「この世界の片隅に」を今更見た男

今更ながら「この世界の片隅に」をアマゾンプライムビデオで鑑賞した。
あらすじなどに関してはもう無数の方が述べられていると思うので省略し、自身が感じたことだけ書き残しておこう。

■「映画」というものに関して
久しぶりにぶっ通しで映画というものを見た。
このサブスクリプションで映像作品が自宅でバシバシ見られる時代だと作品を見てる最中でも電気ケトルが私を呼んだり不意に床の髪の毛が気になってコロコロをかけだしたりしてしまうタイプの集中力皆無系男子の私が食い入るように2時間見続けた。

とにかくテンポが早く、特に序盤は10年ほどの年月がトトトトーンと進んでいく。
それは主人公すずが周りの人や時代などに流されるように育っていった、そしてそれで良かった子ども時代を表しているようだった。
すずが嫁いでからこの映画の時間の進みはゆったりとなる。
周囲の環境や時代の流れは変わらずすずを巻き込み、流れ続けるがその中ですずは「自分は、どうしようか」ということを考えて、行動に移していく成長を感じた。

映画は、テレビ番組とは違う。
映画を、映画館で見るときはより顕著だろうが、観客は非常に考えながら、集中しながら見ている。

いま、この人はどういう気持ちなんだろうか。
どうしてあの人はあんなことをしたんだろうか。
なんでこのシーンがここに挿入されているんだろうか。

観客はそれに対する答えを全力で作品から探す。
映画が映し出す映像の中にQに対するAを、もしくはそれに近づくためのヒントを探す。
そしてそこで観客それぞれに考えて、解釈する。
それが映画の素晴らしさだと感じた。
見た人によってその作品の咀嚼の仕方が異なる。
同じ場面を見てある人は「ああ、この人は悲しんでいる」と感じ、またある人は「この表情は自殺しようとしているんじゃないか」と考え、「本当は心の中で笑っているのでは?」と感じる人もいるかもしれない。
もちろん制作者としては明確に解答が存在し、意図を込めた場面だとしてもそこには「自分がどう解釈するか」という空欄が用意されている。
そこに書き込んだ自分の解釈は、その後様々な他人の回答欄を眺め、制作者から正解を提示されたとしても、いつまでも胸に残るはずだ。

つまり、自分なりの解釈をする行間を与えてくれる映画というものが自分にとっては良い映画なのかなぁと改めて考えさせてくれた。
それは映画というものが、解釈の違いや齟齬を恐れない、むしろそこにこそ楽しみを見出すことのできるエンターテインメントだからこそではないだろうか。

(いつかつづきをかこう)

地方都市に住むにんげんです。 なにか思ったことなど、カタカタ書いておきます。