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安らげる場所

人のためは、あらゆる欲求を満たす

最近、「安らぎ」に触れる機会が多くあった。そういえば、あまり意識したことのない心象風景だった。自分の「安らぎ」ってなんだろう? 考えるきっかけになった、茶道の本を読んでみた。

自分が点てたお茶を誰が召し上がるのかわからないけれど、召し上がる人にはおいしく味わってほしい。

「あなたのために」と思ってお茶を点てるとき、心に高揚が生まれるのです。
日本人の心、伝えます/千玄室(以下同)

誰かを思ってつくる。惰性ではなく、丁寧につくる。追われるように日々を過ごしていると、ついつい忘れてしまう気持ちかもしれない。物事に真摯に向き合うためには、普段から、お茶を一杯飲むくらいの余裕を持っておくのが必要なのだろう。余裕だけじゃなくて、いただくのはもちろんのこと。

常に相手を思いやる心や姿勢は、直接的か間接的かわからないけれど、相手に伝わる。本書を読んだ限りでは、そこに相手に対して見返りの気持ちはないのだと思う。これってなかなか究極だなと。お茶を楽しむ人たちは、それぞれが何かを求めて来ているはずだから。

  1. お茶を提供する亭主は、思いやりの心で人をもてなす。

  2. 人は何かを求めて来訪し、お茶を通して何かを得る。

  3. 亭主の真摯な気持ち+お茶×人と人が共有する空間=何か。となる。

  4. それぞれが求める何かは違うのに、みんな何かを満たして帰って行く。

それってどういうこと? が素直な疑問だった。方程式じゃ表せない答えだ。だだだと書いているいまは言語化が難しい……。むむむ。

ノーサイド

お茶をいただくとき、人種、世代、職業といったすべての差異を越えた平等な世界が広がります。

茶事は人が一体となって和やかに語り合う、温かな交流の場。お茶を通じて知り合った人とは情を通じ合える。単なる知人ではなく、互いの心を知り合う真の友人になり得る。

お茶は、家庭でも職場でもない場を共有する空間だという。確かに、先日白丸湖でのお茶会に参加して実感した。自己が揺れているタイミングだったのもあって、無条件に承認し合える場を欲していたのもあるが、ぼくの心はあのとき、あたたかな安心感で満たされた。

能動的、共有、交流、承認。これらは人と人とが心通わせやすくなる定義のひとつみたいだ。そして、「安らぎ」の定義のひとつでもあるのだろう。というか、そう実感した。だだだと書いているいまは「定義のひとつ」とまでしか言えない……。むむむ。

俗に言うサードプレイスだと、趣味、サークル、宗教などもそれにあたるだろうか。年齢の違いはあっても、上司も部下も、師匠も弟子も、経験の多少も問わない。社会とは一線を画した「まぁほどほどに」的な空間がある。

あ、リバークリーンもそうか。誰もがボーダーレスに参加できる。リバークリーンは「参加」っていうほどじゃないか。

あえてボーダーレスって横文字にしたのは意味があるけど、回収はまだ別の機会に。

不完全の美。完全すぎないところに魅力がある。常に移ろい続ける自然の姿は、完全ではないからこそ、心をとらえる。

安心を探すのは不安だから

そもそも、なぜ人は「安らぎ」を求めるのだろう? そこに安らぎがあるから、ではない。きっと「安らぎ」よりも前に「安らげない」があったんじゃないかな。

社会の在り方や周囲の価値観に違和感を覚え、それぞれが落ち着く場所を探す旅に出た。行き着いた先が、各人の安らげる場所なのだろう。あなたも私も、きみもぼくも。

仮にそうだとすると、いま「安らぎ」を感じている人は、自分の心と真摯に向き合って、丁寧に人生を切り拓いてきた人だ。つまり、先述した茶道の心に通じる。あの日あの時あの場所で君に会えなかったらじゃないけど、あの空間に能動やポジティブといった信念を感じたのは、あたり前なのかもしれない。

和敬清寂
慈愛は甘やかしではない。寛容は見て見ぬふりをすることではない。他人と和み合い、敬い合い、自浄の志と揺るぎない信念を持つ。茶を親しむものの理想の姿。

仮に仮にそうだとすると、あの空間にいたぼく以外の人は、次どこへ行っても「安らげる場所」になると思う。物事に真摯に向き合い、相手を思いやり、丁寧に生きる習慣がついているから。


本は10ページでは売れない

狭い門から入れ。

滅びに至る門は大きく、その道は広い。
そして、そこから入っていくものが多い。

命に至る門は狭く、その道は細い。
そして、それを見出すものが少ない。
新約聖書「マタイによる福音書(マタイ伝)」7章13節

マタイによる福音書。「安らぎ」の選択を後押ししてくれる1節だ。本書では確か、茶室に入る入口の狭さにも触れていた気がする。

ぼくは10年くらい前、あることをきっかけに聖書を読破した。実はキリスト教徒でも聖書を読破した人は少ない。彼ら彼女らは教会で「今日はこのページのペトロの手紙の……」と、数ページ読んで、歌って、交流して、また来週だ。

結論。読破しなくていい。文章が破綻していて、自由に解釈できてしまい、まったく頭に入ってこない。読む速度は100km/hで、理解する速度は2km/h。一気通読の必要がないから、あの分厚さなのだ。

いい文章の定義のひとつは、読む速度と理解する速度が寄り添っていること。

わびさび
雪の間から芽生える草の姿にこそ、本来の春がある。枯れ果てているように見えて、実は燃えるような生命力を秘めている。熱くたぎる動の気配がある。

懐かしさと安らぎ

自分にも、「安らぎ」と聞いて浮かぶ景色がある。笑って悲しんで、やはり笑い合った人たちがいた。それはすべて過去だ。わびさびは、冬や夜を越えた美しさを説く。いまのぼくは、切ないけどそんな風に心は縛れない。

書いてつくって浄化するのも安らぎだ

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