見出し画像

忙しくも楽しき日々

振り返れば、あの頃が一番楽しかったのかな。 

3年前の夏。

娘の第一子と息子の第二子が3週間違いで生まれた。

コロナの渦中にあったあのとき、
同じ大学病院で生まれた孫たちには、退院の日まで、直接会いに行くことはできなかった。

娘は産前産後を実家である我が家でのんびり過ごした。

息子のお嫁さんは、コロナのせいで里帰り出産も、実家のお母さんに手伝いに来てもらうことも叶わず、5歳になる上の子をわたしが主に世話をして幼稚園に通わせ、出産後は赤ちゃんの世話に専念していた。

その頃、わたしの故郷では、末期癌の父が闘病していた。

ここでも何度か書いたが、父は脳梗塞で倒れ、長い治療とリハビリを経て、いよいよ退院という段になって、貧血の数値から大腸癌が見つかり、もう手術はしたくないという本人の意思を尊重して療養していたのだが、生まれてくる曾孫2人の世話を優先してくれというのも父の意向だった。

生まれてくる赤ん坊はこれからいくらでも世話ができる。
しかし、父は……。

母は元々軽い認知症だったが、父が脳梗塞になって、心理的なショックからなのか、物忘れが急速に進み、原因不明の腰痛で、ほとんど起きられなくなった。
いろいろな病院を連れ回したが、県立病院では脳の血流検査までされた。
鬱病も疑った。

わたしは父母に3ヶ月以上、張り付いていたけれど、孫たちの出産は迫りくる。

父が入院していた病院からも、手術をしないとなると退院を……と、迫られ、途方に暮れる日々だった。

自転車で病院から実家に帰る途中、わたしは馴染みのある病院に併設された、ケアホームという名の高齢者施設にアポなしで飛び込んで説明を聞いた。

この施設の母体である病院の院長は、亡き祖母の親友の息子さんである。
医師会会長も務められた名士だ。

祖母と院長のお母様は、女学校の同級生で、田舎の小学校から同じ学校に進学したのはたった2人だった。

その人は女専という後の県立女子大まで進学され、3人の息子さんは皆国立大学の医学部を卒業された。

わたしはこのツテを頼って、なんとかこの施設で預かってもらえないだろかと懇願した。

ここはサービス付き高齢者住宅という施設(サ高住)で、居室はマンションのようなつくりで、自由度は高かったが、希望に応じてあらゆるサービスに応えてくれ、最終的に看取りまでしてもらえる。

父と母が入居できる2人部屋が空くまで、一か月あったが、院長先生の特別の配慮で、この間父は、こちらの病院に入院できることになった。

入院中の病院からは、しばしば退院を打診されていたので、まさに地獄に仏の心境だった。

病院のコーディーネーターを中心に、ケアマネさん、施設の責任者、施設内の訪問看護の看護師さん、父と母が通うことになった施設内のデイサービスのスタッフさんとわたし。
みんなで会議室に集まって今後のことを細部まで話し合った。

幸い、お世話になるサ高住は実家から徒歩10分の距離。

わたしは自転車で何往復もし、食器や衣類など、最低限の道具を持ち込み、簡単な家具も揃え、布団やテレビはタクシーで運び込み、生活が軌道に乗るのを見届けて、久々に自宅のある横浜に戻った。

老人の介護から、孫たちの世話へ。
子どもは明るい未来の象徴だ。
親を捨てたような疾しさは、時々脳裏を掠めたが。

8月に男の子が、9月に女の子が無事誕生した。

わたしにとって、この夏は、とびきり暑い夏だった。

とにかく毎日が忙しかった。
忙しい中にも笑顔溢れる日々だった。

あの時生まれた孫たちも、もうすぐ3歳の誕生日を迎える。


従兄弟同士