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オススメ"じゃない"本を読んでみた

仕事柄多くの本に触れますが、自然と職場での話題も本に関するものが多いです。

そこではオススメの本を紹介しあうことがほとんどなのですが、時には「読んで後悔した本」まで話題が広がっていくときもあります。

私は人の作り上げたものをあまり批判したくない(批判できる立場にいると思っていない)のでそのような話題の方へ持っていくことは無いのですが、時折、知らず知らずのうちにオススメではない本を紹介している流れになってしまいます。

聞き手たる私は、話し手の怒りのような呆れのような感情と共に話される紹介を聞き流すのですが、そのオススメじゃない本の中で興味を惹かれた本があったので紹介します。

オススメじゃない理由


そのような流れで今回読んでみたのは、遠野遥さんの『破局』です。

第163回芥川賞受賞作の本作をなぜオススメじゃないと言われたのか。それはあまりに多い性描写にあるというのです。

この作品、びっくりするくらい性描写が含まれています。純文学にそのような表現は不可欠だとはいえ、明らかに他の純文学作品と比べても多いといえるでしょう。それに辟易する読者がいてもおかしくありません。

しかし、私はこの多くの性描写を肯定的に読んでいました。純文学には必要なものだと考えながら読んでいましたし、何よりその描写はこの作品に必要であると思ったからです。

彼らには性の交わりが不可欠で、だからこそ性描写が多くなってしまったのだというある種の必然性を感じたのです。

それ故に私はこの作品を読み進めていきましたが、性描写の多さと「虚無」の描き方が合わずに脱落してしまう読者がいてもおかしくないな、とも思いました。

きっとオススメじゃない理由もその性描写の多さにあったのでしょう。私は偶然にも受け入れることができましたが、受け入れられなくても無理はないと思います。

淡々と進行する「虚無」


私の純文学に対してのイメージに、「難解かつ技術力のある文章」というものがあります。良く言えば芸術的、悪く言えば小難しく読みづらいというのが私が思う純文学作品なのですが、『破局』にはそのような印象を抱きませんでした

淡々と物語が進行して遂には破局が訪れるまでの展開にはむしろ、読み進めやすさと呆気なさを感じました。起承転結の”承”と”転”をそっくり見逃してしまったのではないか、という錯覚にも陥りました。

しかし、賞受賞の審査員コメントなどを参照するに、波のないなだらかな展開といつの間にか訪れている終わりこそが「新時代の虚無」なのかもしれないと感じました。

「対象消費時代」といわれる現代にこのような作品が純文学として誕生しているということに気づけたのはとても幸運ではありましたが、作品に出会えるのも作品の意味に気づけるのもほんの一瞬の出来事なのかもしれません。

本を紹介してもらうという贅沢

もちろん私にもつまらないと思う本に出会うことは沢山ありました。物語の展開が合わずに途中で読むのをやめたマンガや、表現技法が癇に障って売ってしまった翻訳本など何冊もあります。

それでも私が今回おすすめされていない本を敢えて読もうと思ったのは、その本を「オススメされなかった本」で終わらせたくなかったからです。

オススメされないままその本を読まないでいると、他人の意見のままの先入観のみでその本を見てしまいます。

自分で本を読み、自分の意見をもつ。それこそがその本に正対するということであり、リスペクトをもって向き合うことになるのだと考えるからです。

「オススメじゃない本だけど面白かった」となるか、「オススメじゃないだけあって面白くなかった」となるのかは私とその本の波長が合うかに懸かっているわけですが、どちらにせよ読まないと始まりません。

オススメされた本はもちろん読みますが、オススメじゃない本でも積極的に読んでみようと思います。

読み終えた私がその本をオススメするか否かは、また別の話になりますが。

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