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銭湯に渇いている

子供の頃から銭湯が好きだった。

正確に言うと、僕の地元には所謂「銭湯」がなくて代わりに温泉がたくさんあった。

家から歩いていける距離にはかなり小規模ながらも温泉街があったし、市内から車で30分も走れば300〜400円くらいで温泉に入れた。

父親が温泉好きだったこともあって、妹と母も揃って家族で買い物に出かけた帰りなんかに温泉に入って帰ることもしばしばだった。

ある程度成長してくると、家族全員で温泉に行く機会はかなり減ったが、僕は休日に父についてよく行っていた。

その後進学し、地元を離れると温泉に行く機会はほとんどなくなったが、帰省するたびに行っていたし、何の因果か大学を卒業して数年は地元で働き実家に暮らしていたので、そこでもまた父と温泉に行く習慣は復活した。

しかし、父と温泉に行っても僕はそこまで会話をした記憶がない。

家族の中が悪いのではなく、むしろ良いほうだと思うが、僕も、父も家の中でそんなに頻繁に話すほうではなく、「温泉行くか?」「行く」という会話から始まり、湯船に浸かりながら僕がポツポツと最近あった出来事を話す程度だった。

それでも、僕は父と温泉に行く時間が好きだった。一緒に温泉に行き、湯船に浸かること自体がコミュニケーションだったのだ。

そんなこともあり、僕は温泉が好きだった。

その後、転職して地元を離れ上京した。

上京したのちも温泉は好きだったが、いかんせん都内では温泉に入るという行為は気軽にできるものではない。少なくとも僕の地元のように数百円で入れて、ふらっと行ける距離にあるものではないだろう。

そこで、銭湯にはまったかというと、そういうわけでもない。

僕が地元で行っていた温泉というのは複数の湯船や露店風呂があり、広々とした浴室、サウナもついているのが割と普通だった。それが普通という認識のため、率直に言えば町の銭湯は「しょぼく」思えていたのだ。

銭湯というのは公衆衛生法という法律の枠組みの中で存在する公衆施設で、値段も都道府県毎で決まっていて、その代わり水道代が安くなったりなどの控除措置がある。

それに対し、その法律の枠組みに当てはまらず、価格設定もできる代わりに優遇措置もないのが所謂スーパー銭湯だ。

スーパー銭湯は比較的施設が大きかったり、複数の湯船があり施設が充実していることが多いので、僕が抱いていた温泉のイメージはスーパー銭湯に近い。

しかし、スーパー銭湯は入浴料も少し高く、広い土地を確保するため、郊外などに立地している場合が多く、結局は気軽に行けなかった。

僕が銭湯を好きになったきっかけは高円寺の銭湯・小杉湯だ。

たまたま参加したトークイベントで小杉湯の人たちが登壇しており、イベントをしたり、浴室でライブをしたりと僕が銭湯に対して持っているイメージとかけはなれたことをやっている小杉湯に興味を持ち、イベントなどに通うようになった。

コミュニティや居場所としての小杉湯に興味を持ったのがきっかけだったが、通っていれば銭湯なのだから湯船にも浸かりたくなる。

イベントで仲良くなった人たちが「小杉湯のミルク風呂最高」「交互浴は神」などというので、一緒に入らせてもらった。

僕は水風呂が苦手で、サウナも興味がなかったのだが、勇気を出して小杉湯で水風呂に入り、熱いお湯と冷たい水を繰り返し入っていると(交互浴)、体の内側からじんわりと温かくなり、俗にいう「整う」状態も味わうことができた。ミルク風呂も柔らかな肌触りと、ほんのりとしたミルクの香りが心地よく、ずっと浸かっていたいくらい気持ちよかった。※小杉湯はサウナはないけど、水風呂はある。

その時には「銭湯はしょぼい」などと思っていた気持ちはなくなり、ただただ気持ちよく、幸福な時間を満喫した。湯船を上がった後も、温かさが残り、疲れも取れやすくよく眠れた。

味をしめた僕は小杉湯以外の銭湯やスーパー銭湯にも行くようになり、苦手だったサウナにも入れるようになった。

※スーパー銭湯といえば、大江戸温泉くらいしか知らなかったため、アクセスしづらいと思っていたが、探してみると中規模くらいの施設は都内でもそこそこあることがわかったので通っていた。

銭湯にはまりだすと、銭湯に行ったことのない友人を銭湯に誘い、銭湯に行ってから食事をすることもやってみた。

ご飯に行こう、とか飲みに行こうというのは結局はその人と話したいということなのだから、食事をするせいぜい1〜2時間だけでなく、銭湯に行けば更に1時間くらいは一緒に居られる時間が長いことに気がついたからだ。

ただ、僕はあまり口が達者な方ではないので、ずっと話しているわけではなく、ポツリポツリと話し、友達と無言でいる時間もある。普通に食事中などだと少し気まずいシーンかもしれないが、不思議と銭湯だと無言の時間も苦にならない。

それは、昔父と二人で温泉に行き、無言の時もありながら、ポツポツと話していたことを思い出す。銭湯という空間は無言もコミュニケーションになるのだ。一緒に湯船に浸かるという体験、それ自体がコミュニケーションなのだから。

一人で銭湯に行くのも好きだ。広い湯船で考え事に耽っていると、考えていることや悩んでいることが整理されて、頭の中がデフラグされていくような感覚がある。銭湯の後は、心も身体も少し軽くなってスッキリする。


当たり前だけど、今銭湯に気軽に行くべきではない。

家にお風呂がない人などは別だが、リフレッシュのために銭湯に行くことは控えるべきだ。

入浴剤を変えてみたり、熱いお湯と水シャワーで交互浴に近い感覚を味わおうと、家のお風呂で試行錯誤を繰り返しているが、やはりそれは銭湯で味わうものとは違う。

銭湯に行く、という行為は少しワクワクしながら電車に乗って、湯船に浸かり、風呂上りに飲み物を飲み、帰りに本屋に寄ったり、食事をしてから帰ることまでがセットだと思う。それは決して家にいるだけでは出来ない体験だ。

銭湯に行きたい。。僕は銭湯に飢えている、いや渇いている。

余談だが、僕は銭湯に入った後の飲み物は7割くらいの確率で缶のポカリスエットを飲む。ペットボトルではなく、キンキンに冷えた缶であることが重要だ。銭湯上がりに飲むポカリが一番美味しい気がする。

最近話題になったポカリスエットのCMで高校生が合唱する様子をそれぞれがスマホで撮影し、その動画を編集した・NEO合唱が話題になった。

この企画は元々、高校生たちが集まって合唱する予定だったものが撮影困難になり、急遽スマホで撮影するという形になったそうだ。

「渇きを力に変えてゆく」というコピーも元々のコンセプトだったらしい。

そのコピーが世間の状況が変わり、リモートで撮影するという形態に更にピタリはまったのだ。

銭湯に行くことの出来ない状況で、銭湯のために何か出来ないか考えた結果、銭湯への想いをnoteに綴る企画を思いついた。

もっと他にできることもあったかもしれないが、今の僕にはこれが精一杯だ。

このnoteや、#いつか銭湯に行く日 のnoteを読んで、少しでも銭湯に行ってみたいと思い、外出が普通にできるようになった日に銭湯に行く人が一人でもいれば嬉しい。

銭湯に行きたい、と思うからこそ今は行けない。

この渇きを前向きな原動力にしたい。

この渇きを抱えて、いつか銭湯に行った時はこの上なく幸福な時間になるだろう。

その後に飲むポカリスエットはきっと美味しい。


もしよかったら、外出自粛があけたら誰か一緒に銭湯に行きましょう。





もし良いと思ってお気持ちをいただけるとやる気がでます。コーヒー代にします。