なぜ私たちは「教養」と「個性」を求めながら、得ることができないのか
私たちは、この社会における多くの場面で「教養」と「個性」を大事にするように求められ、それと同時に私たちの側も「教養」と「個性」を得ることで何者かになりたいと願い、承認や共感を求めている。さらには、何者かになれないことに絶望してしまい、はじめから求めていなかったように振舞ったり、求めている人に対して冷淡な態度を取ってしまうことすら特別なことではない。
メディアやSNSを見渡せば、「他人ではなく、自分らしさが重要である」と声高に語ったり、自分の意見が正しいことを証明するために正論を用いて論破することが望ましい、といった振る舞いや情報で溢れている。だが、そのような風潮が高まるにつれ、乱立する自分らしさやポジショントークの論破合戦に息苦しさを感じている人もいるはずだ。
いま、あらためて「教養」と「個性」とはどういったものなのかを見つめなおし、なぜ私たちが「教養」と「個性」を求め、どのように振舞っていくことで人生を健全に生きていくことができるのか、その指針を得るために考えていきたいと思う。
# 結論
内容がマニアックで読みづらいため、先に結論を述べる。
「教養」とは社会を良くするために、自らの知情意を作り上げていく態度のこと。知識があっても論破するような態度は、最も教養のない、動物的な態度である。
「個性」とは理性によって情欲を抑え、対象に対して向き合い続けるなかで表出してくる自分独自のもの。エゴや自己中心的な自分らしさといったものは個性ではなく、欲望の表出である。
「知識によるマウンティング」や「自分らしさの主張」といった、「教養」と「個性」に対する誤認が、私たちを「教養」と「個性」の獲得から遠ざけている。
# 教養について
まずは「教養」から見ていこう。
「教養がある」という言葉は、多くの人にとっては知識が豊富であったり、学問を修めていることを想起させるのではないだろうか。レベルの高い大学を卒業していたり、歴史や芸術の専門情報に詳しいようなイメージである。しかし、世界大百科事典 第2版によると「教養」は以下のように説明されている。
このように説明されているとおり、知識を持っていたり、学問を修めているからといって教養があるわけではないことが読み取れる。人格的な生活を向上させるため知・情・意の修練を行うことが教養なのだ。知・情・意とは、知性(理論)・感情(美意識や感性)・意志(倫理観や善の意志)を意味しており、カントは「私は何を知りうるか(知)」「私は何をなすべきか(意)」「私は何を望んでよいか(情)」を問うことで人間とは何かを問うものが知・情・意であると述べている。要するに、教養があるということは、知識だけでなく、美意識や倫理観も磨き続けていることなのである。
教養の語源はギリシャ語、フランス語やドイツ語など様々な言葉に存在している似たような意味が合流してできており、その中でも私が好きな教養の意味はヘーゲルのもので、個としての自分を阻害し、普遍的な存在へと自己を形成する態度とするものである。これは自分の意見を持たずに社会に迎合するという意味ではない。主張を持ちながらも、自らの考える社会にとっての善が、ある一面では社会にとっての悪であるという視点を持って、より社会にとっての普遍的な規範を作り上げていくために磨き続け、問い続けて行くことである。
このように教養の意味を読み解いていくと、SNSやブックマークサイトで行われているような、自分の正しさを主張し、揚げ足をとっては論破したと宣言するような態度は、最も教養がない、動物的な態度であると言われている理由がわかる。
例えば、夫婦喧嘩で片方が「出したものをきちんとしまえ」と相手の過失を責め、それに対して「でも、あの時は○○だった」「あなたこそXXではないか」と言い争う様子を想像してみよう。お互いが譲らずに、自分の正しさを主張したとしても、結局は力が強いほうの意見が通されるか、平行線で関係性が悪化してしまう。教養がある態度とは、夫婦関係をより良い関係性にしていくため、双方が自らに非があった部分を告白し、赦し合い、高めていくことを指している。そしてご想像のとおり、片方に教養があったとしても、相手に教養がなければこの関係性は成立しない。教養がある態度を示さない相手に対しては、まず相互に作り上げる関係性をより良くしていきたいという前提を表明するべきだ。もし、相手がそもそもよい関係性を作ろうと考えていない場合には付き合う必要はない。関わらないようにしよう。
お互いがよい関係性を目指すことに合意ができるのであれば、まずは教養のある側から自らの非を認めながらも、相手側も納得ができる状況を作り上げるために働きかけていくしかない。そうすることで、相手も自らの態度を批判的に見ることができる様に期待をするのだ。強制してはならない。
繰り返すが、ただ単に自分を否定することが教養ではない。「自分が正しい」という感覚と「自分は間違っている」という感覚を等しく持つことであり、「無知の知」や「中庸」にも通じるものだろう。教養がある態度とは、社会をより良くしていくために、自分の正しさを持ちながらもその正しさがある一面では誤っているという視点を持ち、社会との関わり合いの中で自分をより良くしていくために模索を続けていくことなのだ。普遍的な存在となることを目指しながらも、社会自体も変化していくため、普遍的な存在となることはない。正しさと正しくなさが混在し、反転する状況の中に身を置き、より善いものを追及していく姿勢こそが教養である。
このように社会が教養を求めるのは教養を持っている者が社会を前進させるからであるし、私たちが教養を持ちたいと考えることも社会を前進させることができるからである。どんなに知識を持っていたとしても、自分の正しさを証明し他人を屈服させることにしか興味がない人は教養がないのである。
学問、芸術、社会、ニュース、子供との対話、自然の風景など、あらゆるものに対して誠実に向き合い、自分なりの解釈と自己批判を繰り返し、社会にとってより良い自分を作り上げていく事が教養の在り方である。
# 個性について
次に「個性」について読み解いていく。まずは教養と同じように事典から引用する。
個性にはいくつかの英訳があるが、ここでいう個性はpersonalityではなく、individualityが適切であると考える。なぜならば、この記事の本旨である「私たちが個性を得たい」「個性的な存在として認められたい」というときには、生まれ持っている性格(personality)を個性と言っているわけではないからだ。そこには、自分が成し遂げたという特別でポジティブな意味が含まれている。
では、individualityの意味する個性とはなんだろうか。individualityの語源はindividual + -lyであり、individualは中世ラテン語のindividualisから来ている。「一つであり、不可分である、分けることができない」という意味を持ち、後に「個性の総体」という意味を持つことになる。要するに、個とは「1」であるという意味である。個性の「性」とは本質という意味を持つので、個性とは「1」足らしめている本質を意味する。どういうことかというと、あなたが本当は1人で過ごしたいのに、断ったら嫌われるからと友人たちと一緒にいる状態は「1」ではない。自分自身の「本心」と実際に行っている「行動」が乖離しているとき、自分は分裂している。よって、これは個性が失われている状態といえる。適度なボリュームを食べるべきなのに食事を食べ過ぎてしまったり、自信を持ちたいのに他人に依存してしまったり、本当は正しくないことがわかっているのに我儘に振舞ったり、そういった情欲をコントロールできない状態から、理性が情欲を完全にコントロールできている状態になることが「個」になるという意味であるとプラトンは言っている。
また、ルソーも「私たちの不幸の原因は、私たちの欲望とそれを満たす能力の不均衡にある」と述べている。「なにものかになるためには、自分自身になるためには、そしてつねに一個の人間であるためには、語ることと行うことを一致させなければならない」とし、個となることで「幸福である為に自分以外のものを必要としなくなる」と述べている。自分の理性で描いている正しい姿のままに行動できているとき、他人に依存せず、安定した幸福な状態を得ることができるのだ。
私が愛読している「人間の建設」(新潮文庫)という本がある。世界の数学者の誰もが手に負えなかった多変数函数論の三つの大問題を一人で解決した天才数学者の岡潔と文芸評論を確立した天才文学者の小林秀雄による対談本である。その中にこのような一節がある。
「小我」と「無明」は仏教用語で「小我」は目先の情欲やその時の衝動のこと、「無明」は根本的な無知からくる煩悩の源泉を意味している。
つまり岡潔は、情欲や感情そのままで動くことは個性ではなく、自我を強く主張しなくては個性がだせないと考えることも誤りであると主張している。自分が無知であることを自覚し、自分の感情を統制下において、物事にただひたすらに向き合うことで見えてくる世界が存在する。その世界に向き合い続けることで、自己中心的な観点ではなく、その世界を表現する言葉が自分を通して表出してくるものこそが個性であると述べている。特定の分野に傾倒し続けたからこそ、自然と生まれてくる課題意識やその人の味というものが個性であると言っているのだ。
また、数学者というと客観的根拠や科学的検証に偏った理系的な人物をイメージするかもしれないが、岡潔は感情の人である。数学や天文学、生物学などの自然科学は知性だけでは証明できず、感情も無くては成り立たないと述べている。
科学的検証によるエビデンスは重要ではあるが、例えば、御守りや仏像は何の変哲もない布や金属であると証明したところで、それによって救われている人には意味がない。逆に、信仰を利用して「万病が治る薬」を高額で売りつけるようなものに対して、効果がない事を検証する事には意義がある。必ずしもデータだけで説明できない、喜びや苦しみといった感情が存在している世界の中で、どうあるべきかという理性をもって、切り捨てずに向き合っていく必要がある。このように物事に深く向き合うためは、知情意のいずれが欠けてもならないし、こうしたすべてをもって接することで自然とその人が表現できるオリジナリティのあるものが個性なのだ。
# まとめ
ここまで説明してきた事からわかるように、私たちが「教養」や「個性」を得たいと強く思いながら、なかなか得ることができないのは、「教養」や「個性」というものを捉えられていなかったからなのではないだろうか。知識で正論を語りマウンティングを取ることや自己中心的な主張をすることが、教養や個性ではないのではないかと思ってもらえれば幸いである。
「教養」とは社会を良くするために、自らの知情意を作り上げていく態度。「個性」とは理性によって情欲を抑え、対象に対して向き合い続けるなかで表出してくる自分独自のもの。このような理解をもって物事に向き合い続ける事によって「教養」が生まれ、「個性」へと昇華していくはずだ。そうした教養と個性を兼ね備えたみなさんは、きっと社会をより良いものに進化させ、多くの人たちにとってよい世界を作り上げることに繋がっていくはずである。
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