ポエトリーリーディング

サッカーアジアカップを見て、特に山本昌邦解説員の様子を聞いていて思ったことを率直に書く。

あの人はサッカー解説という名の「ポエトリーリーディング」をしに現地まで行っているのだろうか?
確かに、細かい技術論など放送の送り手の側から要求されていないのかもしれない。それは仕方がない。別に恐らく山本解説員だけの問題では無いと思う。どの解説者でも少なからずそういう傾向はあったのかもしれない。

ただ、彼が一番残念なのは、そのポエトリーリーディングを如何にも「『解説』でござい」という調子で大真面目にやってしまうことにあると思う。それで説得力を持たせようとしているのかもしれないが、聞いているこっちはそんな抽象的な話じゃなくて、「今回の結果を受けて日本としてはどういう方向に向かうべきで、そのために必要なことは何だと思うか?」などということを話せば良いのに、二言目には「成長」だの「個の力」だのという、一見すると細かく定義づけられているように見えて、実はほとんど意味があるとは考えにくい表現を多用する。結局、何が言いたいのかまるでわからないという事態が発生している。

この種のポエトリーリーディング解説は、ある種、万人向けのスタイルかもしれない。

過去にこんなのを書いてるので、以前から漠然とこのように思ってはいたわけだ。

もちろん、そんなスタイルを一概に否定はしない。山本解説員も良かれと思ってあのように喋っているのだろう。あと、本人の思惑だけでなく、先述のように現場からの要求もあるのかもしれない。だから、それはそれで仕方のないことだ。

ただ、そうであったとしても、例えば、放送の前のブリーフィングなどの場で、「今大会では、こういうことをこんな風に喋りたい」とか、打ち合わせしないものなんだろうか?もしもそういう方針があったなら、「では、山本さんにはこういうイメージのことを伺いますので、それに見合った話をするように心掛けてください」などとなりやすいのではないか。
一例として、育成を主眼に置いて話すのなら、日本の育成はグラスルーツのレベルから行っていることを様々な角度から着目していって話してもらう、ということで良いと思う。当然、局側(可能ならば解説者自身が特に)が事前に多様な取材をしておく必要はあるだろうが、そうした踏み込みがあればこそ、より内容の濃い放送が望めるというものではないのか?

それを、解説者の知識量に任せてその場のフィーリングで出たとこ勝負、なんてことをやるから、あのような「ポエトリーリーディング」が行われてしまうのかもしれない。

たぶん、そんな事態が多発するのは、ひとえに送り手としての放送局の怠慢に尽きると思う。そういう「視聴者はそもそも簡易簡便なものしか求めていない」などという一方的な思い込みに起因する、知的な好奇心を刺激しないような制作姿勢だから、あんなポエトリーリーディング同然の解説術に相応の需要が生じてしまうのかもしれない。ひとえに解説者の話題量や知識量、あるいは解説技量云々の欠乏以上に、放送局からしてそんなものを求めていないから、そうなってしまうのだろう。


それはサッカー解説だけの問題では無いと思う。たぶん、どんなスポーツ、いや、どんな分野の事象の解説にも同じようなことが言えるのではないか。つまり、ことに日本の地上波テレビ放送局はほぼ総じて「ほんの上澄みだけ掬ってみせて、まるで全体像を見せているかのように錯覚を起こさせようとしている」のではないだろうか。

しかし、昨今のネット時代に於いては、それらの欺瞞も暴かれる機会が増えてきている。無論、それら全てが真実を語っているとは限らないし、テレビの方が本当のことを言っている場合もあるかもしれない。ただ、テレビ(ことによってはここにラジオ新聞雑誌なども含まれる)が無条件に信頼を置かれる類のメディアではなくなってきていることの証だと言えよう。
今の時代だからこそ、便利屋(と言っては語弊があるかもしれないが)としての汎用の解説よりも、ある程度専門性に寄った解説を求める人々もいる、ということだけは制作サイドも考慮に入れておくべきだろう。

基本的に他人様にどうこう、と偉そうに提示するような文章ではなく、「こいつ、馬鹿でぇ」と軽くお読みいただけるような文章を書き発表することを目指しております。それでもよろしければお願い致します。