離宮繋ぎ: 弐

弐 - ウェアリングザスペリア

 ⇒悪魔解体. より


 
 つくばを出るころはまだ、晴れていたのだが。
 
 電車に揺られる度、確かな存在感を放つ右手の鞄。其の中にある、この幼子ほどの重みを孕んだ資料だけに目を通せば。今まで姥棄てられたほどの事例検討群とも、全く類似していない。稀代の殺人犯の思考や心理を読み解くことすら、戯れと称して久しい。と言うのに、この秋ばかりは、年々「異常」と呼ばれ続ける辟易とした気象変化を超えた案件が郷田へと飛び込んできたのだった。
 
 四宮冬人、四十三歳。殺害合計人数、二百七十九。…有り得るのだろうか。幾度も、演技性の伴う人格形成によって、肥大化させた伽話を宣う犯罪者も少なからず相対してきた。くわえてこの先進国である日本においては、犯罪心理学という観点に絞らずとも、時代の変遷、時流の受容を経て捜査技術の一切が如実に発展している。その”いま”、それを成せる人間がいるというのか。郷田は、東京拘置所へと、カッと、未だ衰えぬ、否、いつもより意識を伴って、足音を鳴らし踏み入れる。奇しくもこの境遇は、例の映画の設定に酷似しており、それ故にこの境遇が、如何に現実離れしているかを物語っていた。
 
此処に足を運ぶのも、久々である。ビジネスシューズの踵から反射する、虚ろな木霊とは裏腹に、この廊下の様相はいつまでも死を感じさせないものでいた。とりあえず、総合受付の待合の端に、その実的重量よりも淀んだ澱のような鞄を、足元の硬い灰色へと預ける郷田。暦を感じさせる木版で囲われた受付パネル、その奥で何れの時も誰か一人は立ち、往来する事務室は、心地良い時代の錯誤と成って郷田の臓腑を満たす。内線、だろうか、あのビープ音。自分が過ごした、あの頃の木造の校舎で聴いていた音だ。

 
 「郷田先生、」
 

 右から、スーツの男がひとり。ここに長く勤めている。足音を下手に立てないフロアの歩き方それ自体が物語っていた。郷田は丁寧に、しかし軽く頭を下げる。
 

 「どうも」
 
 「はじめまして、こちら総務部調査課の仙谷と申します」
 

 対して、深々と頭を下げる仙谷。なるほど、四十は超えているだろうに、そこいらの直ちに手を伸ばしてくる人間とは違うようだ。また、スーツに見える適度な皴、そのクリーニング周期から、相手へと積極的にコンタクトを図る姿勢を既に無意識化で諫めていることも窺える。…心労が絶えない様子だ。
 
 「郷田智明と申します。本日は、よろしくお願い致します」
 

 踏まえて、さきの仙谷と、同じだけの角度へ目を伏せる郷田。目を上げれば、既に内ポケットから紺の名刺ケースを仙谷が取り出していた。
 
 「…ささ、ご案内致します。丁度、聴取中でございまして」
 
 「…ちらと、資料には目を通しましたが」
 

 お忙しい中すみません、そう仙谷は前を進みながら背中越しに零す。空気の淀む場として機能させない上に、罪を洗い流す意味から由来するのであろう、白で統一された廊下。天井には、往く先と垂直に配置された螢光灯が、こちらを煌々と照らすばかりか、その姿を、足元にまで反射させ、自身の意をこれでもかと主張している。
 
 「妄言、その類だと信じたいのですが、あまりにも鮮明に、過去の話を諳んじるもので」
 
 「…人間業では、ありません」
 
 「直接、お会いして頂きまして」
 


 無機質な長方形を進み、角を曲がった先、行き当たり。目の前の、”いるだろう”取調室ではなく、その様子を観察するモニタールームへと、左、横に逸れる二人。ガチャっという音と、追ってガタっという音が一つずつ。
 
 「お疲れ様です、仙谷さん。そして、郷田先生、ですね。宜しくお願い致します」
 
凝らせば若干無精髭が見えるものの、上体から迸る気鋭。三十代前半、働き盛りか。ドアを開けた仙谷をみての、椅子から立ち上がる時の音の鳴りからは、昇進への欲求を隠せないでいる。
 
 「お疲れさま、木下さん」
 
 「木下さん、ですか。はじめまして、郷田と申します」
 


 挨拶を早々に済ませ、郷田は木下の眼前に広がるモニター群の内、”彼”をあらゆる角度から捉えている二十を超えた画面へと目を遣る。…聴取者二人に対し、臆することもなく背筋を正し、否、むしろリラックスしている様子だ。顔や目線も伏せず、両の腕を胸の辺りで組んでもいない。まるで、友人の他愛のない話を聞いているかのような、そんな態度であった。顔立ちには犯罪者特有の影も見られず、郷田から見ても本当にこの人間があの犯行に及んだ人物なのかと疑う程であった。
 
 スピーカーに切り替えます、そう木下は言うと同時に、手元のキーボードを叩いた。
 
 「…では、次に。今年七月二日、日曜、神奈川県江ノ島近辺での水死事故について。警視庁からの資料によれば、貴方が犯行に及んだのではないかと」
 
 「その通りです、私が東さんを殺害しました」
 


 然う冬人は即答した。現代の技術は目を見張るもので、毛穴までとは言わないまでも、皺の動きひとつをモニターで確認できる。その上で。この男は、たとえば目の前に林檎を置いたとして。これは何かという問いに対し、ただただその名称を淡々と答えるかの如く、何の微表情も湛えることなく、犯行を認めた。しかしこれも、聴取側からすれば何十度目かの反応なのだろう、二人はそろって無言のまま、椅子の背もたれに体重を預ける素振りを見せた。
 

 「…当初の神奈川県警の判断では、滑落事故、とのことでしたが」
 
 「そのように仕向けたのです。結果溺死という滑落事故に関しては、直近で言えば、三十一手前、そして百と七十八手前のケースがそれに該当します。東さんがカナヅチである、ということは、その前の週、六月下旬の時点で確認済みでしたので、当日は其れを踏まえて、防波ブロックなどに擦って生じる程度であろう威力を以て、しかし顎部へと適切に、意識喪失を伴う殴打を入れて海に落ちて頂きました」
 
 言葉を失う、郷田。この男はすらすらと、愉悦や悔恨すら、言葉の抑揚すら伴わず、数か月前の犯行を確りと言葉に代えた。仙谷は、その表情を見て、右の目尻を僅かに上げて合田を見遣る。
 


 「まあ、こういうことです」
 
 「まさに資料通り、と言うわけですか…」
 


 理解の範疇を超えたが故のため息に交じり、画面の向こう側で、その男へと、聴取者の一人から質問が飛ぶ。
 
 「犯行当日、東氏と接触して以降、どの段階で、殺害を試みようと思ったのですか」
 
 「そのとき、二人で楽しく、というより、東さんは私なんぞに確りと時間を割いて釣りの手ほどきをしてくれていたのですが、ふと見渡すと、周りに人影が見えなかったものでして。その時に、嗚呼、では、殺害しようと」
 
 一拍、押し黙る聴取者、および郷田。
 
 「…先ほどから同じことを繰り返してお聞きしますが、四宮さん。何故、瞬時に切り替えて、殺害しようと? 楽しく、時間を共にしたのでしょう?」
 
 ここで、郷田から見て、はじめて四宮のとった動作に彼の心情が映った。両の肩を息で下すのと同時に、視線が真横へとずれたのだ。僅かなときのものだったが、明らかなまでの”呆れ”の兆候だった。
 
 「先ほどから同じことを繰り返してお答えしますが、その時に瞬時に切り替えて殺害しようと思ったから、です。どのような関係性を構築していたかと、殺害の対象になるかには、私の中には連続性や因果性というものはありません。故に、ここまで犯行が明らかにならなかったと言う、その証左には、成りませんか?」
 
 ううむ、とこちらのモニタールームに聞こえるほどの溜息を、聴取員の右側が吐く。と、同時に、一瞬、左側の男が、左袖を腕の伸縮で捲った。予定時刻、午後二時。
 
 その時。ここで、四宮が言葉だけで、嗤った。こちらの、カメラを向いて。
 


 「ふふ、なるほど。同様の問答を繰り返していると言うのに、目の前のお二方がそれほどのストレスを感じていなかったのはこれが理由ですか。怒りや焦りの表情を全く湛えず、むしろ一歩外から、まるで自殺現場を手持ちのスマートフォンでこっそり撮影する学生のような、その距離感、代えて違和感を有していたのですよ。仙谷さん、故にその隣におられる方は、もっと私と楽しいお喋りをしてくれるのでしょうね? ただの心理学に精通した専門家、ではないことを祈ります」
 
 …驕りではない、振り返ってみても東京医科歯科大学医学科を首席で卒業後、かのハーバードや台北と、我が国における医学的側面から切り込んだ犯罪心理学の中枢機関を往来し続けてきただけの人生だった。郷田はここで、天王台にある大学の教壇に立つときも、大して日差しの当たらぬ構内B1棟端の部屋で、単位欲しさに適当に出された学生のレポートへと目を通すときも。決して緩めたことのないネクタイを、緩めるどころか、半ば強引に首から引き千切った。
 
 この男は、精神分析がどうとか、心理学がどうとかという、その領域に存在していない。私の血肉に代えたこの研磨された知識という結晶すら、役に立つかも怪しい。だからこそ、郷田の鼓動が、この数十年、忘れていた高鳴りを覚えていたのだ。
 
 こいつは俺に、何を魅せてくれるのだろう。
 
 
 

 
 
 
 「おほっ」
 
 「…ん、なに?」
 
 
 午後四時。とぷり、柔い頬に人差し指。若さと云う暴力が、弾力となって、抵抗する。
 
 「春ちゃん、ほっぺやらかいね!」
 
 「…そう?」
 
 
 ありがとう、だったか。うーむ、と、気恥ずかしさ故に、ミルクティーを吸い上げるストローが、気持ち強く揺れる。東京気質の、秋の香りを仄めかした風が、店のテラス、その一角に座る二人をそっと撫でた。
 

 「今日は、○○さん、一緒じゃないの?」
 
 今日も又、恒例である神田のにやにやが始まった。いまだ会話こそぎこちないが、ここで動揺するほどの、遠い仲でももうない。
 
 「いや、東京には一緒に来たには来たんだけど、途中で用事があるって。忙しそうだからね」
 
 ほう、と神田は左目を故意に吊り上げる。
 
 「私は、その穴埋めと」
 
 「…誘ったの、そっちじゃなかった?」
 
 

 テラスから通りをザラリ目で舐めても、今の季節を教えてくれる紅は差していない。少々の緑が、通りに並ぶ店先のデザインとして散在している程度だ。だからと言って、峡谷の名前こそど忘れしてしまってはいるが、春は先日、○○に秩父の方面へと連れて行ってもらったことは如実に記憶していた。
 
 あらゆるバスを乗り継いでは辿り着いた、長く続く細道の如き清流沿いをして、“秋の時分に確りと、五月蠅いほどの紅に曝されればこそ、人は日々の緑の淑やかさの深みに酔える”、とは、まさに我が意を得たりであった。…その割に、終始小馬鹿にしているようにへらへらしていたが。比べて東京は、ノックをしても愛想がなく、一辺倒な返事でしか返さない、深みもまるでないものに囲まれていて。
 
 まあ、それはそれで、そこまで深いことを知らず関せず、適当に暮らせる、と言うことだろうか。
 
 
 「進展は? どうなの?」
 
 「誰とのでしょうか…」
 
 もう表情を隠すこともなく。右耳へと、春は髪をそっと掛ける。あの夏から、特に理由も無いのだが、もうすっかり項は隠れてしまっている。はてはぐらかすにして、どう切り抜けようかと、頭の中で苦心する春の背中に聞こえたベルの音は、聞こえないほどに微かなものだった。ここで一層、にやけ顔が強まる神田。
 
 
 「でへ、一緒に、住んでるんでしょ? もうそろそろ何かがあったりなかったりさ」
 
「…いやいや。あくまでも父親として、いるんですよ」
 


 「おやあ、春さん。それは、”あくまでも”内密に、というお話でしたが?」
 
 先から神田がくくく、と、口内で笑いを走らせていた理由を、漸く察した春。振り返ることもなく、喉に痛みを添えて、○○へと言及する。まだまだ市民権を得ることのできていない、襟から爪先まで漆黒に染められたスーツが、二人が初めて相座ったこの店へと、未だ独特な違和感をもたらしている。
 


 「人が悪い…」
 
 相も変わらずへらへらとしているであろうことは、背中越しでもわかる。
 
 「おや? まだ、人と思ってくれていたとは」
 
 
 神田は、春の眉間に因った皺を数えながら、笑みを禁じ得ないでいた。既に幾らかの自負こそあった、あの人見知りの極致ともいえる春との、距離を掴めている自分が、どのような位置にいるかなんて言うことは。しかしそれとも異なり、春にとってとても確かな澄み渡る歪さをもつ、立て付けの悪い清廉な揺り籠が、そこにはあるのだ。
 
 
 本人に直接聞いたことはないが、また眉間の皴を数えているな、と踏んだ春は、〇〇へと振り返る。
 
 「用事は済んだん… 済んだの?」
 
 しかし目を○○に合わせることなく、春は問う。絶対にこちらをじっと見ているだろうし。
 


 「ふむ。用事と言う程でも。まあ、東京に来た甲斐はあった、というような。ふふ、そういうと失礼に当たりますかね。それはそうと、お久しぶりですね、神田さん」
 
 どうもです、と、にやにやとしながら頭部を上下して会釈する神田。もうすっかり混ざっていると言うのに、手元のラテを木製のマドラーでくるくると掻いている。
 
 「…はい」
 


 春は、通路側の空いた椅子へと置いていたポーチを、さっと自分の膝に退けた。どうも、と、そこに○○が腰を下ろす。もう慣れたものだが、俯瞰してみるとやはり、清潔に整えられたスマートカジュアルな様相ではあるものの、全身がこれまた混じり気のない黒で染められているため、得も言われぬ佇まいをしている。
 
 「いらっしゃい、○○さん。…見る度、若い女の子をお連れのようで」
 
 ここで、木目調のプレートを片手に、春から見て初めてでもない、美しい女性店員が、ふくれ面を誇張しながら○○へと声を掛けた。春とは異なり、ばっさりと、髪が祓われている。
 
 「あらあらお久しぶりです、南さん。すっかり髪を喪ってしまって、どころか、口紅すら薄くなっているようで。なに、巡り合わせは、己次第で一にも百にもできます。それほど美人でいると言うのに、婚前から未亡人のような面持では、勿体ないですよ?」
 
 南というその店員が微笑みながら、大きく肩で返事をする。
 
 「まったくです。○○さんが振り向いてくれたら、こんな苦労もしなかったのに」
 
 このやりとりから、あの時よりも以前に、幾らかの付き合いがあるのだろう、そう春は理解した。ふわと香るあのブランドの香水、すらりとしたスタイル。ウェイトレスお決まりの制服が様になっている。…傍から見ても、お似合いではある。
 
 「ふふ、面映ゆい。伴侶の選びは手堅く、慎重に、ですよ。私のような流浪人は、近しい人に迷惑を掛けるものでして」
 
 いつの時代ですか、そう南は一言零し、踵を返してカウンターに戻っていく。…〇〇のメニューを聞きに来たわけではないのか。
 
 否、知っているからか。と、ここで、
 
 
 「エドゥ=バル、エドゥ=バルよ。底を知らぬ澱へと独り堕ち往く縄梯子よ。お前がいつか枯れ果て朽ちようとも、お前が其処に確かに在ったことだけは変わらぬ。其れを見て人は、底へと往った者がいるとみる。誰もが其処へと向かっていなくとも、お前が在れば、空見の絵巻が描かれるのだ。開けよ、エドゥ=バル。しかしお前はただの縄梯子。エドゥ=バルよ、その時、お前は燃やされ、消えてしまうのだろうか?」
 
 
 南の頭頂に鎮座する白銀のコームが、ブラウンの下地に溶け込んで、そう口を開いたことに対し、二人はちらと視線をちらと遣った。気付かず、神田は目の前のミルクティーを飲み干し、ぷは、と息を吐き出す。
 


 「で? 春ちゃん、そっちの学校で好きな人とか、見つかったの?」
 
 すぐさまくるりと、これまた口回りに蛆の如き気色の悪い歪みを湛えた○○が、神田の茶化しに喰い付いた。
 
 「ほう? 私の気付きの及ばぬところで、何がしかと何かを? 青く若い故、其れ自体を咎めるわけではありませんが、もしも悪い虫であれば。ふふ、どうしてくれましょうね」
 
 「すみません、お代わり、お願いします」
 
 
 普段からあまり声を大きくすることはないのだが、ここは威嚇の意味を持たせてみた。夏先の、冬人の言葉が海馬で泳ぐ。
 


 「”事情聴取”、ですか」
 


 「ふふ、その通り。嘘偽りのない供述を期待、しておりますよ。江藤春さん?」
 
 
 ここでヤオロズが口を挟まないあたり、本当に”こちらの名”など、彼にとって意味も成していないのだろう。それでも。
 
 彼が以前に、「親が付けてくれた名だから」と言った言葉が、春の中で、彼が化け物ではないと否定する証のひとつとなっていた。でも、名など変わろうが、彼は彼で。
 
 目に入ることはないと知りながらも、春は口を開く前に、季節を彩る紅を外に求める。ある時にしか称賛を浴びないながらも、その生まれの地や名、生き様を変えぬ。人も木も、その点では、何も変わる事はないのだ。
 
 
 “…目が見えないものでな。今、歩を進める地の名を知る由もない。だが、今。何れの時季であるかは何となしに分かる。なに、周りの人の気が、口を開かずとも伝えてくれるのだ”
 
   ――外上門人、『鵺降』より抜粋

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?