見出し画像

推し活は孤独だが、ヲタ活は一生の仲間に【映画「あの頃。」】

原作も読んでいないのでどこまでが脚色があるのかについてもよくわからない。

映画をそのまま受け取ってみたうえで見ると羨ましくも思う反面、確かな疎外感の上で築き上げられた濃い関係性だったとも思える。

あらすじ
中学10年生の夏休みのような、そんな毎日が永遠に続くような気がしていた--大学院受験に失敗し、彼女なし、お金なし、地獄のようなバンド活動もうまくいかず、どん底の生活を送っていた劔(つるぎ)。ある日、松浦亜弥の「♡桃色片想い♡」のMVを見たことをきっかけに、劔は一気にハロー!プロジェクトのアイドルたちにドハマりし、オタ活にのめり込んでいく。

「アイドル好き」はあくまで最大公約数

ハロプロ全盛期は幼稚園から小学生だったのでリアルタイムな熱量はテレビ画面越しでしか自分は知らない。そんな自分でも朝から晩まで映されるあのムーブメントの密かな虜になっていたから、成人近くだったらやばかったかもしれない。

主人公は友人からもらった松浦亜弥のDVDをきっかけにハロオタへと入信。

そこからハロオタ同志によるサークルイベントに出席しオタク仲間に入っていく。

当時はリリイベも毎日のように行われ仕事終わりに会場に通うことがオタ活の習慣だったと聞くが、それもおそらく都会に住んでいた人に限った話だろう。

主人公らのような地方に住んでいるオタたちは仲間内で交流して語ることが公にしにくかった熱を共有できる大きな手段だったのかもしれない。

ああいった内輪のイベントまで発展して習慣化してるのは稀だろうが、「アイドル好き」という最大公約数をきっかけに居酒屋で会を開いて濃い関係性を築き上げる人たちも多かったらしい。

映画の彼らもハロプロ好きはあくまで共通項として集まり、人間性による理解の元イベントで仲間内の生活もコンテンツ化することでより強固なコミュニティを築いていくシーンも増えていく。

一般化していないオタ活にネットで共有する場も少ないなかで性善説の元リアルなばで利害なく関係性を築きやすい時代だったのかもしれない。

後半からはオタ活が一生の仲間として関係性が繋がっていったのかという話だった。

推し活が孤独である理由

疎外されたオタ活が現代は一般化して「推し活」に変化したのに、ほとんどの人が孤独に疲弊していくものに衰退したのは哀しい。

ネットが一般化してスマホも普及するようになった結果オタ活と言われていたような会場へ足を運ぶ必要性も、同じファンとリアルに交流する必要もなくなった。

全てがネットで完結できる商売やサービスが増え、それを買える「消費量」だけが推しへの愛とヒエラルキーに変わっていっている。

確かにネット上でのコミュニティは多いが推しへの大きなπにまつわるだけの関係性で完結するだけなので孤独感が増している人の方が増える。

どんなに消費だけしても推しとファンの上下関係は変わらないのである。

最近は消費者としての在り方が強いのか、サービスの完璧を求めたり身勝手な切り売りが当たり前になって人権の配慮もなくなってきた推し活も目立つ。

これでは仲間として繋がらなければ孤独の寂しさも埋まらず消費だけが増えるばかりだろう。

趣味だけでも繋がる自由度は増えたが肝心な人間性に繋がる付き合いは全体で見てもそもそも無視されてきてるのは最近非常に残念なところ。

推しとファンはほとんど上下関係にしか変わらないことは前提の上、オタ活時代のような推しはあくまで最大公約数として濃い仲間を築き上げる視点に立ち戻るときもきてる。

消費するだけの立場ではなく、彼らのようにそれも踏まえた自己発信の立場に回ることが大切。結局推し活だけでは仲間として繋がれない。

推しだけではなく他人にも親切にできる大人に回れる活動もできる人は減っている。

https://a.r10.to/hklCHA










この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?