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小説「転身」第十一話

第十一話

 回りの悪い鍵を三度ほど試すと手ごたえがあって、アパートのドアが軋みながら開いた。人の気配がないことを確認すると、鈴木は照明のスイッチをつけた。質素な部屋が浮かび上がる。中は片付いているというより、物が少ない。そんな印象だ。
「さて、やっこさんはどこに消えたんだ」
 部屋は荒らされた様子がない。拉致されたとは言い難い。むしろ、自分から行った可能性が高いだろうと鈴木は考えていた。
 鈴木は手がかりになりそうな物を順番に物色していく。壁掛けのカレンダーやテーブルの上のレシート、ゴミ箱に捨てられたメモなど。だが、武本の行き先の分かりそうなものは見つからなかった。
「連絡はスマートフォンてとこか。まいったな」
 鈴木は押し入れを開け、衣装ケースを確認してみた。重ねた下着の奥に貯金通帳が隠してある。中を見ると先月末に二十万円ほどの残高の記載があり、履歴から普段はコンビニでカードで引き出していると分かった。
(金を追ってみるか)
 鈴木は何か見える可能性に賭けてみた。逃亡で一番重要なのは金だと、鈴木は経験から知っている。金があれば身分証の偽造も含めて、取れる手段が広がる。逃亡犯と懲役上がりの連中の金回りがいいとは思えない。範囲は狭まるはずだった。
「あぁ、山根さん。俺だよ、俺。最後に引き出したとこの情報欲しくてさ。あぁ、番号は分かる」
 鈴木は電話を一本かけて、武本の口座番号を伝えた。もちろん相手は堅気の人間ではない。
「悪いね、支払いはいつもの方法で頼むよ」
 鈴木は電話を切ってコールバックを待った。
 まともにやれば金融機関は情報提示しないが、それはルールを守る組織という前提であればだ。人はバレないのであれば興味本位や金で行動を変える。どんなにセキュリティを固めても、個人の意思による行動まで防ぎきれない。
 十五分ほどでコールバックがあって、武本が引き出したと思われるコンビニが判明した。
「横浜駅のとこね。確か近くにホテル街があるなぁ。悪いね、助かったよ」
 武本は京急線で横浜駅へ出たらしい。そこで昨日の夕方に金を下ろしていた。近くに潜伏しているだろうと、鈴木は当たりをつけた。
 
 桜木町の南口を降りた鈴木は、安いホテル街のある区画へと足を向けた。穴に隠れた獲物をおびき出す方法はいくつかあるが、鈴木は一番手っ取り早い方法を取った。
「火事だ、火事!」
 鈴木は発煙筒をホテルとホテルの建物の隙間に投げ込み、それぞれのホテルの入り口から入って非常ベルを鳴らして回る。あとは慌てた客が着の身着のままで飛び出してくるのを待つだけだった。
 逃げてくるほとんどが不倫やら若い男女のカップルだが、一人で駅へ向かう人物がいるのを鈴木は見逃さなかった。
「武本さん、だよね」
 振り返った武本は観念したように頷いた。
「聞きたいことがあるんだ、分かってるよな」
 鈴木はそう言うと、逃がさないように武本の肘を掴んだ。

 
 護送車のスモークが貼られた窓ごしに流れる街はモノトーンの世界であり、Aは奇異な目でそれを見ていた。少し前までいたはずだが、けして溶け込むことがないった世界。
 怯え、隠れて虫けらのごとく陰に潜むことが唯一の方法だった。そんな存在に生きる意味はあったのかとさえ考える。
 出産の対応で付き添いとなった女性の刑務官が、Aの様子を見て声をかけた。
「初めては、不安よね。でも、産んでしまえばなんとかなるものよ」
 Aが陣痛で不安げな初産の妊婦に映るのだろう。刑務官は安心させようとAに微笑んだ。
「いまじゃ息子たちは、私のことなんか見向きもしないわ。でも、子どもなんてそれでいいのよ」
 目尻に刻まれた皴は、二人の子供を育てたと語る彼女の証なのだとAは思った。日々笑って、怒って、鬢の根元に白髪が混じった年になる。Aにはない未来だった。
 不意の胎動に、Aは遂にその時が来たと悟った。既に護送車は郊外にさしかかり、車の数もまばらになっていた。
「申し訳ありません」
 Aはそう言って頭を下げた。これから始まることに巻き込まざるをえないからだ。刑務官に罪はない。ただ、不運なだけだ。

 護送車の三台ほど後ろにいた黒塗りの4WD車が速度を上げて隣に並んだ。運転席にいるのは、安藤の配下だった武本だ。
 組織が解散し、金に困って首が回らない状態になっていた武本を雇ったのは男だった。雑用という名の裏仕事が、性に合っていたのかもしれない。武本はチンピラに似合わない忠誠心を見せ、男の信用を勝ち得ていた。
 それが分かる証として、逃亡計画の大半が武本によって準備されていた。事件後に安藤殺害で警察へ捕まることも想定し、男は逃亡から隠れ家、資金まで入念な計画を準備していた。逆にAには計画の概要しか知らされず、実行のタイミングも武本に一任されていたほどだ。
 武本はAと目線を合わせると、開始の合図代わりに大きく頷いた。急ハンドルを切って、護送車の前に回り込むと、車体を強引にぶつけた。
 衝突された護送車はあっけなく道路から大きく飛び出る。ガードレール沿いに車体をこすりつけ、火花を上げながら街路樹に突っ込んで停止した。
 出産のための護送ということもあり、護送車には警護の車がつかなかった。彼女が単独犯で組織関係がなかったことも影響していたかもしれない。無警戒さが生んだ緩みが、計画を後押ししていた。
 想定もしなかった襲撃に車内にいた刑務官は頭を打って、すぐには立ち上がれないでいた。Aは手錠ごと腕を振り上げると、刑務官の鎖骨を狙って叩きつけた。骨の砕ける音が振動として伝わってくる。
(殺すべき?)
 呻きながら床を転がる彼女を前にして、疑問がAの頭にもたげる。追跡を遅らせるなら目撃者はいないほうがいい。
 いつしかそんな考え方が当り前になっている自分自身を、Aは不思議に思わなくなっていた。だが、手が動かなかった。理由はわからない。案じてくれた刑務官への憐憫なのか、それとも自分であろうとするための反発だったのか。
 乾いた銃声が硬直を破った。武本が運転していた刑務官を撃ったのだと、Aは即座に理解する。ほどなく護送車のドアが開けられ、武本が得意げな顔を見せた。
「姐さん、行きましょう」
「その言い方やめて」
「なんで? 姐さんは姐さんでしょう」
 Aは呆れて力が抜けるのを感じた。
「この女はどうします?」
「急ぐ、時間がない」
 Aは刑務官への興味を失っていた。いまとなっては一人の人間の生死など小さいことに過ぎなかった。Aは武本と車に乗り込むと、急ぐように告げた。
「一時間もしないうちに生まれる」
「そんなことまで分かるなんて、女ってのはすごいもんだ」
 武本はそう言うと、アクセルを踏み込んだ。
「組が死体処理に使っていた倉庫ですが、分娩台も運び込んでますんで」
「帝王切開になるわ、むしろ手術台が必要かも」
「あぁ、それなら麻酔から手術道具まで何でも。そういう場所なんで。ただ……俺が切るんですかね?」
 散々悪事を働いてきたはずの武本がそんなことを言い出した、どうやら血は好きではないらしい。
「一人でやれる」
「さすが、姐さんだ」
「私を降ろしたら、金を持って逃げろ。警察もバカじゃない」
 武本はAの言葉に不満の色を浮かべたが、渋々と頷いた。彼なりにこれからのリスクも見えていたに違いない。Aを連れて警察の追跡を逃れるのは不可能に近かった。

「山道に入るんで、揺れますから」
 武本はハンドルを切ると、薄暗い山道へと入っていった。四駆なので未舗装も踏破できるが、自然が生み出す不規則な振動はAの身重の身体には応えた。
「あと、どれくらいで着く?」
「十五分てとこですかね」
 短いようで、長い時間だとAは思った。気を紛らすために話し始めたが、相手は誰でもよかった。むしろ自分自身へ聞かせたかった。
「パンドラの箱を知ってる?」
「いや、さすがの俺でもそれくらいは。災いがわんさか飛んで行ったとかなんとか」
「そうね……箱には不和、争い、疫病、悲嘆、欠乏、犯罪などあらゆる災厄が封じられていた。だけどエルピスは箱から出られなかった」
「知ってますよ、希望ってやつだ」
 自信ありげに答えた武本に、Aはゆっくりと首を振った。
「神々は呪いのために箱を贈った。だからそこには希望などなかったの。災厄さえも同じ場所にいることを恐れて我先にと逃げ出したほど」
 Aの言葉に呼応するかのように、陣痛は激しさを増していた。やがて血を含んだ生臭さと共に、破水した羊水が車のシートを汚した。誕生しようとする予兆に、Aは身体が震えた。
「姐さん、もうすぐなんで頑張ってください」
「本能とは生きることへの渇望と破壊への衝動」
「なんか、矛盾すね」
「死の欲動と呼ぶ学者もいた。原初に存在したそれは、人の誕生と共にあって意識の奥底に深く根を張っていた。私が生み出したものでないから、切り離すことができなかった」
「姐さん……大丈夫ですか?」
 Aは武本の言葉に耳を貸さず、うわ言の様に話し続けた。
「同時に二人以上は存在できない。私が別の人格である私と向き合うことはできる。でも、それは常に共にあって、私という存在を共有していた」
「も、もう少しですから」
「だから、私たちは与えた」
 武本は山間にある廃倉庫の前で車を停めた。過去にどれだけの人間が処理されたかは分からないが、今では偽装のために掲げられた看板もすっかり錆ついていた。
「姐さん、着きましたよ」
 Aの意識はすでに朦朧としており、武本は引きずるように彼女を運び込まなければならなかった。
 
 Aの意識が戻ったのは陣痛の激しい痛みのせいだった。下から突き上げる胎動が、身体の骨という骨を軋ませた。陣痛の間隔は段々と短くなり、内に留めておくことはもはや不可能だった。
 武本は言いつけを守ったのか、既に姿を消していた。ここからは一人でやらなければならない。
 Aは手術台に横たえた身体を手で支えて起き上がると、辺りを見回した。死体処理の場所だった倉庫には、無機質なコンクリートの空間に解剖用の機材が整然と並べられていた。
 命を吸い続けてきた場所には不似合いなオレンジ色の照明が輝いていた。光の暖かさが救いの様に見えるのはどこか皮肉だ。これから化け物を生む場所としてはふさわしいと、Aは自嘲した。
 時間はすでに迫っていた。傍らに置かれていた麻酔注射を掴むと、Aは告げた。
「あなたに名前をつける。それが光となり、闇を浮かび上がらせる」
 Aは呼吸を止め、脊椎を指で探りながら麻酔注射の針を差し込んだ。鋭い痛みが身体に走り、呼吸が一瞬のうちに奪われる。時計代わりに天井のパイプから落ちる水滴を数え、消えそうになる意識を保った。腹部から下の感覚がなくなるまで待たねばならなかったが、それが無限の様に感じられた。
「夜鳥(やと)」
まだ生まれぬ女の顔が笑った気がした。視覚ではなく、振動が脳に信号として伝わってくる。
「様々な獣たちが集った、古来の妖。あなたにぴったりね」
 Aは息も絶え絶えに言った。麻酔の効果は待てそうにない。Aは医療用のメスを震える手で掴んだ。突き動かしているのは使命感ではなく、恐怖だった。
 Aは臍下にメスを当てて、下へと割いていく。溢れだす血液を押しのけるように左手を入れ、内臓を掻き分けて子宮を探した。麻酔が効ききらないため、Aは自分の五臓が掴み掴まれる感覚を同時に味わうことになった。
 止血をしている時間がなく、腕を動かすたびに傷口から黒い血が流れ出る。しかし、その場所を見失うことはない。笑い続ける夜鳥が、大きく膨れ上がった子宮を揺らしていたからだ。
 この膜を隔てた向こうに夜鳥がいる。そう思うとAの身体に刻まれた怖れが、直接見ることを避けた。このまま子宮へメスを突き立てれば、終わるのではないかと考える。
 だが、すぐにその行為は誤りだと気づいた。突き入れたメスが、中から強力な力で掴まれて微動だにしなかったからだ。強引に折り曲げられ、鈍い音を立てて刃を失った柄が床に落下した。
「傍観者」
 Aの耳にあの声が響いた。隠れながら何度も聞かされた声だった。
「私はこの世界に生まれる。我が体、我が血。すべて私のものだ」
 夜鳥の宣言は喜色に溢れていた。二人は常に表と裏として存在した。様々な人格と身体を共有し、運命を共にするはずの鉄鎖の枷が切り離された瞬間だった。
「あなたを殺せることでもある」
 Aは精一杯の声を張り上げたが、震える唇から発せられたそれは悲鳴でしかなかった。
「……お前たちは罠にはめたつもりだろう。だが、違う。私が望んだのだ」
 メスが開けた穴からおもちゃのような小さな指が覗く。指がまるで児戯の紙遊びのように、簡単に子宮壁を割いた。
 隙間の奥から見開いた目は、Aが畏怖し続けたあの視線だった。そこには共有した時間も記憶も存在せず、ただ破壊の意思だけがあった。夜鳥にとってAは脱ぎ捨てるべき殻でしかなかった。
 蛹から蝶へと羽化するように、夜鳥は純粋なる死の欲動として誕生した。生きるための呼吸である産声ではなく、血を求めて叫ぶ咆哮は獲物の心臓を震えさせた。
 血を浴びた身体は赤く染まり、身体にまとわりつく羊膜はマントのように見える。幼子が愛らしさを持つかのごとく、夜鳥は見る者たちの脳裏にその禍々しさを植え付けた。もはや人と呼ぶにはかけ離れた生物だった。

 時間は夜鳥に成長を与え、Aにとって不利になることは明白だった。勝機は少なく、二度目はない。Aは手術用具のトレイに手を伸ばして、別のメスを掴もうとした。しかし、それより早く、臍の緒が鞭のようにしなって首に巻き付けられた。
「力のない赤子なら殺せると思ったのか? 言っただろう、意志こそが武器だと」
 夜鳥は猿猴の尾のように緒を操り、寸分の油断もなく首を絞り切ろうとしていた。強い締め付けに呼吸が止まり、無酸素になった脳が危険信号を上げる。Aは薄れゆく視界の中で、メスを掴み直して臍の緒を切り離した。
「傍観者よ、この死は決定だ」
「身体を持つことは便利なことばかりじゃないわ」
 Aはメスを振り回すが、夜鳥は緒を天井の配管に巻き付けて宙吊りとなって躱した。
「そうでもない。一息ごとに力が宿り、髪の毛一本に至るまで感覚が研ぎ澄まされる」
 夜鳥は誕生を楽しんでいた。大きく息を吸い込み、鼻腔からこの世界の空気、匂い、温度を味わう。身体を揺らして身体の内外の音を感知した。自らが存在し、それでもなお調和を保つこの世界を美しいとさえ思った。
「ついに手に入れた」
 夜鳥は緒を緩めると、自らの足で地に降り立った。弱弱しいはずの赤子の足は、すでに身体を支えるほどに成長していた。
「この勝負はあなたの負けで終わることが確定している」
 Aの言葉を夜鳥は笑った。
「爆薬のことを知らないと思ったか」
「……逃げ切れる自信があるようね」
 Aも夜鳥が知っていることには気づいていた。この施設を選ぶ時に、踏み込まれた際は組織の証拠を消すための爆薬が施設の壁や天井に埋め込まれていると男は語っていた。聞いている以上は共通の認識であることは避けられない。
「スイッチを押す暇など与えない」
「これは推測なんだけど、スイッチはもう入っていると思う。知らせれば、あなたに伝わる。だから武本だけに決まった時間で作動させるよう指示したはず」
 Aは話しながら状態を確認していた。腹部は開いたままであり、失血はかなりの量で動ける力は少なくなっていた。
「あの男が考えそうなことだ」
「そうね、人を陥れることに関してはどんな手段でも使う人だから」
「傍観者の墓標にしては立派だな」
 夜鳥の指先に殺意が込められたことに、Aは気づいた。喉を引き裂くつもりなのは明らかだった。
「すぐに終わる」
 夜鳥の言葉をAは無視した。
 深呼吸して瞳を閉じる。感覚を研ぎ澄まし、夜鳥が切り裂く空気の流れを感じようと神経を集中させた。頬に触れる風が一撃目の到来を告げた。Aは身体を捻って手術台から落下することで、致命傷を避けた。
「時間を延ばしたところで意味はない」
 夜鳥は横たわるAの身体に馬乗りになった。
「確定していると言ったのよ」
 Aは握りしめていたメスを突き立てようとするが、夜鳥にとっては最後の抵抗にしか映らなかった。
(愚かな行為だ)
 Aの瀕死の攻撃は届くはずもなかった。
 しかし、それは奇跡のごとく、夜鳥の左目に刺さる。夜鳥が避けるために動かした腕が錆ついたように固まり、動作はまるでスローモーションだった。
「これは……」
「モンタージュよ。あなたは強いから、気づかれないように組み立ててたの」
「なぜだ、力が失われていく……」
 溢れ続けたはずの力を失い、夜鳥はよろめいた。
「赤ん坊が眠って食べてを繰り返すのは、成長するために必要だから。その 小さな身体に保有できるエネルギーは少なく、燃費が悪い」
 夜鳥は半分になった視界で世界を見た。祝福を受けたはずの世界が奪われ、遠のいていくのを感じる。
「だけど、あなたは急激に成長させて使い切った。つまり、枯渇したの」
「私が、傍観者にはめられた……」
「もう一つ。あなたに自殺を防がれた後、栄養を絶ったの。生む前に死のうとしてね。偶然だけど、あなたは不足して生まれてきた」
 敗北という言葉の意味を、夜鳥は初めて知った。Aもまた強い意志を持って戦い、武器としていたことに気づかなかった。
「私が負ける……」
 戦いは終わるはずだった。しかし、運命は時として無情な悪戯をしかける。夜鳥へと振り下ろされるメスが届く前に、天井や壁に仕掛けられていた爆薬が轟音を立てて戦いの終わりを告げた。
 天井は崩れ去り、爆風は壁という壁を吹き飛ばした。醜悪な魂も無垢なる心も平等に奪い去ってきた場所も終わりを迎える。この戦いを全てを無かったものとして埋め尽くした。

第十二話

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