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青く輝く汽車に乗って、幸せをみつける旅に出よう

定番の夏休みの宿題といえば、読書感想文を思い浮かべる人も多いだろう。恥ずかしながら、私はこの歳まで読書感想文を書いたことがない。

そもそも、本を読むと眠くなってしまう。わたしは文字の羅列を追うことが苦手な、典型的な活字嫌いだった。そのうえ感想文まで書くとなると、もはや地獄だ。私の小学校は「自由研究」か「読書感想文」のどちらかを課題を選んで提出するため、夏休みに読書感想文を書く、というイベント自体が発生しない。

では、なぜ今回の「キナリ読書フェス」で読書感想文を書いてみたいと思ったのか。理由は5つある。

・岸田さんの主催企画に参加したい
・文章を書く練習がしたい
・本を読んで視野を広げたい
・活字嫌いを克服したい
・銀河鉄道の夜を1ミリも知らない

私はミーハーだ。有名な本や映画などの作品に触れてから、人との対話に望むようにしている。と言うと嘘になるが、すこしでも話の内容がわかる程度には知っておきたいタイプだ。

ただし、自分が興味を持てる作品でなければそれは成立しない。素晴らしい作品には、真摯な姿勢で向き合いたい。

今回選んだ本は、青空文庫にて無料公開されている銀河鉄道の夜。読み終えた感想としては、岸田さん同様に「なんかよくわからんかった」だ。

読み終えたあと、脳が疲れたのか3時間ほど爆睡してしまった。予想通りの展開にすこし辟易した。このままだと、感想文どころか物語に触れることすら叶わない。

焦燥感に駆られたわたしは、すこし小賢しい真似をした。章ごとに要約された記事を本書と交互に読み込み、物語の要点をかいつまんだ。NG行為と非難されても仕方ないが、わたしは原作を知らぬまま作品を愛し、語ることができない。

ここから先は、全体の流れを把握したうえで、自分なりの感想や考察を交えた文章を綴っていく。あくまでも正解を説き諭すものではないと、ご容赦願いたい。

父とラッコの上着

「ジョバンニ、お父さんからラッコの上着が来るよ。」
銀河鉄道の夜 「四.ケンタウルス祭の夜」

どこでラッコ出てきた?と疑問を抱いてしまったため、前章まで読み返すはめになった。するとジョバンニの父親が漁師であること、海でとれた貴重な生物を学校に寄贈していることが記されていた。すでに物語から振り落とされているのがわかる。

ラッコの上着とは、この世界でいう毛皮のことだ。ラッコの毛皮、たしかにたいへん珍しい。ラッコは大規模な商業狩猟により、絶滅の危機にあった。(Wikipedia調べ)

クラスメイトのザネリからすると、お前の父は希少生物であるラッコを密漁したから監獄に入っている。だから学校に来れないんだろ?と言いたいのである。どの世界でも、特異点が備わる者にターゲットが向くのだという現実を突きつけられたようで、胸が張り裂けそうになった。

物語のラストとしては、ジョバンニの父は愛する家族のもとに帰ってきたと表現されている。実際に漁から戻ってきたのか、監獄から出てきたのかは明言されていない。しかし今回の物語のテーマが「各人の幸せを問う」ものだとしたら、わたしは前者であってほしいと願わずにはいられない。

銀河ステーション

まるで億万の蛍烏賊の火をいっぺんに化石させて、そこらじゅうに沈めたというぐあい、またダイアモンド会社で、ねだんがやすくならないために、わざと穫れないふりをして、かくしていた金剛石を、誰かがいきなりひっくりかえして、ばらまいたというふうに、目の前がさあっと明るくなって、ジョバンニは、思わず何べんも眼をこすってしまいました。
銀河鉄道の夜 「六.銀河ステーション」

表現がきれいすぎてよくわからない。
この文章について、的確に言い表せる確固たる自信と言葉がなかった。

強いていえば、まるで宮沢賢治が実際にその場に訪れたような、リアリティのある描写だと感じた。あるいは、夢に銀河鉄道が現れ、作者が感じたこと、みたものを体験記として採用したのではないか。そう思い込んでしまうほど、この文章には具体性を持たせる表現が多い。

己のみた夢が現代まで語り継がれるというのは、作家として究極のロマンを感じる。これはあくまでも、「宮沢賢治がみた夢の話」と仮定した話だが。

たくさんのきいろな底をもったりんどうの花のコップが、湧くように、雨のように、眼の前を通り、三角標の列は、けむるように燃えるように、いよいよ光って立ったのです。
銀河鉄道の夜 「六.銀河ステーション」

ジョバンニとカムパネルラが汽車の外からみつけた、りんどうの花。わたしはこんなにも美しい花の表現をみたことがなかった。たくさんのきいろの底をもったりんどうの花のコップ。こういった美しい表現に触れ、夢想するのも本書の醍醐味だろう。

鳥捕りの目的

「それはいいね。この汽車は、じっさい、どこまででも行きますぜ」
銀河鉄道の夜 「八.鳥を捕る人」

鳥捕りの発言でカムパネルが不機嫌になった理由が、今なら手に取るようにわかる。この汽車に乗れる人物は、自分の立場がよくわかっているためだ。

しかしこの鳥捕りという人物は、実に奇妙な存在だ。雁や鷺を押し葉に変形させ、食料として売りさばいている。チョコレートの味がする鳥の足なんて、にわかに信じがたい。ジョバンニの心の声に、わたしは激しく同意した。

銀河鉄道の夜は、不思議なことが起こる世界だ。きっとそう認識しなければ、物語に溶けこめない。わたしはもっともっと、この世界を深く知りたいと思った。

となれば、この鳥捕りの存在を無視することはできない。何をもって汽車に乗り降りしているのか、人に食料を分け与えているのか。鳥捕りが天井まで行けない理由を、わたしなりに考えてみた。

はじめこそ、鳥捕りが天井に行ける権利は他者と同じく平等にあったはずだ。鳥捕りには夢があって、夢を叶える途中に何かが起きた。その何らかの理由で、天井まで行けずに、途中下車を繰り返していると推測した。鳥捕りは夢から抜け出せなくなり、自分が今やるべきことを全うしている。つまり、「鳥捕り」は自身の仕事を破棄できない状態にある。

夢に向かって奮闘していたが、何らかの理由で諦めざるを得なかった。わたしはそう解釈した。

「こいつはもう、ほんとうの天井さえ行ける切符だ。」
銀河鉄道の夜 「九.ジョバンニの切符」

今後、鳥捕りが天井に行ける確率は極めて低い。しかし不可能ではないはずだ。ジョバンニが持っている切符を羨みはしたが、鳥捕りには、相手の幸せを願う心があった。

そんな彼を、ジョバンニは慈しんだ。見ず知らずの鳥捕りのために、持っているものや食べるものを惜しみなく与え、あまつさえ自分が鳥を捕る立場になってでも、彼の幸せを願った。

その後、ジョバンニは鳥捕りの存在を疎んでいたと発覚する。その心情は正しい。なぜなら本来交わることのない人物と出会ってしまったのだから。いくら幸せを願う存在だとしても、一緒に居て心地のいい相手かどうかは、心に足を踏み入れないとわからない。ジョバンニは、鳥捕りに伝えたかったのだ。「ごめんね」と。

親友・カムパネルラとの別れ

ジョバンニが学校の門を出るとき、同じ組の七、八人は家へ帰らずカムパネルラをまん中にして校庭の隅の桜の木のところに集まっていました。
銀河鉄道の夜 「二.活版所」
「ああしまった。ぼく、水筒を忘れてきた。スケッチ帳も忘れてきた。けれどかまわない。」
銀河鉄道の夜 「六.銀河ステーション」

まず、男の子だったのかと衝撃を受けた。わたしはてっきり、クラスのマドンナ的存在だと思っていたのだ。
ジョバンニがカムパネルラに向ける熱い視線も、なかなかのものだった。

カムパネルラの頬は、まるで熟した苹果りんごのあかしのようにうつくしくかがやいて見えました。
銀河鉄道の夜 「七.北十字とプリシオン海岸」

息をのむほど美しい島をみたときのカムパネルラを、ジョバンニは宝石を見るような目でみている。

興味がない人の顔など、よく見てもせいぜいジャガイモか人参だ。ジョバンニがどれだけカムパネルラを大切に想っている様子が、顕著に表れている。

「ザネリはもう帰ったよ。お父さんが迎えにきたんだ。」
銀河鉄道の夜 「六.銀河ステーション」

そして銀河鉄道という不思議な汽車に乗って、親友であるジョバンニに会いにきたカムパネルラの心情は、察するに余りある。

ジョバンニは、親友・カムパネルラとずっと一緒に居られることが幸せだと告げた。しかし、最後までその幸せを掴むことは叶わなかった。

一緒に居たいと願ってしまった故に、ひと匙の幸せを掴みそこねたと肩を落とすのは当然のことだが、果たしてそれを悲劇と名づけて一掃するのはいかがなものか。幸せの定義は、人類みな同じではない。

各人の幸せは、家族と暮らすこと、大切な人と過ごすこと、夢を叶えること、さまざまな選択肢がある。何者にも代えがたい存在と出会えることが、奇跡に近い偶然である。

この銀河鉄道の夜という物語は、幸せの定義を見つけるための夜汽車、いわば人生という長旅に向けて発進した物語である。という結論に至った。

読書感想文を書いてみた感想

予想以上に楽しかった。
銀河鉄道の夜は、実にメッセージ性のある物語だった。
死ぬまでに一度は読んでおきたかった本を読むことで、世界が180℃変わることもある。この世界を知れたことが、今のわたしの幸せだ。


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