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【自己紹介】平凡な私がケンブリッジ大学MBAに合格するまでの話

こんにちは。Noteを初めてから、しばらく経ちますが改めて自己紹介を兼ねてこれまでの人生について振り返りたいと思います。

その過程の中で、なぜ私がMBAを考え始めたのかも含めてご紹介できればと考えています。具体的な受験Tipsや合格体験記は別Noteでまとめておりますので、こちらではどちらかといえば私自身のこと、内面の考え方などをご紹介できればと思います。


自己紹介(略歴)

  • 年齢:29歳

  • 結婚:子無し夫婦

  • 出生:関西

  • 学歴:関西私立大学卒

  • 職歴:総合コンサル→スタートアップコンサル

幼少期・小学生

生まれてから社会人になるまでの間は関西の実家で過ごしました。
父母兄と私の四人家族でしたが、両祖父母・従兄弟家族が同市内に住んでいた為、親族の集まりが多い家庭でした。(妻と結婚し、親戚を紹介した際には人が多すぎて覚えるのが大変だとの意見もありました)

その為か、特に両祖父の影響を受けて過ごしてきました。
・父方祖父:自営業(工務店)
・母方祖父:中小企業社長(貿易業)

幼い頃は仕事内容の分かり易さから、父方祖父の後を継ぎ大工になりたいと考えておりましたが、祖父からの反対「お前は鈍臭いから大工にはなれない」「これから大工は厳しいぞ」もあり徐々にその夢は薄れていきました。
しかしながら、今でも何かを組み立てたり、形にすることは好きです。母方の祖父は貿易業であったことから幼い時代は何をしているのかよく分からず、海外によく行っているというくらいしか理解しておりませんでした。

充実した小学生時代
通っていた小学校は市内では比較的小さな学校で、同級生同士仲も良く、9割程度が近くの公立中学に行くような環境でしたが兄がその道から外れ他県の中高一貫校に進学したことがきっかけで、不思議と私もその道に進むことにしました。その為、小学5年時から中学受験のための学習塾に通っており同級生の中では「賢い方」だったと自負しています。(塾の中ではビリでした)また、決してリーダーシップがある子供ではなかったものの、背が高く盛り上げ上手な生徒会長と仲が良かったことからイケイケ系男子グループに所属しており、楽しい小学生生活を過ごしました。また、水泳、空手、塾など様々な習い事に通い放課後はバスケットボールクラブに通うことで多くの友人を作ることができました。

中学生

その後私立中学に進学したわけですが、「同級生に知り合いがいなかったこと」「学校規模が大きかったこと」「周囲が自分より賢かったこと」などの環境の変化により、これまでの小学生時代と比べてやや自信を失い、またコミュニケーション能力が低下していったと自覚しています。(誰とも話せないとかではなく単純にShyで仲良くなった人とはとことん仲良くなれるタイプ)

怪我に悩まされた部活生活
また、部活は父が昔やっていたバスケットボール部に所属しており、練習は厳しかったものの好きな競技でしたが、練習に打ち込んだ結果、左足を疲労骨折してしまいその足を庇い右足を痛めたり、友人同士のふざけ合いで腰を痛めたりと怪我に悩まされ結果的に中学でバスケットボールに打ち込むことはできませんでした。

うまく立ち回る力
勉強はあまりできない、怪我で運動もできない、恥ずかしがり屋になったなどのネガティブな側面はありましたが、幸いにも友人には恵まれ、また、小学校時代から身につけた「カリスマではない自分がなぜかリーダー的ポジションの同級生に気に入られクラス内でいいポジションに就く」スキルでそれなり楽しい中学生活を送りました。

高校生

中高一貫校だったこともあり、クラス内の環境はあまり変化はありませんでしたが、高校受験で新たに進学してきた生徒たちが合流してきたため、クラス外の環境は大きく変化しました。(中学4クラス→高校13クラス)とはいえ、コースが分断されているため部活や課外活動、よっぽどのコミュ力がない限りは交わりは殆どありませんでしたので3年間の高校生活の中で大半の同級生の顔と名前は一致しませんでしたし、関わる気もあまりなかったです。

諦めない部活生活
高校ではテニス部に所属しましたが、人気のマンモス部の割にコート数が限定的だったため素人がコートに立つことはあまりなくコーチからは「外を走っとれ!」「素振り!」「筋トレ!」を強いられ、大半の同級生は辞める or サボり術を身につけていました。私はというと、そのような不遇の局面においても決してサボることはしませんでした。その理由の1つは単純にバレた時怒られたくないという消極的なビビり気質からきたものでした。もう1つシリアスな話としては小学生時代に通っていた学習塾で仲良くさせてもらっていた友人が別中学に通っていたわけですが、中学3年時にバスケ部の練習中に不慮の事故で亡くなってしまったことがあり「お前の分まで頑張る」と彼のお通夜で誓ったことがきっかけで、自分は部活ができるんだから全力でやるぞ!という気持ち走り続けました。結果、テニスのスキルは伸びなかった割に持久力だけは陸上部と肩を並べるほどになりました。

グローバル意識の芽生え
高校1年時に2週間オーストラリアでホームステイを経験しました。家族とのプチ海外旅行は経験したことがありましたが、本格的な海外経験はこの時が初めてでめちゃくちゃ新鮮で当時の私にとっては大きな経験でした。恥ずかしながらそれまで私の視野は海外には一切向いてなくなぜか「コストコに行くだけで気分が悪くなる」ほどにドメスティクな人間でした。それだけに、ホームステイに行くこと自体も相当に後ろ向きでしたが家族からの薦めもあり参加することとなり、まさにBroaden my horizon(視野の広がり)を体感し「いつかまた海外に行きたい」と考えることになりました。

やる気のない受験生
大学受験の日が近づくにつれ、仲の良かったクラスメートたちが遊びよりも勉強を優先し始める中、勉強がめんくさかった言い訳から「あんなガリ勉たちと一緒になりたくない」という謎の反抗心から受験勉強にあまり打ち込むことはありませんでした。とは言いつつも兄が旧帝大に進学していたこと、両親や祖父の期待に応えたいとの思いで大阪大学を第一志望に掲げ「なんとかなるっしょ」という軽い気持ちで受験するも見事に撃沈し、センター試験利用でなんとか関西私立大学に合格することができたためそのまま進学することになりました。

大学生

仮面浪人も視野に
その様に真剣に勉強しなかったため当たり前の様に悔しい気持ちはあまりなく私立大学に通い始めた訳ですが、「もうちょっと真面目にやってたらどうだったんだろうか?」「俺の実力って?」と思い始め、意識していたのか分かりませんが多少の学歴コンプレックスを胸に仮面浪人を考えました。

人生を変えた学生団体との出会い
そんな折に新歓で偶然誘われ、所属しはじめた学生団体の活動にどハマりしました。その団体は国内他大学にも、世界中にも支部があるいわゆるインカレサークルの様なもので他大学の学生との交流が多くありました。第一志望だった大阪大学や、東京のイケてる大学群(早慶)や旧帝大など偏差値の観点では圧倒的に自分よりも上位に立つ人たちとディスカッションを繰り返す中で意外と普通に議論ができることから、これまで何となく持っていた「学歴=頭の良さ」のイメージが徐々に薄れ始めました。(とはいえある程度相関はありますし「こいつ賢っ!」と思った東大生が多くいたことも事実です)
そんなこんなで、心に覚えていた学歴コンプレックス的な気持ちは消えていき、「肩書き(看板)」よりも「経験(中身)」で勝負することを意識し始め海外旅行や国内旅行、インターンなど多くの機会に積極的に参加することになりました。この辺りから、他者に対して○○(例えば勉強)という点では劣るが、△△という点では自分が優位になてればいいじゃないか?という価値観が芽生え始めました。(勝てる環境を自ら作り出す

この学生団体は、私の人生を変えたと言っても過言ではいのは、他にも理由があります。
1つ目にリーダーシップの観点です。これまでの人生で触れた通り私自身は積極的に何か行動を起こすと言うよりも「世渡り上手に」勝ち馬に乗るタイプだったのですが、そんな自分を変えたくて所属支部(70人程度)の委員長を決める選挙に立候補する事になりました。結果は惜しくも2番手で落選という形になりましたが、そもそも手を挙げ、最後までやり切れたことだけでも私にとっては大きな一歩でした。
2つ目にグローバルの観点では、活動の一環で大学4年時に休学しインドで半年間現地企業でインターンをするという経験を行いました。文化・価値観が異なり生活環境も悪かった中半年間乗り切れたことは自信につながりました。また、それ以上に当時のインドに身を置けたことは良かったと思っています。人口増加から経済成長著しく、つい最近までなかったはずの道路や駅が物凄い勢いで建設され、豪華なホテル・モールに煌びやかな装飾をまとった富豪たち、しかし目線を変えると、町中には物乞いが溢れ、20~30円程度で客と揉めるTaxi Driverなど、まさに貧富の差が広がり続ける国には、失われた30年(当時は20年)の国で生きてきた私にとって新鮮以外の何者でもありませんでした。また、仲良くなったインド人の同僚が「私は家族を支え、この国の発展に貢献したいから自分のビジネスを始めたい」といい会社を辞めて言った言葉から「沈みゆく自国(日本)」を変えたいと志すきっかけになりました。
そして、3つ目に妻との出会いもこの学生団体だったこともあるので人生を変えたと言えるでしょう。

親友たちとの出会い
学生団体の活動で多くの時間を費やしてきた大学生活ですが、一方で私には帰る家がありました。偶然の産物ですが、大学生活1日目から今日に至るまで仲良くしている3人の仲間たちは人生の財産です。これまで決して皆が順調な人生を送っている訳ではありませんし、時たま連絡が途絶えることもあります。考え方・人生観・置かれている社会的立場は異なりますが、お互い損得なく関わり続けることができる親友たちで今後も家族ぐるみで、また将来的にはビジネス(金儲けと言うよりはコミュニティー的な)を一緒にやって行きたいと思っています。

社会人

日系総合ファームに入社
大学卒業後は、日系の総合コンサルティングファームに勤務しはじめました。インドで芽生え始めたビジネスの力で日本を変えたいという夢を実現する為に修行として、多くの業種業界の知見が得られるであろうコンサルティングの仕事に就くことにしました。また、日本に本社を置くファームであるため海外支店や海外プロジェクトに配属される可能性が高いことも一つの入社要因になりました。残念ながら後者の海外プロジェクトへの参加はチャンスがなく叶いませんでしたが、前者の希望はある程度叶うことができました。

順調な走りだし
私自身のパフォーマンスは同期(300人程度)の中ではTop5%内だったと自負しています。昇格スピードが比較的早く、人気の戦略部門へ転籍できたこと、難易度の高い仕事を任されていたこと(新卒3年目で大企業の部長・課長相手に文字通り毎日ファシリテーションをして議論していました。議論内容や資料に対して上長レビューを受けたことは殆どありませんでした)
先輩やクライアントからも「若いのにすごいね」「君はまるでマシーンだ」といったお褒め?のお言葉も多くいただいており、自己肯定感がかなり高い生活を送ってました。ちなみに高い評価を得ることができたのは「自分で勝てるフィールドを作り出したこと」「相手に認められる勘所が働いたこと」だと思っています。例えば、資料作成には圧倒的な自信があった為、誰よりも早く「いい資料」を作って提出したり、上長のこだわりポイントを見極め、そのポイントだけに力を注ぎ、どうでもいいことは他者に任せたりすることで効率的に仕事を進めてきました。

スタートアップ立ち上げメンバー
そんな折に、当時の所属長が新たなコンサルティングファームを立ち上げるとの話を聞きつけ、自らジョインを決意してスタートアップ設立メンバーとなりました。立ち上げだったこともあり、普段のクライアントプロジェクトだけではなく会社整備のためのタスクや新規事業創出のためのタスクなどかなり負担の多い忙しい生活を送っていましたが、前社に引き続き成果を上げ、高い評価を受けつつ徐々に規模拡大する会社の姿を目の当たりにしていたこもあり高い満足度を得ていました。

Next Stageへ(MBAへの道)

一方で、3つの点で私を次のStageに突き動かしました。
同期にライバルはいない、揺らぐ上司への尊敬心
端的に言えば尊敬できる人が社内にいなくなっていったことです。若手の中では誰よりも高い評価を受けていたため、ライバルと呼べる切磋琢磨する相手がいなかったこと、尊敬する先輩の退職と適当に業務をこなす決して尊敬でいない上長を目の当たりにした時「ここでは私は成長できない」と感じ始めました。もちろんMBA受験に際して推薦状を執筆頂いた方やお世話になっている方含めて数名は尊敬しておりますが、絶対数として「こんな人になりたい」と思える方が少なく感じました。

グローバルへの憧れの復活
元々持っていたグローバルへの憧れが一時失いつつも、徐々に膨れ上がりました。最も大きなきっかけは総合商社のプロジェクトに入った際に、仲良くさせてもらっていた課長のグローバルな働き方とフットワーク、マインドセットを見る中で「この人のようになりたい」と思い始めたことです。また、当時コロナ禍であまり外に出ていけなかったことも相まって自分と向き合う時間も増え、元々の思いを振り返ることになりました。

祖父sの死
1年間で立て続けに両祖父が亡くなりました。大工の祖父の私への最期の言葉は「頑張れよ」でした。シンプルながら力強い言葉でした。弱冠14歳から戦後の日本社会を大工という形で支え、60歳妻を亡くしたものの94歳まで一人暮らしで元気で、健康に力強く生きる方でした。そして、その1年後に他界したもう一方の祖父は戦後に生まれ、貧乏家族を支えるため高校卒業時に地元の企業に就職するものの、グローバルへの憧れを捨てきれずに働きながら、夜間大学に通い英語力を身につけ、貿易会社へ転職。当時戦争中のベトナムや迫害や謎の高熱に悩まされたアフリカ諸国での駐在など含めて私の記憶の限り50カ国以上を飛び回り、中小企業ではありましたが、社長そして会長にまで上り詰めた人でした。その祖父からは幼少期から「勉強しろ」「今できることを全力でやれ」と言われ続けていたまさに「信念の人」でした。彼の死に触れ、私は今、全力で生きているのか?を再考させられました。

私がやりたいこと・なりたい自分は何か
その様な中でやはり私自身は「沈みゆく日本を変えたい」そして、その為に「誰とでもどこでも成果を出せるグローバルリーダーになりたい」という思いが明確化し、その手段として海外MBAを志す様になりました、

最後の決め手は、夫婦それぞれの夢の実現

そんなタイミングで妻自身の夢であったオランダ駐在が決まりました。
可能性としては覚悟していましたが、いざ確定するとめでたい気持ちと同時に「俺どうしよ?」という悩みを抱えることになりました。今の時代は多様性の時代で駐在する妻に帯同する夫(駐夫?)という選択肢も増えくるだろうと頭では理解しつつも、まだ社会的な理解が追いつかない可能性もありますし、直近の仕事で若手最速でマネージャーになることを目標にし、実現性も高かったので、その環境を捨ててまでオランダに帯同すべきかどうかは大きな論点でした。
しかし、妻の夢を近くで応援したいという気持ちに加え、自分がこのタイミングで海外MBAに行けることができればぼんやりと抱えていた私の夢の一つも叶うし、欧州MBAだとオランダからも近いことを加味すると一石二鳥いや三鳥じゃないか?と考え始めて、帯同することに至りました。

本格的なMBA受験へ

そんなこんなで2023年1月頃から1年以内に欧州MBAに合格する目標を立て、勉強を開始、2023年5月からオランダ移住、紆余曲折、メンタル崩壊などを乗り越えて2024年3月にCambridge JudgeからOfferをもらえるに至りました(詳しくは合格体験記を参照)

まとめ

これまでの人生をざっと振り返りつつ自己紹介をしてきた訳ですが、私は環境に恵まれてきた運のいい人間だと思います。家族からは愛され、学生生活は同級生と仲良く楽しみながら過ごすことができました。多くの影響を与えてくれた両祖父や社会人になってから私に多くを期待してくれ難しいタスクを与えてくれたこと、そしてオランダに帯同し仕事を半ばやめつつ受験勉強に集中させてくれた妻など多くの支えがあったことは事実です。
しかし、一方で恵まれた環境の中でも、環境の変化で若干引っ込みがちになったこと、自己管理の甘さから部活で怪我になやまされたこと、謎の反抗心から受験勉強に打ち込めなかったことなど、環境を活かせなかったことも多々ありました。

なんで私が、Cambridgeに?」なんていうどこかの塾広告ではありませんが、確かにMBA界隈にいらっしゃる眩しいほど美しいほどの素晴らしい学歴・職歴を引っ提げた方と比較すると、平凡なキャリアを歩んできた私が世界的な名門大学から合格を頂けることができたのは、恵まれた環境信念をもって諦めなかった行動に他なりません。今後も挑戦をやめずに、更なる夢にむかっていきたいと思いますので、応援いただけると幸いです。

ここまで、読んでいただきありがとうございました。
今後もみなさまの参考になる様な記事が書ける様に精進したいと思います。


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