悪魔解体: 壱

悪 魔 解 体

 はじめまして。帳一人と申します。三部作で構成される『悪魔解体』シリーズ、お楽しみ頂ければ、幸いです。よろしくお願いいたします。

 目次: 悪魔解体

 壱 - インザレイン
 一 - 信を交わす
 二 - 多弦楽器
 三 - 遠隔のマンティス
 四 - 薙ぎ風
 五 - デヴィルハント
 続 - 御もとに詣づ


壱 - インザレイン

 だから、東京はいやだって言ったのに。

 四宮 春という、その高校生は、夏先の雨に打たれながら独り言ちていた。今朝の天気予報も、リビングでちらと見てこそいたが、しかしどうして、自分の運を試そうと、あえて玄関横の傘に触れることもなく、学校へと歩を進めた先の自分を呪う。ただ、こうして苛立ちを覚えているのは、そんな些事にすら苛立ちを覚えている自分の幼さと、なにか嫌なことが起きる度、それらの原因が転勤族である自身の家庭環境だと託けている仕様のない青さとにあるのだとは、自覚していた。丁寧に舗装されている都会のコンクリートは、雨を吸うこともなく、弾いていくばかりで、その跳ね返りは学校指定のローファーへとしがみ付いてくる。それに目をやり、眉間に皺を寄せながら、幾らかその地に慣れた頃、去っていった日々に、頭の中を過らせる。

 「…冬人め」


 東京は、なんと言おうか、少し暗い。雰囲気とは、いつの間にやら、煙に巻くには斯くも便利な言葉と成った。煌々と光が躍るのは、地の上へと生え撒かれたビルとかいう豆腐の周りくらいで、いざ地の下へと潜ろうものなら、こちらの気分が滅入るくらいに空気が死んでいる。騒々しいことこの上なかったが、比べて大阪はマシだった。


 春はあまり自転車を好まない。わざわざ片道四〇分もかけ、徒歩で通学する理由がそれだった。ダイエットも兼ねてと、周りに指摘される度に答えてこそいるのだが、自転車を好まない本質はそこにはない。だが、今日ばかりは、その宙ぶらりな拘りを恨むことになる。


バン


 と、文字に起こすならばこの二文字の他になく、しかしその場においては、どれほどの文字数を重ねても覆いきれない衝撃が、春の帰路、眼前に飛び込んできた。少しだけ上半身から、赤一色ともいえない体液が飛び出し、雨に混ざり行く。疎らではあるが、整えられた針葉樹と豆腐が並ぶほっそりと敷かれた歩道に複数人。落ちてきた命一つ。それぞれが、それぞれの瞬間を喉に通した後、惨劇に対する惜しみない絶叫が贈られた。

 一拍の背に追い着いた、ハイトーンのアンサンブル。物心がつく頃には、なにかと斜に構えて生きてきた春にとっても、はじめての体験であった。身体は信号を失い、動かず、動こうともせず、必死に冷静になろうとする頭の中だけが忙しい。今まで見てきた血よりも、程悪くニチャリと。くわえて少し黒みを帯びた体液が。パクリと割れた頭蓋の奥部から、ブヨブヨとした脳漿の隙間を縫っては白黒斑のコンクリートへと泳いでゆく。首の皮一枚という例えの通り、首と身体が、幼子の手ほどの長さを湛える柔肌をして、伸びに伸び切っては辛うじて繋がっていた。その光景を、ただただ、見つめ感じる記録装置と化した春。肌理の細かい長髪の黒を掻き分け、赤く滲んだ白い頸骨が空を衝いていた。未だ、彼女の手先が不安定にぴくぴくと遊んでいる。

 即死した人の目って、やっぱ半開きなのか。そういえば、ネットか何かで「強く打つ」って言うの、身体から千切れてる状態を指す隠語だって聞いたな。”これ”はどっちだ?

 衝撃のストロボの合間にはそんな、半齧りの知識が跳ね回っていた。目が慣れて数秒が経った頃合いには、小雨を含み、重さを増してゆく指定の制服に対し、若干の鬱陶しさを抱くくらいには落ち着きを取り戻しつつあった。


 と。


 そんな春の右横を、整えられたスーツの男性が通り過ぎた。かなりの長身である。見張る歩幅を保ちつつ、だが確かに、この男性は事の「結果」へと顔を傾けた。その筈だが、その歩の速さは何も変わることなく、春を含めたオーディエンスを置いていくばかりであった。丁寧に、後から追い着いてきた群衆の間をすり抜けながら。あまりの違和感に、というよりも、何かしらの熱を帯びたざわつきを覚えた春は、ほんの僅かに足元の水溜りを強く踏み付けながら、男性の背に追い付き、少し震えた声を掛けた。

 「あの」

 ゆっくりと、その男性が振り返る。傘の色からシャツ、ベルトに靴まで、全身が真っ黒に整えられていたが、傘を持つその手、肌は病人かと思うばかりに真っ白であった。顔はまだ、傘に隠れて見えない。

 「はい」

 ひどく落ち着き払った低い声が、春の耳に染みる。

 「あの、…えと。人が、飛び降りてきて、目の前で」

 息こそ捲いたものの、春は自分でも何を伝えたいのかが分からなくなっていた。何故、この男性に駆け寄ったのだろう。男性が少しだけ唇の糸を緩ませ、口を開く。

 「そうみたいですね、残念なことです」

 この返答で、春は、この男性に抱いたとごりを自分の中でようやく咀嚼し、喉に通すことができた。

 「なんとも思わないんですか?」

 この男、顔を伏せての見ぬ振りや、鼻で笑うなどするならまだしも、一瞥をくれた後に一切の反応も示さなかったのだ。春にはそれが、とても悍ましいものに思えた。男は、左手を広げ、弁明する。

 「とんでもない、残念だとは思っています」

 「その割に素知らぬ顔をして通り過ぎたじゃないですか」

 勢いで突っかかってしまったのだ、引き下がれず、即座に食いつく春。ふむ、と言わんばかりに男性は両の肩で察しの態度を示す。

 「そんなことはありませんよ。ちらと見て、救急車を既に呼んでおられる方がいましたので、お役に立てることはないかと思いまして」

 まあ、と、男性は続ける。

 「見た限り、どうにもならないとは思いますが」

 「で、通り過ぎたんですか? こんな異常な――」


 しかし、この問答は、どこからともなく聞こえてきた、春にとって全く聞き覚えのない男性の声で遮られた。隣にいるのかと思う程の、否、はじめから頭の中に居たかのような声が、ひどく澄んで聞こえる。一応の確認動作として、見渡すことこそするものの、そのような言葉を発する者どころか、周りに"これ"へと反応を示す者すらいなかった。主役はまだ現役のようである。驚きこそした春だったが、その声への嫌悪感は、不思議と反応として現れなかった。


 「聞いたか、エドゥ=バル、エドゥ=バルよ。苦脳を抱え、身を投げた人間を見て、人間が居て、その光景を他の人間が異常という。それはそうだな、エドゥ=バル、エドゥ=バルよ。他の者からすれば、確かにそれは己が常と異なるのだから。だが、それのどこがおかしいというのか。エドゥ=バルよ、お前にとって、何が異常で、何がそうでない? 否、人間にとっては? 否、人間が好む、異常とも異なる、”おかしくないもの”とは?」


 ぎょっと、唐突に辺りを見渡す春に対し、男性は一瞬、ピタリと動きを止めたが、即座に次の言葉で春へと切り返す。

 「彼らを見てください」

 彼が手で示す方向を見やると、少し離れた針葉樹の陰から、春と年齢は同じくらいだろう若い男性の二人組が、スマートフォンを"主役"に向けては、笑いながらヒソヒソと話していた。春の首に筋が浮く。男は息を小さく吐き、言葉を続ける。

 「普通や異常、というのは、その時々で、形をころころと変えるものです。さておき、私の態度が気に障ったのなら謝ります」

 すみません、と、深々と頭を下げた後。ぬっと春と目を合わせたその男性の顔つきは、形容し難いものだった。醜いわけでなく、むしろ端正な顔立ちながら、その表情は、おおよそ春の身の周りにいる”人間がしていない”ものであった。その違和感を取り上げるのであれば、例外的に当てはまる人間が身近に居ないこともないのだが、それともまた異なる顔つきである。少し、悲しそう、なのだろうか。あえて例えるならば。

 男性は返答を少しばかり待っていたようだが、春は言葉が出てこなかった。先の声と言い、否、もっと言えば飛び降り自殺の件から、何もかも、非日常が過ぎる。冷静と言う二文字を、都度追い続ける春。

 「…それでは失礼します。夏風邪も馬鹿には出来ないものです、お気をつけて」

 「…はい」

 言いたいことばかりが喉元に積もる春が、漸く絞り出した言葉に対し、先程の、何処からともなく聞こえてきた男性のものとはまた異なる声が、今一度春の耳へと飛び込んできた。比べて耐性が無意識化で付いているのだろうか、春は声の主へと、自然と、眼の糸を手繰り寄せていた。そこに在るのは、春から数メートル離れた先、ぽつんと落ち、踏み潰された煙草の箱だった。其処が出所なのかはまだ判然としないが、春はひしゃげた箱へと目を細める。

 「エドゥ=バル、エドゥ=バルよ。可能性を決して棄てぬ、糸を方々へと散らす蜘蛛よ。網の上で鎮座することは神の得意とするところだが、その先に在るものが何かも分からぬまま歩むことは、神には叶わぬ。逡巡せよ、エドゥ=バル、反芻せよ、エドゥ=バル。些細な綻びは、時に大きな後悔へと繋がる。エドゥ=バル、エドゥ=バルよ。世界に足音がついてきたのではないか? 世界とはお前だ、エドゥ=バル。息をしているか?」

 既に春を背にし、歩み始めていた男性が、ここで、踵を唐突に返した。首をゆらりと傾げながらも、確りと春の目を見つめ、男性は表情をまるで変えずに、ひとつの質問をした。その澄んだ眼から、春は反射的に目を逸らす。


 「”聞こえていたのですか?”」


 「……ああ、はい」

 春がそう返した途端、男性の顔がくしゃっと、まるで小さな子供のような笑顔を湛えた。そして次の言の葉を続ける、心の底から嬉しそうに。

 「これはこれは! いやはや、いやはや! なるほど、楽しくなってきましたね!」

 「エドゥ=バル、エドゥ=バルよ。斯くも人が考えなしに吐き出すような言葉を紡ぐこと勿れ。醜く在ることもひとつの興だが、幼く在ることは最早肝要ではないのだ。エドゥ=バル、エドゥ=バルよ。宥めを欲するのは、いつも人だけなのだ。可能性と言う名の雛よ、お前は人か?」

 淡々と説教をするのは、件の頸骨だった。不意に、思い返したかのように、春の喉へと、昼間に消化過程に入った残渣が熱を帯びて戻ってくる。咄嗟に、右手で口を塞ぐ。この吐き気は、僅かながら、目の前でにこにこと笑う真っ黒な男に因るものもあるのだと、涙を朧に浮かべながら春は理解を含め飲み込む。

 「…何が何だか」

 「奇遇ですね、私もですよ! さて、お嬢さん。今からお時間はございますか?」


 春は、自殺体を横目に、息を整える。同時にすっと黒色が頭上に差し、雨が遮られた。今、目の前の黒く包まれた男性を中心とした事態を、まるで読み込めないままに、いつの間にか春は、世間でいうところの”普通”ではなくなってしまった。そう自覚を抱いた頃には、駆け付けていた救急車のサイレンが、東京のある一画を包んでいた。

 雨の勢いは何も変わらず、意味を持たずに降り続ける。だから、無機質な東京はいやなのだ。


“…神も悪魔も、人間が感応しない限り、活きて輝きを放つことはない。人間より後手に回るこれらの存在が、この世界を創ったのだ。”

                 ――外上門人、「鵺降」より抜粋


悪魔解体: 一(上)


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