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三界に家なし

昔、父に
目上の人に「可哀想」といってはいけない。
「気の毒」という言葉を使うようにと教えられた。

だから、不憫という言葉も、なるべく年上の人には使いたくないのだが…

今の母を見ていると、不憫に思えて仕方がない。

3年半前に、父が亡くなったのを機に、我が家のそばに母を呼び寄せた。
父がもう長くないとわかった時点で、夫と二人で施設の見学を始めた。
認知症で腰痛もあり長距離を歩けなくなっていた。
 
それまでの数年間は、毎月わたしが帰省して、実家の家事を手伝っていた。
滞在期間は1週間が2週間になった。
つまり月の半分は実家に帰っていた。
父が入院して母も体調を崩したときには、3ヶ月滞在した。

夫の理解があればこそだったが、遠方に通うのはもう限界だと判断し、思い切って母を呼び寄せた。
終の棲家として建てた家を離れて、母は80代にして横浜市民となった。

母は広島生まれだが、父親(わたしの祖父)の仕事の都合で、子ども時代は県内、神戸、岡山などあちこちに移り住んでいた。
明治生まれの祖父は若いときに結核に罹かった。
そのため、学校も一旦入っていたところを辞めて、鹿児島の高等農林を出た。

農業に従事したことはなく、旧制中学や高等女学校の生物の教師をしていた。
仕事が軌道に乗ると、決まって結核が再発する。
家族で神戸に移住して、祖父の兄の乾物問屋を手伝っていたこともあるらしい。
しかし、兄嫁に居候扱いされて、結局追い出された。

病弱ながら、積極性と商才があったので、教師を辞めて商売を始めた。
商売が軌道に乗るまでは、
母は不安な少女時代を送ったと思う。

晩年は、祖父母とも、病気ばかりで母は40代50代はほぼ毎日実家に通って家政婦代わりを務めていた。


そして今、娘の都合でこの地で生涯を終えようとしている。
まだ終えてはいないけれど、多分そうなる。

まるで死ぬために故郷を捨ててここに来てくれたようで、申し訳ない気持ちになる。

最近食欲がなくなり、ベッドで横たわっている時間が増えた。
急激に貧血が進んだので、腫瘍マーカーの検査は受けた。
この検査はがん診断の入り口といわれるけれど、精度に限界もあるという。

随分痩せた。
せめて話をするために施設の部屋に通う。
いつも笑顔で迎えてくれる。
わたしの前では変わらない母なのに、スタッフの人や入居者に妙な軽口を叩いたり、暴言とまではいわないが、おかしなことをいうことがあり、困惑する。
人格まで変わってしまったのか。
何もかも衰えてしまい、不憫という言葉しか出てこない。

子どものときは母が大嫌いだった。
あれをしなさい、これはダメと、高圧的で、恨みつらみしかなかった。
かわいいワンピースやスカートを縫ってくれたこと、セーターを編んでくれたこと、美味しい料理を作ってくれたこと、寒い朝、母の布団に潜り込んだこと、今はいい思い出ばかりが蘇る。

80代半ばの頃


施設の看護師さんも心配してくれ、何でも差し入れて上げてくださいといってくれる。
スーパーのお寿司でも、持って行くと喜んで食べる。
好きなものならまだ食べられるんだな。

今日は母の誕生日。
我が家で祝う。