました。正直、京都内ではなかなか難しく、他県での活動が中心になりました。これも今の京都コムニタスで役に立っています。特に滋賀県の塾事情に詳しくなれたことが、今に生きています。ただ、この仕事は自分のためというよりも、後輩にノウハウを教えることが目的でしたので、ある程度数年があがった段階で、あとは彼らに任せました。今は国際弁護士になったり、本物の経営コンサルタントになったりと、結構大物になっています。私はというと、大学の非常勤講師業が始まり、授業の準備で必死になっていましたが、生活費を得る必要もあり、(奨学金早速返還を迫ってきますし…)また講師業をしようということになりました。たまたま、以前行っていた看護系予備校の学院長が声をかけてくれ、そこに戻りました。
加えて、先述の後輩の一人が大学編入受験予備校を紹介してくれました。
当時は、大変珍しい業種で、すでにコンサルタントの仕事で、私も編入や大学院受験を少し手掛けていました。ある短大生を京大に編入させることに成功したのは、かなりの自信となっていました。

それもあった編入の経験はありましたが、予備校があるとは知らず、これは経験せずにはおれんな、ということで、別に募集はなかったのですが、自分から売り込んで、試験を受けさせてもらい雇ってもらいました。
研修の時にいくつかの授業を見せてもらいましたが、正直、びっくり仰天の心境でした。

何じゃこりゃ?

その予備校の最も批判されるべき点というのは、「良い先生の条件」とは、
「不合格にさせること」と言い切っていたことです。合格してしまえば、もう予備校には来てくれないが、不合格なら確率論として、また来てくれるかもしれないというのです。私は、それなら合格後も是非引き続き教育を受けたいと言ってもらえるようにすればいいのでは、と進言しましたが、そんなことはあり得ないと、全く努力もしようとしませんでした。実際、そこにいた講師も
「もう二度と予備校なんて来ちゃだめだよ」
なんてことを言う愚か者もいました。二度と来ては行けないような場所で受けた教育が何の役にたつのか、またそんな程度の教育しかせずに恥ずかしくないのか…
そんな怒りにも似た思いが頭を巡っていました。
京都コムニタスでは、例年合格してからも継続して、様々なことを習いたいと希望される方が数名おられます。その方々用にクラスを作ったり、REBT の
特別授業を行ったりしています。その意味でこの予備校の考え方はどこをとっても筋が通っておらず、また顧客、つまり生徒に対して果たすべき役割を果たさないように指示する姿勢はひどいものがありました。

この予備校に入る際に同時にもうひとつ大手塾も採用されていました。
ここの考え方もまた私にとっては異様で、私の模擬授業を見て、
「あなたは生徒相手に授業をしていますね。何か理由はあるのですか?」
と質問されました。
何をアホなこと言ってんねんと思いながら、
「生徒以外のために授業をした経験なんてありません」
と返すと、向こうも同じことを考えているらしく、呆れたように
「顧客は生徒ではありません。母親です。お金を出すのは母親なんだから当然でしょう」
じゃあ、子どもは?と聞くと、
「子どもは、塾で教員が板書したことをきれいに写して、母親に見せるメッセンジャーに過ぎません」
全力で言い切るので、もしかすると、当の母親の前でも言いかねないなあと思いつつ、あきれてものが言えない状態でした。
少なくとも、大学の学費も大概は親が出すでしょうが、大学生が親へのメッセンジャーなんていう話はあり得ないでしょう。こういう考え方が根付くには、それなりの理由はあるのでしょうが、関わらない方が身のためと判断して、即辞めました。
そして上述の予備校に入ったのですが、また違った形で腐敗していました。
ただ、組織の腐敗度合は圧倒的にこちらの予備校の方が進んでおり、程なく内部崩壊していきます。むしろ私には、スクールがあるいは、組織が壊れていく様を生でみるチャンスに恵まれました。入って半年後くらいのことです。その時、私は常勤講師という身分だったので、最後まで沈没する船に乗るという経験をしてしまいました。

私のキャリアの中でも、自分が属する予備校が潰れていくのを経験したのはこれ一度だけです。その予備校は、システムにも問題があったと思いますが、事務方と運営陣と講師陣の意思疎通が全くできていませんでした。当時の事務長さんは、我々の顔を見ると
「生徒の顔を見たら諭吉さんと思ってください」
と、自分が正しいことを言っていると思い込んでいるようでした。
 この種の予備校は、当時としては珍しい存在ではありましたが、実状としては、あまり運営の仕方を練り上げた様子もなく、ただ思いつきで出たとこ勝負といった感じでした。
この時、私が最も強く感じたのは、その予備校のトップが、自らの意志として、
「どんな予備校にしたいのか」
「その予備校の経営哲学は何か」
「その予備校の目標は何か」
このようなことをトップが自らの口で語らねばならないと思いました。
企業は大小に関わらず、トップの考え方、人間性が随所に出ます。これは隠そうと思っても隠しきれるものではありません。だから私もいつも、大学院受験予備校を選ぶ時には必ず責任者と会って、しっかりと質問をして、話を聞いて欲しいと訴えています。

私はその当該予備校のトップの人に会ったことがありませんでした。
一応常勤講師だったのに。
だから当然何を考えているかはわかりません。そうすると事務長が先述のような暴走発言をしてしまいますし、それを咎める者もいないのです。そうすると、その予備校の行き着く先は徐々に見えてきます。
私がこの予備校の崩壊劇で学んだことはたくさんありました。一つは今述べたトップのあり方です。
二つめは、大学院受験や編入受験を手がける意味です。このような受験は、対象は大人です。大学受験のように高校生など未成年を対象にすることは稀です。したがって、大人に納得してもらえるスクール作りをしなければなりません。ですから、大学受験の延長戦上で考えていると、決してうまくいきませんし、生徒のためにもなりません。それぞれの人が何を希望しているかをよく聞いて、各自に可能な限り対応できる体制を作らねばならないことを学びました。
講師管理も重要です。
この予備校にいた講師は、申し訳ないですが、半分以上は質が低かったと思います。大学院受験や編入受験を扱う予備校は、よほど丁寧な人選をする必要があります。勉強の能力だけが高い人間は決して使えません。やはり、「空気が読める人」
「人の気持ちが分かる人」
「否定しない人」
「共感という言葉の意味が分かる人」
もちろん「教える能力の高い人」
「生徒にこんなこともわからないの?と言わない人」
「変な思想を押しつけない人」などなどいろいろありますが、
大学院受験や編入受験の予備校の教員は様々な意味で能力が高くなくてはなりません。
やはり人材を育成することが急務だと考えるに至ったのです。

京都コムニタス誕生前夜

そしてこの予備校は崩壊していったのですが、なんとひどいことに生徒が残されてしまいました。
予備校が潰れるのは勝手ですが、受験まで至ることができないまま残された生徒は、立派な被害者です。彼らを何とか受験で合格できるように教えることが私の最後の役目と思い、しばらくキャラバン隊のようにあちらこちらの喫茶店やマクドナルドなどで教える生活が続きました。

京都コムニタス設立までもう少しのところまできました。

キャラバンであちらこちらまわりながら教える生活は、約半年続きました。まだ、最初の頃は使命感が強かったせいか、特に気にならなかったのですが、徐々に場所がないことの不便さを強く感じるようになりました。場所がないと、コピー一つ取るのも手間がかかりますし、何より、安定して教えられません。
また、やはり、人がたくさんいるなかで勉強するのは、環境的によくありません。落ち着いて勉強できる環境を設定することがどうしても必要だと考えました。
そこで、ついに場所をかまえることを考えました。

本当はここでも紆余曲折あるのですが、それはそれでドラマですが、ここでは省略します。
それはさておき、まず場所を決めました。理由は、立地が京都駅に近いこと。大家さんが目の届くところにいること。家賃が安いこと(苦笑)。

今はかなり風景が変わり、当時の教室のビルはなくなり、ホテルが建っています。向かいに水道局がありましたが、今は大きな駐車場です。京都コムニタスも昨年引っ越して、今の場所に移転しました。コロナがあって、教室を別に借りています。
当時重視したのは、入口から入って、すぐに階段があり、少し奥に入ってから塾に着くという構造です。通りに面して、入っていきなり教室というのは避けたかったのです。やはり生徒にとって非日常空間でないといけません。
大学はたいてい大きな校門の中にあります。このような守られた空間が重要なのです。
この時思わぬところから私を助けてくれる人が現れました。
この予備校の理事長です。

その方が、京都コムニタスをこの場所に出すために、金銭面に加えて様々な面で助けてくださいました。
受けた恩は石に刻めと言いますが、とても大きな恩を受けました。
このような助けがあり、いよいよ京都コムニタスをスタートすることができました。

京都コムニタス誕生とスタート


京都コムニタスの場所が決まり、いよいよ開設準備にとりかかりました。
当たり前ですが、物が何もありませんでした。スタートは自分のいすだけでした。といっても、リサイクルショップで5千円くらいで買ったものですが。
それでも今も塾内においています。初心を忘れないようにとの願いを込めているつもりです。
それから事務用、授業用の机やいす、本棚、コピー機、ホワイトボードなどをそろえ、少しずつ形を整えていきました。教室も1つだけでした。
そして、最も大事な生徒の確保ですが、当時キャラバンで教えていた生徒が数名来てくれました。これは本当にありがたかったです。紆余曲折あり、迷惑をかけたにも関わらず、ここまでついてきてくれたのです。現在の講師も数名います。いくら教員がいても生徒がいなければ塾も学校も成立しません。そして、噂をききつけて、また数名が入ってくれ・・
といった具合に少しずつですが、塾の形をなしてきました。
私は基本的に外を走り回ってきた人間でしたので、外政は自信があったのですが、正直なところ内政にはあまり自信がありませんでした。
これもOBの人たちが、事務に入ってくれるようになり、まず事務機能を少しずつ作り上げていくことから内政は着手しました。

京都コムニタスの良い点と考えているのは柔軟であり、教室にせよ、事務機能にせよ、最初からすべてがマニュアルが設定されていたわけではなく、必要に応じて、徐々に変化してきたことです。
その分、悪く言えば統一性がなく、様々な形状の教室になっています。私のこだわりは畳の部屋です。これはどうしても作りたかったので、少々無理を言って、業者に頼みました。

これは最初期の塾の姿です。

もう一つこだわりは少人数制ですので、教室を8名収容くらいを限度に間仕切りをしました。
事務方も良く言えば、臨機応変の対応をしてきました。できる限り個人対応が私の教育方針です。また、できる限りルールを増やさないということも守ってきました。組織のルール設定は、仏教では随犯随制と言いますが、基本的に問題が起こった時に、それに対処するために設定します。そのルールは組織を守るためのルールであって、あまり顧客や生徒には利益はありません。私は生徒も含めて京都コムニタスの組織と見ます。したがって、生徒の利益にならないルール作りは少々の問題が起こったくらいでは設定してきませんでした。ただ、事務方は大変だったと思いますが。やはり、個別対応というのは、難しい面が多々あります。一つ間違えると不公平になります。また全員に対応する時間自体がないこともあります。その場合は身を削らねばならないこともあります。
しかし、やがては慣れるもので、今ではかなりこなれた個別対応ができていると自負します。

京都コムニタススタイルの確立

京都コムニタスが形になって、最初の1年は一気に駆け抜けました。
まだまだ問題がたくさんありましたが、とにかく大学院受験、大学編入受験専門塾として誰にも真似できないようなスタイルを確立することが重要でした。京滋地域でこのような塾は他にありません。唯一の専門塾として一般認知をしてもらうことが必要でした。
私も大学まわりから、ポスティング 、その他様々な宣伝活動をしてきました。しかし、宣伝よりも大事なことは、まずは、塾として生徒に納得してもらえる場を提供することです。そして確実に合格してもらうことです。
そのためにはどうするべきかについては、常に考えていました。大学院への合格だけを考えた場合、いわゆる「面倒見」をよくすれば、それだけ合格する確率は上がります。
とにかく生徒を一人ひとりよく見ることです。そうすると、いろいろな情報を与えてくれます。それを活かして研究計画や志望理由を作る技術は、京都コムニタス創成期に確立されたと思います。キャラバンで回っている時も、もちろんしっかり見ていたつもりですが、場所があると、クオリティが大いに上がります。また、英語もオフィシャルの授業をして、その上で、個別で読み合わせをするという、二段構えスタイルもこの時に確立しました。その方が、授業で言ったことを、各生徒に定着させることができますし、それぞれの生徒がどの程度理解できているかを、私自身が正確に把握することができます。こうすることによって、ほぼ全員が合格できるようになったと思います。しかし、私が構想するのは、合格だけではなく、合格後にいかに成功していく人材を作るかです。それを実践していくために、例えば英語も、ただ読解力を身につけるだけではなく、英語の文献を見て、腰が引けないようにするところから始めます。このあたりは、大学の先生はあまり空気を読んではくれませんが、やはり、多くの人はいきなり英語の本を渡されると、最初はびっくりします。まず身体と心をそのような環境に慣れさせます。
そして、英語の本からでも情報を取れるようになってもらい、それが普通であると認識してもらいます。
このような意識作りを行い、その上で大学院に入ったあと、「何がしたい」かを明確に言葉にできるようになってもらい、そして、それを実行に移すだけの行動力を身につけてもらうことを積み上げてきました。

以上、長くなりましたが、京都コムニタスを作り、いまに至るまでのきっかけとそのドラマについて述べてきました。私なりにたくさんのドラマがありました。このドラマを胸に刻みこれからも初心を忘れず、精進していく所存です。

ご相談は是非こちらまで。