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“家庭教師”に世界中から途切れぬオファー、なぜ彼は「スモール」であることにこだわるのか

事業の大きさだけでは、はかれない価値もある。

彼らのビジネスはなぜ、注目されているのか。
気鋭の起業家たちにスポットライトを当てる連載「スモールビジネスという生き方」。

第1回は「旅する教育者」としてオンライン家庭教師サービスを運営する木村公紀さんの半世紀です。


「本当に申し訳ありません。講師の枠が足りず、お受けすることができません」

ブレてはいけない、と意を決し、メッセージを打つ。

だが、送信ボタンを押す直前には、どうしても後ろ髪をひかれるような気持ちになる。

うちの子にも勉強を教えてほしい――。

問い合わせフォームにはいつも、熱心な依頼が寄せられ続ける。

「オンライン家庭教師」に、距離の障壁はない。
大げさではなく、世界中から教えを求めるメッセージが届く。だが、すべての依頼に答えられるわけではない。泣く泣く、断りのメッセージを返すことも少なくない。

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木村公紀さんは、その瞬間に去来する思いを、こう説明する。

「本当はあらゆる依頼をお受けしたいとも思うんです。これだけたくさんの塾があり、家庭教師がいる中で、自分のことを信じて問い合わせをしてくださっているんですから」

ただ、とつぶやき、小さく首を振る。

「でも、というより、だからこそ、妥協はできない。そこで自分を曲げてしまったら、何のために会社をやめてまで、今の道を選んだのかという話になってしまいます」

強い光を宿した瞳で、決然と言う。

「僕はスモールビジネスの担い手であり続けたいんです。それが自分の理想を実現する、唯一の道だから」

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中学時代にあった「きっかけ」

オンライン家庭教師とは、パソコンを使ってオンライン授業を行う教育サービスだ。

ビデオ通話システム上で生徒とつながり、学習指導をする。
このビジネスに、木村さんは6年前から取り組んでいる。

コロナ禍も相まって、オンラインでのやり取りが一般的になったこともある。
ここのところ、依頼は引きを切らない。この事業のパイオニアとして「先見の明」を称えられることは多い。

だが木村さんは、そうした投機的な観点でこの事業を始めたわけではない。
「自分だからこそできること、と考えた時にこの形になりました」と振り返る。

起業のきっかけ。
その1つは、中学時代にあった。


腕がない子ども。赤子を抱いた子ども

フィリピン時代2

(フィリピン在住時の写真:木村さん提供)

空港の到着ロビーを出た瞬間、圧するような熱気に襲われた。
大きな銃を持った警備員が、所在なさげにうろついている。飛び交う言葉がタガログ語であったことは、後で知った。

木村さんは中学の3年間を、父の転勤先であるフィリピンで過ごした。
到着した日のことは、今もはっきりと覚えている。

空港から乗用車で街へと向かう。
信号待ち。後部座席の窓を、外から誰かにたたかれ、ぎょっとする。

年端もいかない子どもたちが、花束を差し出してくる。
片方の腕がない子ども。赤子を抱いた子ども。ストリートチルドレンだった。

信号が変わり、乗用車が動き出す。
木村さんはしばらく、口をきくこともできなかった。


国内の生徒に追いつけず…

当時、転勤族の子供たちはインターナショナルスクールではなく、現地の日本人学校で学ぶのが主流だった。
木村さんもそれにならった。日本の文科省のカリキュラムに沿って、授業が行われていて、国内と変わらない教育が受けられた。

ただ、すべてが同じ、というわけにはいかなかった。
国内なら、高校受験に備えて、放課後は塾に通う生徒が多い。フィリピンにはそうした選択肢がほとんどなかった。

「日本の大手予備校出身の方が、現地で個人経営の塾を開かれていて、僕もそこに入ったのですが…」

夏休みに一時帰国した際に、模擬試験などを受けると、すぐに分かった。
国内の生徒のレベルに、自分はまったく追いつけていない――。これでは帰国後、思うようなレベルの高校に入ることはできない。

背筋に冷たい汗がにじむのを感じた。


あの日の自分を救いたい


夏休み期間中は、一時帰国をした。
その間、大手学習塾の帰国子女コースで必死に勉強をした。

そして再びフィリピンに戻る直前には、書店で参考書や問題集を買いあさった。そうやって木村さんは、何とか国内の生徒たちのレベルに追いついていった。

高校入試では、名門と呼ばれるような私立高校に合格した。

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ただ一方で、こうも振り返る。

「フィリピンでは得難い人生経験もでき、視野が広がりました。結果としていい学校に入ることもできた。ただやはり、勉強のことでは苦労も不安もあったんですよね。本当に大変でした」

いつか、あの日の自分を救うような仕事ができたらいいのに。
まだ漠然とだったが、木村さんはそう考えるようになった。


自分にしかできないこと


大学に進学すると、木村さんはアルバイト先として、地元の補習塾を選んだ。
新卒で入社したのも、人材教育に取り組むベンチャー企業。学生支援の事業を扱う部署を希望し、配属をされた。

3年勤めたのちに転職。選んだのは、個別指導の塾を運営する企業だった。
1つの校舎を任され、講師の指導・育成で成果を上げた。そして2015年、満を持して独立。オンライン家庭教師の事業を立ち上げた。

2社での仕事を通して、教育業界でやっていく力をつけられた、という自信はあった。
だが、どういった形の業態をとるのがいいのか、というところは迷った。

「自分にしかできないことって何だろうと考えると、あまりないんですよね。それぞれの専門教科には、プロと呼ばれる講師の方がたくさんいるし」

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考えを巡らせる中で、ふと中学時代のことを思い出した。
フィリピン時代の自分と向き合うことこそ、まさに「自分にしかできないこと」なのではないか。

海外で過ごしている日本人向けに、オンラインで家庭教師サービスを提供する。
そんなアイデアが、一気に膨らんだ。

「オンラインであれば、相手の場所にも、自分の場所にも縛られない。生徒と教師、どちらの可能性も広がるのではないかと」

木村さんの事業「旅する教育者」はこうして生まれた。


自室でひとり、孤独な戦い


確かにそれは、自分だけができること、だった。
ただそれこそが、事業に難しさをもたらすことにもなった。

「少し早すぎた、というのはありますよね」

木村さんは苦笑いで、当時を振り返る。

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オンラインの家庭教師をやってみようと思う。
そう告げると、周囲は一様に「普通に塾をやればいいのに」と反応した。

コロナ禍の今でこそ、オンラインでのやり取りは一般的になった。
だが木村さんが事業を立ち上げた2015年当時は、まだそこまでの市民権は得ていなかった。

先んじて事業を始めて、成功の道筋を示してくれた人もいない。
誰も振り向いてくれない場所を、手探りで進む。それが事業のスタートだった。

「実家の一室をオフィスにして、まずはホームページづくりに取り掛かりました。できればそこを知ってもらうために、告知にお金をかけたいところですけど、それもできず…。なので、教育の役に立つような記事をひたすら書いていました」

検索にひっかかったり、バズったりすれば、サービスの認知につながる。
そう思って「まずは100本」を目指し、ひたすら記事を書いた。

だが、思うような反応は得られなかった。
オンラインで学習指導を受けられると思ってもいない人は、そうした検索自体をしない。そんなことにも、ほどなくして気づいた。

「塾というのは、新しく立ち上げて看板さえ掲げれば、誰かが気づいてくれてパンフレットを取りに来てくれる、みたいなところがあります。でもネットの世界にそんなものはない。苦労しました」


「スパムもうれしい」苦境の果てに

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何も得られないまま、1日が終わる。その繰り返しだった。
たまに来る反応には、飛び上がって喜んだ。だがそれらのほぼすべてが、スパムメールだった。

「がっかりしますよ。でもね、どこかでちょっとうれしいんですよ。スパムかよ…でもまあ、反応ないよりはいいな、みたいな」

そんな状態が、半年以上続いたという。

それでも心が折れなかったのはやはり、確信があったからだ。

「自分もフィリピンでそうだったんですけど、世界のいろんなところに困っている人はいるわけですよね。補習校に通うために片道100キロ、という人だっています。そこに届きさえすれば、というのはありました」

やがて、その日がやってきた。
フランス在住の日本人から、問い合わせフォームに連絡が来た。


非常に特殊で、難しい仕事

依頼主からは、かなりの長文が寄せられていた。
つまり、それだけ困っている、ということだった。

フランス在住のその生徒は、現地の高校になじめず不登校になっていた。
「日本の高校に編入をさせてあげたい」。保護者の願いは、切実だった。

ただでさえ、同じカリキュラムを受けている国内での編入よりも難しい。
加えて、編入試験までは3か月しかない。

不登校という状況の中で、毎日学習を繰り返すリズムを失っている可能性もあった。
独立後、最初に受けるにしては、非常に特殊で、難しい仕事だった。

それでも、木村さんは「受けさせていただきます」と言った。

困っている人の助けになれてこそ、自分のビジネスは世の中から求められる。
事業の存在意義を問われているような気がした。

その生徒が、他人のようには思えない、というのもあった。
異国で困っているのは、まさにあの日の自分のようだ。

そして、自信を失い、可能性を閉ざしてしまいそうになっているのも、見過ごせなかった。
教育の現場でみてきた、多くの子どもたちの姿に重なったからだ。


「できない」という色眼鏡

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大学時代。
補習塾のアルバイト講師をしているときに、教え子の中学生たちは何かというと、こう口走った。

「無理」
「できない」

木村さんは強い違和感を覚えた。

「みんな、なぜこんなに自分の可能性を閉ざしているんだろう」

教えていたのは、主に英語だった。
当時は中学1年生からカリキュラムに加わってくる教科。つまり、中学入学時はみながスタートラインで横一線。本来なら誰ができて、誰ができないなどということはない。

ましてや、英語はネイティブスピーカーなら、5歳児でも理解できているものなのだ。
なのに多くの生徒が「I am 〇〇」の次元から「無理」と言ってさじを投げてしまう。

初めてフィリピンに着いた時に会った、ストリートチルドレンのことを思い出した。
世の中には学校にも通えないような子どもたちだっている。それに比べたら、この生徒たちは可能性に恵まれているはずなのだ。

「できないに違いない、という色眼鏡で見ているに過ぎないんですよね。それを外すところから始めないと、いい学習はできない。そう感じました」


「ダメ」「バカ」と言われれば…

なぜ、そんな色眼鏡で見てしまうのか。
その理由は、徐々になんとなくわかってきた。たとえば、生徒を迎えに来た保護者はみな、何の気なしにこんなことを言う。

「うちの子はほんとダメなんで、よろしくお願いします」
「バカなんですけど、頑張らせますので」

子供たちにリサーチしてみると、自宅でも同じようなことを言われていた。
それぞれに自信を無くし、自分の可能性を低く見積もるようになっていく。

学校にも、自信を無くしてしまうきっかけは転がっている。
30~40人の生徒に対して、教員はひとり。目が届く相手には、限りがある。

優秀な生徒は自然と目をかけられる。学習に苦戦する生徒も、重点的にケアをされる。
問題はどちらでもない生徒だ。目をかけられず、励ましも成功体験もないままに、カリキュラムは進んでいく。そしていつしか、自信を失っていく。

彼らに自信を取り戻させるような教育がしたい。
時間をかけて寄り添い、「できない」という色眼鏡を外させたい。個別指導という形を志向したのは、そういう理由だった。


試験の結果と、意外な展開と

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日本からフランスへ。ネットを使った個別指導が始まった。
受験対策に取り掛かる前に、木村さんはまず、その生徒とじっくりと話をした。

彼が通っていたのは、パリ郊外の高級住宅地にある、非常にレベルの高い高校だった。
ただ、受け答えを聞くに、学習面でついていくのが難しかった、というわけではなさそうに思えた。

フランス人特有の自己主張の強さ。ディスカッション好きな性格。
そういったあたりに合わせるのが難しかった。そこに尽きるようだ。

大きな挫折に、生徒は打ちひしがれていた。
加えて、日本の高校への編入試験に合格するのは、時間を考えてもとても難しい。


だが、決して不可能ではない。そう思ってもらいたかった。

「残念ながら、絶対に受かる、と約束はできない。でも君には可能性があるし、僕も全力を尽くす。一緒に頑張ろう」

教える、教えられるの関係ではない。
我々は、同じ目標に向かう同志だ。そう確認しあった。

受験対策が始まった後も、語り合うことは欠かさなかった。
なぜ学習をするのか。日本の高校に編入することで、どうなりたいのか。

「リモート形式の授業だと、それこそ問題を解く時にカンニングだってできるわけですよね。やりたいならしてもいいと、僕は言います。でもそうしてまでしてマルをもらうことに、どういう意味があるのか、というのも問いかける。本当に目指すべきところが見えれば、生徒はカンニングなどせず、自主的に頑張るようになります」

学ぶことに意義を見出し、その生徒は前向きになった。

迎えた編入試験。
結果は不合格だった。だがその後、意外な展開があった。

生徒が「フランスの高校に通う」と言い出したのだ。


まぶしいほどの成長

再び登校できるようになったことに、フランスの高校の担任は驚いた。

「いったい、どんなカウンセラーの世話になったんだ?」
ぜひ教えてほしいと、生徒に請うまでしたという。

その生徒はそのまま、大学までフランスで学び切った。
その後、日本の企業に就職。日本の大学を卒業したわけではないので、一般的な就活のルートが使えなかったが、飛び込みのような形で履歴書を送って特別に採用された。

自分で道を切り開く。

そんな強さ、たくましさを、生徒は身につけていた。
まぶしく思えるまでの成長が、木村さんはうれしかった。


教える側にも「可能性」

単なる受験対策にとどまらない木村さんの学習指導は、徐々に評判になっていった。
海外に滞在している生徒に対象を絞っていたが、それでも2年もすると、自分ひとりでは教えきれないほど依頼が集まるようになった。

迷った末に、木村さんはひとりの講師と業務委託契約を結び、一緒に活動することにした。

もともと教員をしていたが、子育てのために退職した女性。
教育への情熱は今も変わらないが、時間が取れないため現場復帰をあきらめていた。
その点、オンライン家庭教師は自宅で学習指導をすることができる。
しかも、生徒がアメリカ在住なら、時差の関係で学校の放課後は日本の午前中にあたる。自分の子供を保育園や学校に送り出した後に、授業を持つことが可能になる。

「自分は職人肌なので、人に学習指導を任せるというのが苦手ではありました。ただ、これだけ自由がきいて、教える側の可能性も広げるやり方を、自分だけで抱え込んでしまうのはよくない。そう思って、講師を受け入れることにしました」

現在はこの女性も含め、4人の講師と業務委託契約を結ぶようになった。


あえて「スモールビジネス」。その理由とは

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ただ木村さんは、講師を増やすことについて、簡単には考えてはいない。
「誘惑はありますよ。指導方針をもっと機械的なものにしたり、質に目をつぶって講師を採用していけば、授業の枠はいくらでも増やせる。もっとたくさんの生徒を受け入れることもできる。事業ですから、そうやってもっともっと儲けようというのも、ひとつの考え方だとは思います」

でもね、と木村さんは語気を強める。

「それは僕がやりたいこと、理想としていることとは一致はしません。授業の質を最優先にしたいから、僕は独立しました」

大学時代のバイト先の学習塾でも、就職先の個別指導の塾でも、ずっと違和感を抱えていた。
受験生としての最適化をはかるような教育現場は、まるで工場のようだ、と。

やりたいことは、そうではなかった。
困っているひとりひとりと向き合って、できないをできるにする。学ぶ意義を感じさせる。そうすることで、人生の可能性を広げるような学習指導をしたい。ずっとそう思っていた。

独立して最初の案件が、成功体験になったこともある。
あのフランスの彼のように、意欲を持って学んでもらいたい。魅力的な人材に育ってほしい。

「そのためには、この事業はスモールビジネスでなければいけないんだと思います。講師ですから、結果にはコミットするのは当たり前だと思っています。ただそれと同時に、僕はプロセスにもコミットしていたい」

僕は誇りにかけて、スモールビジネスの担い手であり続ける。
昂然と胸を張って、木村さんは自分の信じた道を行く。

(文・塩畑大輔/写真・近藤 篤)

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※木村さんの自宅の仕事場に飾られている家族の写真と世界地図。「スモールビジネスを、世界の主役に。」

お読みいただき、ありがとうございました。

旅する教育者(https://tabisurukyouikusya.com/)木村公紀さんの物語でした。

「スモールビジネスを、世界の主役に。」

これはfreeeが掲げるミッションです。

その一つの試みとして、今回、スモールビジネスの方たちの生き方にスポットを当て、描き、スモールビジネスに取り組むことの良さを伝えられたら、そんなことを思い作った企画です。

お試しなので全2回の短期連載。次回は、明日7月9日更新。Jリーグ加盟を目指すサッカークラブ、つくばFCの石川慎之助代表を取り上げます。


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