【厭】ショートショート小説『嬲』

きっかけは些細な口喧嘩だった。
もはや理由も思い出せない。
それよりも今は美紀自身が危機を感じ、それどころではなかった。

口喧嘩の最中、美紀の彼氏である優は突然、隣の部屋へドスドスと足音を立て向い、部屋へ籠もると、激しい音を出し始めたのだ。

優は怒ると物に当たるクセがあった。
それは町中でもそうだ。捨てられた空き缶やゴミ箱、時には電信柱を殴って怪我をする事もあった。

それでも美紀が付き合えてたのは、優の怒りの沸点がそれほど低くなかったからだ。
『いずれはこの悪癖も治るだろう』と美紀は思っていたし、まだ二十代前半という若さがその悠長な気持ちを持たせていた。

が、今は違う。

美紀は隣の部屋へ行った優を覗いたのだ。
激しい音はするものの『また何か物に当たっているのだろう』そう予測はしていたが、まさか当たっている対象が物ではないとは思っていなかった。

暗がりの中、優は人を殴っていた。

見た感じ、自分と同じ年頃の女性。
下着姿で身体は痣と切傷でボロボロになりながら、優に殴られ続けていた。

『すぐ止めなければ』と美紀は思ったが、優は止められるような剣幕では無かった。
眼の前で行われている暴挙と自身の情けなさから、美紀はその場から動けなくなった。

部屋の隅で恐怖に震えながら、美紀は思った。
『ここから逃げなくては』
隣室からは絶えず殴り蹴られる女性の音が聞こえる。

それでも美紀はなるべく音を立てないようにしながら自分の荷物をまとめ部屋を後にしようとした。
玄関まであと少しの所で、優の美紀に対する謝罪の声が聞こえた。
『ごめんよ、俺も言い過ぎた』
いや、そんな事より隣にいた女性は何者なのか、あんなことをして何故、平然としてられるのか。

倫理観の違いと不可解さに恐怖を覚え、美紀は声が聞こえた瞬間、声を無視して全力で優の部屋から飛び出した。

急いで外の階段からおり、マンションからも飛び出すと、警察が通りがかり、美紀の明らかな異常さに警察も驚き『大丈夫ですか?』と声を掛けられた。美紀は事の始終を話した。

すると、警察は『君、もしかして他県の人?』と言われた。
『そうですが…』と美紀が答えると、話しを全て聞いていた警察の口から『あまり他人の家庭に首を突っ込まない方がいいよ』と言って警察はその場から去った。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?