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京都の人

京都の人に強い憧れを抱きながらも
本音と建前を使い分けるというステレオタイプなイメージから、
腹黒い人、油断がならない人という先入観を持ってしまうことは否めません。

わたしは昔から県民性に関する本を読むのが好きでした。

近頃では『ケンミンショー』などの影響で、

〇〇県民とは…などと型にはめて考える人が多くなったように思います。


例えば、大阪の人は合コンでいきなり相手の年収を訊くとか。

多少オーバーに、面白おかしく語られることが多い県民性。

まぁ、予め都道府県民のくせを知っておいた方が、お互いのためかもしれません。

東京という大都会には全国から人が集まってきます。

黙っていては分かり合えないから、
知らず知らずのうちに、みんなおしゃべりになっているような気がします。

人種のるつぼ
民族のサラダボウル
と言われるアメリカ合衆国に近いものを感じます。

土曜日の朝(昨日)
NHKで『チコちゃんに叱られる!』
の再放送をチラチラ見ていましたら、

京都の人が

「娘さん、ピアノ、上手になりはりましたな」
と言ったら、ピアノがうるさい。

「きれいな手をしてはりますな」
と言ったら、アンタ家事やってないでしょ。

という風に解釈するのが
京都風だそうで、

つまり、何をどう褒めても、素直に受け取ってもらえそうにない。


言葉を瞬時に曲解する。
婉曲表現ができる。

そういう意味では、京都人は頭の回転が速いともいえますね。
(素直に褒めています)

昔から、
「お茶漬けでも如何?」
と言われたら、帰れという意味だというのは有名なたとえです。


実は我が家には、京都にちょっと苦いような複雑な思いがあります。

京都に住む親族が京都の人と結婚して、結局熟年離婚しました。

結婚して僅か数日で限界を感じたけれど、
クリスチャン同士の結婚ということもあり、離婚を逡巡し、モヤモヤを抱えたまま、長い時を経てそういう結果になりました。

まぁこれは個人の問題ではありますが、この時、京都の暗黒面を覗き込んだような気がしたのです。
そして周りの人も決まって、

やっぱり京都の人はね……というのです。


わたしは京都の人に偏見を持つのはよくないですよ、とここでハッキリ申し上げたいと思います。

上品で洗練されていて、伝統を重んじながらも新しいものも採り入れる、本物を知り、何事もあけすけにせず、オブラートに包み込み、節度を守る人

良いところを挙げればキリがありません。

また、京都の人を一括りにするのも
よくないことです。
そもそも一概に京都府民と言っても地域差があり、気質も違うようです。
(『京都ぎらい』 井上章一・著
 を読むとわかります)


「京都の人は性格悪い」

そんな先入観を持たれてしまうハンデがある京都の人。
お気の毒です。

それでも、京都の人の前では
頭の中で黄信号が点滅。
ちょっとオドオドしてしまうのは、わたしだけでしょうか。