下手な落語を20年以上続けてるのは
私は年に数回、素人落語家として高座に上がっています。先日約1年ぶりに所属している社会人落語サークルの勉強会があり、一席させていただきました。
気がつけば20年以上続けています。なぜ続いているのか?出番の後の放心状態の時に楽屋でぼんやり考えました。
やめるきっかけがなかった
ひょんなことから落語をはじめたのは2000年1月。大学で英語を専攻していたうら若きOL(←死語)だったのですが、「ちょっと聴いたことある」程度の好き度合いで参加した「社会人落語講習会」の打ち上げに参加したのがドツボの始まりでした。
4回完結の講習会。応募要項には確か「20〜40代」と書いてあったのに、
「痛風で足が痛ぉて、正座できまへんねん」というおじさんや、
自己紹介で経歴を延々と話すおじさんや、
右向いて左向いてが出来へんおじさんや…。
四方八方おじさんまみれだったのですが、「この後、どう?」との誘いにうっかり打ち上げに行ってしまい、「講習会の卒業生で落語サークルやってるねんけど、どう?」との誘いにうっかり入会してしまい、今に至る、というわけです。
後に別のところで知り合った今の夫も「実は落語好きで」と入会し。
後に生まれた娘も赤ちゃんの頃から楽屋に連れて行き4歳で高座デビューし。
ますますやめるきっかけがなくなりました。
熱量が似た人のコミュニティ
「やめるきっかけがなかった」とはいえ、さすがに続けるのがストレスになるような環境であれば、続かなかったと思います。
私が所属している社会人落語サークルは、ひとことで言うと、非常に「ゆるい」。
「ちょっと落語好き」「聴くだけでなく、ちょっとやってみたい」程度の気持ちで参加している人も多いです。
上下関係もフラット。落語に詳しくとても上手い人も、私のような「まったく落語を知らない人よりは、少し知ってるかな」程度の全然上手くならない人も、機嫌良く参加していられます。
音楽などはもっと顕著なのかもしれませんが、コミュニティではいわゆる「方向性」や「熱量」が違うことで、活動が難しくなるケースもあると思います。
一緒にやっている人と「心地良くいられるか」は、続けるためのひとつのキーワードかも。
やっぱり、それが、好き
20年前 何を思って落語講習会に参加したのか、もはや忘れてしまったのですが、さすがに20年続いていることを思うと、やっぱり何かしら「落語って面白いなぁ」と思うところがあるのでしょう。
私はそこまで落語に詳しくないし、めっちゃ落語会に行くわけでもないし、暇さえあればYouTubeで観てるとかでもないのです。ホントに「ちょっと知ってる」程度。(ガチの落語ファンの方には怒られそうですが。まぁ素人なんで、ご容赦ください。)
とはいえ、「あぁ、この落語家さん、ええ感じやなぁ」とか「この話、うまいことできてるなぁ」とか感じることはあります。最近は台本を書くのも面白い。
そして、約1年ぶりに落語会をやって再認識したのですが、
20年近くやってると、やっぱり落語会が好きですね。
楽屋の匂いとか、太鼓の音とか、お客さんの顔とか、高座上がった時の何とも言えない緊張感とか。
「ハレの日」なんですかね、日常では味わえない。
キモノ着て、ピシッとするのも良いし。まぁネタはウケないのですが、それでもお客さん来てくれはるし、終わった後は心地良い疲れが残る。
なので、やっぱり、好きなことは、続きますね。
この先20年は、何が続くか
最近色々と新しいことをはじめてますが、それぞれどうやってどのくらい続いていくのかなぁ、と思います。
好きなことで、一緒に楽しみながらやっていける似た熱量の人とのコミュニティがあって、やめるきっかけがなければ、続くのかしら。
最近ちょっと方々手を広げすぎている感もあるのですが、好きなものだけ残っていくと思うし、これから「コミュニティ作り」もやっていきたいとも思っているので、
たまたま続いていることを振り返ると、今やってることや今後やろうとしてることにも生きるかな、と。
一般的には「継続」はなんとなく良いことのように考えられてます。が、飽き性の私が続けられていることは、「続けよう」と思って始めたわけでもやってきたわけでもなく、「気がついたら続いていたもの」がほとんど。
なので、これからを考えるとき、「続いてる理由」考えるのは、悪くないかもです。
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