夏休みの宿題もうやったよって言う友だちに感じる気持ちの正体
はぁ。今日も変なタイトルをつけてしまった。つけたからには書くしかないし、書いたからには仕上げないといけない。
夏休みの宿題。
良くも悪くもない思い出がフラッシュバックする言の葉。文字にすると、前前前世の記憶のカケラにも感じる。
目を閉じて、脳の検索窓に「夏休みの宿題」と入力。少し強めにエンターを押すと、SEO対策された記憶の上位10ページが表示された。検索結果1位を選択すると、小学生のぼくの目線の高さで広がる景色があった。
その景色は白い額縁の向こうにある。どんな景色だろう? と額縁の中を凝視するも、見れば見るほど景色は移動する。景色の移動速度に脳の読み込み速度が追いつかない。額縁越しに確認できるのは、いつも景色のファーストビューだけだった。
それに、その景色は少しだけ曇って見えた。新聞のカラー広告みたいに。記憶のCMYKは落ち着いたカラーチャートを好むようだ。ぼくの記憶はRGBではなくCMYKだといま知った。やはりぼくは昭和生まれ昭和育ち 悪そうな奴は大体友だちなのだ。
検索結果2位は昼間の下足箱で、3位は夕方の校庭だった。これらも確認できるのはファーストビューだけ。SEOがファーストビューのCVRを重視している証拠なのだろうが、少しくらい画面をスクロールさせてくれてもいいのにと思う。
3位のファーストビューは漫画のような話なので、結構具体的に覚えている。検索結果ではなく脳の引き出しにあるから、触れば温もりさえ感じられる。夕方の校庭を絵に描いて説明してもいいが、ぼくはエジプトの壁画(いや、それ以下だ)のような平面の絵しか描けないから無理だ。
ドロケイでぼくがドロ、好きな子がケイのほうだった。逃げてたらぼくが転んで、追いかけてきた彼女も転んだ。彼女はぼくに馬乗りになっていて、仰向けになったぼくの腕は彼女の背中にあった。耳と耳がくっついていた。
初体験と言っていい体位だ。小学生が校庭で。翌日は朝からソワソワしていた。放送委員会が流すお昼の放送が心配で仕方がなかった。
その前から、お互いの友だちが口を揃えて両思いだと言ってたから意識はしていた。大人になっていつだったか聞いたら、実際、4年生から6年生までそうだったらしい。ぼくの黄金時代は気付かぬうちに過ぎていた。
でもいいんだ。いつだってこの白い額縁が、記憶の断片を切り取ってくれる。忘れたってそれは仕方がない。Googleのアルゴリズムは毎年変化するし、彼らのクローリングはコントロールできない。
しかし記憶のGoogleはちょっとおかしい。「夏休みの宿題」と検索しているのに、さっきから「夏休みの宿題」の話にならない。キーワードやディスクリプションがすっからかんだ。
ソースの中もカバンの中もつくえの中も、探したけれど見つからないのに、まだまだ探す気でいる。これはつまり、ぼくの中に「夏休みの宿題」というキーワードがないことを意味する。まぁ、そうだろう。
愛や神と同じように、夏休みの宿題を早く終わらせたと言っている友だちの脳内は、この目で確認できない。否定も肯定もできない。だから気持ちが悪いというか、気持ちの落とし所がない。
限りなく否定に近いけれど、完全に否定できない事象がある。すると人は、不完全な否定に意味を見出す。板間から射すわずかな光に人は揺れる。目を奪われる。あっちの水は甘いと。
想像の範囲外を想像し、肯定を捨て、否定の世界を盲信する。自分を特別な存在にしてくれるウルトラCを、誰も見えない隙間に求める。見えないから否定も肯定もできない。だから気持ちが悪いというか、気持ちの落とし所がない。
放送委員会の件以外は本当の話。
だけどそれすらわからない。
今度も見つかる確証はどこにもない。
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