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スーパーヒーローの娘

  最初の告白は、一目惚れした私が無策でストレートに玉砕した。夫がクラスのなかでも無口なほうで、あまり感情を表に出すタイプではないことは知っていたけれど、はっきりと拒絶されたのはそれが初めてだった。私はじぶんがまるで夫の眼中になかったことを知り、ショックを受けた。私たちは単なる級友で、それ以上でもそれ以下でもなかった。

 三度目に告白したとき、やっと夫が正面から見つめてくれた気がした。夫は明らかに戸惑っていた。正直な人だったから、目を見ればすぐにわかった。迷っているわけではなくて、ただ言葉を選ぼうとしていた。ごめんとは言わずに、ありがとうと言った。それから、「誰とも付き合うつもりはないし、君を守ることはできない」と面と向かってそう言った。

 それを私が「じぶんのことくらい、じぶんで責任を持つ」と言って口説き落とした。私は懲りなかった。夫がぐらつき始めていることに気づいてもいた。相変わらず同じ調子で断られても、「まだ早かったか」と思うようになった。そして夫は陥落した。高校から大学まで、足かけ四年の月日がすぎていた。

 そこから結婚までがまた長かった。夫は絶対に結婚をしないと言い張った。「たのむから誰か他にいい人を見つけてくれ」とさえ付け加えた。大抵は聞き流していたけれど、いつまでたっても態度を改める気配がないのである日グーで殴ったらそれ以降言わなくなった。私としてはもうすっかり添い遂げる気でいたし、告白していたころからは想像もできないような夫の愛情を日々ひしひしと感じてもいたから、いいかげんここらではっきりさせておきたかった。結婚しないならしないでいい、人を試すような真似はやめてほしい、言っとくけど次はグーじゃ済まないからね、と私は迫った。

 そうしてやっと、夫は打ち明けた。じぶんには家業があるが継ぐ気はないこと、と言って実家と縁を切る気にはなれないこと、親は理解を示してくれてはいるけれど、本音ではまだ希望を抱いているだろうこと、しかし控えめに言ってそれはふつうの人にとって好ましい環境ではないこと、したがって結婚には付き合うことよりもはるかに大きな抵抗があること、いちばん避けたいのは子どもができることで、できればじぶんの人生に誰も巻きこみたくないこと、等々をぽつりぽつりと夜通しかけて話した。

 ここから、私たちにとってはかつてないほど激しい争いに発展した。私は私で全身全霊を捧げてもまだ信頼されないことが悔しくて悔しくてしかたなかったし、夫は夫で引き裂かれるような思いの始末に困り果てていた。私たちは引っ掻き、噛みつき、取っ組み合い、互いに髪をつかみながらごろごろと転げ回ったあげく、初めて本当のキスをした。この人の子どもがほしい、と私はおもった。

 それまでは夫の気持ちを尊重していたけれど、愛しいのと腹が立つのとで昂っていたこともあって、その晩私は営みの最中に夫を欺いた。しばらくしてその企みがうまくいったことがわかっても、後悔はしなかった。私は彼の子どもがほしかった。シングルマザーになる覚悟はできていた。彼の忘れ形見を抱いて別々の道を行くこと、それが私にできる最大の譲歩だった。

 だから夫が私の妊娠を知って笑いながら涙をぽろぽろこぼしたときは心の底から驚いた。望まれていないことをした自覚はあったし、何を言われても最後まで耐えようと身構えてもいた。受け入れられることはあっても、喜ばれるとは夢にもおもっていなかった。張りつめていた糸のぷつんと切れる音がして、私も泣いた。私たちは結婚した。

 私は夫の母がすでに鬼籍にあることを知った。裏を返せば、そんなことも知らずにいたのだった。写真でしかお目にかかったことのない私の義母は、災厄に狙われた息子の盾になってその短すぎる生涯を閉じた。息子である私の夫はまだ小学生だった。

「うちの家系はみんなそういう宿命を背負ってる」と夫は言った。「僕が誰かと一緒になったら、また同じことが繰り返されるかもしれない。そういうのはもう、断ち切ってしまいたかったんだ、じぶんの代で」

 その決意を、私が揺さぶった。遠ざけても遠ざけてもゴムのように戻ってくる私の存在によって、夫の心境には変化が芽生えた。母親のことを忘れたわけではないけれど、以前よりも宿命を前向きに受け止められそうな気がし始めた。そしてそれまで慎重に避けてきた可能性をすこしずつ、真剣に考えるようになった。そこへ私の報告が最後にドンと、突き飛ばすようにその背中を押した。かくして私たちの子は生まれ、夫は家業を継ぐことにした。「平気平気、なんとかなるって」と私は根拠もなく請け合った。

 思いがけないことに、そうなることを最も望んでいるようにおもわれた義父が、二つの理由で強硬に反対した。

 その必要はない、というのがまだ現役である義父の言い分だった。拒絶ではなく、叱るでもなく、むしろ諭すように、やさしく話した。「おれもな」と義父は夫に向かって言った。「矜持と嫌悪と、両方のきもちがある。矜持ったって今じゃぎりぎりのつっかえ棒みたいなもんだ。母さんが亡くなってからは嫌悪のほうが大きい。おれでさえそうなんだから、息子のおまえには酷だった。家に寄り付かなくなったのも当然だし、それで正しかったとおもってるよ。憂いのない、平穏な日々に優るものはない。頃合いというか、いい潮時じゃないか。なぜ眠りかけた子を起こそうとするんだ?」

 もうひとつの理由はそれよりもずっと現実的な忠告だった。これはこの道を長く歩いてきた先輩としての意見だけれども、と義父は前置きしてから続けた。「今から技のあれこれを身につけるには、おまえは薹が立ちすぎてる。率直に言っておれが賛成しない最大の理由がこれだ。瞬きより短い判断の遅れが命取りになることを考えると、そのリスクはおそらくおまえがおもうよりもずっと大きい。相手は常識の通用しない人外だってことを忘れるな」そう言って義父はシャツをめくり、脇腹にある大きな傷を見せた。「倒せばそれきり消え失せる雑魚はともかく、なかには何度息の根を止めても亡霊のように甦るやつもいる。おれの親父のときは百足男むかでおとことデビルスパイダーがそうだったらしいが、おれの場合はドクロ男爵だ。冷酷で頭が切れるうえに手段を選ばない。こいつがおまえを狙ったのは、おれが腹にこの傷を負った直後だった。超人的な腕力があると言っても怪人だってそうなんだからアドバンテージにはならないし、巨大化できると言っても相手のサイズに合わせてるだけだからそれ以上に何かが強化されることはない。最終的に結果を分けるのは、どうしたって技になる。基本的な技ならおれも教えてやれるが、時間がかかるのはそこからだ。一撃必殺のビームにしたっておれと親父ではぜんぜんちがう。じいさんのは見たことあるだろ?トランプが好きな人だったからカードを投げるみたいに放って相手を切り裂くのが得意だった。おれのは電撃を加えた鞭みたいなもんだ。それも完成したのは三十も半ばをすぎてからだった。昔も今も、跡継ぎとして考えたことは一度もない。おれはおまえに、その力を発揮する必要のないふつうの人生を歩んでほしいんだよ」

 夫は神妙な面持ちでそれを聞いていた。もちろん、私も聞いていた。どんな家業でも驚きはしない心づもりではいたけれど、こうして現実に生死の境を際どいところで切り抜けてきた人物の話には想像を超えるずしりとした重みがあった。「じぶんのことくらい、じぶんで責任を持つ」とかつて夫に啖呵を切った私は、改めて身のひきしまる思いがした。

 夫は引かなかった。もちろん、私も引かなかった。夫がすべてを受け入れて前に進むと決めた以上は、その背中を支えるのが私の果たすべき役どころだった。永遠かとおもわれるような長い沈黙のあと、夫は「守りたいものがあるんだ」とだけ言った。私は頷いた。義父は苦しげな表情で「そうか」と絞り出すように言った。私たちはこうして家族になった。

 最愛の夫が老いた義父よりも先に天に召された今となっては、彼がどのように受け継がれてきた技の数々を身につけ、不断の努力によって苦手を克服し、目にした誰もがほれぼれするような必殺技を放つに至ったか、そしてまたいかにして親子二代にわたるドクロ男爵との因縁にケリをつけたか、それらはすべて私の中でこの先も燦然と輝きつづける多くの甘やかな記憶とともに、きちんと整理ができていた。それでいて私には今なお、夫に守られているという実感があった。その実感は私に力を与えてくれた。私にできることはただひとつ、私たちの娘を全力で守ることだけだった。

 義父は名実ともに現役を退き、私たちを連れて長年暮らした土地を離れた。丁々発止のやり取りに明け暮れたかつての面影は今やどこにもない。それでも百戦錬磨だった義父が側で見守ってくれるのは私としても心強かった。

 娘には父が数多の怪人を震え上がらせたスーパーヒーローであることを伝えないと決めた。義父がそれを望んだし、夫もおそらくそう望むだろうという気がした。娘はおじいちゃん子としてすくすく育ち、今では中学生になった。

 もちろん娘は夫の特異体質を受け継いでいた。私は彼女がそれをくせっ毛や近視と同じささやかな個性としてなるべく自然に受け止められるよう、ひたすら心を砕きつづけた。それが夫からの、かけがえのない贈り物であることも、折にふれては言い添えてきた。

 おそらく娘には薄々気づいていることもあるはずだった。ただ夫によく似たやさしい気性で、浮かんでもおかしくない疑問を口にしたりはしなかった。私は私で、娘が気づいているらしいことに気づいていた。互いに何となく察していながら建前上は夫についてすべてを話せない、そのジレンマが私にはつらかった。

 私は枕元にある夫の写真を手に取った。吐き出したくなるときはいつもそうした。そうしてひとり変わらぬ笑顔を見つめながら最後にはいつも、やっぱいい男だわ、とやわらかな敗北感に顔を埋めるのだった。

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