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小説「転身」第二話

第二話
 非常階段を駆け下りる音の一つ一つが大きく響く。実際には変化がなくても、Aにはそう聞こえていた。防犯カメラに映るのを恐れ、エレベーターでの移動は避けた。明確な逃亡プランがあった訳ではない。とにかくここを離れなくてはという焦りから、部屋を逃げ出しただけに過ぎない。
 遺体を隠すことや、発見を遅らせるためにドアの鍵をかけることさえも考えなかった。Aはこの場所に一秒でもいることを拒否したかっただけだ。マンションの八階から地上に辿り着くまでの時間が、Aには延々と続くかのように長く感じられる。
 非常口のドアを恐る恐る開けると、パトカーのサイレン音が大きく迫って聞こえてきた。見つからずに出ていくことができるのか? Aは不安になって爪を噛んだ。服は返り血で染まっており、事件の痕跡がありありと形になって浮かんでいた。
(もっと落ち着いて行動すべきだった……)
 Aは着替える心の余裕もなく飛び出したことを悔やんだ。せめてもと羽織った上着の前釦を止めることで、心を落ち着かせようとした。しかし、手についた乾いた血を見つけて、慌てて手を引っ込める。
 逃げる気持ちだけが先行し、何処へという目的地もない。晴れ渡った空の下を、這い回るように逃げる姿は虫けら同然とも言えた。殺人現場から逃げ出している焦りもあったが、一番の理由は経験不足だった。
 Aの人生は何もかも人任せだった。だから、Aには何故こんなとこになったのか、何故逃げているのかが分からないまま、焦燥だけが膨れ上がってパニックを起こしていた。頭痛はますます酷くなり、Aは立っているのも辛い状態になった。

「はーい、花ちゃん、こっち、こっち」
 それはこの場に似つかわしいとは言えない、鼻にかかった甘い声だった。Aは思わず身を固くして、物陰に身を潜める。自分にかけられているとは思わなかったが、マンションから出たところを見られたかもしれないと考えたからだ。
「はーなーちゃん、はやくー」
 Aが声の方向に振り返ると、佐藤工務店と書かれた白のバンに乗った若い女が笑顔で手を振っていた。女はショートの金髪に派手なピンクのツナギ作業服を着ていたが、逆に化粧気がないことで地味な印象に映る。
「ちょっとぉ、どこ行くの?」
 女は咥えていたキャンディを投げ捨てると、頬を膨らませて怒った様子で車を降りてきた。怯えるAの前に立つと、親しみある笑顔を浮かべた。
「はい、はい。こっち乗ってね。ピンチはあたしにおまかせー」
 女はバンのスライドドアを開けて、Aの背中を押して車内へと押し込もうとした。
「だ、誰なの?」
 Aは混乱を隠せないまま、思いついた言葉を口にするのが精一杯だった。
「うーん、冷たいんだから。わかってるくせにぃ」
 女は恥ずかしそうにモジモジと身体をくねらせた。
「悪いんだけど急いでるから」
 そう言って車から降りようとするAに、女は顔を近づけて頸にキスをした。愉悦の笑いを浮かべながら、女はAの香りを吸い込む。
「花ちゃんの匂い、好きぃ」
 女は肌の上に鼻をつけ、犬のように何度も嗅いだ。
「うーん、今日はちょっと違うかなぁ。あー、浮気したでしょ。ひどーい、あたしがいるのにぃ」
 女は軽く握った拳でAの胸を甘えるように叩いた。
(この女は何か知ってる? もしかして部屋を見られた?)
 Aは恐怖で固まることしかできなかった。
「あの、本当に知らないの。ごめんなさい」
 Aは拒絶するように女を両手で押し退けた。
「そういうこと? また、あれやらすんだ。もう、花ちゃんてSね」
 女は眉間に皺を作って真面目な顔をすると、ヒーローの変身ポーズのように手を平行に構えた。
「愛のために戦い、愛のために死す。愛の戦士、佐藤ハニー」
 ハニーと名乗った女はドヤ顔をAに向ける。Aは言葉が出てこず、左頬が痙攣するのが自分でも分かった。
「……ちょ、無反応やめよ!」
あまりの恥ずかしさにハニーは顔を真っ赤にし、手で顔を仰いだ。
「あの、本当に急いでるから」
 Aは苛立ちを隠さずに告げた。このおかしな女のペースに巻き込まれている場合ではないと思った。
「だから、呼び出したんでしょ?」
 ハニーは車のドアに書かれた会社のロゴを手で叩いた。
「まぁまぁ、あたしと愛車ちゃんにお任せあーれ」
「佐藤……工務店?」
 疑わしい顔をしたAに、ハニーは笑顔を向けて言った。
「エンジンも載せ換えちゃってるから、200は軽くいくかなぁ。本当は助手席に花ちゃんがいてぇ、デートなんかしたら最高なんだけどぉ」
 ハニーはAに車内の工具や木材の隙間に隠れるよう伝えると、その言葉とは反対にゆっくりと車を発進させた。

「じゃ、安全運転で出発進行〜ブッブー」
 ハニーは呑気に調子外れな鼻歌を歌いだす。Aは何か言い返したかったが、サイレンを鳴らしたパトカーとすれ違うのがわかったので口を閉じた。
「あん、警察のボーイたちったら先走っちゃってぇ。早くイキたくて仕方ないってこと? 嫌われちゃうぞ」
ハニーはすれ違うパトカーを見ても、楽しげな様子を隠そうとしなかった。
「佐藤さん、あの…….花ちゃんて、誰かと間違えてるとか」
 Aは覚えのない名前を聞かずにはいられなかった。ハニーは何度かAの顔を見たかと思うと、瞳に零れ落ちそうなほど涙を浮かべた。
「あたしを捨てる気なのね。無理だから、そんなの。愛を誓い合ったあたしたちは心も身体も一つなのぉ」
 ハニーはそこまで言うと、堪えきれずに吹き出した。
「もう、花ちゃんらしくないぞぉ。男ができたからって、あたしがそんなの気にしたことある?」
「男なんて」
 否定しながらも、Aは脳裏で死んでいた男の顔を思い浮かべた。彼はこれから始まる幸せを疑うこともなかったに違いない。それなのに殺してしまった。いや、殺されたのだとAは思い直した。
「きっと、あいつが」
 Aは考えを口にしたが、不安はかえって増すことになった。そんなことを誰が信じるのだろうか。証明できるものなど、何一つ持ってないというのに。Aの思い詰めた様子に、ハニーは眉を潜めた。
「花ちゃん、あたしがついてるってば」
 ハニーはバックミラーで尾行する車がないことを確認すると、通りから一本入った路地に車を停止させた。Aを安心させるかのように、笑顔でゆっくり振り返る。
「心配しないで。あたしの愛であなたを守るからっ……」
 顔を伏せたままのAに、ハニーは大袈裟なため息をついた。
「どうしちゃったのぉ?  なんだか、いつもの花ちゃんじゃない。黙れブスとか、消えろクズとか、キモイ死ねって言わないし」
 Aはハニーの言葉に反応して顔をあげた。
「知ってるの? あいつのこと」
「もちろん、恋人だもん」
 Aは前のめりになり、両手でハニーの肩を掴んだ。
「どうやったら会えるの?」
「こうしたらかな」
 ハニーは言い終わる前に、Aの背中に右腕を回すと力強く抱き寄せた。そのまま、顔を背けようとするAの下唇に噛みつく。血潮がAからハニーの頬へとゆっくり伝って落ちていった。
「やめて」
 Aがハニーの髪を掴んで離そうともがいたが、背中に回された彼女の腕はそうさせまいと締め上げてきた。苦痛に顔を歪ませるAを見て、ハニーの顔は興奮し上気していた。
「初めてだね、こんなのは。でも、こっちの花ちゃんも興奮しちゃう」
 彼女は左手でAの乳房を乱暴に掴むと、爪を立てた指を皮膚の下の骨にまで食い込ませた。Aの短い悲鳴が車内に響く。ハニーの眼差しは欲望の火で燃え上がっており、もう一度Aに唇を重ねると遠慮なく舌を割り入れてきた。それは愛撫というには程遠く、欲望のままに貪る行為でしかなかった。
(壊せ!)
 聞き覚えのある声が頭で響いた。Aは自分じゃないと思ったが、恐怖で思考が混乱していた。
(やめて、出ていって!)
 自分の意識とは無関係に両手がハニーの顔を掴み、親指は彼女の両眼に強く差しこまれた。ハニーは短い呻き声を上げ、両手で目を抑えた。Aは荒い息を整えながら、切れた唇を手で拭う。
「なによぅ、本気になるなんて」
 ハニーは半ベソをかきながら、口を尖らせた。
「ちょっとくらいご褒美くれたっていいじゃないよぉ。頑張ったのにぃ」
Aも逃してくれたハニーが敵までとは思わなかったが、正体は計りかねていた。
「ひどいよぉ、花ちゃん。目が見えなーい、運転できないよぉ」
 ハニーは甘えた声で抱きつこうとしたが、Aは身体を引いてかわした。
「何度も言うけど、私は花ちゃんなんて名前じゃないから。それにあいつだって」
 Aは言いかけて、上着のポケットに社員証を入れていたことを思い出した。
「ねぇ、これを見て。ほら、花なんて名前じゃ」
 Aが差し出した社員証を、ハニーは興味なさげに手で押し退けた。
「目が痛くて見れなーい、わかんなーい。あたしと花ちゃんはココロとココロでつながってるからいいのぉ」
「真面目に見て」
 Aは社員証をハニーの顔の前に突きつけた。
「いいよぉ、そんなの。二人の約束だもん。あたしは花ちゃんが作った死体を片付ける。そういうことでしょ」
 ショッピングにでも行くような、そんな軽いノリでハニーは答えた。
「どうして知ってるの?」
 Aは寒気を感じて身震いした。ハニーの言葉は、マンションの部屋に死体があったことを知っているという証拠だった。
「見てないはずよ」
 Aは否定したくて、思わず口に出した。
「うーん、どうでもよくない? 花ちゃんがお願いって言うからぁ、あたしは行くって感じだしぃ」
 ハニーの口ぶりは全く興味がない人間のそれだった。
「それよりさぁ、どこいこっか? 北海道とかもいいよねぇ。寒いかなー。南のほうでも全然いいしぃ」
 屈託のないハニーの笑顔に、Aは怖さを覚えた。彼女にとっては花ちゃんという存在が全てなのだった。善悪や危険よりも、命令されたことが優先するのだ。
「私は花子なんかじゃない。田畑美穂って名前があるの」
 Aは自分の名前を告げる。それはまるで自分自身を確認する作業にも感じられた。しかし、耳に響いた言葉は逆だ。まるでサイズの合わない服を無理矢理に着込んでいる。そんな風に思えてならなかった。
「あなたのことなんて知らないし。あの部屋にいた人は……」
 Aは言いかけて、途中で口を噤んだ。誰がそんな矛盾を信じるのだろうかと。殺人のあった部屋に住むのは田畑美穂であり、A自身が彼女であることを他人に説明しようとしていた。
(タバタミホ? わたし?)
 Aは昨日まで主人公ではなく、テレビの前でゲームの世界を眺めているだけの存在だった。これは自分の役割じゃないと思っても、今は逃げ込む場所さえ見えなかった。Aは頭痛がますますひどくなるのを感じた。
「やばっ! 花ちゃん、隠れて。早く」
 ハニーは言ったと同時に、手で乱暴にAの頭を押し下げた。同時に唸りのような短いサイレン音が早朝の街に響き渡る。Aは背筋に冷たいものが走るのを感じた。恐る恐るバックミラーを覗くと、いつの間にか後ろから近づいたパトカーが停車しようとしていた。

 制服姿の警察官はパトカーから降りると、真っ直ぐにこちらのバンに向かって歩いてきた。
「あれ、きちゃうんだぁ」
 ハニーは座席に深く凭れると、仮眠したフリで目を閉じて待った。
「早朝から申し訳ない。窓開けてもらえませんかね?」
 顔に穏やかな皺を刻んだ初老の警察官は、そう言って車のウィンドウを叩いた。ハニーは起こされたかのように軽く驚いて見せると、慌ててパワーウィンドウのスイッチを操作した。
「やーん、ここってもしかして停車禁止とかですかぁ?」
 ハニーは鼻にかかった甘えた声で応対した。
「いやいや、近くで事件があったもんでね。不審な女を見ませんでしたか?   そんな遠くには行ってないはずなんで、この近くを通ったかもしれない」
 警察官の口調はこの車に狙いをつけたものではなく、あくまでも情報集めのための質問のようだった。
「えー、あたしのことぉ? そりゃあ、可愛さはぁ、誰にも負けないけどぉ」
 ハニーは小さなバストを下から持ち上げて、ツナギの胸元を強調して警察官に見せた。
「面白いお嬢ちゃんだな。んー、今日はこの辺で工事か何かかい?」
「殿方のハートの工事なの。お巡りさんもどう?」
 警察官は困ったように咳払いをした。ハニーは警察官の反応の無さに引きつった笑顔で答えるしかなかった。
「……なーんてね。この裏のアパートの内装工事で、メゾン桜田ってとこなのぉ。大家さんから8時に来いって言われてぇ。ホント、あのクソババァは」
 警察官は既に興味を失ったようで、曖昧な相槌を打ちながらハニーの言葉を形式的にメモを取るだけだった。
「すまなかったね、時間取らせて」
「いーのよ、ダンディなお巡りさんに会えたもん。なんだったら、バンの中も見ていく? あたしがゆっくり案内しちゃおうかなぁ」
 ハニーはツナギの胸元のジッパーを下げると、下から誘うように警察官を見上げる。不要なハニーの行動に、Aは思わず彼女を睨みつけた。
「いやいや、そこまでには及ばんよ」
 ハニーの言葉に呆れたのか、警察官は苦笑いしながらも協力に対して感謝を述べた。そのまま踵を返してパトカーに戻っていく。
 緊張の余りに止めていた息を、Aはようやく吐き出すことができた。
「あん、いっちゃったぁ」
 ハニーは警察官の後ろ姿を見ながら、ため息をついた。
「何考えてるの」
 Aは腹立たしさのあまり、ハニーに詰め寄った。
「あーいう、硬いお尻が好きなのぉ。花ちゃんがやらせてくんないから、うずいちゃっ」
 ハニーは言いかけた言葉を止めると、バックミラーの角度を調整して後方を確認した。Aも嫌な予感がして振り返ると、スモークガラス越しに先程の警察官がこちらに戻ってくるのが見える。
「どうするの?」
「花ちゃん、得意じゃなぁい」
 ハニーはそう言うと、車両後部に積んであったロープを指す。それが何を意味するのかは、Aにもすぐに理解できた。窮地に追い込まれているのは事実だ。Aはロープを手に掴んだが震えは止まらなかった。
 戻ってきた警察官が窓越しにハニーへ声をかける。
「すまんね、何度も。うちの相棒が心配性で、車を見せてもらえとうるさくてね。いいかい?」
「うふっ、そんなこと言って。あたしに会いたかったんでしょ。いーわ、サービスしちゃう」
ハニーは差していたキーを引き抜くと、車から降りて反対側へ回った。
「うちのシャチョーが頭カチカチでぇ。物は大事にしろってぇ、うるさいのぉ。ドアもイマドキ鍵回すなんて、いつの時代って言うかぁ」
ハニーは車のドアにキーを差し込むと、固くなって回りにくい鍵穴に何度か挑戦してみせた。
「ほらね、固くて開かないんだもぉん。お巡りさんみたいなカチカチなら歓迎なんだけどぉ。あ、開いた」
 ハニーは難攻不落の金庫を開けたかのように、ウィンクして警察官にアピールした。
「お巡りさん、一緒に入ってあったまる? 広いのよ、仮眠もするんだから」
「悪いね、仕事中なんで」
警察官は無愛想に断ると、ドアを開けるように促した。
「もう、照れ屋さんなのね」
 ハニーはまるで儀式のように恭しくドアをゆっくりと開けていった。Aはわずか数十センチ前までに迫った運命を考えた。
 これは本当に夢ではないのだろうか。まだ続きを見ており、どこかでいつものルーティンが始まる。そんな期待が頭をグルグルと巡っていた。

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