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トレイルランニングをはじめるまで。

今ではいつの間にか走る事が生活の一部の時間になっていた。もちろん、がっつり走っているわけでもなく、ゆるゆるなのだが。

そもそも、ランニングに関しては遠ざけて40年ほど生きてきた。スポーツが嫌いなわけではない。実際に、小、中とサッカーを。

サッカーがプロ化、Jリーグの開幕も重なり、野球よりもサッカーが勢いを増していた時代だ。この時の将来の夢と言えば、サッカー選手。しかし、レギュラーにもなれないのにプロ選手になろうと思っていたのは、自分ながらに恥ずかしい。向上心はあったがセンスと努力がまったく欠けていたのだ。気持ちだけでは夢は叶えられないと思った時でもある。

高校、大学では、全くと言っていいほど運動もせず、青春らしい謳歌をすることもなく、ほとんど引きこもって目標もなく、なんとなく学業をそれなりに優先して過ごしていた。無難に職に就けたらそれでよかったと思っていたからだ。そもそも社会に出るにも不安でしかなかった。ずっと学生ならいいなと、与えられる環境に居心地が良くなっていた。ぬるい学生時代を過ごしていた。いったい、いつケツに火がついて走り出す時が来るのだろうか。つかないならつなかないなりにやり過ごそう。きっと、そういう性格なのだろう。

2004年初登山の三嶺。なんとなく部活感が。

大きな転機といえば大学時代お世話になっていた研究室の助教に誘われて始めた登山。最初はキツくて辛い思い出が蘇るものの、作っていただいた山小屋でのカレー、夜空を見上げれば普段なら見えない無数の星々や流星、早朝に見た雲海など自然にこれまで身を置くことをした事がなかった。非日常感も含め単純に感動を覚えた。自分の趣味となるきっかけで、影響力の大きな先輩との出会いだった。
とは言え、あーだこーだ言えるほど経験も知識も今もってない。のんびり登って時間がくるまでくつろいでのんびり山の中に身を置いて景色を眺めるだけでよかった。それでも未だに山のスキルなんてものは皆無。

いよいよ奨学金の返済と生活にゆとりを持たなければと社会に出たものの、転機をもたらしてくれた先輩の身に起きた不幸な出来事も相まって、しばらくは山も遠ざかっていた。
自分の身近に山でのそういう不幸事に遭遇したのを耳にしたときの絶望的空虚感たるや。あらためて自然の脅威を感じていた。

年の瀬は共に晩酌してます。

程なくして関東出身の職場の後輩が、
「登山いいですよね。九州の山連れてって下さいよ〜。」と声かけしてくれた事を機に、自分で閉ざしていた扉を開けて再び山はじめる事になった。

山頂でスマホゲームな後輩。

きっかけは、どこに潜んでいるのか分からない。数人でくじゅうや由布岳、祖母傾、大崩、遠くは大山、石鎚などへと機会を作って行くようになっていた。

試しの鎖場で心が折れた後輩とテンションあがる後輩。

そんな後輩からトレイルランニングってのがあるらしいですよって話になった事があったが、その時は全く想像もつかない話と思った。この時、いや、山走るとかありえないでしょ、という感覚。
楽しみ方はそれぞれで違っていい。しばらくソロ山行も含め走り出すよりものんびり景色を楽しんでカップ麺とか食って温泉入ってっていうのがルーティン化していった。

初2000m超なんとかとなんとかの殿堂登頂。
亡き先輩へ挨拶しに来た。槍で槍ポーズ。
残雪期の南八ヶ岳。

日本アルプスへも遠征して、改めて山の自然に魅了されていった。そうなると、もっといろんなところへ行きたいと思うようになっちゃいます。とは言え長期的な休みが取りにくい仕事環境に身を置かねばならなくなり、しばらくは九州の山を週末ふらっと癒されに行くように。

「のんびり自然を楽しむ。それがトレイルランニング。」と、た ろさん。

紅葉しているくじゅうで出会ったプロペラ帽のおぢさん。はじめる事になるきっかけを与えてくれた人だ。

「自分のペースで行けばいいし、時には歩いてもいいし、誰かと競争する必要も感じなくていいから、のんびり自然を楽しむ。」

自分への挑戦と登山の延長と思って、この翌年の小岱山ショート14kmに初エントリーすることになる。だが、走る事を真剣にやってこずに過ごしてきたから例え14kmでもまともに完走しきれる自信もなかった。

行けばほとんど店員の新城さんとマンツーマンだった。

この時、紹介してくれたA&Fの金曜ナイトラン。そこを訪れたのが始まりだ。

人との関わりが人との繋がりを拡げ、トレイルランナーという新たなコミュニティへと走り出す事になった。

ただただキツいランニングの始まりだった。

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