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自分の体(感情)と魂(理性)を切り離す

 人間は弱く不安定な種だと思います。
だからこそ、自分を、【ホモサピエンス】を俯瞰視することが大切です。
SNSや移動手段の発展により見えることが多くなり、選択肢も世界も広がった。
世界が繋がる前は、俯瞰視せずとも知らないことを知らずに生きていけた。
今は、違う。
知らないことが多いんだということを知りすぎる。

 だから、思考の柔軟性を持たせる必要があります。
これからもずっとね。
柔軟性を持たせるためには、俯瞰視することが大事で、そのためには体(感情)と魂(理性)を切り離して考えることが大切な要素になってきます。

 自分の体と魂を切り離すというのは、何も考えずにその瞬間に感じた感情と、なぜそう感じたのか?という思考を理性でコントロールするということです。
以後、伝わりやすいように感理と表現します。

 私は、喜怒哀楽において、
『怒』という感情だけは、そのまま心に響かせるのではなく、必ず数秒無の感情を引っ張り出し、その後に何故『怒』という感情が出てきたのかを分析し、感情を表には出さず何故そう感じたのかを言葉にする。
『怒』は、何も生み出さずに人間の思考を止めさせ、そこから何も先に進まなくさせる感情だからです。
ちなみに、恐怖と怒は全く別物だと考えます。
恐怖は、生存本能であり発展を促す、人間にとった大切な反応だからです。

 感理を切り離すことによる良い面・悪い面も存在しています。
良い面は、
・人は脆弱な生き物なので、感情で感じたモノを理性で言語化・コントロールすることで自分や他者含めたヒト全般を俯瞰視することで、弱さを補うことができる。
何となく負の感情になって気持ちが病んだり、人との接し方がわからなくなったり、全体的にどう行動したら良いか分からなくなるということを、緩和してくれます。
とはいえ、最初から全てを噛み砕くと思考に負担がかかり疲れてしまうので、少しずつ慣れされることが大切です。

悪い面だと、
・コントロールしすぎると、他者に人らしくないと感じさせたり、冷たいと感じさせることもあります。
そこは、喜哀楽を上手くきちんと表現する必要はあります。

 私が感理が切り離すことを何故大切と考えるようになったのか?切り離しを行うようになったのには、人間関係が大きく関係しています。

私は元来、好奇心旺盛で人と関わることが大好きな性質を持っています。
しかし、人との関わりにおいて期待を過度に持ちすぎたり、自分の感じたものを他人に理解されない場面が何度もありました。
幼い頃は、説明力不足の可能性を考えていましたが、説明力が向上しても、興味や芸術的感性は伝わる人には伝わる。伝わらない人には伝わらないとハッキリと実感しました。

そうしているうちに、他者に何かを求めるのではなく人の内側に問いかけ自分なりの答えを出す。それも客観的視点も織り込んで。
そうしているうちに、感理を切り離すことが習慣となりました。
また、理解されなかった際に、他者から放たれた言葉は、良い言葉・悪い言葉を抜きにして、その他者の属性の人種からはそう見えるのかと俯瞰的な視点を獲得しました。
そうして、自分と自分の魂、自分と他人。という曖昧で不確実な境界を、認識しました。
それが、自己理解による自己の確立し、他人と自分と切り離して考えることにつながりました。

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ここからは、人との違いがあるなぁと感じたことを書き殴ります!

小学生のときに、他クラスの日直の仕事を代わりに行った際に、その他クラスの日直に自分でできるから大丈夫。ありがた迷惑と言われたことがありました。
その時に、人って自分が嬉しいことが他者は全てが嬉しいわけではないんだ。環境によって、変わるし、自分よがりなことは、良く無いんだ。と感じました。

他にも顔が大きいと言われたことが気になったり、
好きな服に対して嘲笑を受けたり、人って違うなぁ。何でそう思うんだろう〜とか、理解してもらいたいという受け身な感情でした。まぁ、繊細だったからこそそんなことを思うことが多かったんだなぁと今では必要な経験だったと感じています。

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