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散歩の途中 1

塩豆

 港の端っこの通船桟橋があった場所にその店はあったのだが名前はなかった。
 さわさんというおばちゃんが一人でやっていたので「さわ」とみんな呼んでいたように思う。「おばちゃんの店」というものもいた。
 もう四十年ばかり前のことなので、うろ覚えながら見当をつけてあたりを歩いてみたが、船溜まりはすっかり埋め立てられて、大型スーパーの駐車場になっている。
 この港町に通船は欠かせない存在だった。船溜まりの一番奥に小さな桟橋が三本あって、ひっきりなしに艇が出入りした。小学生だったボクは、水澄ましのように小回りを効かせて港の突堤をかすめて通り抜けるのを眺めるのが好きだった。
 学校から帰るとカバンをさわさんの店の入り口に置いて、埠頭の係船柱に腰掛けた。夕日が島影にかかり、港が赤く染まるまで沖を見詰めていた。
 「父ちゃんはまだかねえ」。割烹着のさわさんがいつのまにか後ろに立っていた。
 父親はそのころ、十隻ばかりのはしけを差配をする親方のような仕事をしていた。港に外国からの大型貨物船が入ると、にわかに活気づいた。
 バラ鉄、スクラップ、木材だと一週間。バナナ、雑貨あれこれだと三、四日で作業が終わる。荷役人夫を船に送り込み、接岸できない船からの荷揚げは全てはしけに頼った。
 父親の艇はいつもはしけを引き連れるように船溜まりに戻ってきた。桟橋まで迎えにいくと真っ先にボクの頭をぐりぐりとヘッドロックのようにして「腹減ったか」と決まって聞いた。埃っぽい汗の臭いで、バラ鉄とバナナの荷下ろしの区別だけはついた。
 男たちは船を下りるときまってひとまずさわに寄った。丸椅子に座り、おばちゃんが注ぐコップ酒をグイと呑み干し、大鍋に突っ込んであるおでん串を勝手に取って食った。
 父ちゃんはきまって入り口の左隅の椅子に腰掛け、ボクを側に座らせた。男たちのああだこうだ、と繰り返す一日の仕事話を黙って聞いてただ頷いていた。
 父ちゃんの前にはコップになみなみと注がれた燗酒と塩豆の小皿がいつも置かれた。酒は夏場はぬるめで冬は湯気が立つほどの熱燗だった。
 ボクが塩豆をつまむと父ちゃんは「うまいか」とまた頭をなでた。本当は、すかすかして味気なかったが、「うん」と頷いた。
 コップ酒をぐいと飲み干すと父ちゃんは男たちを残して席を立った。さわさんはきまって横木戸から出てきて、ボクたちを見送った。父ちゃんは無愛想に振り向きもせずに家に向かった。
 いまになって思うのだが四十年前、父ちゃんはさわさんの何だったのだろう。ボクが親父の年齢になった時に、ふとさわさんのことを思い浮かべた。
 港から家までの道すがら父ちゃんはいつも黙って長い石段を上った。そのころ港の灯りを見下ろす石段の真ん中あたりにわが家はあって、ばあちゃんが夕飯の支度をして待っていた。
 母親はボクが二歳の時、家を出たらしい。ばあちゃんも親父も母親のことはひと言も話さなかった。記憶の中には手を引かれて石段を上る手のひらの感覚だけあるのだが、顔を見上げたら母親の顔だけはいつも見えなかった。
 ばあちゃんはボクが中学生のころ死んだ。
 親父が船を下りてまもなく、港の沖出しと埋め立てが進み、立派な外貿埠頭が完成した。荷揚げクレーンではしけも消えた。親父はボクが大学を出て、そのまま東京の出版社に勤めてしばらくしてぽっくり死んだ。
 定年後数年は港湾荷役会社に出入りしていたが、還暦を過ぎてからは石段の途中の家でぶらぶらしながら暮らしていた。港の灯りを見下ろす縁側に腰掛け、一升瓶を抱えるようにして死んでいるのを近所の人が見つけた。
 ボクはといえば五十を過ぎて出版社の編集の仕事から広告営業に配転となった。朝、会社に出ようとしたら体が重くなり、駅までの道がとてつもなく遠く感じられた。酒をいくら呑んでも酔えなくなり、明け方まで眠れない。心療内科で自律神経失調と診断された。
 妻のすすめもあり、ひとまず一緒に古里の港町に帰った。空き家になっている石段の途中の古い家の整理も気になっていた。港町のタウン誌の編集を手伝ってくれないか、との誘いに乗った。
 石段をさらに上りきると小さな墓地があり、そこからも海が見えた。岡から見下ろすと船溜まりのあったあたりの見当がついた。
 久し振りの親父の墓にたどりついた。すっかり荒れていると覚悟していたが、きれいに草が刈られ、まだ新しい寒菊が挿してあった。
 寒菊のそばには厚手のコップに酒が注がれ、小皿に塩豆がひと摘みのっていた。
 「さわさん」
 そういえば、さわさんのことはなにひとつ知らないことに気付いた。ボクはまだ白い割烹着のさわさんが、佇んでいるような気がしてあたりを見回した。
 港から吹き上げてくる風がしきりに枯れ木立を鳴らしていた。

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