悪魔解体: 完全版

 はじめに

 はじめまして。帳一人と申します。三部作で構成される『悪魔解体』シリーズ、お楽しみ頂ければ、幸いです。宜しくお願い致します。




壱 - インザレイン


 だから、東京はいやだって言ったのに。

 四宮 春という、その高校生は、夏先の雨に打たれながら独り言ちていた。今朝の天気予報も、リビングでちらと見てこそいたが、しかしどうして、自分の運を試そうと、あえて玄関横の傘に触れることもなく、学校へと歩を進めた先の自分を呪う。ただ、こうして苛立ちを覚えているのは、そんな些事にすら苛立ちを覚えている自分の幼さと、なにか嫌なことが起きる度、それらの原因が転勤族である自身の家庭環境だと託けている仕様のない青さとにあるのだとは、自覚していた。丁寧に舗装されている都会のコンクリートは、雨を吸うこともなく、弾いていくばかりで、その跳ね返りは学校指定のローファーへとしがみ付いてくる。それに目をやり、眉間に皺を寄せながら、幾らかその地に慣れた頃、去っていった日々に、頭の中を過らせる。


 「…冬人め」


 東京は、なんと言おうか、少し暗い。雰囲気とは、いつの間にやら、煙に巻くには斯くも便利な言葉と成った。煌々と光が躍るのは、地の上へと生え撒かれたビルとかいう豆腐の周りくらいで、いざ地の下へと潜ろうものなら、こちらの気分が滅入るくらいに空気が死んでいる。騒々しいことこの上なかったが、比べて大阪はマシだった。


 春はあまり自転車を好まない。わざわざ片道四〇分もかけ、徒歩で通学する理由がそれだった。ダイエットも兼ねてと、周りに指摘される度に答えてこそいるのだが、自転車を好まない本質はそこにはない。だが、今日ばかりは、その宙ぶらりな拘りを恨むことになる。



 バン



 と、文字に起こすならばこの二文字の他になく、しかしその場においては、どれほどの文字数を重ねても覆いきれない衝撃が、春の帰路、眼前に飛び込んできた。少しだけ上半身から、赤一色ともいえない体液が飛び出し、雨に混ざり行く。疎らではあるが、整えられた針葉樹と豆腐が並ぶほっそりと敷かれた歩道に複数人。落ちてきた命一つ。それぞれが、それぞれの瞬間を喉に通した後、惨劇に対する惜しみない絶叫が贈られた。

 一拍の背に追い着いた、ハイトーンのアンサンブル。物心がつく頃には、なにかと斜に構えて生きてきた春にとっても、はじめての体験であった。身体は信号を失い、動かず、動こうともせず、必死に冷静になろうとする頭の中だけが忙しい。今まで見てきた血よりも、程悪くニチャリと。くわえて少し黒みを帯びた体液が。パクリと割れた頭蓋の奥部から、ブヨブヨとした脳漿の隙間を縫っては白黒斑のコンクリートへと泳いでゆく。首の皮一枚という例えの通り、首と身体が、幼子の手ほどの長さを湛える柔肌をして、伸びに伸び切っては辛うじて繋がっていた。その光景を、ただただ、見つめ感じる記録装置と化した春。肌理の細かい長髪の黒を掻き分け、赤く滲んだ白い頸骨が空を衝いていた。未だ、彼女の手先が不安定にぴくぴくと遊んでいる。


 即死した人の目って、やっぱ半開きなのか。そういえば、ネットか何かで「強く打つ」って言うの、身体から千切れてる状態を指す隠語だって聞いたな。”これ”はどっちだ?

 衝撃のストロボの合間にはそんな、半齧りの知識が跳ね回っていた。目が慣れて数秒が経った頃合いには、小雨を含み、重さを増してゆく指定の制服に対し、若干の鬱陶しさを抱くくらいには落ち着きを取り戻しつつあった。


 と。


 そんな春の右横を、整えられたスーツの男性が通り過ぎた。かなりの長身である。見張る歩幅を保ちつつ、だが確かに、この男性は事の「結果」へと顔を傾けた。その筈だが、歩の速さは何も変わることなく、春を含めたオーディエンスを置いていくばかりであった。丁寧に、後から追い着いてきた群衆の間をすり抜けながら。あまりの違和感に、というよりも、何かしらの熱を帯びたざわつきを覚えた春は、ほんの僅かに足元の水溜りを強く踏み付けながら、男性の背に追い付き、少し震えた声を掛けた。


 「あの」


 ゆっくりと、その男性が振り返る。傘の色からシャツ、ベルトに靴まで、全身が真っ黒に整えられていたが、傘を持つその手、肌は病人かと思うばかりに真っ白であった。顔はまだ、傘に隠れて見えない。


 「はい」


 ひどく落ち着き払った低い声が、春の耳に染みる。

 「あの、…えと。人が、飛び降りてきて、目の前で」

 息こそ捲いたものの、春は自分でも何を伝えたいのかが分からなくなっていた。何故、この男性に駆け寄ったのだろう。男性が少しだけ唇の糸を緩ませ、口を開く。


 「そうみたいですね、残念なことです」

 この返答で、春は、この男性に抱いたとごりを自分の中でようやく咀嚼し、喉に通すことができた。



 「なんとも思わないんですか?」


 この男、顔を伏せての見ぬ振りや、鼻で笑うなどするならまだしも、一瞥をくれた後に一切の反応も示さなかったのだ。春にはそれが、とても悍ましいものに思えた。男は、左手を広げ、弁明する。

 「とんでもない、残念だとは思っています」

 「その割に素知らぬ顔をして通り過ぎたじゃないですか」

 勢いで突っかかってしまったのだ、引き下がれず、即座に食いつく春。ふむ、と言わんばかりに男性は両の肩で察しの態度を示す。

 「そんなことはありませんよ。ちらと見て、救急車を既に呼んでおられる方がいましたので、お役に立てることはないかと思いまして」


 まあ、と、男性は続ける。

 「見た限り、どうにもならないとは思いますが」

 「で、通り過ぎたんですか? こんな異常な――」


 しかし、この問答は、どこからともなく聞こえてきた、春にとって全く聞き覚えのない男性の声で遮られた。隣にいるのかと思う程の、否、はじめから頭の中に居たかのような声が、ひどく澄んで聞こえる。一応の確認動作として、見渡すことこそするものの、そのような言葉を発する者どころか、周りに"これ"へと反応を示す者すらいなかった。主役はまだ現役のようである。驚きこそした春だったが、その声への嫌悪感は、不思議と反応として現れなかった。



 「聞いたか、エドゥ=バル、エドゥ=バルよ。苦脳を抱え、身を投げた人間を見て、人間が居て、その光景を他の人間が異常という。それはそうだな、エドゥ=バル、エドゥ=バルよ。他の者からすれば、確かにそれは己が常と異なるのだから。だが、それのどこがおかしいというのか。エドゥ=バルよ、お前にとって、何が異常で、何がそうでない? 否、人間にとっては? 否、人間が好む、異常とも異なる、”おかしくないもの”とは?」


 ぎょっと、唐突に辺りを見渡す春に対し、男性は一瞬、ピタリと動きを止めたが、即座に次の言葉で春へと切り返す。


 「彼らを見てください」

 彼が手で示す方向を見やると、少し離れた針葉樹の陰から、春と年齢は同じくらいだろう若い男性の二人組が、スマートフォンを"主役"に向けては、笑いながらヒソヒソと話していた。春の首に筋が浮く。男は息を小さく吐き、言葉を続ける。


 「普通や異常、というのは、その時々で、形をころころと変えるものです。さておき、私の態度が気に障ったのなら謝ります」


 すみません、と、深々と頭を下げた後。ぬっと春と目を合わせたその男性の顔つきは、形容し難いものだった。醜いわけでなく、むしろ端正な顔立ちながら、その表情は、おおよそ春の身の周りにいる”人間がしていない”ものであった。その違和感を取り上げるのであれば、例外的に当てはまる人間が身近に居ないこともないのだが、それともまた異なる顔つきである。少し、悲しそう、なのだろうか。あえて例えるならば。

 男性は返答を少しばかり待っていたようだが、春は言葉が出てこなかった。先の声と言い、否、もっと言えば飛び降り自殺の件から、何もかも、非日常が過ぎる。冷静と言う二文字を、都度追い続ける春。


 「…それでは失礼します。夏風邪も馬鹿には出来ないものです、お気をつけて」


 「…はい」

 言いたいことばかりが喉元に積もる春が、漸く絞り出した言葉に対し、先程の、何処からともなく聞こえてきた男性のものとはまた異なる声が、今一度春の耳へと飛び込んできた。比べて耐性が無意識下で付いているのだろうか、春は声の主へと、自然と、眼の糸を手繰り寄せていた。そこに在るのは、春から数メートル離れた先、ぽつんと落ち、踏み潰された煙草の箱だった。其処が出所なのかはまだ判然としないが、春はひしゃげた箱へと目を細める。


 「エドゥ=バル、エドゥ=バルよ。可能性を決して棄てぬ、糸を方々へと散らす蜘蛛よ。網の上で鎮座することは神の得意とするところだが、その先に在るものが何かも分からぬまま歩むことは、神には叶わぬ。逡巡せよ、エドゥ=バル、反芻せよ、エドゥ=バル。些細な綻びは、時に大きな後悔へと繋がる。エドゥ=バル、エドゥ=バルよ。世界に足音がついてきたのではないか? 世界とはお前だ、エドゥ=バル。息をしているか?」


 既に春を背にし、歩み始めていた男性が、ここで、踵を唐突に返した。首をゆらりと傾げながらも、確りと春の目を見つめ、男性は表情をまるで変えずに、ひとつの質問をした。その澄んだ眼から、春は反射的に目を逸らす。



 「”聞こえていたのですか?”」


 「……ああ、はい」


 春がそう返した途端、男性の顔がくしゃっと、まるで小さな子供のような笑顔を湛えた。そして次の言の葉を続ける、心の底から嬉しそうに。


 「これはこれは! いやはや、いやはや! なるほど、楽しくなってきましたね!」


 「エドゥ=バル、エドゥ=バルよ。斯くも人が考えなしに吐き出すような言葉を紡ぐこと勿れ。醜く在ることもひとつの興だが、幼く在ることは最早肝要ではないのだ。エドゥ=バル、エドゥ=バルよ。宥めを欲するのは、いつも人だけなのだ。可能性と言う名の雛よ、お前は人か?」


 淡々と説教をするのは、件の頸骨だった。不意に、思い返したかのように、春の喉へと、昼間に消化過程に入った残渣が熱を帯びて戻ってくる。咄嗟に、右手で口を塞ぐ。この吐き気は、僅かながら、目の前でにこにこと笑う真っ黒な男に因るものもあるのだと、涙を朧に浮かべながら春は理解を含め飲み込む。


 「…何が何だか」

 「奇遇ですね、私もですよ! さて、お嬢さん。今からお時間はございますか?」


 春は、自殺体を横目に、息を整える。同時にすっと黒色が頭上に差し、雨が遮られた。今、目の前の黒く包まれた男性を中心とした事態を、まるで読み込めないままに、いつの間にか春は、世間でいうところの”普通”ではなくなってしまった。そう自覚を抱いた頃には、駆け付けていた救急車のサイレンが、東京のある一画を包んでいた。

 雨の勢いは何も変わらず、意味を持たずに降り続ける。


 だから、無機質な東京はいやなのだ。



“…神も悪魔も、人間が感応しない限り、活きて輝きを放つことはない。人間より後手に回るこれらの存在が、この世界を創ったのだ。”


   ――外上門人、「鵺降」より抜粋






一 - 信を交わす


「ふふ。ふ、」


 歩いて十分ほどだろうか、「現場」から離れた、とある喫茶店の中に、その落ち着き払った低い声が零れる。こじんまりとした白基調の店内が、日陰と比べるにはあまりに黒い彼を、余計に際立たせていた。…なにせ黒い。そうは言いつつも、一瞥して、少し暇を持て余しているであろう店員たちは、露骨な反応を彼に示さない。おそらく、足しげく通っているのだろう。居心地こそ良いが、先のこともあり、春の脚は、まだ慣れないままにそわそわと定位置を探し続ける。


 「そうですか、そうですか。このお店は私のお気に入りでしたが、なんともまあ」


 「エドゥ=バル、エドゥ=バルよ。悦に浸るのは良いけれど、他人を差し置くのは善いことではなくてよ。目の前のお嬢さん、貴方の新しいお気に入り。そっぽを向かれた日には、貴方は涙を流すのかしら? けれどエドゥ=バル、子猫にも牙は生えているの、エドゥ=バル。愛でるにしても、傷がつくわね? 肌が裂かれた日には、貴方、血も流せるのかしら?」

 「これは失礼、」



 「いや、あの…」


 何がなんだか分からないようで、とりあえず春は、ひとつだけ確かなことを把握していた。この男性こそ、エドゥ=バルと呼ばれる”何か”なのだと。だが、彼は明らかに日本人の顔つきである。クォーターか? …というより、時折方々から聞こえるこの声の存在が、物事を整理しようとする春の脳内を、解釈と言う名のカンバスを、出鱈目に混ぜ続けている。それでも息がもう、乱れていないのは、この店内に漂うコーヒーの香りの作用なのだろう。得意ではないが、家でもよく匂う香りだからか。そんなことを考えながら、間に合わせのため、目線が泳いでいるままに、彼に問うてみる。

 「…あの、お名前は?」


 「申し遅れましたね。私、○○○○と申します。…ああ、なるほど」

 ふふ、と、彼はまた頬を緩ませる。このように、店に着いてからこの方、否、もっと言えば、店までの道中から、会話を主とせず、ころころと表情を変えてはくすくすと笑っているのだが、どうにも第一印象とはかけ離れているために、違和感がまだ拭えない。

 「しかし、私はこの○○○○という名前をとても気に入っていますよ。親が持っていた、そして付けてくれた名前ですからね。さておき、私も貴方に質問したいことが山のようにあります。…ですが、名前だけでは満足がいかないという顔をしていますね。それでは、レディファーストということで、気のお済みになるまで」

 どうぞ、とばかりに、○○は右手をすっとこちらに向ける。すらりとした、その白い指先に少しだけ見入った後、春は言葉を続ける。



 「あ。ええと、何から…。あ、エドゥ=バルというのは?」

 左手で下唇、顎を擦りながら思考する○○。

 「…ふむ、難しいですね。ただの名前と言えば名前に過ぎません。…では、私の芸名みたいなものだと思ってください。ただし、その名を知っているのは、私と貴方だけだと思いますが」

 ここで、歴を経てきたかのようなしゃがれた声が、彼の右手、窓側に置かれている、テーブルナプキン用の木製スタンドから言葉をぽつりと紡ぎ出した。もちろん、このテーブル席には、○○と春以外に他の人間は座っていない。


 「惜しいかな、エドゥ=バル、エドゥ=バルよ。お前の持つ名、私たちが好み、繰り返すその名は。真の意味で個を示し、証とするもの、し得るもの。また、限りのない可能性の証。それこそがエドゥ=バル。それは、その名は。お前が仮面を皮膚に沿わせては、観衆の前で名を隠し語るためのものではない。もしも、エドゥ=バル、エドゥ=バルよ。もしもお前が仮面をつけたなら、その仮面は。それもまた、エドゥ=バルという名の、肉、皮膚には違いないのだ。幕の裏に降りたなら、まさかその名を外すと言うのか?」


 「…この声は?」

 春は、いよいよとばかりに問う。すっと店の天井を見上げながら、彼は答える。基調の彩りを妨げない、ダークブラウンのシーリングファンは、音もなく、からからと回っていた。


 「私は彼らのことを、”ヤオロズ”と呼んでいます。ヤオロズ、またはヤオヨロズという言葉を、聞いたことはあるでしょうか?」

 「はい、何かの本で見ました。八百万と書いて、たくさんの、みたいな意味で、神様の呼称だったかと」

 「聡明ですね! その通りです。ある頃、物心のついた辺りを境に、聞こえてくるようになりまして。姿などは未だ見えたこともありませんが、まあ、常に揺蕩っていますね。ヤオロズさんの人格は様々で、常に入れ替わり、立ち替わり、私に日々”学び”を与えては、音を立てることもなく去っていきます」

 「学び?」

 はい、と、○○は答えながら、すっと左手を上げ、店員を呼ぶ。
 

 「私には、○○○○という名前があり、一人の人として、確かに今、生きています。ですが、”私” とは? “一人の人”とは? その答えを求める過程を、学びと解釈しています。コーヒーがお好きでないなら、紅茶でも頼んでくださいね」

 「はあ… ありがとうございます」


 流暢に話してくれるようになったのは何よりなのだが、内容が何やら段々と、砕いて言うところの面倒くさい方向に転んでいる気がする。ただ単に、落ち着かないままに流れでこの店へと足を運んだ自分の所為ではあるのだが、そう断ずるには幾らか異なる気持ちを含んでいたことへの自覚もあった。春の左頬を、雨上がりの陽が照らす。...そういえば、コーヒーが苦手だって話、言ってたっけ? と、ここで、


 「とまあ、聞かれたからには答えているのですが、端から見れば、抽象的やら哲学的やらと称されるような、とても面倒な内容を話している、という自覚は当然ありますよ。舞い上がっては、喋りが過ぎたように思います、お気に障ったのであればーー」

 と、にこにこしながら〇〇は続けるのだが、つい、春はそれを遮ってしまった。
 
 「心、読めるんですか?」

 「いいえ、顔には書いていましたが。不愉快に感じる方も少なくありませんが、どうにも性分と言うのは曲がらない気がします。ついつい、春さんと居ると心地が良すぎるもので、いつもよりも冴え渡ってしまっているようです」



 「あら、〇〇さん、こんにちは。今日はお連れが? 珍しい」

 ここで、木目調の洒落たプレートを片手に、店員が二人へと話しかける。テーブルへと、コーヒーと紅茶を慣れた手つきで置く彼女に、これもまた、ひどく自然と、ありがとうございます、と、礼を踏まえて声を返す○○。…美しい女性だ。

 「こんにちは、今日もお綺麗で。ふふ、そうなのですよ、珍しくね。どうです、可愛らしいでしょう? おっと、変な意味はありませんが」

 「あらあら、そんな冗談まで。少し怖いですよ」


 裏腹に、存外、安心したような顔を見せながら踵を返す女性。その距離感を見るに、○○は本当に常連なのだろう。店の内観やメニューをざっと攫い、いつか来る放課後のイメージを走らせる。こうして、男性と過ごすのも良いのかもしれないが、と、そこまで思考を巡らせた辺りで、春は、話の筋を改めて頭の中でなぞり返した。


 「…あの、」

 と、言葉を続けようとした先に、彼は既に言葉を置いていた。

 「私に聞きたいことって、でしょうか」

 やっぱり心読めるんじゃん、と思いながらも春は頷く。○○は、なおも声、表情ともに嬉々としている。

 「確かに。このように私へと時間を割いて頂いた分、質問も踏まえ、私のことも確りと話しておかねばなりませんね。ですが同時に、現実としてこのような可能性と出逢えたことに対し、未だ、私自身が驚いておりまして。そうですね、僅かながら、本調子とはいかないと思います、良い意味で。理路整然とはならないであろうこと、どうかご容赦のほどを」


 いえ、と春は半分聞き流しながら言葉を返した。○○は、どうにも回りくどい言い方を好む節がある。かと言って、驚いているという割には、そのくどい言い回しをすらすらと声に変え、続ける才には流石に舌を巻いた。…仕事は何をしているのだろう。


 「能力、と表現するのは好むところではありませんが、確かに分かり易いので用いてみましょう。春さんは、たとえば。自分以外の声があちこちから際限なく聞こえてくる、という人の話を聞かされたとき、まず何を思いますか?」

 「まあ、大丈夫かなこの人、とかですかね。 あとはあんまり信じていないんですけど、多重人格ってこのことかな、とか」

 あまりこの人の前で言動を着飾る必要はない、とすでに観念していた春が、正直に口を開いてから閉じるまで、彼は笑いを堪えきれない様子で目尻に線を描いていた。もう慣れてきているとは言え、やはり失礼である。率直な意見を声に出したのは良いのだが、しかし振り返ってみれば、今ではもう、自分も”そちら側の人間”なのだと気付く。恥ずかしさも交じり、下の唇を薄らと噛む春。


 「なんと屈託のない、透き通った表現をすることでしょう! いやはや、素晴らしい」

 ここで、彼がすっと手を伸ばしたコーヒーカップから、落ち着き払った壮年男性の声が、彼の指に先んじてコーヒーの表面に波を作った。


 「エドゥ=バル、エドゥ=バルよ。真に透み渡り続ける、山の傍の湖よ。命に呼応し波と成り、澄んだままに命の喉を通り給え。命は皆、水から成る。絶えず清み続けること、エドゥ=バル、それこそがお前の責務。エドゥ=バルよ、概して神とやらは皆、どこか臭う命をしているな。嗅ぎ分ける鼻は、お前に付いているか?」


 これはこれは、と、彼は姿勢を少し正す。


 「春さんの仰る通り、私も最初は、自分自身が多重人格、またはその類の、何らかの病とされるものを有してしまっているのではないかと思ったものです。しかし、ヤオロズの皆さんとは、物心のついた頃からともに過ごしています。もちろん、彼らの、小難しいと表すと怒られそうですが、あの言い回しも昔から。そう、まだまだ漢字の読み書きもままならなかったくらいの、昔から。その点に気付いてからは、病とは思わず、ある種の能力であると確信して過ごしていますね」

 絶えず遠回しに語る○○の表現を、二、三拍遅れながら口内で磨り潰す。ヤオロズの存在は、当時の知的水準と乖離しているからこそ、精神病を誘発する内的な要因とは成り得ない、と判断した、ということなのだろう。

 「その頃、何を言っているかとか、理解できたんですか? …あと、親とかに相談したりは?」

 立て続けに並べられた春の質問を、事もなげに拾う○○。

 「もちろん、言葉の節々に、聞いたことのない言葉が飛び交いますから、常に辞書片手に、彼らが何を言っているのかを調べたりしていましたね。ただ、何故か、最初から彼らに対し嫌悪感なども抱いたことはありませんでした。ポジティヴな印象しかなかったからこそか、他人に相談しようとしたことは、ありませんでしたね。...そうしたところで、まともに他人が相対してくれるかどうかも、既に疑わしく思っていた、というのも理由のひとつですが。とにかく、私は彼らの言葉を、さも特権かの如く、日々教授していました。確かに、今思えば、恐怖などしても不思議ではなかったでしょうに」

 嫌悪感を抱かない。確かに、と春は心中で頷く。


 「…でも、自分にしかない能力、というのもなんだか寂しいですね」


 と、春がインタビュアーさながらに突いてみたところ、○○の顔つきはとても怪訝なものへと変わった。からん、とアイスコーヒーの氷が沈む。

 「私にしかない? 春さん、それはきっと早とちりでしょう。確かに、私は生きてきた中でこれまで、自分と同じような人と出会ったことはありませんが、それでも。自分のような人間が、他にもごまんと存在しているのだと思いますよ」


 人のもつポテンシャルへの、過ぎた信頼。その歪な謙虚さを春は垣間見た。ただ者ではない身振り、口振りであると思ってはいたが、ここまでの客観性を持っている人間を、見たことがない。

 なるほど、と呟く春に対し、再び心を読んだかのように、彼は言葉を続ける。

 「まあ、私は、客観的であるというよりは、常に何かしらの可能性を考え続けているのだと思います。傍から見ずとも、異常なほどに。あと、そうですね、客観的という言葉を使うには、響きがなんだか冷たくありませんか?」

 「はあ…」


 先から同様の相槌を繰り返す春をにこにこと眺めながら、コーヒーを喉に通す○○。

 「例を挙げるのであれば。テレビでもよく取り上げられている超能力を有する方々、オリンピックなどに出場している素晴らしい身体能力を持つ選手の方々、歴史に名を遺すほどの手腕を光らせた政治家の方々、世紀の歌声を持つと称されるシンガーの方々…。私は、そんな人々の中にきっと、私と同じような能力を持つ人が潜んでいるんだろうなあ、と、心を躍らせながら思いを馳せているのですよ?」

 妙に得心のいく表現をする、と春は感心する。おおよそ人間業ではないような武勇伝を持つ歴史上の偉人は、未だにメディアや噂で見聞きするし、それこそオカルトと結び付けられていることもあるからだ。そう理解を進めるにつれ、前のこの男性は、失礼なようだが、そのような”カリスマ”とは思えないでいた。確かな異質さを感じることは感じるのだが、完全に掛け離れた存在のようにも感じない。その狭間を往来しているような、そんな感触を覚える。



 「…楽しくなってきた、とは?」

 春は、○○と出会った当初の会話を思い返し、更に問いを投げ掛ける。今、彼が見せている活き活きとした表情に釣られて、あの無邪気なセリフが、このタイミングで燻り出されたのだ。

 すでに氷も融け出しており、やや結露もみられるコーヒーカップを手に取っては、飲まず。手元で遊ばせては、コースターの上へと戻す○○。

 「また、面倒な話をしてみましょう。春さんは、人は。何故生きるのだと思いますか?」

 この人は、人の質問に対して質問で返してはならない、と教わらなかったのだろうか。しかし同時に、春は、その誰が言ったでもない匿名の教訓が、果たして正しいのかとも考え始めていた。思考を始める。


 「…うーん、まあ、種の繁栄のため、がひとつありますよね」

 そうですね、と○○は返す。

 「疑いなく。では、何故人は、種の繁栄のために行動するのでしょう? 我々、というと先走りの節がありますが、個人的には、人は、”何か”を残すために。また、それだけに留まらず、”それ”を何らかの形で後世に継承させるために生きているのだと解釈しています。その確かなひとつの手法が、生殖行為に因る種の繁栄だと言うことですね」

 「…壮大ですね」

 「ふふ、何せ私は回りくどいですから。まあ、私にとっての生きる理由、その”何か”とは、後継者のような方を指しているのです」

 

 「それが私だ、と」

 自意識が過剰だろうか、と、口に出してから両肩を内に丸める春。


 「そうであることを願って止みません。ですが、言い換えれば、春さんすら、ありとあらゆる可能性のひとつでしかないと言うことにも。とは言え、無下になど到底できるわけもなく。…ふふ。そう、ただただ、その”何か”に出逢えたことが、繰り返しにはなりますが、今回がはじめてなものでして。手放しで喜んでよいのではと思う程に興奮している、というわけです。おっと、語弊がありますが」

 「後継者、ですか…」


 喉が渇いていないこともなかったのだが、先程からずっと意識の外に在った目の前の紅茶を、改めて口に含む。○○に対し、ホットを頼んでいたこともあり、お世辞にも堪能できる味ではもう、なくなっていた。

 「ふふ、冷めていることでしょう。ついついお喋りが弾みましたからね。お代わりが必要なら、いくらでも言ってくださいね」

 いえ、と咄嗟に言うものの、ちらと左手に置かれているメニューの位置を確認する春。


 「話が少し逸れましたね。後継者のことですが、恐れず言うのであれば、私自身、とうに人間の域を脱してしまっています。そう在りながら、しかしもちろん、いずれこの肉体は朽ち果てるでしょう。此れを思考するたび、身体中の細胞ひとつひとつが、無性に”次のエドゥ=バル”が必要なのではないか、と叫び声をあげるのですよ」

 おずおずと、春は詰める。


 「…”誰にとって”です?」

 ふふ、と彼は目を輝かせながら続ける。一瞬、その目の輝きに陰が差した気がしたためか、不思議と不気味に感じた。



 「キリストさんはもう古いのでは? 世界の人々は、そろそろおニューな刺激を待ちくたびれているのですよ」


 「大きく出ましたね…」

 斜め上の回答に、春は苦笑いを浮かべる。

 「恐らくですが、当時のキリストさんもそう思っていたのではないかなと。そしてそれは叶った。彼は運がいい。のみならず、使徒というお弟子さんに恵まれていましたからね。しかし、運悪く、彼の後継者は今のところ現れてはいません。それは既に完結した唯一つの存在であるから、という根拠に因るのは周知の通りですが、その理由付けはとても神性を帯びた印象をもちこそするものの、私は実に悲しいものだなとも思っているのです」

 事もなげにすらすらと話す彼に、頭上のシーリングファンが音を立てるでもなく、応える。


 「それはそうだ、エドゥ=バル。神すら成れぬ、神すら呑み込む、あらゆる想いが集う螺旋の城よ。エドゥ=バルよ、お前とこのように触れ合う私を、私たちを、どうか連れて行ってくれ。神も人も、描くことのできなかった、故も知らぬ先へ。善や悪などを通り越した、個が個であるための世へ。エドゥ=バル、エドゥ=バルよ、何かを洗い流すものは、雨だけとは限らぬ。言葉を流せ、エドゥ=バル」


 おっと、と、彼は手元の腕時計を見やる。徹底していると言おうか、やはり黒色だ。

 「…楽しい時ほど早く過ぎる、というのは正にこのことですね! 信憑性の帯びない事柄も、実感すると、どうにも確信に変わりそうな気がします。日を変えてでも良いのですが、春さんさえ宜しければ、私からもいくつか、今の内に質問を重ねておきたいと、」

 気遣いこそ徹底しているが、まだまだと言わんばかりに目の輝きを失っていないままに、話を続けようとする彼を遮るように。それに付き合い、話し込んでも良いと思う反面、家のことをちらと思い、○○の言葉に甘えて追加で紅茶を頼もうか思案していた春を止めるように。もう、疎らにしか客が見られない店のドアベルが揺れた。



 「おう、やっぱここか」

 「おや、これはこれは。ご無沙汰ですね」


 灰色のスーツがやけに似合う、中肉中背の中年程の男性と、その半歩後ろに、卸したてだと言わんばかりのスーツを身に着けた、活気溢れる長身の二〇代の男性が、二人へと近付く。慣れたように○○へと声を掛けた男性に対し、はじめまして、と、二人へと頭を丁寧に下げる若い男性。察するに、○○とも初対面なのだろう。はじめまして、と、〇〇は微笑みを絶やすことなく、迎え入れる。

 故に、代わりの紅茶を頼むタイミングを、完全に見失ってしまった春。空気を察するに、帰るにはもう少し、長引きそうな予感がした。




***




 夕間暮れ。江東区内でも外れに構えている、先の時間よりも更に空いたその店のテーブルにおいてはもう、メニュープレートすら暇乞いをしていた。その一角、陽の斜すら手を差し伸ばさない代わりに、人工の暖色燈がそっと照らしているのは、妙に熱気を帯びた四人組であった。そのうちの、抑揚の利いた声とは裏腹に、真っ黒の色をした男が、口を開く。



 「これまた。楽しい時ほど何かしらの邪魔立てが入る、というのも、確かなようですね、倉野さん」


 ふん、と、顎を撫でながら眼を少し大きく開け、倉野という灰色の男性が返した。

 「なんだあ? 今日はえらいご機嫌じゃないか。…その嬢ちゃんが掘り出し物ってところかい?」

 ちらと春を見やっているようで、しかし春は、この倉野に自分の芯を探られているような感覚を覚えた。穏やかな目つきながら、その鋭さを隠し切れていない。…警察の人か?

 やはり察しがいい、と、怪訝な表情を見せた春を評価する○○。


 「その通り、この方は倉野さん、警視庁直属の警部補です。後ろの方は、はじめましてなのですが、この春辺りに配属されたエリート方、と言ったところでしょうか。…関東出身ですね、聡明なようです。また東大卒が増えましたね、倉野さん。活気の溢れる素敵な方のようですが、貴方の後ろに就くことになったのは、偶然ではないのでしょう。上の判断も間違ってはいない。目利きに秀でた方がやはり、いらっしゃるのですね。今日はその大和の”おのこ”の挨拶も兼ねて、ですか。…ついでに、今回は誰がどのように死にましたか?」


 はっ、と彼の言葉を笑い流す倉野に対して、後ろの”おのこ”が、○○へと目を細めた。

 「そうだ新保。こいつが○○、○○○○だ。悪いことは言わん、早く慣れろ」


 「…倉野さん、お言葉ですが。それは難しいように思われます。お二方、初めまして。神保と申します」

 あらあら、はじめまして。と、その反応を見越しているかのように、大袈裟に○○は肩を鳴らした。遅れてひょこっと、首の上下で挨拶に代える春。

 「なに、心配するな。こいつを最初っから好きだっていう人間はおらん。大概が眉間に皺を寄せることになるからな」

 そう連ねる倉野の言葉を、春は何となしに自分の爪の長さを見やりながら流す。


 「○○、こいつは新保。出歴はまあ、お前さんの言った通りだ、ほぼな。で、お前さんが”ついで”と言った件について意見を聞きに来たんだが… 改めようか?」

 瞬きをして、いいえと、彼は返す。

 「倉野さん、神保さん。こちらの方は四宮さん、四宮春さんという方です。私の友人であり、…そうだ、助手でもある、という感じでどうでしょう。同席させても?」

 ここで神保が、半歩進んでは、倉野に並んだ。

 「倉野さん、ですが」

 そのように詰め寄ってくることを分かっていたのだろう倉野は、神保が言い終える前に右手で諫める。

 「俺も分かっちゃいる。第一、それを言うなら、前から俺が〇〇に協力を請うている時点でイエローカードだ」

 「ふふ、重ねたならば、今はもう、レッドカード何枚分でしょうねえ」


 顎をさする倉野を横目に、○○はすっと手を上げ、店員を呼んだ。暇を持て余していたのだろう店員は、幾らかの秒で応え、○○からの追加注文を承る。

 「春さん、よろしければ、こちらに」

 ○○は、自分の隣に座るよう、左の手で春を促す。少しだけ身体が上擦る春だったが、それを掻き消すように慌てて否を伝えた。
 
「や、そろそろ帰ります。邪魔になりそうですし…」


 この春の言葉に、まるで何を言っているのかが分からないような様子で、○○が目を丸くする。やはり鋭い人ほど、鈍い振りをするのが下手である。

 「邪魔? 貴方が? 春さん、この方々は、私たちが楽しくお喋りしているところに割り入ってきただけ。ふふ、邪魔というなら、どちらかは明白です」

 「そういうこった、嬢ちゃん。俺らのことは気にしなくていい。ただ、捜査に関係することだ、他言は無用ってことでよろしく」

 嬢ちゃん、と呼ばれるのが、温かくも歯痒い。

 「…わかりました」

 「倉野さん… はあ…」

 倉野の判断に対し、神保という男は、異を唱えたいようだったが、直ぐに観念したようである。どうにも、振り回されることに慣れているようだ。



 「まあ、とりあえずこれを見てくれ」

 バサッと、倉野という男が皺の寄った資料を○○の前へ出す。この手の資料が予想以上に分厚く、また、そのページ毎が細かな字で溢れていることに、目を見開く春。そんな情報の塊を、一読どころか一瞥すらできているのか不思議に思うほど、○○は手早くペラペラと捲る。中には、恐らく遺体のカラー写真であろうものが記載されているページも見て取られ、反射的に春は目を背ける。何処からか沸々と、先の「主役」の残滓が、自身の脳に取って代わっては、頭の中を満たそうとしてきた。

 「○○、こいつをどう思う?」

 「倉野さん、○○さんはぺらっと捲っただけですが…」

 神保はそう指摘したが、倉野は特別、そのような心配をしていないようであった。○○は、資料を丁寧に整え、言葉とともに倉野へと返す。

「どう、と言われましても、少々面白いきらいがあるくらいじゃないですかね。被害者の家族や、当時の発見者を含め周辺人物への聴取も、十分に材料として揃っていると見受けられます、私怨の可能性が低いケースですね。恐らく、快楽殺人の類でも無い。まあ、それくらいですかね」


 「面白いきらいがある、と言いますと?」

 明らかに、○○を見る神保という男の目つきが変わった。伴う形で、その場に幾らか張り詰めはじめた空気を、春は敏感に感じ取った。…正義感が溢れる人だ。

 「新保。慣れろと言っただろう」

 火を点けていない煙草を口で遊ばせながら倉野は言う。神保は、しかしここでは下がらない様子だった。気持ち、上半身をぐいとテーブルへと乗り出してすらいる。

 「しかし、○○さんの今の発言は、殺人をはじめとする犯罪行為を否定していないものと自分は理解しました。過敏であることは承知ですが、看過できるものではありません」

 ○○は表情を変えることなく、おや、と返す。

 「これは失礼。他意はありません。どうしてもこのような言い回しを好む性分でして。ちなみに、犯罪行為に関しては、肯定もしていませんよ?」

 「…我々は言葉遊びをしに来ているわけではありません」



 神保は目を更に吊り上げる。それを他所に、○○は倉野へと話を続ける。大人も、其処らの高校生と変わらないくらいには、直ぐにピリピリするのだなあ、と、そわそわしながら春は思う。…やはり、居場所がない。そんな春に、一拍遅れて○○は気付いた。

 「これもまた、失礼。春さん、居心地を悪くさせてしまいましたね。このように、どうにも、初対面の方とはピリついてしまうのです。これでも、トラブルなどが起きないよう、善良な一市民として過ごしているつもりなのですが… 日々精進ですかね」

 「つもりなんですね…」

 さすがの神保も、改めて春の存在に気付き、乗り出した上半身を引き、喉を鳴らしながら正す。そんな様子を、幾らか見てきたことがあるのだろう。一連のやり取りが終わった後、穏やかな声色で倉野が場を和ませる。


 「ははっ、すまないね、嬢ちゃん、○○。神保は優秀で良いやつなんだが、同時にとても固い男でね、どうにも正義感が突っ走ってしまっているのさ」

 すると、倉野のくわえている煙草が、少し震えた。


 「エドゥ=バル、エドゥ=バルよ。では、正義とは何だ? 人はそれをよく好み、しがみつき、死んでいくものだが、しかし其処に誇りを見出すのだと聞く。では、人は、何が正義で、何がそうでないのかを知っているということだな? エドゥ=バルよ、お前はきっと知らぬ、エドゥ=バル。人を尊ぶ、人でない、人の生きる地に囚われた渡り鳥よ」


 …やはり、この警察の二人には聞こえていないようだ。春はそう改めて確認しつつ、じっとその煙草を眺めていた。

 「嬢ちゃん、嫌煙家か何かかい? 心配せんでも、ここは禁煙だよ。見るのも嫌なら、仕舞うが」

 「ああ、いえ、大丈夫です」

 その会話に続く形で、すんと、○○が空気を身体に満たす素振りを見せた。後、ふふと、笑いつつ口を開く。

 「今までと違って、少しメンソールの香りがしますね、倉野さん。大方、娘さんに嫌な顔をされたからでしょうが、煙草を嫌う方からすれば、メンソールにしようがしまいが、それこそ煙たがる素振りは変わりませんよ。どころか、メンソールの成分は、喫煙者自体に対し、依存をより高めると聞いたことがあります。家族関係の修復を主とするなら、そもそも、喫煙は控えたほうがよろしいかと」


 ぺらぺらと喋る○○を、感心したような顔つきで見ては、同調する形で、追い打つ神保。

 「…何か癪ですが、私も喫煙は控えた方がよいかと思います。やはり、身体が資本ですので」

 神保が○○に同調したあたりから、また顎をさすり出す倉野。

 「参ったもんだな。そうなんだよ、うちの娘がなあ… 話をずらすな、○○」

 「他人の話をずらすのが趣味のひとつですので」

 「悪趣味な…」

 ○○の言葉に、思わずぽつりと、思ったことを口に出してしまう春。癖なのか、曲がらない性根の部分なのか。いつもの通り、口を閉じると同時に後悔をし始める春を見つめ、微笑み掛ける○○。

 「ふふ、未だ、会って間もないというのに、すっかり私と打ち解けてくれているかのようです。嬉しさを禁じ得ませんよ、春さん」

 「…お前さん、俺に逮捕されるようなことしなさんなよ」

 そう○○へと釘を刺す倉野ではあったが、口角は上がっていた。

 「肝に銘じておきましょう」


 ここでゴホンと、喉の奥で虫を鳴らす神保を受けて、おっと、と、再び○○に踊らされていることに気付く倉野。

 「…また、話が逸れたな。見てもらった通りだが、ホシは一度、被害者の腹部を刺した後、”刃物をそのままに”抜かず、更に奥へと抉る形で心臓を正確に一突きしている。もちろん、この時点で被害者は即死だ。滅多にこんな殺しを見ることがないもんで、一言、お前さんの意見が聞きたかったんだ」

 応える形で○○は、ふむ、と、すらすらと言葉を紡ぎ出す。


 「言うまでもなく犯人は、医療関係、または、人体の構造を正確に把握している方です。また、凶器を抜かないままに心の臓を一突き、ということから、殺人という一大イベントなのにも関わらず、冷静さをまるで欠いていない、至極機械的な犯行であるという特徴も押さえることができますね。快楽殺人と断ずるにしても、殺害後の過度な痛め付けや弄び、何かしらのマーキングもみられない。くわえて私怨の場合は、怒りの方が勝り、あるいは情動のままに犯行が定まらず、手当たり次第に滅多刺しにするのが大半です。先にも述べた通り、そちらの聴取状況を併せても、私怨の方面は九割九分方、考えられないでしょう。まあ、凶器に関する情報は、現物含め捜査中、とのことですので、発展するにしてもそこからじゃないですかね」

 「…以前に、探偵やそれに近しい経歴をおもちだったのですか?」

 思わず、言葉の数に圧倒された神保が、興味本位で口を開いてしまう。

 「いいえ、とんでもない。俗にいうところの、人間観察が好きなだけですよ?」


 「…にしては、鋭いようですが」


 また、○○の口ぶりからか、神保の興味深い顔は一瞬にして消え失せ、その顔は緊張を湛え始めた。この張り詰めた感じ、さっきから数えて何回目だろうか、と、春はまた縮こまる。

 「まあまあ、神保。お前さんと馬が合わない分、もっと言えば、変人な分、あらゆる角度から物事を見ることができるんだよ、○○は」

 神保の噛み付きに構うことなく、○○は続ける。

 「少し面白い、というのは、この犯人の動機にあたるところですね。文字、写真、何れをとっても、入ってくる情報群が、あまりにも淡々とし過ぎています。先も触れた通り、犯行の一から十まで、非常に機械的です。動機が全く見えず、掴めず、まるで”動機自体が存在しない”かのような感触を覚えますね。もっとも、そうは言ったものの、いち意見、感触として挙げただけで、そんな犯人はいないでしょうが」

 なるほどな、と、くわえた煙草を上下に口で遊ばせる倉野。

 「○○でも犯人像が見えてこんか。やっぱ、このケースは厄介だな」

 しかし冷静に、○○は倉野の言葉に訂正を加える。


 「このケースだけ、ならばね」

 「…まだ犯行が続く可能性があると?」

 ○○のリズムに慣れてきたのか、神保は、○○から情報を引き出そうとする。ええ、と、○○は更に言葉を並べた。


 「ここまで人間味を感じさせない犯行が、この一件だけで済むと思いますか? もしもそうであるならば、それこそ、文字通り前例のない常軌を逸した犯人、ケースとなることでしょう。似たような、あるいは一貫性のテーマを持たせた犯行を連続させ、重ねることで、犯人が何かを訴え掛けようとしているのでは、と判断する方が、よほど理に適います。強いて犯人像を挙げるのであれば、そんなところではないかと。まだまだ思考することもできますが、個人的には現状、そうするには、そそられるものはもう無いかなあと」

 徐々に慣れてきているとは言え、やはり○○の言葉の節々に怒りの引き金を持っている神保が、口を開こうとする。よりも先に、諫める形で話を強引に進め、○○へと詰める倉野。

 「そうだとして、このホシは何を考えてるんだと思うよ?」


 「ふふ、人の考えることはよく分かりません」

 はぐらかすように、両肩を上げて答える○○。そうだ、と、ここで唐突に、○○は春へと話を振った。



 「春さんはどう思いますか?」

 「…は?」

 肩身が狭く、話にも入れないままに過ごしていたにも関わらず。…本当に気ままと言うか、何なのだろう。

 「犯人は、何を思ってこのような犯行に及んだのでしょうか」

 「うん? うーん。…さっき、○○さんが言ってた通り、実は本当に動機も何も無かったりするのかも…」

 特に集中して、三人の会話を聞いていたわけでもなかった春は、薄ら耳に残っていた言葉を適当にばら撒いた。変に利口ぶる必要もないだろう、期待外れでいいのだ。だが、ほう、と、○○はずいと春へと顔を向ける。


 「やはり春さんもそう思いますか! …ですが、自分で言っておいても、なお、一点。そんな人間、存在すると思いますか?」

 変に突っかかってくるにしては、○○の目が澄んでいた。動揺した春は、どう答えていいのか分からなくなる。


 「…人間じゃなかったり」


 「嬢ちゃん、妖怪の仕業だとかってことかい? 妖怪なら刃物は使わんだろうに」

 春の望んでいた通りの、冗談めかしては流す模範的な倉野に対し、先と違い、へらへらと笑うこともなく、何やら神妙な顔つきをしたまま、春から、○○は全く目を離さないままであった。気付き、前髪をいじる春。

 

 「なるほど、なるほど。春さんはやはり。なるほど」

 「何がなるほどなんだ、○○」


 「ふふ、秘密ですよ。秘密」

 ふむ、とあっさり身を引く倉野と、その引きの速さに驚く神保。まだ席に座って間もない筈だが。であれば、これ以上問うても聞き出せない、○○との会話における、ある種の締めの常套句なのだろうか。と、神保が思考している間にも、倉野は話を畳み始めた。やはり、今回の引き際らしい。


 「…わかった。今日はもう陽が暮れる。嬢ちゃんも、時間を取らせてしまって、すまなんだ。○○、また、何かあったら声を掛けるわ」

 「ふふ、きっと、そう遠くないことでしょうね」


 神保がここで、慣れた手順でビジネスバッグから封筒を取り出す。スーツや身なりこそ未だフレッシュマンではあるが、やけにバッグは使い込まれているような印象を受けた。

 「…○○さん、ご協力、感謝致します。こちら、謝礼金となります」

 何度も使用しているであろう定型文を、○○に対してだからだろう、どこかぎこちない様子で伝える。

 「ありがとうございます、結構です」

 対して、日本刀のように鋭い○○の返しが、神保の努力を両断した。神保も、あまりの清々しさに、憤りを感じるでもなく、一瞬驚いた後、封筒をバッグへと戻す。これ以上、受け取るように言っても、○○が聞かないことくらいは、神保も理解しはじめていた。


 
 「はあ…」

 春は何となしに、このような警察の聞き取りにおいては、謝礼かなにかは出るだろうとは思ってはいたが、○○が受け取らないこともまた、予想通りであったため、何とも言えない溜息が吐いて出てしまう。

 「その代わりと言っては何ですが、ここの御代金は甘えてもよろしいですか、倉野さん?」

 まったく、と、席を立ちながら鼻を鳴らす倉野。

 「お前さんはいつもそれだな。謝礼は謝礼だ、受け取ってくれんことには、こちらもブレてしまうんだが」

 「ふふ。むしろ、私は倉野さんのように、私なんぞと気兼ねなく接して下さる人とお話しできることが、何よりも嬉しいものなのですよ。中でも貴方は、お父さんみたいなものです。では」

 「…参ったな」

 また、満更でもない貌で、顎をさする倉野。


 「じゃ、またな。神保、行こうか」

 「…はい」


 そう答えこそするものの、神保は何処かまだ、この一時における、核となるようなものを掴めないままで去ることに、幾らかの無念を抱いていた。本題である筈の事件すら霞む何か。それは、上司の倉野と、気兼ねなく、気さくに言葉を交わす、○○と言う存在。何故か、娘でもなく、また変哲もない一人の女子高校生を、大事にしては可愛がる、○○と言う存在。妙に、胸中にこびり付く、その○○と言う存在を、一片も理解できぬままに去るということが、倉野の背に着いていく足を重くした。

 

 そうして、勘定を済ませた後に小さく響くドアベルとともに、二つの影が遠のく。いつの間にか、客は○○と春だけになっていたようだ。


 「…そういえば、お代わりは頼まず仕舞いとなってしまいましたね。申し訳ない、代わりに今度、ご馳走しますよ」

 「…じゃ、それで」

 店内に生じた、先の時雨ともいえる時間を、さっとなぞっては反芻する春。ちらと外を見やる。あちらも、雨模様も消えたようだ。

 「ふふ。帰りましょうか、私たちも。送ります」

 「いえ、大丈夫です」

 恥ずかしさ交じりということもあるが、どうにも、自分の家の近くにまで○○が寄る、ということに抵抗があったため、つい即答してしまう春。…万が一、遭おうものならば、碌なことにならない予感が過ったのだ。


 ふむ、と手元のコーヒーを飲み切りながら何かを思考している素振りを見せる○○。さすがに即答は可愛げがなかったかと、これまた後悔し始める春を他所目に、埃の薄く積もった窓ガラスが、風で軋んだ。


 「エドゥ=バル、エドゥ=バル。今日は愉快な日だったことでしょうね。貴方にとって、それは即ち、私たちにとって。けれども、心が躍り過ぎて、少しお喋りも過ぎたようね、エドゥ=バル。口を開き、言葉を紡ぐこと。それは、度が過ぎれば、至言を狂言に変えるもの。エドゥ=バル、そういえば貴方、心があったかしら?」


 「…大変だな、とか、苦痛に感じることとか、ないんですか?」


 ヤオロズの言葉を受け、○○の心中に、春が寄る。答える○○は、そのガラス越しに、外を眺めており、春からは表情が見えなかった。

 「ふふ、それを言うのはいつも、大変だと思う人、苦痛に感じている人だけですよ」


 「…やっぱり、送ってもらいます。家、少し遠いですけど」

 変に暗い雰囲気にしてしまったと言うこともあり、観念した春だったが、途端に、○○がくるりと振り返り、満面の笑みで、春へと言葉を返した。


 「同情を煽るような雰囲気を作ってしまえば、大体の人が折れてくれる、春さんも、その例に漏れずですね!」

 「褒めてはないとは思いますよ、それは…」


 嬉々とする○○を見下ろすシーリングファンは、いつの間にか止まっている。雨宿りには、長居が過ぎたようだった。



 この東京という街は、あらゆるもの、人を受け入れる懐こそ広いが、それ故に風潮が物を言う。禁煙という二文字の風当たりも、年々強くなってきており、倉野も日々堪えている始末である。歩くだけで疲労が溜まるような年になったと言うのに、○○と別れてから、およそ十分。漸く探し出した喫煙スペースの一角で、倉野は存分に溜息をついた。


 「肩身がせめぇなあ」

 今日の勤務を終えたこともあり、また明日、と伝えているのにも関わらず、半歩後ろを、やはり着いてきていた神保が、そうですね、と一言、答える。

 「…彼と出会ったのはいつ頃ですか?」

 煙をこれでもか、と口から吐き出す倉野。どうにも普段の話し振りから、神保が嫌煙家であることは察しているのだが、嫌な顔をまるで見せずに、傍で倉野へと質問を重ねてくる。

 「だいぶ前になる。もうあんまり覚えてはいないね」


 「会った時から、”あのような”感じだったのですか?」

 少しばかり、曇った顔つきのままである神保から、何時しかの若さを感じ、ふと笑みが零れる倉野。

 「なんだあ? 今日はいつになく落ち着きがないじゃないか。…ふむ、言われてみれば、会ったときから、大体あの調子だ。…今日は少し様子が変わって見えたがな」

 「…隣の高校生でしょうか」

 「だな。あそこまで気分よく饒舌に話す○○を見たことがない。冗談めかしたが、本当にあいつにとって掘り出しものなのかも知れん。...普通の嬢ちゃんに見えたんだが」

 まあ、と。倉野は煙を燻らせながら続ける。


 「いいことだ。あいつにも、人っぽさの欠片があったんだと思えばね」

 それを聞いて、神保の唇が少し緩む。表情を崩せば、何のことはない、ただの好青年だ。最近の若者は、自分自身に真面目で、厳し過ぎる。


 「まるで人間じゃないような言い方をしますね」

 「はは、あいつは確かに人間じゃないよ。化け物って言いたいわけじゃないがね」


 もう、日も暮れ、昼下がりよりも多くの人々が、二人の目の前を忙しなく過ぎていく。ある人は独り、表情もなく俯いて。ある人たちは、これから鬱憤を晴らすための場を求めてだろう、笑顔を湛えて闊歩している。

 「…だが、得てして、色んなことが宙ぶらりんな今の世の中だからこそ、ああいうやつが必要とされることもあるってもんだ。きっとな」



 生き辛ぇなあ、と、最後に煙を吐き出しながら、携帯灰皿で煙草を始末する倉野。ぶっきらぼうに語るその言葉たちは、しかし不思議と神保の心を揺さぶるものであった。いつもは、正直に言えば、心の中で顰め面をしているものだが、今日の倉野が香らせたメンソールは、その点、不愉快ではなかった。



 「…ただいま」


 春は、帰宅の合図を、キッチンフロアのテーブルに腰掛け、カレーであろう、夕食の段取りをしながら文庫本を読み耽っている男に伝える。ぐつぐつと小さな音を立て続ける鍋を見るでもなく、帰宅した愛娘を見やるでもなく。胸元に構えた本の文字を追いながら、背中で春に言葉を返した。


 「お帰り。…ほんの少しばかり、この私も。娘の成長を見くびっていたようだな、デートか何かとお見受けするが?」

 「無粋っていうんだよ、それ」

 「当たりのようだ」

 「…むかつく」


 ここで本をパタンと閉じ、春へと振り返る男。娘を見る表情は、昔から何一つ変わらない。顔から筋繊維のすべてを奪われているかのような顔つきのまま、春へと声を掛ける。


 「娘への理解、そして読みが甘かったせいか、もう一度カレーを温めることになってしまってな。掛けてくれ、そろそろ頃合いになる。もっとも、私の読みと違い、味は少々辛口だが」


 「…後で食べる」

 春のその返しを読んでいたかのように、おや、と即座に返す男。

 「父としても、デートの内容を詳しく、いやほんの一部でいいから聞きたいところではあるのだが」

 「いやだからデートじゃないって。…はあ、分かったよ」

 ソファへと学校指定のカバンを若干放り投げた後、春はリビングの椅子に腰掛ける。


 「何と。今日は一段と往生際が良い。…ふむ、もう乾いているとは言え、週末には制服を一度、クリーニングに出したいところだな。だから、傘を持って行きなさいと言ったのだ。しかし、そんな父の気遣いを汲み取るでもなく、気持ち大きめの音を以て扉を閉めては学校へ向かう、可愛い娘の背中を見るのもまた、私にとっては楽しい一時なのだ」


 「…長い」

 「聡明なものでな」

 無表情のまま、しかし言葉としては、ふふと、漏らす冬人。そんな彼を横目で見つめる春が、ぽそっと呟く。

 

 「…父さんみたいな人に会った」

 「ダウトだ。そんな人間はいない」

 「何の自信…?」

 カチッと、冬人はコンロのスイッチを切る。越してきて数ヶ月ながら、彼のお蔭でもう、少しばかり汚れが目立つ個所もある。一寸、匂いを嗅ぎ、うむ、と頷く。

 「春への愛情でたっぷりなようだな」

 「変質者みたいなことを...」

 「さて、それでは事情聴取といこう」


 何をしても、変な男性に囲まれてしまう運命なのだろうかと、自分自身を今一度、呪う。そんなことを、今日の出逢いも踏まえて思考する春の頭の中にはもう、先の自殺体のことなど、何処かへ吹き飛んでいた。


 ...なんとも舌触りのよい、辛口のカレーである。






二 - 多弦楽器


 千代田区。言わずと知れた霞ヶ関近辺は、昔こそ堅苦しい雰囲気を纏っていたが、しかし近寄り難さを断片的に残しながらも、今ではもう、すっかり多くの若者が、その地で足を鳴らすような、そんな陽の当たりも息衝く街となっている。その変遷に眉を顰める、と言うことではないが、煙たがられるような世代へといざ足を踏み入れてみると、やはりどこか思うところがある倉野は、自分を見る、今朝の娘の目付きを踏まえて、しみじみと桜田門へと歩きながら思いに耽る。未だ夏先とは言え、もう暫くしないうちには、庁前の並木に蝉が群がるのだろう。地球温暖化がなんだ、と、初めて聞いて久しいが、いざ、上下左右を無尽にコンクリートで張り巡らされた中に身を置くと、夏を待たずとも、確かに。灼熱へと放り込まれた感覚に陥るほどには暑くなるのは疑いようがなかった。若かった所為もあるのだろうが、精力が溢れる昔の時分においては、さして気にならなかったのだが。

 老体と自認するには、未だ老いていない自負はある。とは言えきっと、今年の夏も、冬も。身体に突き刺さる程に堪える筈だろう。そんな倉野の憂鬱を、まるで些事だと言わんばかりに嘲笑いながら、霞ヶ関に座する警視庁は、今日もこれ見よがしに仰々しく、人々を平等に見下ろしていた。真っ新な正義を背にしたその白い壁は、しかし時代と言う風に当てられ、目を凝らさなくても少しばかりくすんでいる。それは勿論、今にはじまった風化ではない。



 「若い頃は俺も、この壁がもっと白く見えたもんさ。だがな、年を取ればお前さんも分かる。俺らの目の色が曇っただけなんだとな」

 庁内一課で合流すればよいものを、毎朝、出勤の際には、大抵は駅前であるが、ショートメールでの事前合流先の相互確認を怠らない神保。こうして顔を合わせる度に、変に年嵩のいったような愚痴を聞かせれば、喫煙所まで付いてくる神保でさえ、いつかは若干距離を取るようになってくれるのではないかと倉野は薄ら、期待しているのだった。好かれることは満更でもないのだが、あまり持ち上げられるのも性に合わない。


 「ですが、もしも澄み渡るような白い正義が既に在ったなら、我々は職に溢れて行き場を喪っています」

 「馬鹿野郎、ほかにもゴマンと仕事はあるだろうが」


 「…考えが及ばない世界ですね」

 どうにも年端もいかぬ人間は、いつの時代も、最も可能性という名の地平線が目の前に広がっている年頃だと言うのに、つい目を逸らしたがるようだ。ましてや今の世の中など、より選択肢で溢れて返っているというのに、如何せん固く構えて生きては、多くのものを知らず失っていく。それに気付く頃には、目尻の皺が重なるのも、また常なのかもしれない、そう倉野が巡らせては、右手で後頭部を擦る。


 「はあ… 桜田門が誇る第一課の名折れにまだ、付いてくるのか、神保。俺と一緒に笑われちゃ、エリートの肩書きに要らん泥が付いちまうぞ」

 しかし真っ直ぐと、倉野の目を見据え、即座に否を唱える神保。

 「いえ、上層部はそうお考えではないはずです。何より、私自身が倉野さんに付いていきたいと、思っていますので」

 「...参ったな」


 次に顎をさすり出す倉野。今朝、剃り忘れた無精髭を、適度な刺激で、指紋が攫う。

 「まあ、なんだ。〇〇みたいになれとは言わんが、お前さんも幾らか柔軟に立ち回った方が、得することは多いぞ?」

 ここでこくりと、顔を俯かせる神保。眉間に皺を寄せるなどはしていないが、何か思うところもあるような表情をしている。

 「…であれば、損する生き方でよいかと」

 「…例えが悪かったな」


 数秒の間の後。先の貌を外しては顔を上げ、そう言えば、と、話を仕切り正す神保。

 「倉野さん、例のケースですが。解剖医、また現場鑑識の見解からして、凶器は錆びていない、刃渡り二十センチメートルほどの文化包丁の線が強いとのことです。現物はまだ発見されていませんが」

 はあ、と、倉野は息を吐き出す。

 「お前さんなあ、仕事前から仕事の話をしなさんな。余計な皺が増えるぞ」

 「申し訳ありません」

 絵になるような姿勢で、直ちに頭を下げる神保。心は込められているようだが、どうにもその自身の性分に間違いはないと確信しているような素早い所作だった。

 「…お前さんのためを想って言っているつもりなんだがな。で、ブツは未使用のものだったのか? それとも使い古しかい?」

 頭を上げ、神保は淡々と口から情報を流し始める。


 
 「後者ですね。錆びていないとは言え、ありふれた食器用洗剤に含まれている物質の反応も微量ながら認められたとのことですので、日常生活で使用していた可能性が高いかと」

 「ふむ。○○が言う通り、食えない相手だ。...念には念をってやつだ、収穫はあまり期待できんだろうが、手が空いてるときにでも、江東区周辺の文化包丁の流通ルートも浚っておいてくれ。数ヶ月も遡らなくてもいい」

 「承知しました」


 神保はここで、これまた思い返したかのように続ける。

 「…そう言えば○○さんは、凶器に関してはあまり踏み込んではいませんでしたね。結果が出ていなかったから、と言うこともあるのでしょうが」

 はは、と乾いた笑いをする倉野。

 「いけ好かないが、あいつが突かなかったところが、後から実は、ってケースを見たことがないんだよ、俺が知る限りはね。まったく、それを突くことに必死こいて飯食ってる奴らからしたら、堪ったもんじゃない話だ」

 


 「…信用しているんですね」

 声の抑揚が明らかに落ち込んだ神保へと、倉野は咄嗟にフォローを入れる。

 「おっと、気を悪くしなさんな。お前さんと比べてどうのと言っているわけじゃあない。あいつはどこかしら人じゃなく、お前さんはどこまでも人だろう。お互い、良いところを補い合えばいいのさ」

 ふ、と神保が先の貌に張り付いていた影を消して、笑う。

 「いけ好かないですね」

 時折笑うことこそするものの、この数ヶ月中においても一切見せなかった表情、言葉を零した神保をして、目を丸くする倉野。後から、喉を響かせる笑いが、こみ上げてきた。やはり若いうちは、こうでなくては。

 「これまた、たまげたな! ○○と出会ってからこっち、若もんらしくなってるじゃないの」

 「普段からも、出来た大人ぶっているわけではないのですが…」

 


 いつもならば、気怠いままに庁内へと足を踏み入れる倉野だったが、今朝に限っては、どうにも足が軽い。其れが、その時折でコンディションが左右されるくらいの青さに因るものだと、自分の中にまだ残っているのだと、そう気付いては、倉野は何処か胸を撫で下ろす。朝っぱらから忙しなく、職員行き交う桜田門の中ではもう、一足早く冷房も走り回っているようだった。



 江東区に在る私立A高校は、体育館を除いた三棟から成る、控えめに言っても、小さな高校である。それぞれの棟は、頭の高さを揃えた三階建てであり、東京湾岸へと並行する形で、川の字の如く並べられている。各棟は、二階部分の渡り廊下で連結されており、その上階においても、吹き曝しではあるものの、各棟へと往来が可能になっている。三階、または屋上からなら薄らと東京湾が臨めるが、特段、春はそれを意識した記憶がない。転校続きの春をして、珍しいとも思う点は、三階から降順に一年、二年、三年と、クラスがそれぞれ配置されていることか。一年坊は三階まで元気に階段を上れということだろうが、確かに、古きよき日本における、ある種の理には適っていた。


 「春ちゃんはさ、」


 春のクラスは第二棟二階、中でも陸側の方面に位置している。転落防止のためだろう、気持ち大仰な出格子窓から、少し左手を見やれば、都心部。あそこでは今、どれだけの人が、何のために、何をしてるのだろう。そんなことばかり、取り留めることもせず、髪へと風を通す春に、可愛らしい声が左隣から飛び込んできた。

 「なに?」


 「好きな人とか、そろそろできた?」

 気さく、それ以上の距離感で話し掛けられているのには違いないのだが、来て数ヶ月とも経っていない転校生へと、このように話しかけてくれる神田は、春にとっても幾らか救われる存在であった。住まい、学校を転々とする身になると、どうしても距離を自分から詰めたがらない、そんな善くない癖が、何をしても染みついてしまっているからだ。


 「…いやいや、ここに来てまだ三ヶ月も経ってないのに、惚れた腫れたって、ねえ」

 神田は、持ち味の愛嬌が溢れんばかりに、にこにこしながら、春のそっけない返しをうんうんと流し愉しんでいる。…笑顔を常に湛えられる女性は得だ。神田を見る度、自分もそれができたら、と思わざるを得ない。

 「や、一目惚れとかもあるじゃん。というか、言い寄られたりするでしょ。春ちゃん、美人だし」

 衣を着せない、神田の澄んだ褒め言葉に、うーむ、と、前髪を少しだけ、くるくると指で遊ばせる春。

 「照れるね。それを言ったら神田さんもじゃん。…って言うか、いきなりどうしたの」


 えへへ、と何やら含みをもたせて口角を上げる神田。ずいっと、春へと身体を寄せる。

 「サキで良いって。いやねえ、夏と言えばイベントが多いじゃん? 夏休みまで一ヶ月切ってるっていうのに、独り身は寂しいじゃあないか」

 つい、その言葉に釣られては、春の表情が緩む。

 「またおじさんみたいなことを…」

 「いいや、我々は乙女だよ。…おっと、バイトの時間だべ」

 「ん。私も帰る」


 まだ夕暮れというでもない時間帯。窓を背に踵を返した春の耳に届き、聞こえて来る喧騒は、遠くに響く自動車群のエンジン音と、窓越しの開けたグラウンドに点在する、運動部員の掛け声から成っている程度だ。言われてみれば確かに、春は、自分自身があまり恋愛とやらの道を、まるで通ってきていないのだと振り返る。今このとき、神田とともに一階へと降りる階段の道中でも、顔立ちの整った、あるいは爽やかな男子生徒などとすれ違っているというのに。格好良いと思う同級生や上級生と顔を合わせないこともないのだが、其処から恋愛に発展するという、そのきっかけ、手順がまるで分からない。そうして見知らぬ標識の先に行かないような、余分な変化を好まないきらいであることは自分でも把握しているつもりだが、それらはすべて、父の所為にしてしまえば、済む話だった。


 「恋はね、理屈じゃないのよ」

 一階の渡り廊下から棟外へと踏み出し、乾いた晴天の空を指差す神田。

 「謎に説得力があるね... あ、そういえば。おしゃれな店、見つけたんだ。今度さ、…あちゃあ」


 繰り返すようだが、A高は春の転校歴から見ても、比べて狭い。その渡り廊下から校門まで、実に歩いて一分もかからないくらいの距離である。…かからないが故に、一瞥するだけで非日常の「黒い何か」が校門で微動だにせず、立っているのも、春は数秒で認めてしまうのだった。視界に入った瞬間、頭を抱えた仕草とは裏腹に、眼の奥でその脈が感じ取れるくらいには、身体の内が熱を帯びる。


 「春ちゃん、とうとう不審者とつるむようになっちゃって…」

 とうとうと表現されるのは納得がいかないにせよ、確かに、全身が黒に染められた男が立っているというのに、その校門の周りには、教師の人影が見られない。帰宅部やその他、部活動のないだろう生徒たちが続々と、その門を通る度、全身の強張りを以て彼を視認しては、見て見ぬ振りをして、後にするばかりだった。…一応都会だというのに、どうにも危機管理の甘い気がする高校である。


 「いや、まあ。不審者じゃないんだけど。...まあ、不審者に見えるね」

 ここで、そんな春の何かを察知したのか、唐突に顔を上げ、瞬きひとつで春を視界に捉えた○○。整えられたその顔をまた、子どものようにくしゃっと崩しながら、こちらに右手を挙げていた。


 「これはこれは春さん、奇遇ですね!」

 「いつか、不審者扱いされますよ、○○さん…」

 溜息混ぜては、そう言葉に起こしながらも、何処か臓の腑が躍る。そんな春の顔つきを、これまた、にやにやとしながら覗き込む神田。毎度のことながら、自分の周りに、やはり普通の人なるものはいないらしい。



***




 桜の盛り。はじめてA校の校門を跨いだとき、それらより目立つくらいに目の前へと広がり満ちていた桃色の杏も、もうすっかり青々しい緑へと変わり、その果実を実らせている。

 ○○へと歩を進める二人のうち、右側、自転車を手で押していた神田が、ながらに春の横腹へと肘鉄をかます。衝撃そこそこに、痛みはまるでない。

 

 「なんだかんだ言って男前、捕まえてるじゃないの!」

 隣にしか聞こえない程度の小声で、春をいじった神田であったが、事もなげに、数メートル先に居る彼が、返事をする。

 

 「ふふ。あまり男前と呼ばれることは未だ慣れないのですが、ありがとうございます。春さんのご友人でしょうか?」

 目を丸くする神田だったが、一拍も打たない間に、いつものにこにこ顔へと戻す。


 「は、はい! 四宮さんの友達の、神田と言います」

 「よい友人と巡り合えたようですね、春さん。神田さんも、春さんをよろしくお願いしますね」

 どこか誇らしげに、自転車のハンドルをきゅっと強く握る神田。

 「はい。…じゃ、春ちゃん、また明日ね!」

 「あ、うん。じゃあね」


 ああそれと、と、謎の気を利かせてか、自転車に颯爽と飛び乗り、勢いよくペダルに足を掛けた神田に、○○は声を掛けた。


 「手先が少し、荒れていますね、神田さん。冬ではないにせよ、ハンドクリームなどの手入れをしては如何でしょう。お肌は女性の武器と聞きます、“たまにはフロアでの接客も一興かと”」


 二人へと振り向くでもなく、神田は背筋を硬直させ、すべての動きを停止させる。ペダルを漕ぐための足すら、細胞単位で凍り付いているようだ。少しの間の後、気の抜けた表情で、○○へと称賛の言葉を投げ掛けた。


 「すごい… 探偵さんみたいです」

 「ふふ、探偵は昔ほど稼ぎにはなりません。私はほんの少し、分かったようなことを言っては、初対面の方を驚かすのが好きなだけですよ」

 「○○さん、なんか私が恥ずかしい…」

 これは失礼、と、笑みを絶やさぬままに春へと頭を下げる○○。ここで、例の如く、神田の履いているソックスに縫い付けられていた、ワンポイントのリボンの刺繍が、若い声色で○○を窘め始める。


 「エドゥ=バル、エドゥ=バルよ。装飾を施されることのない、向こう側への道と成る、ありふれた橋よ。激流に逆らうことで、自身の才を誇示するものは、親を亡くした孤児よりも救い難い。そのような一幕で遊ぶな、エドゥ=バル。息すら継ぐことなく、お前は心の臓が止まるまで、踊り続けるのだ。エドゥ=バルよ、お前の才は、他ならぬ自身と深く対話するために在るのだ」


 二人の目線が、自分の足元に止まっていることを告げてくれたことで、すっかり身体の強張りが解ける神田。これ見よがしに、おっと、と、腕時計を見やる。

 「では、遅れそうなので! 春ちゃんも、○○さんも、いずれゆっくり話しましょう!」

 ええ、と○○は返しながら、凍っていた分だけ溜めこんでいた反動を元手に、両脚をフル稼働させ、姿をみるみる小さくさせて行く神田を見送った。


 「神田さん、実によい子ですね。ですが、そういう人ほど、無理をした分だけ影を抱え易い。春さん、神田さんを照らし続けてあげてくださいね」

 「はあ…」

 むしろ神田に救われているがために、○○のその言葉に、もどかしさを覚える。どうにも逢ったときから、自分への、期待値と言う名のハードルが高い。もう、いちいち口には出して問うたりはしないが、どのようにして、彼女が今からアルバイトだと、どのようなアルバイトなのかも踏まえて、言葉を交わすでもなく把握したのだろう。そんなことを考えながら、つい神田と比べては、卑屈な言葉を並べてしまう。


 「…強い人を見ていると、尊敬します」

 確かに、と○○は頷く。


 「ですが、弱い方が懸命に生きる様もまた、往々にして、それはそれは美しいものですよ?」

 一度斜面を転がり始めてしまった手前、春は更に顔の角度を下へ調整する。


 「それでも、強い人が、強く在り続けようとする姿勢は、弱い者には叶いません」

 「ふふ、懸命に生きている、という点においてはそのどちらも同質です。春さん、言葉遊び、お好きですか?」

 「それこそ敵わないので結構です…」


 ○○は、特段隠すわけでもなく、にこにこと春の反応を楽しんでいるのが、手に取るように分かった。慣れてさえしまえば、もちろん、何のことはなく、むしろ下手な詮索合戦に乗じなくて済む分、気は楽である。

 「遊びですから敵うも何もありませんよ。おっと、ここで立ち話もなんです、これから幾らかお時間はありますか?」

 先の神田の件だけでなく、どうしてA校に通っていると分かったのか、そしていつから待っていたのか。様々な質問が次から次へと泡のように浮かび上がって来るものの、確かに○○の言う通り、自分の通う高校の門前で立ち話から生じる気恥ずかしさが上回り、直ぐに弾けた。…当然この会話の最中にも、疎らながら、二人の隣を往来する学生が、絶対的な距離感を示す目線を伴って過ぎていく。



 「…紅茶がおいしいところなら」

 ふふ、と、○○が口の隙間から漏らす。

 「そう仰ってくれるのではないかと、予めスマートフォンで口コミ評価の高い紅茶が美味しいと噂のお店を探しておきましたよ! いやはや、便利になりましたねえ」


 彼は続ける。

 「ですが、今の世では。道に迷い、隠れた名店を探す楽しさも、どうして忘れがちになります。春さん、道には迷いましょうね」

 「いや、迷いたくはないですけど…」


 そう他愛のない言葉を交わしながら、春は少し、安堵を覚えていた。彼はきっと、紅茶を嗜まないのだろう。何故自分が紅茶を好きだと知っているのかはさておき、彼にも、知らぬことがあるのだと。本日は、いつぞやとは違い、黒が反射するほどに、快晴である。


 

 千代田区の中央に構える神保町には、幾らか来たくらいでは網羅できぬほどの、洒落た喫茶店が歩かずとも散見できる。気取った街並みを行き交う、働き盛りのスーツたちと、ラメに彩られた胸元のサングラス。時計の短針に遠く及ばない、乱れた音を刻むハイヒールと茶の髪。誰かが壇上に立って演説をしていると言う訳でもないのに、足元から犇めく声、中りに黒。

 

 「その隣に、過ぎた春。黒に添えるに、過ぎた白。ふむ、どうでしょう」

 「…すらすらと、よく言葉がでてくるものですね」

 

 上機嫌な○○の隣で、薄い皮肉で巻いたように見せかけた感嘆を伝える春。外来語をひとつでも、日常で使える人は確かに羨ましさを覚えるところだが、日本語もここまで遊ばせることができると、ただひとつを突き詰めるのも楽しいのではと、思わざるを得ない。

 「その通りです。私はとても、日本語が好きなのですよ。表現の幅が広過ぎるほどで、故に生じる曖昧さが、更なる可能性を生み出していますからね。本当に、日本に生まれてよかったと思います」

 見上げるまでもなく、足元のコンクリートの反射が、今日の暑さを物語っている。着きましたよ、と、彼が案内してくれたのは、また、白を基調とした、小奇麗な店だった。○○と歩いていたこともあるのだろう、神保町までの体感距離はそれほどでもなかったが、肌からは正直に汗が滲み出している。

 

 「身を包むには黒が落ち着くのですが、それ故か、周りを包まれるには白でして。無いものねだり、でしょうかね」

 まだまだ言葉を遊ばせながら、店内へと入って来た彼を見る店員は、一瞬、怪訝な目線を遣りつつ、意識的に上げられた口角を以て対応する。いらっしゃいませ、と声を掛けられた○○は微笑み交じりに、二名であることを伝えた。

 

 「…よろしければ、ご注文を伺いますが」

 案内された窓際の席は、窓越しに大通りが映る。

 「本日のおすすめの紅茶などあれば、それを二つ、お願いします」

 かしこまりました、とカウンターへと踵を返す店員。二度目になる、春は座る際にも、足の位置などを気に掛けることはもう、しない。

 

 「…紅茶、好きじゃないんじゃ?」

 自分の予想以上に紅茶の種類があることへと目を見開きつつ、○○に問う。

 

 「そうなんですよね、楽しみです」

 「言っていることが滅茶苦茶では…」

 笑みを絶やさず、おしぼりで手を拭きながら口を開く○○。

 

 「座って早々ではありますが、少し、楽しいお喋りでもしましょうか。春さんは、よい食事とは、どのようなものを指すと思いますか?」

 この唐突な問いも、最早春にとっては待っていた節すらあった。もちろん、待っていたとはいえ、咄嗟に巧いことを言えると言う訳でもない。

 

 「ん。うーん、良いもの、美味しいものを食べる、飲むことですかね」

 「確かに。人を良くする事、と書いて食事ですからね。ですが、よいもの、にも色々あります。たとえば、身体によいのか、精神、心によいのか。小さな頃は、身体に悪いと言われるファストフードに、嬉々として惹かれて食べては、親に感謝していたかとは思います。それらの食物が身体に悪いことは語るまでもありませんが、子が喜べば親も喜ぶこと請け合い、理想的な食卓の雰囲気を築き易くなりますね。これも立派なよい食事の例だと言えるでしょう」

 なるほど、と、春は膝を打つ。

 

 「…逆に言えば、美味しいと思わぬまま、しかめ面をしながら、身体によいものをとることも、立派な食事だと」

 「その通り! まあ、此度の紅茶に関しては、美味しくないものを飲むわけではないので、少々例からは漏れますが。要するに、であればこそ、美味しいものを美味しいと楽しく、美味しくないものを美味しくないと愚痴をこぼしながら楽しく食べる、これが食事の肝なのではないかと言うことですね」

 「…嫌いなものも楽しく、ですか。難しいですね」

 そんな春の言葉に応じて、微笑みながら、○○は言葉を紡ぐ。それは妙に、刺さるものがあった。

 

 「そのために、人には他人がいるのですよ」

 

 ここで、お待たせしましたと、ステンドグラスが散りばめられたガラステーブルへと、注文した紅茶が、置かれる。淡い桃色と、紺色で染められたティーカップ。その縁の精微な装飾から、高価なものなのではないかとまじまじと眺める春に対し、○○は既にカップを持ち、紅茶の香りを身体に通していた。

 「ふふ、やはり紅茶はどうにも慣れない。どうせ、美味しいだけなのでしょう」

 「それでいいんですけどね…。ん」

 特別、紅茶に詳しい訳ではないが、その美味しさに思わず声が零れる春。濃厚過ぎない甘みと、温かみが、胃から四肢へと、じんと流れてゆく。そんな春を○○は、穏やかな眼で見つめる。

 

 「自分は満足していなくとも、ともに食事の席に座る人が満足気であるならば、それもまた、自分にとっての良い食事です。さしもの私も、今回のお店選びは、スマートフォンに華をもたせないといけないようですね」

 ○○が言い終えると同時に、隣のテーブルに座っている女性二人組、その片割れのイヤリングが声を漏らした。

 

 「食とはエドゥ=バル、何かの命を食らうことだ、エドゥ=バル。言わずもがなという言葉は、肝要なことを繰り返し反芻するための枕詞。エドゥ=バル、何かが今も、何かの命を食べては、何かの命が何かに食べられている。だが、エドゥ=バル、お前は食べられる存在か? では、お前は、何を喰らい続け、何を代償として差し出す? 空腹か、エドゥ=バルよ?」

 

 音を立てるでもなく○○は、紅茶をガラス仕立てのテーブルに添えられたカッププレートへ戻す。

 「これはまた、丁度良いときに。メインディッシュなトークです、春さん。先日は、ふふ、邪魔が入りましたからね。…ヤオロズさんの声。貴方には、どのように聴こえているのですか?」

 おおよそ、察しはついていた。そして今日もきっと、その擦り合わせ、話は尽きぬことだろう。もっとも、春自身が、それを望んでいたからこそ、今此処に座っているのだった。知らぬまま抱えるには、全貌が見えない、不安定な危うさをもっているような気がしてならなかったからだ。

 

 「うーん、声として、聴こえるには聴こえるんですが、何というか、ぱっと、頭の中に文字が浮かんできて、それを声がなぞっていく感じですね。ヤオロズ、さんは、文字に起こすと結構喋っていると思うんですが、体感的には、すっと数秒ほどですべて頭に入ってきます。...分かり辛いかもですが」

 ほう、と声を少し大きくする○○。

 「ふふ、質問攻めとなりそうですね。先の内容は、ざっとで結構です、どのようなものでしたでしょうか? また、彼らは、春さんに呼び掛けているのですか?」
 

 先のイヤリングが語った内容を繰り返し伝える春。持ち主はもう、店を後にしていた。

 「…という内容ですね。あと、エドゥ=バルという名は聴こえて来ますが、特に私に対して語り掛けているわけじゃないようです」

 「なるほど。今までの素振りから見るに、声の出所も把握しているようですが」

 「恐らく、○○さんと一緒だと思います。さっきので言えば、そこに座っていた女性のイヤリングからでした」

 ふむ、と、既に空席となったその場所を○○は見やる。

 「…どうにも、私に聴こえている内容や聴こえ方、そのプロセスまでもが同一のようです。聴こえているという事実だけでも十二分に満足なのですが、どのように聴こえているかも大事だったもので。ますます、心置きなく死ねるかもしれませんね、私は!」

 「はあ…」

 

 嬉々としている割には、細かなところまで擦り合わせてくる彼の姿勢に、やや春は椅子の背へと、もたれる。悪い気はしないのだが、どうにも荷が勝ち過ぎる。そもそも、まだ自分が何故聴こえるのかを含め、あらゆる理解が十分に及んでいないからだ。○○と喋る時以外は、全く聴こえてきた試しもなく、また他の時間で何か特異なことが起こったわけでもない。○○とともに過ごしている時以外は、まったく普通の、斜に構えた子どもに過ぎない、そう春は自覚していた。

 

 「…仮に、期待されていたとしても、私に何かができるとは思えません」

 ご謙遜を、と、意味を持たせるには統一性のない、色や絵柄を度外視している歪なステンドグラスを指でなぞる○○。

 「私も、何かを成したわけではありませんよ。そして、春さんの世代で、何かが成し得ることができるとも、あまり考えていません。そこがキリストさんとは違うミソだとは、先日にもお伝えした通りです。まあ、春さんの後に誰かが続くのかも、これまた不明瞭なのですが」

 春の相槌を待たず、活き活きと○○は続ける。

 「繰り返しにはなりますが、春さんとの出逢いは、あらゆる可能性を、私の中でクリアーなものにしました。そう、あらゆる疑問が浮かんではまた、水面に上がってきては、どの気泡から突いてみようかと、楽しくなるほどに。これを機として、私のような人間と立て続けに、出会えたりしないものですかねえ」

 身内の変人を含め、その可能性を否定しない、できない春。

 

 「...案外近くにいるのかもしれませんね」

 ○○はふむ、とだけ口で応える。目線は、まだ少し夕暮れと言うには早い時分のためか、そこまで情報量の多くない外の雑踏を眺めていた。

 「推測ではありますが、春さんのように、誰かのその能力とやらを共有出来たりする方は、私のような人間よりも珍しいのではないかと。また、私には私のヤオロズさんが、他の方には、その方なりの聴こえ方が、きっと在るのだと、そう私は思っています。見たところ、春さんは未だ、そういった方の声は聞こえたことがないようですが」

 「そうですね。○○さんと出会うまでは、特に何も」

 手元の紅茶に目線を戻す○○。ぐいと飲むことはあまりないのだが、気付けばもう、底を尽きかけているようだった。

 「私が第一号というのは確かに、嬉しいものがありますが、そう考えると、やはりそのような方々が思っている以上に少ない、ということなのでしょうね。現状、私たちだけの間にのみ、成り立つ作用。ときめきを覚えるようで、それはそれで悲しいものです」

 

 別の意味合いを、春の中では隠して持たせながらも、悲しいと言うのは止めてくれと○○に口を開き掛けたその時、先日の喫茶店と異なる、自動ドアの開閉時に響く、よく聞く電子音節が木霊した。見覚えのある、二人。

 

 「おいっす。店は間違っていなかったようだが、○○。お前さん、紅茶も嗜むのかい? 先日ぶりだね、お嬢ちゃん」

 「○○さん、四宮さん。ご無沙汰しております」

 

 理解が追い付かない割に、そういえば、前もそうだったなと冷静さを保つ春。

 「お二方、どうも。無沙汰というには、間隔は短いですが。ふふ、春さん、今回はお邪魔虫ではありませんよ、倉野さんたちは」

 

 

 小さな声ながら、春は店員を呼び、捕まえる。残念ではなかった、と言えば嘘になるが、先日の間違えをまた冒すほど春も、子どもではない。代わりの紅茶は、既に決めていたのだった。




***




 「嬢ちゃんと呼ばれるのは、なんだか慣れません」


 久しからず、先日と同じ座り位置で、テーブルを囲む四人。まだ陽が照る浅い時間であると言うこと、であるが故に、テーブルの面へと描かれた、無造作なステンドグラスの文様が光を反射させ、それぞれの貌を明るく浮かび上がらせていた。


 「倉野さん、最近の世間では、下手を打たずとも、直ぐに諸問題に繋がる可能性があります、ご留意願えればと」

 神保に窘められる倉野は、溜息を見るからに、わざと吐く。

 「分かってるよ。…せちがれぇな」

 春は慌てて訂正を挟んだ。

 「あの、セクハラとか、そう言うわけではないんですけど」

 「春さん。倉野さんは、ふふ、御年頃の娘さんを抱えているばかりに、いつも世知辛い素振りをするのですよ。その無精髭、また娘さんの説教が長引いたのでしょう? 大方、母のところに行くだとか」

 「…お前さんにはプライベートを重んじる礼儀がないのか」


 倉野の表情の変化を見ては楽しげに、○○は更に詰め寄る。

 「一人くらい、あなたの心臓を抉る人はいないとですね」


 まったく、と、また大袈裟に喉の虫を鳴らす倉野。その割には、○○を見る目が、その尻に皺を作っていた。


 「改めまして。先日ぶりです、○○さん、四宮さん。本日は、捜査協力、ということでよろしいのでしょうか」

 そうですねえ、と、わざと歯切れの悪い言い方をする○○。

 「こちらこそ、呼び立ててしまい、申し訳ありません。ただ単に、この四人でお茶会、という名目でも良かったのですが、それでは神保さんが来てくれないのではと思いまして、捜査協力ということにしておきましょう。先日のケースに関して、こちらの優秀な助手とお喋りしているうちに、もう少し思考を割いてみようと思いまして」

 「お前さんが誰かの意見を取り入れる、ってのも珍しい話だな」

 心外だと言わんばかりに、○○は左の掌を大きく開く。

 「皮肉が未だ不得手なところが、貴方の素敵なところではありますが、しかし倉野さん、私はいつだって、他人に頼り切りですよ」

 「…○○さん。もう少し思考を割く、と言うのは」


 そう身長自体は変わらないにせよ、○○よりも、鍛えているのであろうその体躯が、背もたれ付きのカウンターチェアに対して、窮屈であると愚痴を漏らしている。それでいて、三点のボタンシングルのうち、上二つを、頑なに留めている辺りが神保らしい。


 「ええ、先に少しだけ触れた、犯人像について。あくまでも興味本位、という扉を幾らか叩いての話になります、砕いて言うところの妄言、のようなお喋りだと予防線も張っておきましょうか。…個人的には、より確信に変えて、シリアルキラーと断ずることができる、と考えておりまして。犯行動機に関しては、未だ不明瞭な点もありますが」


 「…物騒なこと言うじゃねえか」

 倉野の顔は、決して冗談でめかしていない。それは、今、倉野の手前に置かれたブラックコーヒーの表面から、顔を見なくとも分かる事であった。その隣に、スティックシュガーとフレッシュが添えられた、カフェオレが並ぶ。見た目に相反して、正義を背に座る若い青年は、甘党のようだ。

 紅茶が美味しい店だと言うのに、コーヒーを頼んでは、にげぇと漏らす中年。その右手が、テーブルに予め備えられていた角砂糖へと伸びようとした直前に、○○が先手を打った。


 「砂糖はひとつまでですよ、倉野さん」

 「うちの娘みたいなことを言うんじゃないよ」


 対して、スティックシュガーひとつでは飽き足らず、ただし倉野の目線を盗むように、神保がコーヒーにこっそりと、角砂糖を落とし入れながら口を挟む。

 「シリアルキラー、と表現するのは、意図的ですね、○○さん」

 「ふむ。知識を有しているだけでなく、相手の意図を汲み取ろうとする、気付きの素養がある。流石ですね、神保さん」

 神保は、いえ、と、強張った顔で謙遜をする。

「連続殺人と何か違うんですか?」


 春はきょとんと、何となしに問うてみる。倉野がプラスティックのマドラーで、コーヒーの中へとなけなしの角砂糖を入れては融かせ、答える。

 「連続殺人ってのは、一日単位の短期間で、数件の殺人を繰り返す犯人に使われるのさ。対してシリアルキラーは、次の殺人までにある程度のクーリング期間を設けるんだよ。ざっとな違いは、そんなところだ。…どちらも狂人には違いないよ」

 「警部補は伊達ではないようで」

 「冷やかしにしか聞こえん」



 熟れた茶化し合いを他所に、神保が更に踏み入れる。

 「その推察の根拠、またそう断ずるに至った経緯は?」

 気持ち、○○へと耳を向ける春。すらすらと、その低い声で言葉が目の前を漂う様の心地良さを、もう充分に理解できていたからだった。


 「おさらいしましょう。このケースは、犯人が殺害を冷静かつ確実に実行している点、またそれに伴う熟達したスキルを有している点を除けば、動機を垣間見せるような特徴がほぼ見られず、徹底して機械的に執り行われています。最初こそ、そのような犯行を重ねることで、何かしらのプロパガンダや、その他思想を伝えようとしている型の像をイメージしていたのですが、どこか噛み合わない。神保さんのことです、直近半年から一年の間に、このケースに類似した、犯人不特定の刺殺事件は無いかと洗っていますね?」

 ○○が言い終える前に、神保は、古びたビジネスバッグからひとつ、まとまった書類の束を取り出す。素早い手つきから、準備は周到であったようだ。数十の赤と黄の付箋が、至る所から顔を覗かせ、白い長方形を彩っている。

 「…昨日までに、とりあえず向こう二年のリストを洗いました。刺傷事件は全国各所で、数ヶ月に一度のペースで発生してはいるものの、すべて加害者は逮捕されていますね。対して、明らかな殺人事件であるのにも関わらず、刺殺した犯人が未だに不特定なものは、三件ほど。それも、ここ東京でなく、関西、九州、東北各地でばらけて一件ずつと言った形です。○○さんの仰る通り、機械的な手法を採られているのかと、それぞれの内容もさらっとなぞりましたが、今回のような刺殺方法に近しいものなどは見受けられませんでした」

 ○○はほう、と、顎に右手を遣る。


 「私の見立てでは、今ケースと同一の殺人犯である、と確信していたのですが。神保さんのことです、確認を怠ってはいないでしょうが、また暇のある際にでも、もう一度眼を通して見ておいて損はないかと」

 分かりました、と答える神保に対し、倉野は両肩を、呼吸に合わせては、これ見よがしに上げて、落とす。


 「あのなあ○○。さすがのお前さんでも、それは飛躍が過ぎないか? 何より、口ぶりが同じ犯人に仕立て上げたいかのように聞こえるぞ。…あと、そんなやつ、人間じゃなかろうが」

 ふふ、と○○は何かを含みながら返す。

 「ですから妄言の類でもある、と保険を掛けたのですよ。人間じゃない、という指摘に関しては、先日、そのような切り口も大事だと教えてくれた方が、こちらの春さんになりまして。あの言葉を反芻するうちに、”そんな人間”もいるのではないかと」

 神保は、先に拾い忘れた疑問を言葉に代える。

 「では、○○さんご自身がシリアルキラーと断定しながらも、これらの殺人を通じて、何らかの主張に代えるタイプの人間ではないと推し量る根拠は、何処に在るのでしょうか」

 あっけからんと、○○は簡潔に即答した。


 「まあ、凶器ですね」

 「…はあ?」

 倉野が、たまげたように返す。その素っ頓狂な声に、神保も眼を細めた。○○との付き合いの長い倉野ですら、未だ見たことのない面だったのだろう。この期に及んで、倉野を驚かせる、○○の、その変わりぶりの所以。二人は、確りと春をここで「主役のひとり」であると認識することに至るのだった。...しかし、本当に、失礼なようだが、この場には未だ似つかわしくない。それくらい、神保には普通の女子高校生に見えている。


 「そうですね、一度些事としてスルーしたことは認めざるを得ませんが、このように仮定してみてからは、やはり凶器、またその行方が根拠へと準ずるものに成り得てくるのではと。私の読みが外れてなければ、ですが。神保さん、解剖医や、現場鑑識の見解はもう出ていますね?」


 先日の報告を、神保は○○に繰り返し説明する。なるほど、と、頷く○○。

 「大方読みの通り、というところでしょうか。何かしらの主義、思想を有している場合、殺害の現場へと、特定の凶器や何かしらのシンボルを痕跡として残すものです。だが、それをしていない。同一の凶器を使い続けることで意味を持たせるケースも看過できませんが、既に使用済みのものを凶器として用いては象徴に代える、とするとはあまり考えられません」


 「待て。今回が初犯であるというのも捨て切れん。あまり考えられないとは言うが、今後、何らかのプロパガンダに繋げることを仕出かしてくる場合も大いにあるんじゃないか?」

 倉野は、真っ直ぐと、○○から紡がれる言葉の数々から、更に犯人像を絞り出そうとする。弁の立つ○○に喰らい付いては、綻びがないものかを考え続けるその姿勢から、付き合いの長さが伝わってきた。

 「その可能性は、思考を割けば割くほど薄くなっていきます。たとえば、犯人の身になったとして。先の凶器に関する情報も揃えた上で、何かを他人に訴え掛けたいと思い、犯行に及ぶとき、このケースを第一号とするでしょうか? 手練れのようなイメージこそ世間、警察側に植え付けこそするものの、それ以外は機械的であるがために、今後の”イベント”のオープニングとしては些か地味が過ぎるのですよ。それほどまでに犯人は、殺人と言う一点のみに何かしらの真髄を求めている、と解釈できる。…あと、洗剤の成分が付着していたとか?」

 「はい」

 ○○は微かに笑みを絶やさないままに、紅茶を飲み干す。合わせる形で、神保もコーヒーを口元へと運ぶ。


 「きっと、持ち帰っては今頃家庭で使っているんでしょうね」

 「…馬鹿な」

 冗談はさておき、と付けて足す○○。

 「あらゆる仮定からどのような解釈へと繋げても、今回の犯人は頭が振り切れている、ということには違いありません。春さんの言葉がなければ、ここまで深く思考することもありませんでしたが」


 気恥ずかしさから、さっと、紅茶に視線を落す春。そのとき、目の前に座っている神保が手で遊ばせている黄色の付箋が、触れられないままに、風も受けないままに、突如として揺れた。


 「そうだ、エドゥ=バル、エドゥ=バルよ。淀んだ沼より生を受け、他に感応し拡大する蒲の草よ。妄言とは斯くも甘い蜜の味がするものだ、厳しさを湛えた現実しか突き付けられぬ神とは、お前は、対照的だな? エドゥ=バルよ、御伽噺は、神は読まぬ。エドゥ=バル、神に声があると思うか?」


 聴こえていたのかと思うほどに、ヤオロズが消えたタイミングで、顎をさすりながら、倉野は渋い声で喉を鳴らした。

 「…で、○○。仮にそうだったとしよう。仮に、シリアルキラーで、過去の、三件だっけか? お前さんが妄言だって言うそれらの刺殺事件も、どころか、それ以前の犯人不特定、お蔵入りになってる殺人事件たちも。このケースと同じ犯人が行ったものであるかもしれないとしよう」

 ずいっと、灰のスーツの袖でコーヒーカップをどかしては、○○へと少し前のめりになる。

 「どうやって捕まえるんだ?」



 倉野から目を逸らすことなく、これまたあっけからんと、○○は答えた。


 「何を仰っているんですか。不可能に決まっているでしょう」


 はあ、と、倉野は溜息を吐く。

 「だよなあ… だから妄言とか言って保険を掛けているんだろうと思ったよ」

 ここで、ウインクをしながら春に顔を向ける○○。…恐らく生涯で初めてウインクをしたのであろう、ぎこちなさが過ぎる。...というか、右目も同時に閉じてしまっているほどだった。


 「ま、そういうことですね。…しかし、天啓が降れば、話は変わって来るのかもしれませんよ?」


 眼を見張る洞察力、推理力に舌を巻きながらも、果たして神保は、この○○が捜査に協力するつもりでいるのか理解できないままでいた。犯人像こそ、今の会話の中で掘り進めることが出来たものの、最後に匙を投げ出しているために、結果、特に収穫はなかったように感じる。本当にお喋りがてらとして、我々を呼んだのだろうか。...または、何かを、はぐらかしているのか。しかし、先日とは異なり、そうして○○に振り回されることは、もう苦々しく胸に積もるようなものでもない。そんなことを思いながら、手元のコーヒーの揺らぎを、じっと見つめる。昼間に食べたカツサンドの名残だろうか、幾らか油分が浮いており、口元を十分に拭き取れていなかったことを教えてくれていた。昨日まで、惜しまず眼を通し、貼り続け付箋の数々が、少し休めと語り掛けている気がしたが、まだ、甘えるわけにはいかない。

 

 対して。今日も今日とて、応酬を散らす三人を他所目に、本当にただの高校生として、春はメニュー表を眺めていた。よく聞く割に、飲んだことのなかったアールグレイ、と言う紅茶を堪能できたことは幸いだったが、三杯目を頼むつもりもない。○○も、それに気付いてはいるのだろう、春を時折見やりこそするが、春の挙動には口を挟まないでいる。それどころか、よく聞いておいてくださいね、というような、積極的に会話へと参加するよう促すこともしないでいた。…助手とは、いったい何なのか。ここに居て、よいのだろうか。また、父を待たせてしまう。…また、どうせ揶揄われる。




 「殺人という点のみにおいて、ストイック、ねえ」


 対して内野の倉野は、先ほどの○○の言葉を改めて突いていた。肯定の言葉に代えて、頷く○○。

 「個人的には、向こう二年で見られた三件以外も、犯行を行っているのだと睨んでいます。たとえばそれは、事故に見せかけたものであったり、たとえばそれは、病気に見せかけたものであったり」

 神保が、詰め寄る。

 「…そこまでして、殺人を行う理由は?」


 「私個人の見解ですが、修行僧みたいなイメージじゃないかと。だから、動機も何も見えてこない。ただただ、スケジュールをこなすように、更なる自分のために、人を殺す。性的欲求の充足や、ましてや生来の殺人衝動があるわけでもないのかもしれません」

 また、突拍子もない仮定を並べる○○に、さしもの倉野も辟易さを滲ませ、溜息を吐き出す。


 「そんなやつ、とうにシリアルキラーって甘々な範疇を超えてるだろうが。化けもんだよ、化けもん」

 「失敬ですね。私はそんなことしませんよ? 倉野さん」


 ふん、と、後ろに身体を退いては顎をさすり、コーヒーカップに指を掛ける倉野。その反応を見るに、どうにも裏で○○のことを、茶化して化け物と評しているのも、彼にはお見通しのようだった。

 「話を戻しましょう。捕えるどころか足跡を捉えることすら極めて困難と言うのは、当然、犯行の時期や場所、殺害方法など、犯人のすべてにおいてランダムであろうタイミングを予測しなければならないことに起因しています。それを実行できるだけの卓越した頭脳、思考、危機管理および回避を可能にしている犯人の知性。それを化け物と言うなら、間違った呼び名ではありません」

 「...お前さん以外にそんなやつ、いるかあ?」


 「そんな方の登場を、楽しみにしているんですよ。おっと、変な意味はありませんよ? ね、春さん」

 「いや、あの。ついていけないです…」

 けたけたと笑い出す○○。善良ないち市民、とやらを若干、否、舐めてはいないだろうか。わざとである辺りが大変失礼である。


 「まあなんだ、あくまでもお前さんの大好きな可能性、ってやつだ。悪く聞こえたら済まんが、上に報告するほどの情報もない、他からのサポートも頼めないだろう。何せ、捜査一課でも”鋭意捜索中”ってなところで一度保留になりそうな勢いまであるくらいでな」

 はい、と、にこにこしながら○○は黒い袖を揺らす。

 「無論、承知しております。あれやこれやと言葉を良いように羅列こそしましたが、未だ妄言、という範疇を出ないことは、第三者から見ても疑いようがありません。また、私も本業はこれにはなく。保留であると警察の方が判断するならば、私も一般人の端くれ。掻き回すことはしませんよ」


 …一般人と自称するのは止めて欲しいところではあるが、やはり○○という男、どうにも掴みきれない。そう、しみじみと神保は思う。自身の能力を認めて欲しいなどの承認欲求がまるで見えないのだ。あたかも、手だけをすっと差し伸べる、無償の聖職者のようにさえ、感じる。

 「…とはいえ、○○さんの推察も、捨ておくには信憑性に欠けている、というわけではないと自分は考えます。今後、とりあえずは、東京周辺での刺傷事件に関して、引き続き眼を光らせておきますので」

 ○○は、ほう、と声を上げ、少し顔を長くした。これまたわざとらしいが、僅かながら確かに驚いているようではある。


 「これはこれは! で、あれば。神保さん、東京周辺でなく、全国地域、死傷者でなく死者の、また、できれば交通事故などを含むものをすべてリストアップしてみるとよいかもしれませんね」

 途方もない無理難題を澄ました顔ですらすらと○○は話す。そのような時間がない、というのは、彼も分かっていることだろうに、と、神保は右手の指で額を強く押す。

 「…そこまでの労力を割けるかは怪しいですが、空いた時間で可能な限り取り組んでみます。…死者、ですか?」

 「ふふ。この犯人、必ず殺しそうな気がしませんか?」



 倉野が、二人の掛け合いをそっと、隣から微笑みつつ眺めていたが、ここで口火を切った。

 「よし、わかったわかった、○○。少しばかり、俺ら二人はお前さんの口車に乗せられることとするよ。だが、期待はするなよ? 忙しくなりゃ、お前さんを優先したくてもできないこともあるからな。まあ、そういうこった、...話の腰を折るようで悪いんだが、俺らはちょいと今から野暮用があってね。神保、行こうか」


 目を丸くする神保。事情を一切聞かされていなかったのだろう、春から見ても、メニュー表を横目でちらちらと見ては、何を頼もうか思案しているようであったため、神保の顔、眼が落ち着きのないままに倉野へとピントを合わせようとしていた。

 「申し訳ありません、聞きそびれていたのでしょうか、失念していたようです」

 倉野は、笑いながら首を振る。


 「うんや、ちょいとな。例の管理官様がお前さんに会いたいとよ。行く前から息捲かれても困るから、直前に言おうと思ってたんだ」

 聞くや否や、背広を舐め回すように、再び眼球だけを高速で動かし、埃や目立った皺がないかのチェックを始める神保。追い付く形で、身体全体が急に、そわそわと動き始める。

 「…承知しました。倉野さん、一度自宅へ戻ることを許可して頂けますでしょうか」

 「そう言うと思ってだな…」


 うなじを擦りながら、すっと立ち上がる倉野。腰を椅子から浮かした瞬間に、神保が音を立てて左に倣った。...若干、呼吸が浅い様子だ。

 「ま、楽しかったわ。○○、嬢ちゃん、…四宮さん、またな」

 「ええ、はい。ありがとうございます…」

 倉野の不器用な気遣いへと、咄嗟に何故か感謝を伝えてしまった春の横で、にやにやと。おやあ、と、首を傾げて倉野を声で引き留める○○。


 「倉野さん、漢気は何処にありましょう?」

 「はん。お前さんが今日話したのは妄言だ、って自分で言ってただろう?」


 「それを座って聞いていたでしょう?」


 はあ、と、ジャケットに手を差し込みながらカウンターで待機している店員へと歩を進める倉野。倉野はそんな寂しい背中を追いながらも振り返り、頭を下げる。

 「先日に引き続き、どうにも落ち着いて話せぬようで。では、○○さん、四宮さん。一刻を争うようですので。急ぎ早で申し訳ありません」

 「はい。ではでは。警視さん、ですかね、よろしくお伝えください」


 「…控えておきましょう」

 果たしてどちらの意味なのか、春が分かりあぐねている最中ながら、自動ドアの開閉音とともに、二人が何時しか姿を消していた。

 ここで、隣から、ふふふ、と、刻んで喉を震わせては漏れる声が聞こえる。いつも以上のその笑みは、不気味さすら覚えるものがあった。


 「掻き回すことはしない? とんでもない、私と”同じ類の人間”が近くにいるのかもしれないんですよ? 見過ごすわけがないでしょう、突っ込むところまで首を突っ込みますとも。このケース、あのお二人の興味を絶やさぬようにしなければなりませんねえ」

 「やっぱり… そんな気はしてました」

 ○○は、何度も頷いては、先の一時をまた、反芻し始める。

 「自分でも、言葉に直せば直すほど、確信が強まっていくことに興奮を覚えていました。妄言でありようがない、オリジナリティ溢れるキラーとみて間違いないでしょう。この犯人、確実に狂人の域を超えています」

 独りでに盛り上がっているところ悪いとは思いつつ、適当に、話を乗るため、春はひとつ、問うてみる。


 「どんな人だと、思いますか?」

 「そうですね。私の仮定からすれば、まず、いち地域に定住をしている、という可能性は前提で消えています。それに囚われることのない、むしろ逆手に取りやすいイレギュラーな生活をしている、ということが妥当でしょうね」


 問うておきながら、その○○の返しで、一度、春の思考が止まった。幼い頃、物心のつかない頃、ついた頃。その道すがら、経ての今。父が一身を注ぎ、自分を育ててくれている、今。何の縁か、この黒尽くめの男性と話す、今。笑ったとき、泣いたとき。…母さんの死んだとき。そんなざらついた記憶の断片が、割れて尖ったガラス片のように、海馬を裂き、漏れ出してくる。



 「…たとえば、どういう?」


 春は、こうは聞いたものの、彼がどう答えるのかは、目に見えていた。彼の眼が、もう次の言葉を用意している眼だったのだ。言われるくらいなら、という青い心持ちが、たまには頼もしい。



 「ふふ、貴方の置かれている環境と同じく、親御さんが転勤族であったり、とかですねえ」



 「…そういうところ、嫌いなときもあります」

 「なんと! 嫌われるほど、仲良くなっていたとは」

 何を踏み越えるでもない。彼の言葉を借りるなら、あくまでひとつの可能性にしか過ぎない。それも踏まえた上で、春の心を根から揺さぶる、この悪魔のような悪戯を、しかしどこか堪能していた。何故か自分に、このような耐性があるのかなどというのは、この後、家に帰ればわかることなのだ。

 「はあ…」


 誤魔化すあたりが、優しさなのか。何処か子ども染みている彼が、そこまで出来た人物でないことを祈る春を、夕暮れの神保町がそっと照らす。千代田区の中央に構える神保町には、幾らか来たくらいでは網羅できぬほどの、洒落た喫茶店が歩かずとも散見できる。帰りの道も、それらは変わらない。



 カン、カン、と響かせ。エレベータでなく、マンションに外付けで備えられている、まだ錆び付いていない鉄骨の階段を伝い、七階へと上がる高校生。その宙ぶらりな拘りは、つい先程、紅茶を二杯も飲んでしまった分の、そのカロリーを消費しようとしていることに因るのだと、別の自分がその解釈を肌に貼り付けていた。今日は一段と、カラスの声が響く気がする。

 部屋へと続く、長細い廊下に、遠くに薄ら見える山々を掻き分けるでもない斜陽が垂れ込む。歩を進めるなか、隣の田村さんの家から聞こえる、小さな男の子の声。確かに、快活な声のはずなのだが、この頃合いに聞くと、どこか一抹の寂しさを感じるものだった。


 「...ただいま」

 丁度、自室からリビングへ向かおうと、廊下を歩いていた冬人が足を止め、背中越しに声を返す。

 「ふふ、お帰り。なに、私も一度経験しておいて、同じことは繰り返さぬ出来た男でな。また、遅れてくるやもと思い、夕食はサンドウィッチにしておいたのだ」

 「…気を遣わなくていいよ」

 「世の中は広い、とは言うが、そうではない。ただ人が、世の中に多いだけなのだ。故に子を殺める親もいるわけだが、しかし含めて子へと気を遣わぬ親などいない。その角度がほんの少し、他者と異なるがために起きた、ひとつの結果だ。もっとも私の場合、その角度は春、お前にしか向いていないことが嬉しき難点なのだが」


 その娘の前で、子煩悩ぶりを発揮しているには表情を喪ったまま、つらつらと語る冬人。その背を追う間に、ふと、あることに気付く。

 「…潮の香りがする。海に行ってたの?」

 

 リビングの食卓に、会話をしながら座する二人。テーブルの中央には、ラップに捲かれた大皿が二つ。ざっと見るだけで五種類以上、具が異なるサンドウィッチが、整然と並べられていた。…手を掛け過ぎである。大皿はいつしか、イギリスの貴族が使っている立派なものだとかなんだとかと教わった気もするが、もう、どんなブランド名なのかも忘れている。茶を入れたプラスティックのピッチャーに、まだ結露は見られないあたりが、父の周到さを物語っていた。

 「ふむ、そうかな。なるほど、やはり鼻が利く親を持つと、鼻が利く子が育つようだ。…母さんもそうだった。血は争えない、とはまた、先人を侮ること勿れといったところだな」

 パラ、と、予めテーブルに置いていた、読み掛けの文庫本を、右手で取っては開き、目を文字へ落とす冬人。先の神保を思い出すわけではないが、思えば父が、栞を使っているところを未だ見たことがない。

 「匂いって言っても、ちょっとだけね。…頂きます」

 「どうぞ。仕事帰り、美味しい蛤を少し、見繕っていたのだ。少し車を走らせてな」

 

 「…ん? 蛤?」

 ページを捲るその手の早さは、緩まることもない。

 「ふと、思ったのだ。そういえば、蛤などを、家族で七輪を囲っては食べた記憶が、あまりないと。遠く忘れたことを久方ぶりに試してみるのも興のひとつ。サザエも、と思ったのだが、そこの店では売り切れていてな」

 「ふうん」

 マヨネーズ、マスタード、それら調味料の加減に関して昔から、その寡多で不快さを感じたことがない。舌の鼓が、食道の道で打たれては、胃へと滑らかに滑り落ちていく。


 「では、幼心を携え、私も香りで競うてみるとしよう。…ふむ、どうだろう、今日はまた、例の方々と会っていたそうじゃないか」

 「ああ、そうそう。…匂いで当てられるほど、あの人、何かつけている感じはしないけどなあ」

 冬人も、左手にサンドウィッチを携えている。食に集中すればいいものを、何故か、おおよその意識を本へと割いて読みながら食べる癖がある。かと言って、対面に座る自分が、蔑ろにされている気持ちになったことはない。

 「まるで意識外でふわりと舞う、草花の綿毛のようだが、石鹸の香りがするのだ。清潔感を保つという意味もあるのだろうが、目立つことを嫌うのだろう」

 なるほどねえ、と、何千回目かの感心を、父に覚える。ここで、幾らか遅れて、残りのジグソーが、ぴたっと。父と話すときは常に気を付けていることながら、その語頭から語末までの情報を縫い合わせては、理解する。茶を入れたコップへと伸ばした手が、止まった。


 「…この前、話したときは。○○さんの話しかしてないけど」


 「さすが私の娘だ、徐々に気付きが早くなってきているな。私よりも五、六歳年上の男性が二十代の頃に流行し、皆がよく好んで使っていたコロンの香りが、そして、最近の若者が清潔感を気にするときに使用する、市販の清涼スプレーの香りが、それぞれ。先日と同じくな」

 ○○を想起させるようでいて、○○よりも愛嬌のない自身の父へと、恐縮ながら、褒め言葉を贈呈する。

 

 「…化け物だ」

 「心外だな。化け物から天使は産まれんよ」

 

 やはり、この父、四宮冬人は、○○と出会ったからは、より”そういう力”が、在るのではないのかとも疑うまでにきている。かと言って、○○の時のように、今まで父の近くに居て、そのような声の類は一切、聴こえてきたことはない。思えば昔から、父の洞察力においては、驚かされることが多かった。そのためか、母は、あまり他人の中を覗くものじゃありません、と、毎度父を窘めていたものだが。当の今の冬人は、左手片手にサンドウィッチを抓んでは食べながら、左手で本のページを一定に捲りながら続けていた。

 

 「話を戻そう。コロンの香りから察するに、本当に古き善き精神を持った、ストイックな方なのだろう。○○さん、とやらと違って他を引き合いに出さないということは、その清涼スプレーを使っている男性であろう青年とペアだな。…なるほど、警察の方々かな。先日は、春。帰りの道中、どうにも快くないものを見てしまったらしいから、その聴取と言ったところか?」

 「…その件、今言われるまで忘れてた。まあ、確かに刑事さんなんだけど」


 察する度合いが極まっている冬人から、そんなこともあった、と、思い出させられる春。衝撃自体は未だ、身体が覚えているものの、正直に言って○○との出会いの方が鮮烈であったために、脳裏に焼き付いていたはずの映像自体はもう、喜ばしいかな朧気であった。

 「この私が、推理を外すことがあろうとは。恐れ入ったよ、春」

 「だから何の自信なの、それ」

 しかし、と、冬人は続ける。

 「警察の方も多忙の身だ、あまり迷惑を掛けないようにな」

 「…だね」

 

 軽い夕飯を口に運びつつ、何となしに、父の過去を想う。人も、ここまで鋭利になってしまうと、生き辛くなかったのだろうか、と。母と、どのようにして出会い、生涯を共にしようと決めたのだろうと。...以前、○○が言っていたように、実は、過去に”例の何か”が聴こえていたりしたことがあるのだろうか。父とはあまり心霊現象の類の話をしたこともないのだが、もしかしたらもしかするのかもしれない。そんな浅い質問を何気なしにしてみようと口を開いた春だったが、自分の口から出た言葉は、真に自分へ素直なものだった。残酷なまでの裏腹さが意図せず胸中に隠れていたのは、わざわざ階段を使って七階まで登り、気持ちストレスを抱えていた両足から、直ぐに分かることでもあった。



 「父さんは人、殺したことある?」

 「無論だ」

 「…へ?」



 あまりの即答に、自分の口から出た言葉と重ねて、思考が停止してしまう。対し冬人は、まったく。春の眼を見るでもなく、唐突かつ要領を得ない娘の問いに顔を顰めるでもなく、ましてや怒りを顕わにするでもなく。一定の目線が、ただ活字を追っているだけだった。

 

 「私としたことが、滑ってしまったのかもしれないな。しかし春、冗談はさておき、人は常にあらゆる形で他の何かを殺すものだ。直接命を奪う、という最もシンプルな方法以外にも。言うまでもなく、言葉ひとつで相手を壊すことも可能だ。知らず奪われることだけでなく、下手を打てば知らず奪うことになる恐怖もまた、我々は確と認識しておかなくてはならんよ。あまりの可愛さ故に、春が私の心を奪っている、と言ったようにな」

 最後の一言で、全身の硬直が漸く消え失せる。淀んだ二酸化炭素を吐き出しながら、まったく、と脱力する春。小さな頃、特に転勤時などは、強く父にあたることも多かったのだが、常に即答ではぐらかされては、宥められていた。


 私の、父なのだ。


 「冗談だよ、冗談。そんな話を、さっきしてたから」


 「その割には、心から問うていたように見えるが。まあ、良しとしようか。だが、その確かな疑念は常に持ち続けるべきだろう、春。親だからと、友だからと。相手に信を置くには、この世界はあまりに宙ぶらりが過ぎる。自分だけだ、頼りになるのは」

 うーん、と、手にサンドウィッチを持ってこそいるが、頭に神経を集中させては、冬人の言いたいことが何であるかを、いつものように、探り始める。

 「…結局は裏切られるから、人は信用しなくていいってこと?」


 「違うな。裏切られようが、それでも他人を信じようとする、自分の信念が肝要だということだ」


 ほお、と素な相槌をしてしまう春。自覚もしているが、未だ変に斜に構えて生きてしまうのは、小さな頃からこの師が、親として傍に居たからなのだろう。

 「…たまにはいいこと言うね」

 「普段から茶化すような言葉遊びをしておくことは、ここぞで良いことを言うためのスパイスになる。覚えておくといい」


 謎に打算的な気もしないでもないが、これが大人と言うものなのだろう。また、うーむ、と、手元のサンドウィッチを見つめる春を他所目に、表情を一切変えることなく、ふふ、と声を漏らしつつ、春に気付かれないままに、数十のページをパラパラと戻す冬人。後から思えば、その読むペースの割りには、文庫本のタイトルが変わっていない気がしないでもなかった。






三 - 遠隔のマンティス


 艶やかな御器噛毛繕う、名貴き警視庁。その一角に陣取る、刑事部捜査一課の内装は総じて質素なもので固められており、この御時世に若干そぐわぬ様相をしている。デスクをはじめ、後先考えずに資料を立て並べられたラックまで、何の主張ももたないまま、業務用製品特有の灰色で、視界の色調を覆っていた。このご時世にそぐうように、女性も比べて場を行き来するようになってこそいるが、辺りの空気中を漂っているのは未だ、年月と言う風に当てられた、青さを喪った男性の、足掻いた整髪剤の香りである。簡素な長方形の白いプレートが天井からぶら下がっては、各係が何処にあるのかを、もう誰も見ることのない飾りでありながらも、四六時中案内していた。


 中でも四係に相当する倉野と神保の塒は、朝日こそ当たらない代わりに、夕暮れ時の紅が、二人の並んだデスクへと色を加える場所に位置していた。警部補である倉野と、巡査部長相当である神保が何故、階級差や警視庁に敷かれた教育手法を幾らか黙殺し、”二人組”で行動しているのか。その背景には、とある上層部の人間による特別な措置、そして、他ならぬ熱烈な神保自身の要望に因るものがあった。今なお、一課の人間のみならず、その他周りも、この二人に関して、冷やかすことはあれど、目くじらを立てることはしていない。むしろ、神保の面倒を見ずに済んでいることへ安堵している始末だった。そんな時の人として入職してもう暫く。当の神保と違い、倉野のデスク上には、もう数週間前のものであろう、見返すこともしない捜査資料や、一昨日辺りにコンビニで適当に籠へと放り込んでいたおにぎりの八つ裂きに去れた包装たち、そして飲みかけのペットボトルが支配していた。…若干臭う。それはまだしも、神保としては、何が何でも捜査一課内に蠅を飛ばすことは絶対にするわけにはいかなかった。



 「…倉野さん、恐れながら。日を増して酷くなっています、整理させて頂いても?」

 「うるせえなあ。後でやるから、後で」

 もうすっかりと順応してきているこの巣に戻っての日常を、未だ急いた気持ちを抱きながら愉しむ神保であったが、ここで倉野と同じく警部補である山本が、二人が一課に戻って来るや否や、右手を大きく振りながら駆け寄ってきた。相も変わらず、爽やか交じりにへらへらとした表情を湛えている。この青い揶揄い役を絶やさず務めているのは、当然、性分にくわえて、年が上の倉野よりも出世街道を走っている自信の表れ、ということもあるのだと、神保はみている。


 「お帰りなさい、神保くん、倉野さん。ほんと僕、二人が居ないと、どうにも本調子が出ないもので、寂しくしていたんですよ」

 「おう、ただいま。...というか、おまえさんの本調子なんぞ、一緒に居ても見たことないぞ。ちょっと頼まれてた江東区のケースだが、目を通してくれたかい?」

 ええ、と頷きはするものの、両の掌を、大仰に広げる山本。

 「ですがね、収穫は、なーんにも。ここまで手掛かりを掴めないというのも、それはそれでおかしいものでしてねえ。ま、エイソウ処理になるでしょう。…家族の方々には、面目が立ちませんが」

 飄々とした立ち振る舞いの割に、周りから期待を集めているのは、きゅっと口元を締めながらも、最後の一文を確りと言葉に代えていることにある。性分までとは思わずとも、その義憤の持ちようは見習わなければならない、そう神保は思う。


 「こちらも”近隣住民の方”に捜査協力をして頂いたのですが、これという収穫はほぼなく。…恐縮ですが、山本警部補は、この犯人像をどうお考えでしょうか」

 うーん、と、倉野のデスクに散らばる資料を片すでもなく、指でそれらの表面を撫ぜながら思考する山本。

 「普通じゃあない。が、そういう人間もいる。ってのが、僕の意見だ、神保くん。同様の事件が起きれば、まだ捜査の糸口は見えるんだけどね。私怨の線は薄いとは言うが、もしかしたら、もしかするかも、なんてね」

 山本の名実はともに、この数ヶ月、かなり近しい距離から肌で感じていたものだったが、やはり、○○のことを知ってしまった後のためだろうか、話の節々に、あの謎めいた満足感を感じることはできなかった。



 …倉野さんは、この人は。どれだけの人と話す中で、どれだけそう思ってきたのだろう。

 「まあこっちも、お前さんと似たような感じだ。これ以上、今の情報だけ追っても、シッポを掴めるかは怪しい。他にもヤマは積もってるからな、切り替えようか」

 「ですねえ。…おっと、コンパの時間です、失礼」


 倉野が言い終わる前から、綺麗に磨かれては光沢を放つ腕時計へと目を遣る山本。恐らくそれを言いたいがために、近く寄ってきたのだろう。他に残る一課の人間にも大手を振りながら、足早に帰っていく山本。ビジネスバッグを吊るした左手の振り子が、いつも以上に触れているご様子だ。


 「…ま。あんな風になれとは言わんが、神保、おまえさんも息抜きは必要だぞ」


 心の内で返事をする神保。庁に戻ってきてからこっち、微睡んでいるかのように時間を浪費しているが、時が過ぎる毎に、気が張っていくのを感じる。神保は本日の一大イベントは忘れてはいなかった。


 「それよりも倉野さん。外上警視を待たせてしまっているのでは?」

 「あのなあ… 一服くらい、つかせてくれ」

 顎を擦る倉野が、そこまで言っては言葉を止め、しかたねえ、と、ぶっきらぼうに神保へと手招きをする。一課を後にし、その背についていく神保。…他も、この人のように、接してくれれば、こちらも気にせずに済むのだが。


 人も疎らになり始めた頃合い、先月に新調されたばかりの、ガラスエレベータ。時間も時間であることから、横に一列並ぶそれらの筐体は、疎らに息を潜めて動かないものもいた。その内のひとつに、倉野と神保、その他乗り合わせの三人組。彼らは、嘲りを交えた笑みを絶やさず、二人を横目で舐め回している。…二課の人間だ。

 「おや、これは倉野さん。こんな時間まで、さぞお忙しいようで」

 「野暮用だよ。まったく、老いぼれをそんな風に虐めるもんじゃないぞ?」

 失礼しました、と、態度に表れている通りに、頭を下げるでもなく、倉野へと言葉だけを投げ捨てる一人。その後ろにいる二人も、目を合わせては眉を上げて遊んでいる。神保ももう、このときに前に出るほど、青くはない。


 「それでは倉野さん、神保さん」


 あいよ、と手を小さくする振る倉野と、深く頭を下げる神保。三人の割には、やけに足音が大きく聞こえた。エレベータが再び閉まってから、神保は目を開ける。

 「…横が繋がらなければ、立ち向かうべきものにも、立ち向かえないのではないかと」

 
 顔を上げきれずにいる神保へ、倉野は穏やかな表情でしみじみと言葉を漏らす。

 「だな。だが、どうにも日本人ってのは、横の並びを気にしちまう。いつだって、何歳になろうが、辺りを見渡しちゃあ、誰も前にはみ出してないかを見張り、はみ出ていれば全員で引き戻そうとするもんなのさ」


 「…変わると、思いますか」

 漸く背筋を真っ直ぐにした上で、倉野を見据える神保。


 「はん、そうだな。俺ら、古臭い人間が全員死ねば、少しは良くなるさ」

 あるいは、と、倉野は続ける。

 「そんな、誰がいつ敷いたのかも分からんラインを、事もなげに足で消してくれるような誰かが居れば、ってな感じだな。それがお前さんや、別の意味で○○、また、目の前の部屋にいる異例の警視様ってところなんだろう」


 改めて下に眼を遣っても、ネクタイの首元の綻びは見えない。で、あればと、ビジネスシューズの埃までチェックに入る神保。

 「その並びに挙げて頂くのは、恐れ多いものがあります。一度だけですが、研修期間の折、目に焼き付いていたのが、管理官の立ち振る舞い、そしてその采配でした」

 「ふむ。まあ、警察側の化けもんといやあ、ここのお人に成るだろうな。俺もそんなに密に接したこともないが、まあ、数回会わずとも分かるもんだ」



 定刻に沿ったノックを、みたび。どうぞ、と、明らかに階級が下の二人へと掛けるには丁寧過ぎる言葉が、神保の耳に残った。ドアハンドルを、下げる倉野。

 「お待ちしておりました。倉野さん、神保さん」

 神保は言うまでもないが、普段から作法やしきたりに関して苦言を呈する倉野ですら、さすがに。両の踵を縫い付け合わせ、背を伸ばしては、敬礼をしている。そういえば、この人が敬礼をしているところを、初めて見た気がする。気に入らんだの、性に合わんだの、そういつも愚痴を零す割には、手本のような、寸分の綻びのない所作であった。


 「外上警視、失礼致します」

 外上と呼ばれるこの男性の貢献具合から言うならば、警視ですら足りないと誰もが言うであろうに、その部屋の見てくれは本当に質素なものであった。白を基調としながらも、ありふれたオフィスの一角をただ切り取ったような、世辞にも羨ましさを覚えない、十五畳ほどのこじんまりとした待合室のようにすら感じる。もちろん、目に留まらぬかと言わんばかりの木彫りの何某どころか漆塗りの長机も中央になく、代わりに入って左側の壁に添える形で、それこそ神保と変わらぬほどの安いデスクに、彼、外上門人が座っている。身に着けたスーツは、神保が一瞥するだけでも、ブランド物でも何でもない、一般に手に入るものであることが窺えたが、皺などはひとつも見当たらず、安っぽさを感じさせないように着こなしていた。


 「折角の客人だと言うのに、申し訳ない。信条、と言いましょうか、高価なもので揃えることはどうにも好かないもので。心地は良くないかもしれないですが、どうぞお掛けてください。…おっと失礼、未だに上下関係に合わせての敬語の使い分けも、ままならないもので。誰に対しても敬語で話すようにしていると、経験上、おおよそトラブルになりにくいのですよ」


 と、二人に勧めた先の、三人は掛けることが出来るパイプ製の長椅子の対面に、座る外上。倉野もこうしてじっくりと、彼と話すのは初めてなのだろう、丁寧な所作を崩さず、長椅子へと座る。倣う神保。ギギ、と、クッションでは捌き切れなかった衝撃が、パイプを軋ませた。


 「改めて、多忙の中、呼び出してしまって済まないね。…まあ、そうは言いつつも、身分を背に、こうして気ままに呼び出せるのも便利なものなんですが。どうぞ、崩してください。神保さんも、ほぼほぼ、初めまして。外上と申します」

 声が上ずるのを、命を賭して阻止する神保。両膝の上に置いた握り拳の先、十の爪が、手の平に食い込んでいるのが、分かる。

 「恐縮です、外上警視。先の研修以来でございます。自分は、その以前から。警視の経歴に触れ、その躍進ぶりと手腕に、畏敬の念を抱いておりました」

 ふむ、と笑みをそのままに、ギシと背をパイプ椅子に預ける外上。

 

 「畏敬、ね。なるほど、やはり、抜きん出た聡明さだ。単に東京大学を出て、エリート街道をひた走った人間ですら、そう得ることのできる質ではない。私の上への念押しは、よい方へと確かに作用しているのだと、倉野さん、喜んでよろしいですね?」

 いえ、と、首を振る倉野。

 「それを見抜いた警視の慧眼も言うまでもないことですが、何よりも、神保巡査部長が、一個人として、私の背の後ろでは覆えぬほどの素養を持っているに過ぎません。…荷が勝ち過ぎます、私なんぞで、良かったのですか?」

 そんなことはない、と、神保が反射的に口を開く前に、外上がそっと、左手で制する。

 「ときに、聞けば神保さんのことを呼び捨てにしているのは貴方だけだと伺っております。神保さんも、故に貴方を慕っているのではありませんか?」


 ここで、つい顎を擦ってしまう倉野が、神保に横目交じりに小言でつつく。

 「…そうなのか?」

 さあ、と、口元を緩ませて応える神保。しかし、この外上という人物、予想以上に上下問わず広いコミュニケーションを図っているようだ。雲の上の存在と、思っていたのだが。

 「先の警視総監の御子息。周りが気を遣ってしまうのも無理はありません。もちろん私も、例に漏れず。神保さんは、其処に歯痒さを覚えるのでしょうが、どうか、周りに咎を打ち立てることのないようにだけ。社会とは、難しいものなのです、誰にとっても」


 「心得ているつもりであります」

 おっと、と、ここで徐に立っては、部屋の右側に添えられた木製の食器棚へと歩を進める外上。意外にも年相応のセンスか、そのライトブラウンカラーが、妙に映える。

 「これは失礼致しました。呼び立てておいて、茶のひとつも出さぬとは」

 途端に慌てふためく、客人二名。おやおや、と、笑いながら独り外上は、茶の準備を無駄なく、こなしてゆく。



 一拍、後。


 「ふう。さて、貴方がたに会えただけで、私としてはもう、満足なのですが、一点だけ。今、先日の江東区で起きた殺人事件を、気に掛けているとか?」

 はい、と答える倉野。

 「ただ、ほかの第一課の人間を含めても、犯人像すら未だ不明瞭のままであり、その足跡すら満足に掴めない、というのが、至らぬ我々の現状であります」


 おお、と、少し目を輝かせる外上。

 「エイソウ、でしょう? この前、嬉々として山本警部補が教えてくれましたよ。一緒に流行らせましょう、とね」

 はあ、とため息を吐く倉野と神保。まったく、山本警部補はどうにも、その功績よりも他の分野で名を轟かせているらしい。

 「警視、あまり山本をおだてぬようにだけ。悪戯っ子が振りまく火の粉を振り払うには、私も年を取りすぎました」

 倉野の刺した釘に対し、あらあら、と、外上は微笑みを湛えたままに、ぽつりと、言葉を紡いだ。



 「にしては、エイソウとは全く思っていない。ですね、お二方。"どなたでしょう、そのお手伝いさんは"」



 倉野も、○○に会ってまだ日の浅い神保でさえも。部屋に入り、膝を合わせ、ほんの少し対話するだけで。予期はしていた、ここ最近の誰かとの其れも踏まえれば、尚更。細微は異なるにせよ、匂う。同じ”類”だ。確信に変わるとともに、部屋中に。絞られたピアノ線が無尽に張り巡らされては、締められ、ギリギリと音を立て始めた。

 「…お人が悪いな、外上さん。ってことは、俺は”倉野正人”でいいってことだな?」


 急に、言葉とともに、ふふ、と、覚えのある、文字に起こしやすい笑いを湛えはじめた、外上。先に、もう充分なまでに聞いた二文字だ。

 「最初から、そのように。肩書では、お二人のことを呼んでいませんからね、神保忠義さん」



 「…試して、いるのでしょうか」

 仕事である以上、体面を全力で取り繕う神保。伏せている感情は、怒りとも言えない、不可解な情動であった。抱いていた畏敬が、芯を残しては、融け出す。きっと、この警視のことである、○○と同様に、そんな自分の気持ちの揺らぎすらも見抜いているのだろう。


 「滅相もない。私も、少々、このカマキリに関して思うところがありましてね。山本警部補とも少し話しをしたのですが、まあ、この事件に重きを置いていた様子ではなかったものでして」

 「この場なら、単に”この私の期待に沿うような答えじゃありませんでした”で、構わないんじゃないか、外上さん」

 ずいっと詰め寄り倉野は、不敵な笑みを浮かべては外上へ詰問する。


 「そう。その顔、その眼。そして、その勘、という一文字に済ませるには勿体のない恵まれた天稟。久しく、そして恋しく思っていたものです。今ではすっかりと、周りの方々がそのように火を灯した眼で見てくれたり、しなかったもので」


 「…カマキリ、とは、犯人を指していますね」

 倉野から目線だけを横に動かしては、そう問うた神保へと、向いて頷く外上。


 「その通り。捕食者、との意味合いで、ふふ、私の中だけの流行りですが、呼称しています。在るがままの本能に従っているのか、何せ思考を捨てたような作法だ、自然を連想させるような、そんな美しさすら覚えるほどに。カマキリと言うのは、その食欲の旺盛さも特徴的ですが、動き生きるもの、その命に執着しては相手を裁き、貪ると聞きます。その点が、第一印象の時点で過ったものでね。何にせよ、常軌を逸した殺人犯だ」

 妙なことを言う、と口を挟む倉野。


 「ならどうして、あんたが突きに来ない? あんたほどの人間なら、上手くやってのけることもできるだろうに」

 「買い被りが過ぎますよ、倉野さん。今ある情報だけでは、さすがに幾ら思考を巡らせても、捕えるまでのヴィジョンが浮かびません。個でなく、チームとして、正義に代わりそれをこなすのが、警察、という組織なのでは? そのために、個々が優秀な人材として育ち、機能しなければならず、そのために、貴方がたのような逸材がまず経験値を積み、後進へと説いていかねばならないのですよ」


 微かに歪さを帯びた、大いなる期待。その背後に潜むであろう真意、その一言一句の隙間に滲んでいるものが何であるかを、全く掴み切れないままでいる神保。依然、警視で留まり続ける理由に通じるのであろう、それを捉えきれないことが、ただただ歯痒かった。…つくづく、○○を想起させる人間だ。

 「この犯人が、今後も犯行に及ぶと、外上警視はお考えなのでしょうか?」

 はは、と、外上は乾いた笑いを見せる。

 「私に対して、分かって問うことは意味を成しませんよ? その通り、十中の十、前科持ちどころか今後も確実に犯行を実行するであろう、広義でいうところのシリアルキラーでしょう」

 後頭部をポリポリと掻く倉野はもう、ピアノ線の緊張を幾らか緩めているようであった。○○との既視感が、そうさせているのだろうか。


 「神保はさておき、俺はそんなに持ち上げられるような人間じゃない。...大体、そこまでヒントをくれるんなら、もう少し手伝ってくれてもいいだろう。その若さで、忙しくて手が回らんとは言わせんぞ」

 「ふふ、生憎。この若さで、忙しくて手が回らないのですよ、実のところ。しかしやはり、貴方がたは見込んだ通りだ。きっと、確かな正義があるのでしょう。その"お手伝いさん"と協力すれば、いずれ、ふふ、もしかしなくても近いうちに、犯人を逮捕することが出来るでしょうね。期待、しております」



  「…外上警視の考える、正義とは?」

 ふと、噛み付いた神保の青さにも、丁寧に。しかし、外上は、この男は、あっけからんと、何の感情を吐露するでもなく、淡々と即答した。


 「今の世の中そのもの、ですよ。それを保つために我々がいる。であればこそ、保とうと足掻き生きる我々もまた、正義なのだとは思いませんか?」


 「お偉いさんがそこを疑問形で返すもんじゃない」

 倉野の足元を掬おうとする一手を、ひらりと躱し、これは失礼、と、言っては頭を下げる外上。


 「まあ、ここまである程度、本音を交えて打ち明けたことにも、当然意図があります。…他人を不快にさせるばかりで危うく有名になりかけた、この私のお喋りにも、”慣れたものだと言わんばかりに”柔軟に対応した二人を見て、こちらも少し掴めたこともありますから。...ふふ、今日もまた、夜が更けます。フクロウの目が光る前に、帰ることが賢明でしょう」


 どのタイミングで、○○の存在に気付いたのか。紐解くに、その存在の確認が、呼び出しの理由だったのだろう。...二人が仮に逢ったとして、どのようなことになるのかは、興味こそあるが、直感的に逢うべきではないと理解する神保。目の前のこの男は、何が目的なのだろうか。そう、考えては黙りこくる神保を見かねて、場の空気をより緩める倉野。


 「…お前さんみたいな人間が、これ以上俺の周りに出ないことを祈るよ。まったく」

 「ふふ、何かの折、私が”何番目”か、教えてくださいね?」


 「...失礼致します」


 先の経験から、この流れになってしまえば、退散あるのみと学んでいた神保が、まだ何かを言いたそうにする倉野の腕を掴み、立ち上がった。深々と一礼し、外上がこちらを見据える視線を切っては、踵を翻す。

 倉野はここで、顎を擦りつつ、外上を改めて振り返り、深々と頭を下げた。


 「外上警視。数々の発言、大変失礼致しました」

 「いいえ、何も、何も。こちらこそ、ありがとう」



 手を振りながら二人を見送る外上。扉が閉まった後に、ふと、二人の手元に置かれた、百円均一店にも、粗雑に並べられているような、名無しの陶磁器を見やった。不思議と、入れた茶が、二つとも空になっている。今までの客人には、あまり手を付けられていなかったがために、自分のセンスが悪いのかと、別の茶の葉に、変えようと思案していたのだが。ふふ、と、胸を撫で下ろしていると、そのうち、神保の湯呑が、安物故の代償か、薄らピシ、と、悲鳴を上げた。


 「ミウチ、ミウチよ。ただ、正義、掲げるべし。正義とは、お前だ、ミウチよ。人を取り持つのはお前だ、人と人とが行き交う要所で、見守り、見下ろすのはお前だ、ミウチよ。躊躇うな、迷うな。ミウチよ、ただ、正義、掲げるべし」


 何故、木彫りと言えばヒグマなのか。まだまだ自分も、謙遜でなく、教養が足りない。また今日も良い日だったと、茶の葉の香りを肺に満たしては、思い思いに筆を走らせようと、即興の鼻歌を奏で始める外上。机上を片付けながら口ずさむそのメロディは、我ながら上出来で、思いの他、気に入ることになってしまったのであった。定年退職の後は、音楽でも嗜んでみようか。


 尖らせた鉛筆は、”7B”。




***




 「冗談じゃねえ」

 「…そう、ですね」


 二十時。見上げれば航空障害灯、赤く乱れては四方で煌めき、視線散らした先のタワークレーンたちが、月に照らされ黒く浮かび上がり、まだ息絶えることなく、ベースラインと成っては雑踏というメロディを支えている。言葉起こさずとも、梟が交うわけもない、そんな宵の東京の涼しい風が、二人の背広を優しく撫でていた。少し駅の方へと目を遣れば、花の金曜日と言われて久しい週末ということもあり、スーツ姿の人々が、気持ち靴底に空間を創り、解放されたような顔持ちで闊歩している。

 その浮ついた気に当てられたのか、倉野の表情は強張りを緩ませ、口調までに影響を与えていた。



 「…どっかで一杯飲むかあ、神保?」

 「宜しければ、是非。…ですが、娘さんには?」

 はっ、と、喉の近くから、溜まっていた空気を押し出す倉野。

 「いんや、むしろ俺が家にいない方がせいせいするだろうさ。…ってか、まだこの時間なら、ファミレスなりで駄弁ってそうだけどな」


 そう話しながら、灰色に染まったスーツの内ポケットから、使い古した様子が窺える、ガラパゴスケータイを取り出す。くらべて、その角よりぶら下がっている、ひと昔のご当地キャラクターらしいキーホルダーには、皮脂の汚れも見られず、やたらに綺麗な状態のようだ。

 「…メールも未だに慣れん。ちょっと待ってくれるか」

 「はい。…電話でお伝えしないのですか?」

 目線を光る画面に落としたまま、倉野はその節介を足蹴にする。

 「馬鹿野郎、わざわざ嫌われたい親がいるか。俺が話しかける度、声が二段は低くなるんだぞ」


 たどたどしい手付きながら、メールを送信し終わったのだろう倉野は、パタンと携帯電話を二つに折る。そうしてから数秒、しかし、足を止めたまま、何やらうーむ、と顎を擦り出し、再びそれを開き出した。何か閃いたのだろうか、今度は頬に添え始める。



 「…おう、さっきぶりだな。今、少し空いてるか? …わかったわかった、適当に店、決めて入ってるぞ。場所はまた後で、電話入れるわ」

 ピッという音とともに、ふん、と笑みを零す倉野。神保は、その話しぶり、顔つきから、それとなく察する。


 「○○さんをお誘いしたのですか?」

 「おう。…なんだろうな、ほんのさっきまで、呼ぼうとも思ってなかったんだが。管理官と睨み合った後だってのに、ふとなあ、あいつの顔を見たいと思ったのさ」


 ひどく同感する、神保。先刻、○○を元手に、奥知れぬ思惑を握り締めた外上の握り拳が、僅かながらに緩んだ、否、恐らく意図的に緩ませたのは明らかだった。...だが、知ってなお、外上は、その在り方に一切の邪の類をもたせず、どれだけ斜に構えて彼を見ても、非の打ち所がないままに、ただ人の世のために尽力している人間だと見受けられる。それは疑いようがなく、神保自身がただ、子どもがペーパークリップを捩り曲げてはバラバラにするように、曲解に曲解を重ねているだけで、外上はただ、○○への興味本位で、また、自分たち二人を遊び半分で、ただただ揶揄かっただけなのかもしれない。思い返せば、夕刻の一時も、何とも煮え切らないままに打ち切られたようなものだ。○○へと、独り善がりの警鐘を鳴らしたい、というのも確かであったが、何れにせよ、神保の脳裏からは、他人がよく用いるような、張り付いたような笑顔や言葉たちを決して持ち合わせていない、あの○○の顔が張り付いては剥がれないままでいた。


 「○○さんがお酒を飲む姿を想像できません」

 神保は、つくづくと思う。彼が、酔いを回して、酒の所為にして、何かしらの粗相をする姿を、全くに想像できない。それどころか、果たしてアルコールの作用が働くのかどうかすら、疑いたくなるほどだ。倉野は、その神保の疑念を顔から察したのだろう、笑いながらいやいや、と正し始める。

 「そんなに俺もあいつと飲んだことがあるわけじゃないが、はは、まあなんだ、酔うには酔うぞ。…強いのには違いないが」

 「それは楽しみです。お店を探しますね」

 さっと神保は、スマートフォンを取り出す。...倉野のことを考えれば、有楽町からそう離れるわけにはいかない。慣れた手つき、その指先でフリック入力を行う神保の手元と、自分の手にあるガラケーを交互に見遣る倉野。

 「ふむ、別に拘ってるわけじゃあないんだが。第一、それに代えたところで、使い道は変わんねえしなあ」

 「ふふ、以前の父も、そのように顔を歪めては、偏に便利になればよいと言うわけでもない、と口癖のように言っていました」

 そうか、と、倉野はずいと、神保の携帯電話の中を覗く。そうしながらに小さな声で、俺に合わせなくていいぞ、と囁くあたりが、どうにもこれまた、その父の温かさと重なる。

 

「そういえば、○○さんはどのような好みがあるのか、ご存知ですか。お酒や、料理など」

 「うーむ、なんでも食べて飲んでた気がするがな。俺はビールがあるところなら何でも構わんぞ。奢りだ、お前の好きなところを選べ」

 ありがとうございます、そう感謝を伝えるものの、どこか○○はイタリア料理を好みそうだ、という自覚できる偏見で、有楽町近辺のバルを検索し続ける神保。週末の東京は、居酒屋と言う居酒屋が、明日にもクリーニングで落とす予定であろう皺で草臥れたスーツたちに占領されるわけだが、その居酒屋の数自体に際限がないこともまた、東京の良きところである。



 有楽町方面へと五分強、歩を進めた、その沿線。南へと少し下った通りにひっそりと佇む、カウンターがメインの、隠れた名店と言われたイタリアンバルが、そこに在った。インターネット上で高評価であるにも拘らず、"隠れた"、というのも可笑しなものだが、この無機質なコンクリートで覆われた外面と、ランタン調の屋外照明を見れば、その表現も頷ける。踏み入れば、対して、おおいに二十から三十代の活気で包まれていた。店内全域を照らす濃い暖色灯と、薄ら遠くより聞こえるジャズミュージックが、突き抜けた華やぎの人々とは裏腹な、アダルトな毛色を付け足している。

 「いらっしゃいませ。お二人様で、よろしいでしょうか」

 「いえ、遅れて一人、合流する予定です。席は空いていますか?」

 アルバイトをしている大学生だろうか、その若い女性が元気よく頷いては、カウンター奥にあるテーブルスペースへと二人を案内する。神保が見る限り、空いているのはもう二組分のみで、しかもそのうち一組は予約席、と銘打たれたシルバープレートが、机上に置かれていた。ネットの評判、その確かな影響力の通り、この時間に飛び込みで案内できるのは珍しい、とそのバイトの女性は言う。



 「…なんだあ、やけに洒落てんなあ。まったく、最近の若いやつは、ませてるんだな」

 「好きなところで、と、仰っていただいたもので。煩わしいのであれば――」

 その言葉をいやいや、と、即座に遮っては辺りを見渡し、それでいてソワソワした素振りを見せる、大衆居酒屋肌の倉野。配慮が足りなかったか、と、自責する神保であったが、それでも、○○は喜ぶのではと、であれば、倉野には申し訳ないが、押し通らせて頂こうと自己肯定を始める自分が勝っていた。


 ここで、カウンター側の客につかまっている先の女性店員に代わり、バルの店主らしき人物が、挨拶とともに、おしぼりとメニューを二人の手元に置いてゆく。左手を上げては感謝の意を伝えつつも、他所目に、倉野は、どこか腹に虫が居るのか、振り払うように多弁に続ける。

 「○○は近くにいるのはいるみたいだが、少しだけ、遅れるとさ。ここの名前は教えといたし、あいつのことだ、迷うことはないだろう」

 「…○○さんが、喜んでくれるとよいのですが」

 「はん、それこそ、そんな心配はいらん男だ」


 ふふ、と、ここで店主らしき男性が、二人に笑みを漏らした。その格闘家と言わんばかりの筋骨ともに隆々とした体格の反面、とても穏やか、かつ透明感が溢れる表情、声色をしている。

 「なんと、○○さんのお知り合いでしたか。よかった、彼にも、お酒のお連れ様がいらっしゃるのですね。はじめまして、店主の小林と申します」

 店主の話しぶりから、○○が以前に、ここへと足を運んでいるのだろうだと言うことは、自明であった。○○という苗字自体が珍しいがために、店主にとっても、その二文字、そして二人の会話内容、表情から、同姓の別人であるとは考えられなかったのだろう。神保はすっと、頭を下げて挨拶をする。


 「…このお店を選んで良かったようです。○○さんは、よく来られるのですか?」

 「ありがとうございます。そうですね、数ヶ月に一度でしょうか。ふらりと訪れては、彼のことです、独り、嬉々として私としか喋らないものでして」


 すると、見計らったかのように、カランと、銀製の警鐘が入口で揺れた。ヌラリ、スラリとした長身の、真っ黒の、つい先刻に、見た男。店主が、また、くすくすと笑っては、十歩ほど、入り口側へと歩み寄る。


 「本当に、噂をすれば、の体現者ですね、○○さんは」

 「お久しぶりです、小林さん。…お店の匂いがこれまた変わりましたね。夏故か、または、貴方の香水が変わった故か。前のもの、お気に入りであったでしょうに。リードを許した女性の色に染まってゆく男性と言うのも、見ていて飽きませんねえ」

 「...参ったなあ」


 神保から見て、楽しそうに言葉を交わしている二人。...店主のバツの悪そうな顔を見るに、大方、開口一番、例の言い回しをしては、揶揄っているのだろう。...いやらしい趣味である。店主を茶化しては満足したのか、○○が二人の席へと歩み寄る。道すがら二つほど、ブラックテーブルを過ぎ去る○○を、やはり座る女性たちが、確かに視線を送っていた。無論彼女たちは、決して、店のテーブルと同色であるからと、その身の一切を黒に包んでいるからと、訝しんでいるわけではない。その歩く様は、何かしらの癖を微塵も感じさせない、一見すれば気品のある奥ゆかしさを、確と見れば人間臭さを感じさせない不自然な整合性を孕んでいた。



 「お待たせいたしました、お二人。ふふ、つい夕刻に、お会いしたばかりですが。さておき、神保さん。やはり貴方は、その若さながらに見張る嗅覚をお持ちのようです。ここのお店は、本当に美味しいものを提供してくれますからね。ですが、私は和食や中華も、ジャンクフードも、場で言えば、それこそ倉野さんの愛して止まない大衆居酒屋も、好むところですよ?」

 席に座る前から、先と変わらない弁を舌の上で回す○○をみて、神保は、やはり外上と異なる何かを感じ取っては、未だ僅かに気の立っていた神経を落ち着かせることができた。…出逢った頃には、到底、こうは思わなかった。慣れれば、と言った倉野の言葉通りとはなったが、しかしやはり、この早さで幾らか心を許してしまうのは、○○の在り方に因るのだろう。

 「おう、おう、○○。呼び立ててすまんな。まあ、一杯しようや」

 既にビールを飲み始めている二人を見つつ、ふふ、と、息を漏らしつつ、○○は漸く座った。


 「一杯、という意味を、果たして倉野さん、いつになれば学ぶのでしょうかね。こちら、どうぞ。赤ら顔で怒られぬ前に、娘さんにお渡しくださいね」

 ハンドポーチほどの大きさをした、白い紙袋を倉野に手渡す○○。何処かのブランドであろう、描かれているそのシンプルな英字ロゴは、男女のものを問わず、流行にある程度明るい神保でさえ、見たことのないものだった。

 

 「…高いやつは受け取れねぇぞ」

 「物の価値というものは、それを人が後にどう扱うのかによっても、大きく変動するものです。倉野さん、貴方から娘さんへと渡すことに意味があるのですよ。たとえ渡したときに、”気持ち悪い”という言葉を、口をついて貴方に浴びせてしまっても、自室の扉を閉めた途端、子と言うものは心中で謝っては、頬を緩ませるもの。ご安心ください、それほど高価なものではありませんよ」

 「ひとりもんが分かったこと言うな。…ありがとうよ」


 受け取る倉野の顔は、すっかりと、週末の道端を歩けばどこでも見受けられるような、あのありふれた父性を滲ませたものに変わっていた。神保が予想していた通り、○○が少々遅れて合流したことにも、やはり意味があったと言うことだ。姿勢を、○○へと改める。


 「すみません、○○さん。改めまして、出会いが出会いであったがために、過度な印象を、持ってしまっていたみたいです。すべては私の青さに在ります、申し訳ありません」

 頭を下げる神保に対し、ほほう、と、倉野の真似か、顎を擦る○○。


 「その若さで、引っ込みがつかなくなる前に謝ることができる、というのは、真のある人にしかできません。何を仰いますか、神保さん。救われているのは、私の方ですよ」


 今、気付けば。○○と言うこの男は、出逢ってこの方、自分のことを、揶揄いこそすれど、称揚しかしていない。それは歪さを伴うきらいもあるが、それでも、決して、一般の人間にできることではなかった。手元のアルコールだけではないものが、神保の身体に染み渡る。

 「さて、それにしても珍しいですね、倉野さん。何か、嫌なことでもありましたか? “私になぞらえることのできる何かが”」

 話しながら、手元に置かれたヒューガルデンに口をつける○○。対して、まだ一杯目のビールだというのに、貌が赤らみ始めている倉野が応える。

 「敵わねえな。そうさ、不愉快な思いをしたんだよ。...お前さんのような人様に会ってな」


 ほう! と、危うく手元のグラスから泡がはみ出るくらいに身を乗り出す○○。その幼さを禁じ得ない仕草に驚いたのは、神保だけでなかった。ここまで、文字通り着飾らない子どものような食いつき方をするとは、倉野も思っていなかったらしい。

 「なんと、なんと。やはり、面白くなってきましたね、いよいよ。退屈だったとは言いません、今までの人生をね。ですが、なんともまあ」

 「やけに食いつきがいいじゃねえか。どうした、最近、お前さん。様子がおかしいぞ? …あの嬢ちゃんも関係があるんだろう?」

 ふふ、と、いつの間にか飲み干したビールのお代わりを店主に手を上げる○○。神保とは違い、そのペースの早さに店主は驚くこともなく、次のビールの用意をし始めていた。顔は、まだ赤くない。


 「勘の良い人はかくかくしかじか、ですよ、倉野さん。ですが、その通りである、と、言っておきましょう」

 彩りを豊かに仕立てられたスズキのカルパッチョを作法も何もなく、倉野は箸で皿の上を、右から左へ攫う。...その肘元には取り皿が、丁寧に用意されているのだが。

 「…お前さんがそこまで言う、ということは、それ以上言う気はないってことだな? まったく、匂わせることだけ好きだからな、お前さん。面倒くせぇ」

 そういうことです、と、笑みを絶やさぬまま、次に神保へと言葉を掛ける○○。

 「神保さん。お聞きの通り、倉野さんの側に居れることは、何にも増した僥倖です。ここまで勘の良い人は、この私もあまり出会ったことがありませんからね。其れを確かに、日々認知、咀嚼し、研鑽を積んでくださいね」

 

 と、そう話したかと思えば、これはこの前仕入れていませんでしたね、など、メニューを見ながら店主を呼んでは会話をしている○○。倉野は、酒が入り始めた証拠だ、やはり今日もまた、頬を擦り始めている。



 「話を戻します、○○さん。先ほどのお話ですが。...貴方とは少し毛色が異なるものの、上司に貴方とよく似た、類稀な洞察力をもった方がおりまして。夕刻にも少しお聞きになっていたかと思いますが、先ほどまで、その方のお時間を割いて頂いては、相対していたのです」

 「相対? これは面白い、素直な話し方をしますね、神保さん。例の管理官様、ですね。まるで、今までは尊敬していたのにも関わらず、何かの片鱗を見てしまい、今ではもう、十全に尊敬してよいのかどうか、考えあぐねている、と言っているかのようです」


 冷静に、かつ的確に。ひとつひとつの単語からニュアンスを汲み取り、すべてを繋ぎ合わせて、他人の心情を推測してくる○○。話せば話すほど、未だ、どれだけ自分が未熟者で、言葉を選ぶ難しさを理解しきれていないのかを、今一度実感させられる。

 「…仰る通りです」


 「お名前は?」

 一瞬、憚った神保だったが、酒の席だという免罪符もある、ビールをくいと飲み干し、応える。倉野も、大皿のポテトサラダを頬張るばかりで、止めることはしない。…気付けば、肘で取り皿を壁際へとどかしていた。


 「...ふう。外上警視、外上門人と言います」


 おお、と、再び大きな声を出しては、眼を輝かせる○○。やはりと言おうのだろうか、”そちらでも”著名らしい。

 「素晴らしい! 勘が当たりました、彼は警察官でもある、という噂も聞き及んでいたものでして。そうですか、そうですか。これも何かの縁、というものですね。あの外上さんでしたか」


 倉野が、先に店主から種類の説明を受けた、しかしきっと聞いていなかったであろうチーズの盛り合わせに、ポテトサラダを食べながら目移りさせている。食い上戸、と、世間では言うのだろうか。注意を促すでもなく、きっと後日のネタにするのであろう○○は、倉野の頬張りを確りと目に焼き付けている様子だ。

 「やっぱ知ってんだな。俺は警視の小説だの、一個も読んだことないんだが」

 「一冊。ですよ、単位は」

 うるせえ、と、笑う倉野。いつの間にか、ネクタイが緩み切っている。

 

 「私も、『鵺降』という本を一冊ほど、流して読んだ記憶はあります。ただ、言い回しや表現が巧みな部分が散見され、やや難解であるという印象がどうにも。日本語の妙、というものは感じ取ることが出来ましたが」

 ○○は、ほうほう、と相槌を打つ。神保が見ている限りでは、もう彼の手元に在るビールは、四杯目だ。


 「日本語の妙、その外上さんのエッセンスであるものを捉えておいでなら、今一度、読んでみると、新たな発見があるかと思いますよ。個人的には、年端のいかぬ頃合いに書いたと言う、詩篇『懺詩』、短篇ながら小説であれば『寅命』などがお勧めですね。メディアで大きく取り上げられるほどではないにせよ、故に一部からカルト的人気を誇っている物書きが、外上さんです。私も、例に漏れることなく、ファンの一人でして」

 そうして、と、○○は続ける。今度こそ目を盗んだかのように、いつの間にか頼んでいた、知多のロック割をきゅっと二割ほど、喉に通している。


 「その外上さんが、どうにもいけすかなく、そのいけすかなさに私を重ねてみては、お酒の場で多少なりともその鬱憤を晴らすことができるのではないかという算段に至った、ということでしょう? 倉野さんは分かり易すぎますね」

 はは、っと先に比べても大きな声で笑い出す倉野。同時に笑い上戸であるのを見るのは、神保も悪い気はしない。だが、○○はそう澄んだままに卑屈な言葉を並べるが、無論二人とも、当てつけのためだけに会いたいと思ったわけではなかった。


 ここで、ちらと数秒ほど、○○が、なぜか倉野が羽織るジャケットの袖から覗かせる、白いシャツへと視線を落としていることに神保は気付く。何か気になることが、と聞こうとした時にはもう、視線と、そして話も戻していた。


 「ですが、少々意外でした。てっきりそんな倉野さんの提案を、断るのものだと、神保さん?」

 酔いの回りだけでなく、返す言葉も早くなってきていた神保が、思いの丈を、気恥ずかしさを振り払い、即座に綴る。…先の言葉選びに留意しなければと言う自戒ももう、アルコールが吹き飛ばしていた。もっとも、恐らく今後も、○○の前で幾ら着飾ったとしても、すべて見抜かれるのだろうが。

 「お酒の場です、気兼ねなくお伝えしますと、初対面の時に比べて、不思議と憎めなくなってきていまして」


 だっはっは、と、絵に描いたような大声を出して笑う倉野。周りの客の視線が、一瞬だけ、集中する。○○も、それを見てか、くすくすと笑い始めた。

 「そうだろう、そうだろう、神保! こいつはな、どこか憎めないんだよ」

 「なんとも嬉しい話でありますが、恥ずかしいものですね。では、今度は、こちらからも二、三、質問を。互いに、酔いが完全に回ってしまう前に、ね。外上さんはどのように私と似ているのでしょうか」

 未だ、顔を赤くしておらず、話し方もまるで変わらない○○に対し、やや気分も踏まえて紅潮してきている神保は、しかしお酒に呑まれぬよう、頭と視線を回転させながら、浮遊感に抵抗しつつ話す。


 「その、相手を一瞥するだけで人柄や仕草を見透かせているかのような観察力、何があろうと、相手にどう立ち回られようと、常に数手先にいるかのように、全く動じず、飄々とし続ける立ち振る舞い。…一見、それらは、見下しているように見えて、どうにも違う。そんなところですね、具体的に伝えたいのはやまやまなのですが、申し訳ありません」

 ○○はふむふむと、しかし幼子のようなきらきらとした眼で神保を見据えている。


 「…なるほど、的確に射貫くような表現をするものです。しかし、そう考えると、些か、疑問が生じるのではありませんか? それほどの才覚を、言うまでもなく、物書きとして躍進を始めた若い頃からお持ちであったであろう外上さんが、警視という階級を軽視しているわけでは決してありませんが、未だに警視で留まっている。さて、どのようなお考えがあるのやら」

 そんなこってりとした油揚げを、酩酊数歩手前の鳶が、左右に身体をふら付かせながら、攫いに来る。

 「…お前さん、今、遠回しに自分のことを褒めただろう?」


 「評価した、ですよ」

 ぬはは、と、笑う倉野。呂律こそ若干怪しいが、その述懐はぶれていない。

 「確かに、警視で留まっているのは、意図的ではあるだろうな。お前さんと同じく、何を考えてそうしているかはわからんが」

 「警視となりますと、未だ捜査指揮と言う形なりで、現場の動きに介入することがままあります。皆は外上さんがそのような第一線を好んでいる、そのような気質なのでは、と、思っている次第なのですが」

 「確かに、下の経験の蓄積に重きを置いている、みてえな話はしていたな」

 「なるほど。故に表を見れば、皆が信を置くに値するヒーローのような存在です。しかし、裏を返せば」

 ここで、カラン、と、氷だけを残したグラスを傾ける○○。


 「皆から信を置かれているがために、各課なりを容易に、そう、如何様にも、コントロールできる立場にいる、と言うことですね。彼のことです、些細な噂や与太話まで、仕入れているのではないでしょうか。ですが、それでも妙です。もし仮に、同じ類だと称される私が、その立ち場にいたとしても、その程度で悦に浸る趣味を持つとは思えないのですが...」

 そりゃまあ、と、倉野が割って入る。二杯目のビールが折り返しから、急に減らなくなってきている様子だ。...興味本位で下腹部を見ようとも思ったが、既のところで堪える神保。

 「お前さんよりは人間っぽいってだけなんじゃあないか? あるいは本当に、地を往く現場至上主義者なのか」

 「ふむ、それもまた一理。…腹の読めぬお方ですね。今、私が思考しているよりも、何か根深い糸があるのだと思います」

 

 知多でなく、次にマッカランのロック割を頼む○○は、今、手元にある氷しか入っていないグラスを降る水滴を見つめている。糸、と比喩するその心を探りながらも、神保は全く別の観点から、○○を訝しむ。

 「…倉野さんが、貴方にお酒が入るとよりお喋りになる、と、お聞きしたのですが、いつもと変わりのないように思います。…まさか本当に、アルコールが効かないのですか?」

 いやいや、と否定する○○。

 「これしき、未だ酔っているとは言いませんよ、神保さん。…まったく、何を吹き込んでいるのやら」

 「うい、○○はこんなもんじゃないぞ、神保。もっと飲むとな、ペラが止まらんくなるんだ、ペラが。ボロを出させるには、○○と酒はセットよ、セット」

 それは貴方では、と口走り掛ける神保。相槌も、もう母音で収束させ始めていた。

 「…今以上に、ですか」


 「心外ですね。私はこれでも、寡黙なキャラで押し通そうとしているんですよ? それはさておき、外上警視は、彼のケースに関してはどうお考えで? 少しは、思考を交わしたことでしょう」

 マッカランを口に運びながら、うむ、と反応する○○。ウィスキーなるものにまだ慣れない、ビール党の神保が、その飲みっぷりに眼を走らせる。

 「カマキリ、だと。捕食者のようなイメージを覚える、と仰っていました」



 「ブラフですね」



 即答する○○に、もうどれだけ酔いが回っているのかわからない倉野が、途端に、仕事時の顔つきに変わった。


 「何故わかる?」


 失言したかのような表情もまるで見せずに、にこにこと、彼の男は、ここでマッカランをぐいと飲み干す。

 「…ふう。失礼、アルコールに弱くなってしまったのか、酔いが回って、久々に失言をしてしまったようですね。何故かは秘密ですよ、倉野さん。ですが、ブラフです。…なるほどね」

 すっと、右手の人差し指をこめかみに添えては、目を閉じる○○。最後の一言だけ、取り繕わない言い回しであることも踏まえ、二人は何かを確かに嗅ぎ取った。

 

 「お前さん、実は犯人の目星、付いてたりするんじゃないか?」

 ○○は瞼を開かぬまま、即答で否定する。

 「いえ、こればかりは本当に、未だ特定までは。外上警視も、そういっていたかと思いますよ。...ふむ、くわえて、それよりも何かしら、そちら様も複雑なようですね。興奮を覚えるのと同時に、何やら危なげな香りも漂い始めています。…春さんに会いたい」

 「問題発言になりかねませんよ、○○さん…」


 失礼、と、ここで目を開けては、真顔でまだ、脳内で思考を巡らせながらであろうままに返す。その名に反応し、思い返したかのように、倉野が突いた。


 「そうだ。あの嬢ちゃん、気になってるんだよ。お前さんが誰かをあそこまで可愛がるってのは、まあ見たことがない。あの子は何だい?」

 「ふふ。倉野さん。秘密ですよ、秘密」

 こめかみから人差し指を頬をなぞらせながら、唇へと当てる○○。


 「…犯人を追い詰めるより、お前さんを尋問した方が早そうだな」

 そう聞いて、○○は思い付いたかのように、両の手の平を広げて見せながら続ける。

 「それでは、是非とも外上警視にお願いしたいですね! サインも貰わないといけませんし。是非、彼にも会ってみたいものです、そのときは、ふふ、良しなに。小林さん、」


 特段、大きな声を発したでもない○○の呼び掛けだったはずだが、それは不思議とカウンターまでに及んでいた様子で、小林は即座にテーブルへと駆け付けた。

 「お帰りになるのですか?」

 「ええ。何時にも増して、楽しい時間を、ここで過ごさせて頂きました。いずれふらりと、また、お邪魔します」

 深々と頭を下げる小林。さて、と、唐突に話を切り上げて席を立つ○○。

 「それではお二方。…滑稽かつ、ペラの止まらないところを見せれず終いで申し訳ありません。考えを巡らせなければならないことが増えたようです。楽しい時間でした。さておき、花金と言えど、宵が回る時間は誰にとっても同じもの。倉野さんを、お願いしますね。神保さん」

 はい、と答える神保と、腕を組んでは首を横に振る倉野。茹蛸と言う表現は、確かに秀逸であると感心する。


 「俺を満足させる前に帰るたあ、お前さん、偉くなったもんだな」

 「あなたを満足させるものは、心行くまで小林さんが出してくれますよ。あとは見計らい、幸さんに怒られる前に、帰ることです。それと」

 すっと神保を、○○の眼が捉える。やはり、到底この短い時間であれほどの酒を摂取したとは思えぬ鋭さを放っている。


 「謝らねばなりません。貴方の出歴や、一瞥しただけでの当時の私の判断というものは、全くに間違っていました。私もまだまだ、学びが足りません。神保さん、貴方はきっと、この世を担う一人であるのでしょう。…父君のように、貴方もまた、人とはどう生きるべきなのかを、見据えることのできる御方です。是非とも、そのままで」

 予想を遙かに上回るストレートな褒め方をされたが故に、遅れて来る高揚を必死に誤魔化しては、神保は冷静さを取り繕う。

 

 「…父のことを話した覚えはありませんが」

 「ふふ。顔に書いているのですよ。それでは」


 ○○を見送る店主の背を、何の気なしに眺める神保。きっと、倉野さんも自分の父のことなどを伝えてはいないことだろう。...最初こそ、その観察眼に背筋がぞわついたものだったが。

 

 「…あいつ。タダ飲みして帰って行っちまった。俺が奢るのはお前さんだけだぞ、まったく」

 すっかり下を向いて、テーブルに話しかけるようになった倉野。それを耳に挟んだ店主が、優しく声を掛ける。


 「ご心配なさらず。追加の注文を含め、御代金は結構ですので、ゆっくりとお過ごしください」

 一瞬、何を言っているのかを把握できなかった神保だったが、直ぐに得心がいった。

 「○○さんとは、それほどまでに親しいのですか?」

 いえ、と返す店主。

 「恩人です。私が数年前、故も知らぬ酒屋で飲んだくれていた頃、さっと手を、隣で差し伸べてくれたのが、だいぶ前になりますが、○○さんでして。先生、いえ、○○さんのお蔭で、この店を開くこともできたと言っても過言ではありません。ふふ、"真に商いをするのであれば、如何なるお人に対しても、出来得る限りの全てでもてなし、そしてその代価を、違わず確りと頂戴しなさい"。...そう○○さんも最初は頑なでしたが、私も当然譲らず、昨年の暮れに漸く折れてくれまして。お蔭で、数ヶ月に一度しか、来てくれなくなりましたが」


 「先生、ねえ…」


 ○○に対して、しっくりとくる表現故か、ぽつりと、倉野が相槌を打った。

 「東京、特にこの近辺では、きっと。他にも先生に救われた人が多いことでしょう」

 そう誇らしげに語る、もう四十は超えているだろう店主に対し、神保は興味本位で問うてみる。

 「数年以上前ともなると、今の私と同様に、○○さんもかなり若い時分にあると思いますが」


 「…年齢や、その他の事柄はあまり関係がないのだと、先生は先生自身を以て証明されるお人です。人が少し、肌寒いときに、どこからか現われては、温めに来てくれるような、そんな、お人です」

 ○○と密に過ごせばそうなるのか、どうにも店主の言い回しが詩的で、しみじみと聞き入る神保。ここで気付いたように、目線を横に向ける。

 「…倉野さんもそのクチでしょう」

 顔も上げないままに、神保でなくテーブルにある空いた皿に答えを返す倉野。

 「…それ以上聞くな。公私混同がこれ以上ばれるわけにゃあいかねえ」

 「そうなんですね…」

 頬を擦る倉野を微笑ましく眺める神保。店主が、カウンターへと戻る前に言葉を続ける。


 「人のことが、本当に大好きなんだと思います、先生は。私たちは、同じ人に対して、それほど慕うほどに、その価値に。きっとまだ、気付けていないのでしょうね」


 小林の声に耳を傾けながらも、神保は、明日は確かに休みであることを脳内の片隅で改めて確認しつつ、マッカランのロック割を頼んでみた。と同時に、それを喉に通す前に、そう、きっとその前でなければならない、倉野の家へと走るタクシーを予約しておこうと、スマートフォンのホームボタンを押し込む。


 …そう言えば、連絡先を、未だに聞いていない。




***




 夜も更けたとはいえ、まだ燈りの絶えない亥の刻、有楽町。というよりも、むしろ日比谷に近い距離に在る賃貸マンション群生地の並びに、一台のタクシーが、止まった。便利なもので、今日日ではおおよそが自動ドアの仕様となっており、酩酊した倉野が渋るところを、容赦なく身体を乗り出させる。涼しい外気を感じ取る。火照る身体。直ぐに酔う体質ながら、翌日に持ち込むこともなく、寝れば覚めるために、どうにも飲みの席では初速から勢いに身を任せることになってしまう。うつらうつらとしながら、勘定を済ませた財布を内ポケットに戻しては、目の前に在る三階建て、見てくれだけは昨年の改装もあって立派な出で立ちのアパートを見上げる倉野。…我が家には、明かりがついている。○○からの土産を、倉野はぎゅっと握る。横目に映る、歩道に植え込まれた名も知らぬ木々は、先週、剪定されたばかりだ。青々しく生命を振り撒くのは陽の目を浴びている時分くらいで、今は、葉の擦れる音しか聞こえない。

 珍しくもない、鉄筋コンクリート造の、築三十年になったか、肌の冷えきったマンションのドアノブを回す。手にこびり付く、錆びた匂いが、たまに心地良い。週に一度、予防と言ってはノブをはじめとして、家のあちこちをアルコール消毒する娘に、頭の上がらない倉野であった。



 「…ただいま」

 定まらぬライン取りでリビングへの扉を開けると、もう二十三時も過ぎた頃合いながら、ソファに胡坐を掻いて、足の爪の手入れを片手間に、ぼんやりとテレビを眺めている、娘。その幸は、父を見るまでもない、先に届いた"帰りは遅くなる"と言う一文のメールと、足音のリズムが崩れている時点で、自分の父親が宵に酔ってしまっていることを理解していた。


 「…誰かに迷惑かけてない? タクシーの運転手さんとか、神保さん? だっけ。…煙草臭いし」

 顎を擦りながら、情けのない声で、すまん、と、一言ぽつり漏らす倉野。

 「まあなんだ、起きてたんなら丁度良かった。…これ」

 ん、と、目を父の手元に目を遣った幸が、目を気持ち大きく見開いた後、其れを瞬時に細めた。


 「…○○さんでしょ」

 「いやまあ、そうなんだが。渡してやってくれって」

 ほれ、と、白い紙袋を幸へと渡す倉野。

 「…父さんから貰うのも、謎に気持ち悪いね。わ」

 中を覗いては、口元が緩む幸。どうやら、何もかもが、○○にはお見通しのようだった。箱の小ささ、そしてその箱と、手の指先とを交互に視線を移していることから、恐らく、ネイルに関する何かなのだろう。最近では、ふとソファに座ろうとしようものなら、常に可愛い娘が広く陣取っては、手か足の爪をいじっている。家の主である筈なのだが、もう、暫くソファに腰を下ろした記憶がない。


 「雑誌見てていいなって思ってたんだよね。やっぱ私、○○さんと結婚したいなあ」


 途端に、酒の作用が霧となり、今娘が何を言ったのか、全神経を集中させ、咀嚼する倉野。


 「…熱でもあるのか?」

 「はあ? いや、○○さん、ほんと素敵じゃない? 男前だし」

 機嫌が良いのか、鼻歌を交ぜながら返事を返す幸。何処かのブランドのものだろうか、箱を開けた中身は、どうにも高価なものに見えた。...確かに、いい男では、あるのだが。

 「ま、冗談は置いといて、今度会ったら礼を言ってやってくれ」

 「言われなくても。ってか、そのスーツ、明日クリーニング出してくるから、目に見えるところに置いててね。あと、歯磨き忘れないように、虫歯増えるよ」

 「…はいよ。ご飯はどっかで食べてきたのか?」

 ここで何故か、幸はむっと顔を顰め、声を強めて父の気遣いをあしらう。


 「もう、うるさいなあ、食べてきたって」

 はいはい、と、一歩、後ずさる倉野。面倒見が良いのか、距離を置いて欲しいのか。今の年頃の子は、過敏が過ぎる。


 ...否、しかし思い返せば、元の嫁もそうだったか。勘が冴えている、と、小さな頃から褒めそやされていたものだが、どうにも"そちら"の方面には効かないようだ。

 「参ったな…」

 もう二十三時を回っているが、これ以上、娘を催促することは止めておいた。明日は土曜日である、夜更かしはするものだろう。



 「春さん、春さん、春さん」


 「…はい?」


 週も明けた月曜、二人が憩う此処は、例の、春と○○が初めて出逢った喫茶店である。もう、”あの場所”は、何事もなかったかのように、人々が行き交っている。実際、春でさえも、そこまで気にすることなく、通学路として歩いている。○○に、感謝するべきことと言えば其れだろうか。血の跡も今では見られず、花なども記憶を辿る限り、供えられてはいないようだった。別の場所にきっとあるのだろうが、未だ手を合わせることが出来ていない。

 春自身、○○と話すことは愉しいとは感じているが、家に遅れて帰るたび、父が後ろに付いて回ってきては、あれこれと聞いてくることには参ってしまっている。くわえて、今月の中旬には期末のテストもあり、○○との今日の付き合いにおいては、春の手元に教科書とノートが添えられていた。もともと春も、ながらで勉強することが性に合っているため、話し相手がいる分には、助かる部分もある。更けながら、いざシャープペンシルに手を伸ばしたとき、その先端に付いている、まだ使ったことのない、小さな消しゴムが口を開いた。今までの声の中でもっとも若い女性の声が、しかし男性の口調で、二人の耳へと滑り込む。



 「エドゥ=バル、エドゥ=バルよ。無学故、人と書との狭間を行き来する童よ、涎の拭き方も知らぬか? 書とは古き人、人は、何れの書。識る欲なくして、書は成らぬ。エドゥ=バルよ、ときに、神とは全知と伝わる。エドゥ=バル、では、神の手は、何のために在るのか。識る欲のない神は人でなし、すなわち書にも成れぬもの。エドゥ=バルよ、お前の手は、何のために在る?」



 あらあら、と、これまたわざとらしく、春の名前だけを呼んで満足したのか、ヤオロズに呼応してなのか、思い出したかのように話を切り出した。
 
 「そうそう、先日、倉野さん、神保さんとお酒を交わす機会がありまして。同時に、面白い話が聞けました。どうにも、まだまだいそうですよ、声を聴ける人間が」

 「警察の方ですか? …というか、お酒、飲むんですね」


 どこか意外に感じた春は、シャープペンシルに芯を注ぎ足しながら、何の気なしに問う。

 「ええ、それも、前回の話に出てきた管理官様自体が怪しいようですね。お酒に関しては、嗜む程度、ですよ。もっとも、貴方にとってのコーヒーのように、好まない種類もありますが」

 はあ、と、○○から勉強のお供になると、促されるままに頼んだコーヒーを、○○の言う通り、苦手ながら飲んでみることにする。砂糖とミルクで誤魔化せば、何の問題もないが、ブラックのままで飲むのには、まだまだ舌が苦しんでいるようだ。…口が、臭ってはいないだろうか。

 「警視相当ですのでお二方の上司にあたるのですが、どうにも私と似ているとのことで。外上門人、という小説家をご存知ではありませんか?」

 うーん、と、春は数秒ほど思考を巡らせたが、どうにも糸を手繰れないために、また、適当な返事を返してしまう。


 「聞いたことあるような、ないような」

 「それはそれは、是非一度、お読みになってみてほしいところです。兼警察官、という異色さもそうですが、文の才も奇なるもので、大ファンでしてね。会いたいものです」

 何かのファンである、そう答える○○が、どうにも新鮮に感じる。教科書へと、黒い線を走らせながら、授業中に取ったノートと、記憶を照らし合わせる春。

 「今度本屋に行ったとき、探してみます。...似ている、ってことは、その、外上さんも、声が聴こえたりするんですかね」



 駆け引きですねえ、と、○○は、コーヒーを口に含み、頷いては説明を始める。

 「無論、そうであることを願いますし、その旨を聞きたいことは聞きたいのですが、自ら迂闊に手の内を見せることは自殺行為に成り得ます。外上さんが、私が何者かはさておき、倉野さんの近くにいる人物だと既知である時点で、尚更に下手を打てません。春さんと出会った時のような、テンションに身を任せては曝け出すのとはかなり状況が異なります。仮に、あちらがそのようなカマを掛けてきたとしても、ですね。実際、万が一に彼もそのような人物だったとして、私に聞こえているヤオロズさんと同じことを語りかけられているのか、彼もまた、エドゥ=バルと呼ばれているのかすら、不明瞭です。この聴こえる力を用いて、同類を排斥しようとしている可能性も捨て切れません。そうなれば、当然、私の身の問題だけでなく、春さんを含め、あらゆる方々に多大な迷惑をかけてしまうことになりますからね。そうなったときの、ふふ、そうならないための、リーサルウェポンとして、春さん、貴方が活躍することになるのでしょう」

 「女子高生を兵器扱いしないでください…」


 ふふ、と、ブレンドコーヒーの二杯目を注文する○○に、更に春は続けた。

 「その外上さんが仮にそうだとして。卓越した能力を持っている悪い人が、そんな人が、警察に堂々とドラマみたいに居座るものですかね?」


 「正義を語る組織に属しているものが皆、正義を掲げているとは限りませんから」

 やけに正義、という二文字に引っ掛かった春が、詰める。もう、教科書には、線は走っていない。



 「○○さんの思う、正義って何ですか?」

 〇〇は、表情を変えず、変えるほどでもないのだろうか、上を見上げて、春へと即座に言葉を返す。


 「人はこう在るべきだ、と言う、願いそのものでしょう。先の人はいつしか、どのようにして生を全うするかという一点でなく、何が正しく、何がそうでないかを、それこそ生き死にを超えて、盲目に追い求めて生きました。正しさ、また、そうでない、一般に悪と呼ばれるものなど、その時折で様相を変える、ひどき流動性をもつものだというのに」


 コーヒーに注ぎもしないカップフレッシュを、手先で遊ばせながら話す○○。春は、自身の右手が止まっていたことに気付いたが、しかし復習に励むでもなく、ペン先を音を立てて突き始めた。

 「しかし、人はいつも聡明です。流れる悪、その程度のものは、深層心理と言わずとも、把握はしている。だからこそ、その後ろ盾、椅子の背もたれのように、何が正しいのかを、宗教や思想、たまに利己的な言動などを打ち立てては、もたれ、義憤と言う名のもと、正義、悪を固定させようと、今も、あちこちにセメントを用いて道路を塗り固めているのです」


 「…法律、ですか」

 やはり聡明だ、と、フレッシュを手の内から机上へ逃がす○○。

 「その通り。ですが、その様も含め、何処までも人は人で、何も変わることなく、生き続けているのです。で、あればこそ、正義とは語るだけでよく、正しい形は必要ないのかもしれません」

 なるほど、と、頷く春に被せて、壁に掛かった小さな額から笑みを絶やさない、聖母が言葉を発した。いつもの通り、陽は既に赤みを交ぜては落ち始め、その右頬に影を湛えさせている。


 「エドゥ=バル、エドゥ=バルよ。法を律するのは確かに人ではあるが、法もまた、人が作ったもの。すなわち、人は、人を、互いに律し合うもの。では、神など、付け入る隙などあろうか。エドゥ=バルよ、では、何故。神は、裁くのだろうか。エドゥ=バル、お前は、人を裁きたいか?」


 

 すっと、聖母の顔から顔を逸らし、手先で遊ばせていたフレッシュを春へと渡す。春は、既にコーヒーに一杯分を入れているのだが、あまりの進まなさを見かねたのだろうか。先の話が深く入り組み過ぎているがために、咀嚼が相槌以上に追いついていない。咄嗟に、春は話題を変えた。

 「…そういえば、例の事件って、何か進んだことはあるんですか?」

 フレッシュを手に取り、○○の真似を意識したわけではないが、手のひらで転がしながら問う春。…もう、自覚有りきで、ペンは置いてしまった。

 「そうですね、今日の昼間、神保さんとランチをご一緒しまして。そのときに、関東地区に限るものですが、事件経過からの二週間の死者のリストを一瞥させて頂きました。横死や自然死、明確な病死を除くもので、おおよそ網羅できているとは言い難いものでしたが。しかしこの二日で、休みも惜しまずに揃えていた神保さんには、頭が上がりませんね」

 「何かヒントになるような事件はあったんですか?」

 横死、と言う聞き慣れない単語が気になるところだが、後で調べてみることにする春。いいえ、と、右手のひらに、○○は斜陽を乗せた。


 「これと言っては。二週間分とはいえ、さすがに首都圏内、除きに除いても千人弱はリストに上がっていましてね。その中から気になる死亡事故をピックアップするのも骨が折れるところですが、ぱっと見ても。私の眼鏡に適う何かはありませんでした」

 謎に自信の溢れている辺りが、誰かを想起させるのだが、それよりも春が驚いたのは、その数字であった。

 「死者ってそんなに出るものなんですね」

 ふふ、と笑う○○。


 「具体的な数字に置き換えると、少し驚くかもしれませんね。しかし、春さん、否、皆さんの思う以上に、死とはありふれたものです。現に我々が、周りの人々と同じく、ありふれた生を享受しているのと同じくね」

 「ふむう…」

 この○○が言うのだ、何か関連のある事件を取り零す筈もないだろう。十も会ってこそいないが、それでも十分に理解できる。

 だが、春の内にある何かは、それで収まりがつかないようだった。確信もないとごりが、ちらと胃に淀む。きっと、口を開いても、○○には一蹴の下、流されるのであろう。あるいは、時間を作って、調べてくれるのだろうか。では、口に出すべきではないのだろうか。と、逡巡を重ねる春であったが、結論は思考の前に出ていた。前と同じく、取り繕おうが、この口からきっと、出てしまうのだろうから。



 「…海とか。その付近で、亡くなられた方はいましたか?」



 口にコーヒーを含もうとしていた○○の手が、ピタッと止まった。そのまま、眼だけ春に。今までにない、しんと張りつめた空気を敷き詰める○○。いつも湛えている笑みすら、いつの間にか消えていた。


 「なにか、引っ掛かることでも?」


 「ああ、いえ。ただ、少し」


 「通用しませんよ。思い当たる節があるのですね? 理由は伺っても?」


 春は、無論、文字を読むつもりでもなく、教科書に視線を落とす。
 
 「分かられながら答えますが、答えられないと言うことで」

 今までに聞いたことのないような声を出しては笑う○○。呼応する、見返りの店員と回る頭上のシーリングファン。


 「なるほど、なるほど。そういうことですか。…思い出してみましょう、水死体があったとしたら、リスト上では、関東圏内で二件ありましたね。ヒートショックによる浴室内での水死者数はもっと跳ね上がりますが、春さんの言い分から察するに、それは含まないのでしょう。前者の内訳は、神奈川、千葉でそれぞれ一件ずつになります」


 何が"そういうこと"なのか。…しかしこの人は、さらっとだが。一瞥と言っておきながら、結局はすべてに目を十分に通していたと言うことだ。やはり、化け物である。そう、父と同じく。

 「場所までは、分からないのですが。何となく、気になりまして…」

 「それに関しては問題ありませんよ。千葉県での水死は、昼下がり、クルージング最中だったもので、複数人数の目撃者がいるケースでした。痛みのある話ですが、小さなお子さんの転落だったそうです。神保さんのリストに間違いがなければ、対となる神奈川県は鎌倉付近の水死事故が、春さんの”気になる”ものである可能性が高いのでしょう」

 

 「鎌倉、ですか…」

 箍を外して言葉を漏らした反動から、今まで机の上で空気と化していたクラッカーをぱりぱりと、口で高らかに弾ませる春を見て、○○は微笑む。

 「…ちょうど私も、夏先の潮の風に当たりたいと思っていたところです。少し打ち解けてきた、神保さん辺りを誘ってみましょうか。お土産、楽しみにしておいてくださいね」


 「…サザエは結構ですので」

 頭上にはてなを浮かべる○○を他所目に、コーヒーへと二杯目のフレッシュを注ぐ。春は、かき混ぜるでもなく、更に白を足されては、徐々に受け入れていくそのコーヒーの面をじっと眺めていた。それはそうだ。

 自分が行ったところで、どうと言うのだ。


 「...と言うか、他県の捜査って首を突っ込めるんですか?」


 「れっきとした捜査としては原則不可能でしょうね。神保さんは、警察庁でもなく警視庁直属ですから。仮に、彼が警視庁期待のエリートと言えど、あの年で率先して介入することは難しい上、協力体制を敷くにしては、既に水死事故だと見做されているケースですしね。また、外の目という、立場的にもリスクを負うことも。当然彼も、理解していることでしょう。迂闊なことはしませんよ」

 警察庁と警視庁の違いはまた後日聞くとして、春は質問を続ける。


 「じゃ、どうするんですか?」


 「休日のデート、でいいでしょう?」


 表情も変えず清々しく答える彼を前に、溜息をつく春。先に釘を刺していなければ、本当にサザエを買ってきそうな気がしていたのは、気のせいではなかったらしい。代わりに、と、シーリングファンが春の放置されたコーヒーを、まだ十分に濁りきらないのを見かねては、懸命にかき混ぜようと四苦八苦していた。






四 - 薙ぎ風


 持て余すことのない無数の排熱孔、文の月。職に就いてもう、三ヶ月が過ぎたが、しかしこの方。これといって、余暇を静養へと充分に割いた記憶はない。”いずれ休みたくても休めない日が来るから、今の内だ”と、倉野をはじめとする周囲に気を遣われては、その温もりを踏み躙れない神保は、今日まで、余所余所しい休日を送ることを余儀なくされていた。休みであるからと目覚まし時計のアラーム設定をいじることもなく、同じ時間に起きては、一日の大半を昇任試験を捉えた勉強や捜査資料の作成に充て、身体が椅子の上でストレスを感じると呻き始めた際には、頃合いをみて、適度にジョギングを行い、外の真新しい空気を肺に吸わせる。外で食事を摂るのもいつ以来か、平時は自炊または出前で間に合わせ、洗濯や掃除も怠らず、眠気が会釈をするまで過ごすだけ。母や妹からは、家に居ればいいのにと、再三言われていたものだが、無理を通して独り暮らしをした甲斐、その気苦労、すなわち。親が常日頃、何気なしにこなしていた”かのように見えていた”ことの一つ一つを、半人前であるが故に片鱗ながら、日々学び、噛み締めてことができているように思う。

 休日どころか、職務上ですら、他府県に出ることなどあまり無かったために、スーツを羽織らずに電車に座り込んでは、車窓からの眺めを忘我のままに視神経へと通す、今の心地良さを噛み締める。鎌倉、資料によると江の島にある漁港が現場に相当するらしいのだが、赴くのはおよそ一年振りとなる。遠い記憶である筈がないのだが、水に浮かべれば沈み込んでしまうようだ。車両の中、揺られながら、神保は掬い出そうとその水面に手を滑り込ませる。


 悪友ども曰く、年相応に女性との出逢いを求めていたために、円陣を組むとともに水平線へと走り出しては、海の水を身体に弾かせていたのだが、当の神保は其れを遠目に。潮の匂いを肴として、ビール片手に海を眺めていたシーンくらいしか、いくら脳の裏を引っ繰り返しても思い出せない。…今まで、そこまでの熱量を割いたこともない上に、幾らかの申し出を断ったことすらある身であるからか、いずれはそのような人と出逢うのだろうかと、この年ながら不安になる。


 週末の小田急線は例の如く混んでおり、車両の扉が開くたび、多くの家族連れの面々が、乗り合わせてはホームへと消えていく。変わり映えのしないレールの上を走る椅子に呆けてもたれ、車両勝手に左右に揺らされては、身体の軸がぶれてゆく。気楽でよいものではあるが、神保自身、電車は普段から立って乗り合わせることを好んでいた。座って過ごすのは、何とも落ち着かない。それはもちろん、周りを逐一見渡しては、席を譲るべきタイミングを見計らわなければならないことに因る。苦と言うつもりは毛頭ないものの、今日くらい。その甘えはやはり、余暇なるものを久々に堪能したいという心情から来ていた。


 …何故、自分を誘ったのだろうか。彼のことだ、幾らでも一人でやりようがあるだろう。むしろ、何かと邪魔になる、邪魔をしてしまうのではないか。…否、慌てふためく自分の姿を愉しんで見たいのだろう。最近においては、何か行動を起こそうとするたびに、○○ならどうするのだろうか、という思考がついて離れなくなってきてしまっている。いつの間にやら、眼窩裏にまで棲み付かれているようだった。年齢も確か、近かったはずだ。先のバルで他愛なく聞いたのだが、はずなのだが。そこで記憶が途切れる辺り、まだまだ酒に合わせられない身体の造り、その耐性のなさが自分の青さを物語っている。”酒は若いうちに溺れておけ”、父の教えではあるが、まだその意は得ることができていない。


 湘南リゾートの玄関と称される、乗り換えの藤沢駅で、血気纏う若者の群れに漏れず、腰を上げる神保。卒もなく改札を通り、迷うこともなく乗り換え先へと流れたところに。駅構内の白色に染まる形で、覚えのある長身の黒色が、老婆の隣で微笑みながら、空いているベンチに隣り合わせで座っていた。この駅は向こう、十年単位での改装工事を予定していると聞いているが、それに伴い、どれだけ活気が溢れ、人々が交錯しようが、彼だけは瞬時に見つけられる自信がある。それだけの独特な香りが、彼の周りに満ちていた。

 「こんにちは、○○さん」


 ○○が、顔だけをこちらに向ける。本当に、何時、どの場所であっても、この表情のままだ。

 「これはこれは、こんにちは、神保さん。私よりも十分ほどの遅れとは、何とも早めの到着ですね」

 

 「…私服も黒で揃えるのですね」

 口ではそう言うが、何処か確信していた。すらりとした長身のため、質素なシャツとチノパンだけながら、しっくりと似合う。腕時計も黒に染められているのだが、どこのブランドなのだろうか。腕時計に関心が高い訳でもないが、やはりステータスのひとつとして捉えられるこの時世においても、隙を見てはロゴをどうにか盗めないかと、その白い肌に目を通していたところに、○○が口を開いた。


 「こちらは真知子さん。夏先と言えど、この日差しでは年齢問わず、堪える方も多いことでしょう。少し外の暑さに当てられたようでして、ここで息が整うまでの間、お話しさせて頂いていたのです」

 ふん、と斜に構えたような笑いを吐き出す真知子という老人。神保が近くに寄ったときには、既に息遣い、顔色ともに落ち着いているようだった。使って間もないのだろうか、まだ新しいシルバーカーのハンドルに付着した汗の痕を見る辺り、かなりの距離を、この駅まで歩いたのだろう。

 「何ともまあ。人を見た目で判断しちゃあいけないってのは、息子にも孫にも言っているんだが、私もこれじゃあ言えなくなっちまう。誰よりも先に、この真っ黒い男前が気付いてくれてね。日傘を持ってこなかったのが、良くなかったねえ」

 

 ふと、口元が緩む神保に対して、○○は確りと老人に対して釘を刺した。

 「真知子さん、どこか近くで日傘を買うのをお忘れなきよう。新たなお洒落のためと思えば、ふふ、存外に夏に当てられることもまた、良かったのかもしれませんね」

 ○○さん、と窘めようとした神保を、真知子と言う老人が手で制する。

 「まあまあ、生意気なことを言っているようで、そういうことだと私も思う。前向きになることとするよ。それこそ、あんたと同じく、黒いものを買ってみようかねえ」

 「真知子さん、それはお洒落とは呼び難い気がします。…それにしても、○○さんも、常日頃から黒で統一すると言うのは、何とも勿体ないとは私も思うのですが」


 さっと、自身の装いに目を落とす○○。

 「そうですかね? 重宝することも多いのですが。ではいずれ、神保さん、そのお洒落の道の、手解きを」

 「そう言って、また揶揄うつもりでしょう…」

 老人がくっくっ、と笑いながら、二人のことを交互に眺める。


 「あんたも、この真っ黒いのも。婆あの言うことだが、眼に真が在るね。良いことだ、今も昔も変わらん。捨てたもんじゃないねえ」


 そう、ぽそりと零しては、しっしっ、と、手で二人を追いやる仕草をする老人。

 「もう一休みして、ぼちぼちと行くから、あんたらももう、お行き。心配せんでも、何かあったら駅員を呼ぶから」

 ふふ、と笑う○○。


 「その台詞を口にしながら、実に呼んだ人を見たことがありません。その御年まで他人を気遣う、その腰の低さに合わせてか、シルバーカーの取っ手の位置まで低い。あと十センチ上げるだけで、これしきの暑さでばててしまうことはないでしょう。真を視る目利きの前に、真知子さん、まず、鏡に映る自分を気遣わなければね」

 老人は目を丸くして、次にシルバーカーを見遣った。少々荒げた口調ながら、歳を重ねたが故に作られた皺以外の線が、口元に走っている。

 「なんと、真が在ると言うのに、ここまでいけ好かない人間がいるときた! もう二度と会ってやらん、会ってたまるか。早くどっかに、去ねい」


 二人は頭を下げ、しかし○○はけたけたと笑いながら、乗り換えの途、先は江の島方面へと歩を進めた。念のためにと老人を振り返った神保であったが、こちらを見る真知子と言う老人の目は、暑さに乾いていないようだった。



 「海です!」

 「楽しそうですね…」


 何と言う話をするでもないままに、乗り換えに十分強、そこから、また歩いて五分少々の行った先の、片瀬東海水浴場。その場、江ノ島の海岸を両手に沿わせ、目一杯に広げては指揮台に立つ○○。こちらが休みであるからと気を遣ってくれたのだろう、集合自体が正午であったために、浜の砂は、盛況により気温以上の熱を帯びていた。

 ○○の第一声は、気持ち声が大きいものであった筈だが、周りが振り返るには、オーディエンスの私語がそれを掻き消していた。くわえて場に似合わぬ装いだと言うのに、周りは○○に一瞥もくれておらず、本人は全く気にもしないのだろうが、それはそれで不憫さを覚えるものでもあった。七月を過ぎれば、既に開いている江ノ島の海は、週末と言うこともあり、視界のどこを切り取っても、人、人、人と人。共鳴するように、ありがちなモラトリアムを過ぎればこそだろうか、自然と、身体が疼くのを感じ取る。


 「で、あれば、海に入りますか? 水着くらい、どこかで買えるでしょう」

 「心を読まないでください」

 失礼、と笑う○○。さてさて、と、言葉に起こす代わりに、両の肩をこれ見よがしに回し始める。


 「では早速、花でも探しますか!」

 これもまた、大きな声で宣言をするために、神保はただただ、たじろぐ。…普段、いったいどれだけのトラブルを生み出しているのだろうか。見知った人間の前でしかやらぬ言動だと信じたいところである。

 「不謹慎ですよ… というか、そもそもありますかね、供花」

 「このように、人が溢れかえる場所であるからこそ、奇なるもので、誰かが忘れぬようにと、そっと。何かしらを添えているものです。現場はここから歩いて少しのところでしたね、行きましょうか」


 二人の若い男が、海や浜には目もくれず、其れらを背にして練り歩く。週末には、肌を露わにする人間ばかりでなく、やはり釣り客も多くみられ、少し歩いた先、目的地である片瀬漁港の辺りでも、視覚的な喧噪も散見された。クレヨンの青色一本で塗り潰したような快晴の中、潮の匂いも、嫌みなく肺に満ちていくのが分かる。日の本の中心特有だろうか、あの白々しくも重々しい空気感も好むところではあるが、やはり自然には敵わない。


 「かなりの日差しですが、日焼けクリームなど、お持ちですか?」

 シャツの袖を捲り、上腕を露呈している○○の肌を気に留める神保に、何を仰いますか、という言葉が返って来る。

 「この肌は狙って白くしているのではありませんよ。体質でしょうかね。日焼けもむしろ、してみたいほどなのですが、あまり焼けないのです」

 「まあ、そのような感じはしますが」

 「しかし、敢えて毒を自らに塗るのであれば、黒色の服ばかりを着るというのも、夏には堪えるものでしてね。何せ暑いんですよ。まあ、そこがまた良いのですが」

 何から指摘すればいいのか分からないこの○○節は、天気の良し悪しや潮の風、人々の熱気、その何れからも左右されるものでもないようだ。どのような言葉で突っ込めば、返せば良いのか分からない自分の語彙力の低さに、神保は溜息を吐く。


 「…何を着ても、似合うと思いますが」

 そうですか、ありがとうございます、と、海へと伸びる堤防に続くように走らされた、長い手摺から浮かび上がる影から足を踏み外さないよう、まるで小学生のように遊びながら、現場までの道筋を辿る○○。


 「おっと、ありましたね」

 堤防の終点に近い、或る一角。そこには一本のカップ酒と、数輪の花が供えられていた。恐らく、ここで命を落としたのであろう。神奈川県警の見立てでは、堤防から滑落して、そのまま溺死、として片付けられており、当時目撃者もいなかったのだという。暫くは誰も寄り付かないものだろうと神保も踏んでいたのだが、物好きか、堤防の先端には一人、釣りに勤しむ人影が見えた。


 
 「第一発見者は、被害者とも面識があり、よく釣りの折に顔を合わせたこともある、で、お間違いないですね、神保さん」

 「ええ。"被害者なのか"までは、まだ断定できませんが。聞けば何せ、カナヅチであったとのことですし、溺死とみるのも頷けます。…釣りがお好きだと言うのに」

 「ふむ」

 ○○は手を合わせながら、口も開けずに喉を鳴らすだけだった。神保も倣い、弔意を示す。

 「…一時間弱で発見されたのも、消波用の石ブロックに身体が引っ掛かっていたことで流されていなかったことに因るとのことです。無論、解剖時にも体内に水が溜まっていたために、事件性がないものだと判断されたようですね」


 ○○は、いつも通り、その神保伝いのレポートに物を申す。

 「それにしても、顔面にある小さな擦過傷を除いて、打撲を含め目立った外傷なし、というところが引っ掛かります。その程度こそ不明瞭ですが、カナヅチだったとしても、慌てふためき抵抗し、堤防壁や、それこそ消波ブロックに縋ろうと、指などに傷がつくものです。海へと落ちた時点ですべてを諦めた、ということであれば別ですが、それもまた考え難い。命たるもの、生に縋ってこそ意味があるのですから。くわえてヒートショックでもなく、周囲への聴取から自殺の線も薄いとする県警の判断を呑むのであれば、"滑落する前に意識を失っていた"、と、私なら仮定しますね。当日の天気は、確か、」



 「雨だったよ。あんたら、刑事かなんかかい?」


 供花の前で、二人があれこれと類推しているところに、右から、見るからに釣人である、四十代だろうか、一人の男性が声を掛けてきた。○○は微笑んだままに、彼の釣り竿に目線を定め、動きを止めた。それを隙と呼ぶのかは分からないにせよ、神保は彼の左手に捲かれた腕時計のロゴを、横目で遂に捉えたのであった。後に調べたところ、スウェーデンのブランドだと言う。




***




 「あの人、いえ、東さんはね、何度言ってもライフジャケットを着ずに、際の際まで行って、釣りを楽しんでいたもので。カナヅチだって、てっきり冗談めかして言っていたものだとばかり… 残念です」


  そう、優しい夕立のように。男性は、くすんだベージュのキャンプハットを深く被り込んでは、ぽつりとそう、漏らした。

 「こんにちは。私は○○と申しまして、こちらが神保さん。仰る通り、彼は刑事さんです。ふふ、第一発見者の方ですね?」

 ○○の推察に対して、目を見開く男性は、手早くハットを取って応える。精悍な顔つきに反して腹部に幾らか贅肉を抱えているのを見てとる神保。五十代前半だろうか。釣り竿をはじめとする備品類からは、十年の単位で潮風に晒されてきたことが容易に窺える。


 「…ええ、その通りです。斉藤と言います。…滑落死、と聞いたんですが」

 新しく買って貰った玩具を手放さない子どものように、まだ角の擦り減っていない警察手帳を、ジャケットの裏に忍ばせておいた甲斐があったようだ。重力のままに垂れ下がった、見せかけの凛々しさが映える顔写真を、斉藤へちらと見せる。

 「本日は捜査などではなく、あくまでも仕事の外ではありますが、引っ掛かる点がありまして。少し、お話を伺っても?」

 斉藤は左肩に担いでいたクーラーボックスを音も立てず、地に置いた。


 「構いませんが、その前に、手を合わさせてください」

 一挙手一投足の所作で、手を合わせる斉藤。やはり、年の功は、経れば経る程、美しさを醸し出す。しみじみと、神保が自身の青さを噛み締めている間に、其れは済んだようで、満足の行ったような面持のままに、斉藤はこちらを向いた。


 「…失礼しました。しかし、答えられることは、あまりないと思いますよ。前に県警の方に喋ったことが、すべてですし」

 構いません、そう神保にが口を開く代わりに、斉藤を見るでもなく、その後方に広がる、湘南の海の面をまじまじと眺めながら、○○は返答する。

 「いいえ。それは、質問をする側の器量に因るものです。さて、まだ日にちも経っていない故、記憶も新しいかと。お辛いかとは思いますが」

 斉藤は、深い息を吐き出し、どうぞ、と呟いた。それを狼煙とばかりに、神保は啖呵を切り始める。


 「では。発見されたときの状況を、お聞かせください」

 「…まあ、馴染みだから、その場の道具とか見れば、直ぐに分かったんです。東さんが来てるんだろうと。それでも、セッティングはそのままに、あの人の姿が見えないもんだから、ちらっと周りを見てみたんです。そしたら、そう、丁度あそこ辺りかな、まあ、浮かんでましてね。…そういうことです」

 供花から見て左側、堤防の先端に近しい辺りの、消波ブロック帯を指差す斉藤。次いで、神保に代わり、聴取の内容を整え出す○○。

 「失礼、釣り道具はそのまま、ということは。斉藤さんから見て、何も乱れた様子がなかった、と言うことでよろしいですか? 釣り竿やクーラーボックスをはじめ、フィッシングチェアなどもお使いになっていたことでしょう」


 「……いえ、竿は海に落ちていましたね。…椅子は、確かに、倒れているとかではなかったかと」

 「なるほど。では、最近、東さんとお話しした内容ですが、例えばどういったものでしたか?」

 うーむ、と、頭を掻いた後、改めてハットを被る斎藤。顎に手を遣っては、引き出しの中を探っている様子だ。

 「至って普通ですよ。すごく親しいっていう間柄でもなかったんで、基本は釣りの話です。最近どこで釣ってるとか、あれが釣れた、これが釣れたとか。本当、それくらいです」


 ○○は、なるほど、なるほど、と、次の質問を続ける。この時点で、流石の斎藤も、会話の主導権を握っているのが神保でなく、へらへらと笑みを湛えている、この謎の黒い男へと挿げ変わっていることに気付いたようだった。助けを求めているのか、視線がちらちらと、神保に移っている。


 「では、交友関係に関しては? 斉藤さんよろしく、東さんにも釣り友達などはいたことでしょう。…そうですね、”最近新たに、誰某と仲良くなった”、など。お聞きになっていませんか?」


 ○○に対して、一抹の不審を抱いているのであろう斉藤も、○○の狙い澄ました一言に、そういえば、と、誘われるがままに言葉を広げた。

 「一度、ふと出会った男が、なんでも釣りが初めてで、延々手解きをしていた、と意気揚々と喋ってくれましたね。聞いたのは、事故の一週間前くらいだったかと。なんでも飲み込みがよく、自分より入れ食いしていて困ったとか」

 ○○の、右の口角が、痙攣を帯びたのを。神保は見逃さなかった。


 「なるほど。その方は、初心者故に、人が集まるところにとりあえず来てみた、という感じでしょうかね」

 「ここの堤防、隠れた穴場と言うほどでもないから、そうなのかもしれませんね。なんでも男前だったと。釣りをまるでしないような、ま、整った出で立ちだったらしいんですが、それでも気さくに話しかけてくれたようです。料理が好きとかで、娘に何か持ち帰って食べさせてあげれたら、と言ってたらしく、自分に負けず劣らず子煩悩だと、笑っていましたね」

 ほうほう、と、○○は肩を気持ち震わせながら斎藤の聞き入っていた。…斉藤が観察眼が冴えていないことに救われる神保。下手すればより不審がられると言うのに、何か、面白可笑しいところなど、あっただろうか。


 「なるほど、大体ですが、分かりました。斉藤さん、感謝します。これからお楽しみ、というところを、お邪魔してしまいましたね。神保さん、引き揚げましょう」


 この人が引き上げ時だと言ったら、きっとそうなのだろう。個人的には、東という男性の背景をもう少し聞いてみるべきだとも思ったが、神保はそれをせず、はいとだけ返事をした。先のケースのことと合わせても、○○は自身の推察した仮定を前提として、物事を推し進めがちであるようだが、これだけの、と言っても出逢ってからほんの少ししか経っていないが、付き合いをすれば、下手を打つとは最早思えないでいたからだ。何より、仮に彼の其れが外れたとしても、例えば今日のこの時間は、ただの湘南観光、の一言で済んで落ち着いてしまう。思考を巡らせる度に、彼の周到さが、際立つ。

 

 「なにか、力になれましたかね?」

 県警の聴取とは異なり、比べてあっけなく終わったことへと拍子が抜けたのか、改めて確認に入る斉藤に、○○は言葉を返した。

 「まだ、何も言い切れません。ですが、貴重なご意見を頂けました。…そうだ、お昼がまだお済みでないのなら、協力して頂いたお礼です、御馳走させて頂ければと思いますが、どうでしょう?」

 いえいえ、と、漸く表情を崩した斉藤が、肺の底にとごっていた空気を、一笑とともに吐き出す。

 「ははっ。ありがとうございます。ただ、今日は何とも、腹を空かせながらここらで釣りに耽りたいもので」


 「…よき人だったのでしょうね、東さんは」

 何気のない神保の一言に、ハットで視界を更に狭める斉藤。


 「もう少し、話しておくべきでした。では」

 一礼とともに二人へと背を向け、堤防の突き当りまで、重い足取りで、歩を進めていく斉藤。その背を何とも言えぬ目で、見送る新保。

 

 

  その、横で。笑いを必死に堪える○○がいた。敢えて諫められたいかのように誇張された笑いが、既に十六拍子にもなろうかと言う勢いにまで達していた。

 「…○○さん。怒りますよ」

 「くく、そういう人は既に、怒っているんですよ。さて、神保さん、こちらはボウズになりませんでしたねえ。”ビンゴ”です」

 

 怒る、とは言ったものの、と言うよりも、最早呆れに近しい感情と、○○の言葉への疑問が入り交ざることで、物差しを使わないが故に歪に浮き出た曲線たちが、眉間に書かれる。

 

 「…は?」

 「その釣り初心者が犯人ですよ、きっと。何ともまあ、これは恐れいきました。辻褄しか合いませんねえ。江ノ島に広がる、欝々とした日常を屠る漂白剤。染まり損ねたクロなど、この犯行と、ふふ、私くらいでしょうか」

 「…詳細を教えて頂いても?」


 そう、問いを投げ掛けてみるも、○○は真逆、堤防の手摺の裾に落ちていた煙草の吸殻を、ほんの一瞬だが、じっと見つめているばかりであった。…普段から飄々と、自由気ままにあちこち視線を移すことを好む○○ではあるが、このように、たまに、一点をじっと見つめる癖がある。気に留めるほどのものであるとは、思えないことが多いのだが。


 「ふふ、まだ秘密ですよ、神保さん。とは言え、何をするでもなく、御預けとなるのは些か不愉快かと思います。その眼の奥には、先にちらと視界に挟んだ、海の家の像が残っているようですね。とりあえず、適当な海の家で乾杯といきますか」

 「…はい」


 間に何を、誰を挟んでいるわけでもない、二人での余暇だと言うのに、今日は一段と、置いてきぼりで、○○が独り歩きしている感覚を覚える。堤防までの道のりを、引き返す二人。道中、何故自分を誘ったのだろうかと、未だ理解しかねていた神保だったが、しかしそれも、ビールが喉を通るまでの話に過ぎないものだった。



 神保としては、人影の少ない家を選んだつもりではあったが、昼の下がりと言うこともあり、ドラマに出てくるような、広いコテージが添えられたその海の家には、肉の焦げる香りとともに、血の管を浮き出させる、若い層で賑わっていた。その端の席に、特別に肌を露わにもせず、しかし若さを鈍らせない清潔さを着込んだ青年と、浜の砂よりも白く光らせる肌を、黒一色で覆う男性が独りずつ。


 「それにしても、神保さんは、海が似合いそうで似合いませんよね」

 ただただ煽っているだけであると知りつつも、神保は、求められているように、眉を顰めて確りと対応する。

 「失礼な。…まあ、確かに、こうして賑わっている様を見るだけで充分なところはあります。この潮の匂いも、喧噪も。傍から眺めている方が、風情として記憶に残るもので」

 あらあら、と、コテージの端に据えられた、ライトブラウンのウッドデッキチェアにもたれては、軋む音を与える○○。

 「若いうちは、遊ぶことが仕事のようなものですよ。そんなことを輪の外からぼやいては、お酒を愉しんでいるが故に、それほど固い人と成ってしまうのです」

 「そういう○○さんも、遊んでいたようには見えませんが」

 「何を仰いますか、私はいつも今でも、遊んでいますよ」


 予め、まとめて頼んでおいた二杯目のビールの冷え具合を気に掛けながら、透けた徳用のプラスティックコップの中で脈打つ一杯目を飲み干す神保。○○もにこにことしながら、手をさっと上げ、代わりをオーダーする。

 「では、私はハイボールで」

 

 「かしこまりましたあ」

 水着の上から薄いパーカーを羽織っただけの、すらりとした若いウェイターが、黄の色を若干交ぜた、高い声で応える。

 「客だけでなく、店員も皆、この湘南を満喫しているようで。魅力ある男性になる第一歩は、女性の色香を鼻腔に染めることから始まりますよ、神保さん」

 …女性の件など、話したことはない筈だが、しかし○○なりに、気に掛けてはくれているようだった。

 「…昔から、どうにも縁がないもので。興味がないこともないのですが、何とも。自分が、色恋沙汰の渦中にいることなど、想像もつきません」

 「勿体のない。しかし渦に身を投げるのであればお早めに、ですよ。一期一会とはよく言ったものです。冗談ではなく、私の年齢にもなれば、そのままだと服が黒に染まりますよ」

 そうならない自信だけはあることは胸に秘めながら、神保は話を逸らす。二杯目を、半分ほど一気に喉へと通し、丁度、○○へとハイボールを持ってきた店員に、更に代わりを頼む神保。やはり、海にビールと来れば、ウィンナーが良き友となる。その表面に広がるケチャップの隙間を縫い、いかにも出来立てであると主張する肉汁が日光に反射し、背徳的な食欲を駆り立たせてきていた。


 「…そういえば、先の斉藤さんから、例のホシの名前を聞きそびれていましたね」

 「何を仰います、どうせ聞いたところで偽名ですよ」

 聞き慣れぬ鼻歌を喉で遊ばせながら、空の青さに目を輝かせている○○。上機嫌なようで、何よりである。

 「娘さんが、という時点で、確信に変わった笑みを浮かべていましたね。やはり、目星をつけていたのですか?」


 「そう見えましたか。ふふ、しかし私は、此処だけの話。聞く前から確信をもっていましたよ」


 なるほど、と適当に相槌を打ち、視界の横からぬっと現れたビールに手を伸ばした頃合い、既に酔い始めた頃合いに。一瞬だけではあるが、○○の領域に踏み入れてしまったようだった。○○と初めて出逢ったきっかけとなったケース、その歪な犯人像の解釈と、仮定の数々。と思えば、今日のように。ふらりと別の、事故として扱われている、しかも隣県のケースに茶々を入れてはまた仮定を並べ、何かを暴き出そうとしている。先日には、鋭意捜査中と判断した場合は、もう首を突っ込まない、とは言っていたものの、舵を切り替え、迅速に今回の件へと思考と時間、そして労力を割いている辺り、○○のことだ、何か関連性があると踏んでいるだろう。


 このように、こちらも仮定した場合。端から聞いていれば、突拍子のない、飛躍の過ぎたものである、としか判断できない○○の思考回路を、誰よりも彼自身が其の信憑性に関して自覚しているであろう回路を、決して棄てずに己を信じて突き進ませるだけの、何かとは。倉野すら、今まで見たことのないと言う、彼の無謀な綱渡り、それを成すための、そのピースとは。彼がそこまで、信を置く、何かとは。


 最初から、居た。違和感の塊が、彼の隣に。初めて出逢ったときから、身体を小さく丸めては。雨に濡れては、最初から、彼の隣に居たのだ。


 はじめて、芋の蔓を、手応えを以て引いた感覚を覚える神保。しかしその達成感や充実感は薄いもので、なによりも歪な不安が、それらを覆っていた。蔓を引き遂げたいという願望に反して、果たして、蔓の先に在るものを自分は受け止めることが出来るのだろうかと。


 確信をもっても。嗚呼、彼はいつも。このような景色から、言葉を選んでは、聞かせているのか。

 「まさかとは思いますが」


 そう言い終える前に、直ちに○○が、手で制した。左手で遊ばせていたハイボールをテーブルに置いた。音は聞こえない。不思議と、賑わっている筈の、周りの蝉噪すら、遠のいていた。

 顔から笑みが、あの○○から消えている。その視覚的な事実と、”当たり”であった事実と。神保の脊髄そのものが、凍ってゆく。



 「驚きましたね、神保、神保忠義さん。やはり、貴方を連れてきた甲斐が、予想以上にあった、ということですね。素晴らしき哉、やはり人はいつでも、可能性を欲しいままに拡げてゆく。ですが、それ以上は、口に出さぬと、今のところは、どうか約束をして下さい。込み入って、いるのです」

 「…約束とは、そこまで一方的であっては、意味を成さないものの筈です」

 「ですから、どうか、という詞を添えているのですよ。いずれ、いずれ。神保さん。いずれ、私か、否、私でなくても、きっと誰かが。”何が込み入っているのか”を教えてくれることでしょう」

 数えて、十秒。遠ざかっていた、現に満ちた電気信号群を脳が改めて汲み取るまでに、それだけの時間を要した。次いで奥歯を強く噛み締め、勢いよく、ビールを口に含む神保。一割ほどは、零れて彼のネイビーのジャケットに染みつく。構うこともなかった。


 「貴方は、狡く、賢い人です。…きっと、嫉妬しています、私は」

 ここで、元の微笑みを湛えた表情に戻る○○。諳んじるかのような物言いも、還ってきているようだ。

 「他人に嫉妬を覚える、というのは、自身がまだ、未熟な証です。そう、人は常に未熟なもの。其れが消えてしまうような人は、人ではありません」

 「貴方が嫉妬する場面を、想像は出来ませんが」

 はは、と言う、○○の乾いたその笑いは、しかし渚に消えていく。

 「倉野さんがいつも仰っていることでしょう、あいつは人間じゃない、と。その通りです。代わりと言っては何ですが、私は嫉妬こそしませんが、羨望は覚えましてね。普通などという、誰もその基準を知らぬのに、知らぬがままに、その普通を謳歌することができる人ほど、羨ましく想うことはありません。普通に生まれ、育ち、喜び、怒り、悲しみ、楽しみ、そして死ぬ。実に、羨ましい」


 いつかの父の顔が、浮かぶ。丁度、このような夏の頃合いだっただろうか。まだ十もいかない自分に言って聞かせてくれた言葉が、この今に、現像される。


 「羨むことは、憎しみに繋がる、と、聞いたことがあります」


 先の一気飲みが効いたのか、秒間隔で、知らぬ間に目線がオートで切り替わる。そんな自分を知らぬ振り。右手も、知らずウェイターを呼んでいた。その神保の様子を眺めながら○○は、白い人差し指で机にリズムを与えている。

 「実に非の打つところのない言葉ですね、父君のお言葉でしょうか? 神保と言う名も伊達ではない、父君も、その年功故に理解していたのでしょう。その通り、私にも、憎むことがあります」

 「それは?」



 「それはね、神保さん。”風潮”ですよ。誰が声に代えたでもない、しかし誰もがいつの間にか基準とし、外れたものを迫害するあのシステムです。誰を祖ともせず、あらゆる智を以て構築されたわけでもない癖に、システムとして機能し続けている、あれです。土地や、時代を超えて。今でも、村、町、市、都道府県、国、世界というそれぞれの単位で。阿呆らしい。それにさえ従っておけば、どれだけの悪人であろうがのうのうと生きることができ、そこから一度でも踏み外せば、どれだけの善人であっても、首に縄を通し、地に反してぶら下がり得るのです」


 いつものことながら淡々と続ける○○であったが、その言葉には、若干の赤色が差しているような感触を覚えた。その色覚調整のエラーを吐き出しているのは、アルコールを零してしまったからだろう。

 「…ですが、風潮なくして道徳や倫理、故の秩序は在り得ません。法も、その時々の風潮で変わるものですから」

 否定はできません、そう○○は言葉を紡ぐ。

 「実際に、私たちは風潮によって、肖ることによって、この世を生きております。それ故に、水面下で其れをのさばらせているように思えて、それが、どうも違和感を覚えて仕方がないもので。匿名を決め込む、強烈な悪意すら、感じるほどです」


 「…風潮、ですか」

 変な話をしてしまいました、と、自戒しながら、何杯目のハイボールを頼む○○。自らの言葉を変、と称すのを、はじめて聞いた気がした。

 「罪を憎んで人を憎まず、という言葉もありますが、罪も所詮は人の業。風潮を憎んで罪を憎まず。今思いついたものですが、座右の銘にでもしておきましょうかね」

 言葉遊びでは、と突っ込む暇も、与えてはくれない様子で、○○は続ける。


 「神保さん、先刻の真知子さんと言う老人が言っていましたが、まさしくその通りだと思います。貴方には真がある。私にも、と言っていましたが、それは、ふふ、彼女の読み違いですね。その真、それだけ、失わぬよう。...さて、お酒に酔うのは結構ですが、しかし夕暮れにも遠い。泳ぐでもないとすれば、東の都に帰りますか?」

 神保は、これもまた何杯目かのビールを飲み干す。威勢を、アルコールから借りることは、まだ、卒業できないようだ。


 「…逃げるつもりですか。まだ、私は、ハイボールを飲んでいませんよ」

 はは、と、酔いからか、普段と異なる、温度を感じ取れる笑いを吐き出す○○。手元のハイボールを、十割分、一度で飲み干す。苦手な酒が、目の前で人の喉へと雪崩落ちていく様を見て、借りた威勢が剥がれ落ち、少したじろぐ神保。

 「私と同じ、でしょう? 先日の、ハイボールを飲む時の貴方の顰め面たるや、SNSで拡散したいほどでしたからね」

 「…そんな冗談も言えるとは」


 まだまだ本気を出していませんよ、と胸を張りながら、ここに来て初めて、もう冷めきっているフライドポテトを一つ、○○は口に放り込んだ。先の飲みの席といい、あまり肴を摂らないようである。

 「…さておき。今日は貴方にとってもお休みの日。普段も気負わず、今くらいのテンションで過ごせば良いのです。どうせ、ジョギングくらいでしか、外に出ないのでしょうから」

 いざ、ハイボールが目の前に置かれたにも関わらず、じっと見つめる神保。怖気づいているわけでは、決してなかった。


 「…何だかんだ、楽しく過ごしています、今を」

 「それは何より。ふふ、一つ、会ったときから張り付いていた貴方の皺を取れたようです。私は先の件でもう、今日の予定は無いに等しく。神保さん、私を何処の市中に引き回してくれますか?」

 ハイボールを、覚悟を決めて一気飲みし、瞬きを繰り返しながら椅子の背にもたれる神保。向こう、週間分の二酸化炭素が、青の中へと溶け込んでいく。


 「鎌倉って、温泉。ありましたっけ」

 「疑問を持っている通りですよ。名のつくところはありません」


 「…帰りますか、東京に」

 「では男二人、岩盤浴とか、どうでしょう? そうはいっても、私も行ったことがないのですが」

 主導権を放棄した神保を、それとなくフォローする○○。また、それを聞かされる神保も、岩盤浴とやらに行ったことはなかった。友との仲を深めるならば、それぞれが経験したものでなく、皆が未経験のもので盛り上がれ。...今日はやけに、父の影がちらつく。


 「…安いところは嫌ですね」

 「正直ですね! では、探しますか。東京は、何でもあります、悪いことにね。そのジャケットに代わるものも、見繕いましょうか。ビールの匂いがこびり付いていますし」

 「…選んでもらって、よろしいですか」


 喜んで。そうぽそりと呟いた○○の一言を引き金に、デッキチェアから腰を上げる二人。さしもの○○も、江ノ島には馴染みの店主はいないようで、さっと、これまた黒い財布を取り出していた。ここは私が、と、自分に財布を出す暇すら与えない迅速な振る舞いの○○を見て、財布に関しては、同じく黒色にしてみようかと、ほろ酔いのままにスマートフォンで財布を調べ出してみる神保。先に、ブランド名こそ押さえていたが、黒い時計を腕に巻くにはまだ、早い気がした。




***




 「で、その話しぶりだと。あいつは、なんだかんだ言ってもまだ、江東区の、…カマキリを気に掛けてるわけか」


 青い月曜日、その名に一助と言わんばかりの曇天。陳列棚から抜け出せたは良いものの、未だ東京の風しか知らない、ベージュのコーヒー缶が、桜田門にて倉野の口へと傾けられる。出勤して間もない時分ではあるが、週の単位で日光浴を許されたばかりに、すっかり日に焼けてしまった資料たちと、ぶっきら棒にレジ袋の中に詰められ、縛られたコンビニ弁当の空いた容器の幾らかが、今日も倉野のデスク周りへと頽廃という彩りを添えていた。放置を続けた暁には一日に二度、神保に窘められることになるのだが、倉野は軽くいなしては別の話題に逃げることを好んでいた。此れもまた、四係の縁における、何も変わらぬ、日常的な光景である。


 「はい。先日、○○さんとお会いする機会がありまして。…自分の勘がどうにも、と仰っていました」

 缶を口に付けたまま、倉野は言葉に成らない返事を喉の音で鳴らす。

 「...ふう。なんだ、随分親しくなってるじゃないか。いいこった、お前さんにとっても、○○にとっても。まあ、あいつの言う勘、という言葉は、俺らの勘以上に研ぎ澄まされているもんだが。前に話したときにくわえて、何か話していたのか?」


 神保の、手に握っていたコンビニの、アイスコーヒーのカップの形が気持ち、崩れる。未だ手探りのまま、触れることすらできていない正義を前に、琴線が震えた。この揺らぎを、まだ眼が開き切っていない様子の倉野が察するかどうかは、今体内を駆け巡っているカフェイン次第だろう。…善き嘘、と言うのだろうか、こういったものは。

 

 「秘密だと」

 「…ははっ、そうか。あいつらしい。ま、何かあったら言ってくれるだろう」


 どうやら、倉野が毎朝ルーティンとして飲んでいるものがカフェオレであるために、其の成分が希薄なようだった。罪悪の念が、高鳴る。今、正義を掲げるこの場所で、口を噤むなど。これでよいのか、この選択で正しかったのだろうか。そう巡らせても、しかし、あの時。自分が黙認した時点で、あれはもう、約束をしてしまったようなものだろう。...彼は、この自分の葛藤までも、見透かしては愉しんでいそうだ。


 「秘密と言うのは、何とも狡いですよね」

 先ほど、序でに買ったおにぎりのラッピングを、これまた無造作に剥きながら答える倉野。ぽろぽろと、海苔の破片が、仕様もなく床へと散っていく。

 「あいつが秘密というときは、たいてい誰かを庇ってるときさ。...聞こえこそいいが、無茶はしないでほしいもんだな」

 疑いなし。神保もそう確信しているが、あの娘を徹底的に守り庇うとするならば。何故、我々のような機関を頼らないのだろうか。疑問に起こしこそするが、しかしその理由は、言葉に起こさなくとも、分かり切っていることであった。…それはそれで、信を置かれていない気がして、負の淀みが、鳩尾の辺りへと急いて雪崩れ込んで行く。コーヒーに立った鳥肌を、神保は手で感じ取る。

 「まあ、それは置いといて、仕事すっか。本当、あの件だけに集中できれば、それこそいいんだがな。…○○の動きが、今までと違う分、なんか、心配だ」


 「そうですね…」

 心配、と表現するのは、父性から来ているのだろうか。...自分は、どうだろうか。コーヒーを飲み干し、付いた水滴を拭き取ろうと神保がジャケットへと手を滑り込ませようとしたところに、聞き慣れた陽気な声が前から響いてきた。山本が、いつの間にか神保のデスク越しに顔を出している。


 「○○さんって、どなたです?」

 「おはようございます、山本警部補」

 「おはよう、神保くん。お疲れ様ですね、倉野さん」

 おうおう、と、無心に頬張っているがために、倉野はとりあえず、肩で返事をする。

 「...おはよう、山本。なに、○○ってのはただの友人だよ。そういうお前さんは、今日は朝一番から、忙しくなるって聞いたが」

 息を溜めに溜めて、盛大に吐き出す山本。わざとらしい手振りから、清潔感漂う、クリーニング上がりの香りがちらつく。


 「今早朝、港区で強盗ですって。被害者も出たらしくて、かつ犯人がまだ逃げ続けているとか。とりあえず現場に顔だけ見せてこないとでね」

 「そうか。ま、なんか手伝えることがあったら言ってくれ」

 ええ、ええ、と、にこやかに山本は頷く。

 「勿論、勿論。いざとなれば口の回る、倉野さんファンの二課の皆さんも総動員で、よいしょしてもらいますので、ご準備だけ」

 まったく、と顎を擦る倉野に一礼し、手を振りながら背を向けて去る山本。倉野は、残りの握りを口へと放り込み、缶コーヒーで流し込む。

 

 「ま、とりあえず書類でもまとめるかね」

 「ええ。...その前に、倉野さん。デスクを片付けさせてください」

 倉野は、はいはい、と、また顎を擦りながら外の空を見遣った。雨は降らない、と、予報士が茶の間で教えてくれていたが、午後を跨ぐと怪しくなりそうだ。...傘をもって学校へ向かったのだろうか。母に似て、確り者だから、気に留めることもないのだろうが。厚い雲を掻き分け、飛んでいくかは分らない、そんな儚い気遣いを、倉野は開いた窓から飛ばす。



 “鎌倉は春さん、楽しき杞憂に終わりました。性を悪くし、栄螺を手土産にしようとしたのですが、それはまた今度。何れのお食事に代えさせて頂きます。”


 溜まった鬱憤を吐き出すかのように、鬼神の如く気合の入った神保の手によって、倉野のデスクが今までにないほど整頓されてゆくのと同日、ほぼ同時刻。目の奥をずきと痛ませながら、スマートフォンに届いたショートメールに、ベッド上から目を通す春。○○からメールが届いた、という事実よりも、自分の中に巣食っていた柵が、やはり杞憂に終わったことへの喜びと安堵から、不気味なほど口元が緩んだわけであるが、顔が赤いのには、また別に理由がある。…昔から、風邪を引く頻度こそ少ない代わりに、ひとたび引いてしまうと必ず、一週間は長引いてしまう。週末に重なった分、学校関連の遅れは軽度で済んだが、週明けの今日も、大事を取って、ベッドに伏すことを決めていた。…否、父が、自分と学校へと言葉で畳み掛けては、そう決めた、という方が正しい。


 どうにもこのような形で休んでしまうことを良しとできない世渡り下手な性分は、嫌いではない。其れを承知で、常にセーブを掛けてくれる、父の存在とやらは、布団に覆われているからだろうか、改めてその温かさに触れることが出来なくもない。...九割は度が過ぎるのだが。


 この頭の鈍痛も、もう耐え難いというほどでもなく。ずきずきとするその間隔を空で数えながら、うつらうつらとし始めた頃合いに、スマートフォンから初期設定のままの発振音が響き出した。睡魔が、踵を返す。電話の着信音は、何に変えても、いつまでも、慣れない。横目で見た画面には、対して見慣れた友人の名前が写っていた。

 「もしもし?」


 「はろー、春ちゃん。風邪、大丈夫?」

 神田の声は、電話越しであろうとその活気がくすむことはない。春はうつ伏せになり、枕に頬を擦りつける。

 「おはよう。まあ、大丈夫だね。…というか、もうホームルーム始まる時間じゃないの? 取り上げられるよ」

 耳を澄ませば、クラスメイトの喧噪が絶えず、教室内で響いているようだ。余裕、余裕、と、神田は春の憂いを流す。

 「明日には行けるから。神田さん、ありがとうね」

 「そうは言うけどさ、週跨いで三日も、ってのはね、こっちも春ちゃんロスになるわけ。今日を乗り越えられるかどうか…」

 「それ、夏休み入ったら死んじゃうんじゃない?」


 意識しないままに、笑みが零れる。気付けば、頭の痛みが消えていた。

 「だから、定期的に遊ばないとねえ。おっと、ごめん春ちゃん、お大事に!」

 春が口を開く前に、ツー、ツー、と言う音が虚しく耳元で泣く。神田の携帯電話が、どうか取り上げられていないように、と強く念じる春。…また、名前で呼べなかった。他人との距離感を、朝から考え始める春の頭に、また知らず、痛みが扉を叩き始める。そして、此方でも、春の部屋へと、ノックが三度。


 「…はい」


 扉を開き、スーツ姿で顔を覗かせる冬人。顔はやはり、真顔のままである。ネクタイは整えているが、ジャケットは着ておらず、袖も捲っていた。崩れた着こなしをしても、と言うより、何を着ても。この父親は、気に入らないところではあるが、異常に様になる。その目線から察したのだろう冬人は、見据えた言葉を並べた。


 「自営業とやらの特権だ。自身の身の振り方は、すべて自分に降りかかる、と云うのは、字面では重たい印象を受けるものの、反面自由に立ち回れることを意味する。数々の偉人が、言の葉を変えては書き記した通り、自由は責任なくして在り得ない。さて、具合はどうかな」

 「前口上が長いよ… 大丈夫、頭が少しずきずきするくらい。ほんとなら、別に学校も行けたよ」


 聞こえている筈だが、冬人の目は、久々に入ったからだろう、春の部屋の変わりぶりに、遠慮をしてちらちらと見ることもせず、堂々と神経を割いているようだった。相も変わらず、愛娘のプライバシーに配慮がない。

 「日常を過ごし過ぎるのもよくはない。一握できるほどの罪悪感とともに、地へと寝転び、無為に時間を貪ることもまた、人として肝要だ。また、別に、という言葉を使う場合、得てして人は別に、とは思っていない。昨日よりは快復しているようだが、確かに身体は参っているのだろう。気を張らず、休みなさい」

 「言葉が入ってこない…」


 ふふ、と、口でだけ笑う冬人。

 「今日は少し、陽が暮れてからの帰りになる。弱った愛娘を一人、置いていくことになるとは、仕事をし過ぎると言うのも困ったものだ。しかしそれもまた、娘のため。何か帰りに、馳走を買って来よう」

 「いいよ。…暑いだろうから気を付けてね」

 冬人の視線が、部屋の蹂躙を追えたようで、目が春を捉える。

 「母親譲り、参ったものだ。心得ておこう」


 「行ってらっしゃい。…ありがとう」

 

 気恥ずかしさからか、布団を目の下まで被り込む春に対し、背中で冬人一口の批評を論じた。

 「いつの間にやら、シックなものへと関心が傾いているようだな。真の意味で黒の似合う人など、そうはいない。嫌みなく魅力を湛えるまでの道のりは険しいものだが、しかし私の娘ともなると既にゴールテープは見えているようだ。それにしても少し早い気付きである、そのような気がするが、その理由は、ふふ、聞かないでおいた方がよいかな」


 「…怒るよ」


 その前に退散だ、そう冬人は言葉を漏らし、音も立てず、ドアを閉めて仕事へと出向いて行った。鼻を鳴らしながらも、また口元を緩ませ、目線だけ見送る春。先の○○からのメール然り、神田からの電話然り。風邪で参ってしまうことにも、確かに言われれば、味を占めることができるようだ。部屋に籠っていようが、月曜はどうしたって忙しいらしい。かなり目が冴えてきてしまい、再びスマートフォンのホームボタンを、何の気なしに押してしまう。画面のポップアップは、こそこそと机の下で打ち込んでいるのであろう、神田からのアプリメッセージで埋め尽くされていた。とりあえず既読にして、数時間後に返信をすることにしよう。そうした方が、あれやこれやとまた、絵文字に溢れた未読の件数がより増えるのだろうから。



 「ふむ、曇り空か」


 玄関を出て外気に身を曝した冬人は、そう独り言ちる。確かに、晴れていては敵わない。其れは、病で弱った娘を照らすには、皮肉が過ぎている。症状の具合から、夕方くらいまでに一眠りを挟めば、鈍い痛みも消えることだろう。さて、馳走を買って来るとは息捲いてしまったものの、何にしたものか。

 マンションの敷地を出て、最寄りの駅へと歩を進める冬人。十歩も歩かないうちに、すれ違い、郵便局員を乗せたバイクが、マンションの前に留まったようだった。切に、我が愛しの娘に対する、クラスメイトからの恋文でないことを願うばかりである。歩の速さは、緩めない。


 そのバイクからみて、立ち止まることなく、姿を小さくして往く冬人。その背に、人知れず、バイクのサイドスタンドが、声高らかに、エールを送っていた。過ぎる人はいても、振り向く人は居ない。


 「エドゥ=バル、エドゥ=バルよ。人とは、二種類に分かれるのだと、聞いたことがある。棒を持たせたとき、他人をそれで傷めるか、地へと滑らせ線を描くか。私はどちらが正しいのかは知る由もない、だがお前がどちらを選ぶかは知っている。数多の命を包む褥よ、流されて往け。選択を棄てるな、エドゥ=バル、命の輝きを知れ、エドゥ=バル。数多の命を載せたまま、線を描き続けるのだ。エドゥ=バルよ、老いたときにはその棒を、支えの杖へと代えると良い」



 「さてさて、初日から殺してくれるんでしょうか。お天気、其の日和であると思うのですがね」


 ○○がそう問うてきているというのに、雲々は返事の仕方が分からないようだった。縦横に振る首もないままに、朝の東京を考えもなく、流れて往く。






五 - デヴィルハント


 此れも亦、同日、魔と逢う頃合い。台東区は上野、御徒町方面から少しばかり西に進んだ先に連なる、漫ろ艶やかな色目通り。ネコ科の皮膜を被り、辛うじてこの青き月曜を生き残った兵たち、その熱気がリフレインを帯びて闊歩する。そんな通りを、数本挟んだしじま、路地の帳。


 視界が朧気で、薄めで捉えるものが足元のコンクリートだけなのは、何も鬱蒼とした曇天から目を背けているというわけではなかった。物心がついた頃から、こうだったのだ。貌が綻ぶ、彩り豊かな思い出など、有ったかどうか。かと言って、学生時代、特にいじめられたというような、蓑として使える決定的な負の過去を送ったこともない。外面の話においては、生まれ育った環境や身なりを、貧相と評されたことはない。かと言って、そんな容姿も特に映えているわけでもなく、学に関しても人並み程度、故に親もこちらに何も期待しておらず、自分に自信を、青さ故のものですら、抱いた記憶もなかった。たとえば、甘酸っぱい失恋をした、であるとか、大学受験に失敗した、であるとか。むしろそれらに挑戦することからも、意識せずに背を向けていた。

 親の関心の希薄さに託けて、今思えば行きたかったわけでもない、もう何を専攻としていたかも忘れた専門学校に通い。...そう、通っていた筈が、何故か行き場をなくし、いつの間にやらお水に手を出し、目先の金で、上京したときから変わらぬ賃貸アパートで、私は日々を凌いでいた。萎びた高級ブランドのバッグには、いつ買ったのかも思い出せない、度が過ぎるエナメル装飾で覆われているだけの財布と、指紋だらけの、開く都度、底を攫う程度にしか残っていない化粧用品。そして、うっとりするほどに、錆びひとつない、折り畳み式の剃刀。最後者の、何らかを削ぎ奪う刃は今日も、どうかその切れ味を試させてくれと、こちらに懇願していた。毎日、毎朝、毎夜。情の絡みの有無問わず、其れに目を通すからか、光沢を帯びる紋を眺めると、何とも落ち着く。夕暮れ時も終いだと言うのに、とうとう赤のひとつも差さなかった空の下で、その刃に指先を沿わせては、命の寄る辺と見立てる。この行為は、仕事の内でも、外でも。そろそろ店に出向く頃合いながら、身体が度数の強いリキュールで満たされた酩酊状態の中で、十全に其の羽を開いた。夏場に染みる、その刃の冷たさに息を漏らしながら、口をついて出た言葉は、いつものものであった。何事がなくても、何を誰にしていなくとも、もはや脳への信号も通さずに出ているであろう、対象不定の、ありふれた懺悔である。冷たい壁に心ごと預け、座り込み、目を閉じる。


 

 「ごめんなさい」


 「はて、死ぬ気概があるのかな?」

 足音どころか気配、その存在すら感じなかった。瞼を開くと、互いの爪先が付くほどの距離で、長身のスーツの男が静止し、こちらを見下ろしていた。皺ひとつない白シャツに、紺単色のネクタイが映えている。端正な顔立ちでありながら、感情がまったく通っていない表情をしており、女性は不快ではない不気味さを覚えた。


 「あの…?」

 ふむ、と、周りを目だけで舐める男。彼女が好んで、お水通りの外れの中でも、殊更に人っ気のない路地裏に屈んでいたこともあって、人影はまるで見えなかった。一帯には、安物のスプレー缶で、中高生が背伸びして噴き殴ったのだろう、脈絡のないロゴマークをくわえた犬たちが、罅の入ったコンクリートの壁上を走っている。


 「真摯であろうがなかろうが、自ら死を願う人間を殺めることは、あまり実にはならない、と言うのが私の経験則でね。しかしその若さ自体が、十分な養分と成ることも多い。お嬢さん、本来ならば先の開けた君の救うべき命なのだろうが、生憎。故に早く散ることがまた、より美しさを湛えることもある」

 そう、まるで朗読でもしているかのように言を紡ぎながら、男は、ビジネスバッグから黒いレザーの手袋を取り出し、慣れた手つきで左に嵌めた。そのまま、剃刀を持った彼女の右手をさっと掴む。逆の手の首元には、数匹の蚯蚓が蠢いた痕が、これ見よがしと浮いていて。女性は、”事”が自然と、滑らかに躙り寄ってきたがために、男の行動に対する抵抗が、まるで追い付いていないままであった。


 「え」


 「リストカットで死に至る例は少ない。それは、大多数の人間がそもそも動脈の正確な位置を知らぬということもひとつあるのだが、他方で、大多数の人間がそもそも真に死のうとしていないことに因る。しかしそれでも、身に染みていることだとは思うが、リストカットにより悲劇のヒロインと言わんばかりに自身の存在を主張すること、またはアブノーマルなファッションとして自身の特異性を証明しようとすることは、あまり益を生まない。次の世などないと私は思っているのだが、その時を迎えたならば、己が淀みを、血でなく言葉で表してみるとよいだろう。では、さようなら」


 彼女は、この男が言っていることはさておき、今から何が起こるかぐらいは、理解できていた。今から、殺されるのだ。今から、すべてを喪うのだ。もちろん、死にたくない、という意識もあったが、思えば、其れを拒絶するほどの、自分の”すべて”など、たかが知れているものだった。くわえて、今、こちらの目の前に座り、こちらの目の奥を覗き込む男の、自分に対する距離感が、言葉の温度が、まるで理想の父親像かのように寄り添っていて、なけなしの自己防衛を引き起こさせないでいた。うちの父親とは、大違いだ。得も知れぬ境を踏み越えようとしている恐怖心からではない放心、彼女は身動きを取れないままに、彼の左手で掴まれた自分の右手が、自分の肌へと、抵抗なく入り込んでゆくその過程を、二枚の水晶体に焼き付ける。何故か、自分の右手は、剃刀を強く握りしめて離さない。無意識に、視神経へと意識を集中させていたのか、通りを挟んだ、表のさざめきが、遠のいているようだ。…なんだ、例の走馬燈とやらは、嘘か。



 「そこまでだ。...ふふ、そう、これです、これ。一度言ってみたかったんですよ!」



 今度は、飄々とした知らない声。目の前の男の手が、ぴたっと止まった。僅かに身を裂いた剃刀の周りから、この前も見た赤色が、じわり滲み出す。彼女が瞬きをすると同時に、瞳孔が収縮する。どこか心地の良い冷たさをもつ、男が嵌めたレザーの手袋の質感、自身の心音、呼吸、上野駅の方面である、東から聞こえてくる喧噪、それらの情報群が、ヴォリューム調整のノブをひと思いに捩ったかのように、彼女の全身を瞬時に駆け廻った。衝撃から、身体が数ミリ程度宙を浮かせながら、ヘルツ不定の悲鳴が、一瞬だけ飛び出す。知らず視線が眼窩の裏へと逃げようとするのと連動し、剃刀を持った右手が震え始める。足腰は、夏だと言うのに凍ってしまい、言うことを聞く様子がない。例の動脈は無事だったようで、血は直ぐには止まらないながらも、吹き出す素振りを見せないでいた。


 
 「この私が現場を押さえられたのは、初めてだな。珍しく、気乗りのしないままに人間を殺めようとしたからか、それとも私自身が老い、鈍ったか。それとも」

 男は、彼女から眼をずらしては立ち上がり、すっと、第二の声の主へと振り向いた。無表情はそのままで、その所作からも、動揺などしている様子にはまるで見えなかった。


 「きみが私以上に化け物であるか、かな」

 ふふ、と、奥の男性が嗤う。出で立ちや表情は、まだ影に隠れて見えない。


 「恐れながら。今挙げたすべてが当てはまったり、してしまったり。四宮冬人さん」

 ふむ、と数秒、一考する仕草を見せる冬人と言う男は、次に、すん、と息を吸った。



 「…なるほどな。きみが○○くん、と言うわけか。娘が世話になっているようだ」

 いえいえ、と、流れてきた厚い雲の所為も相まって、更に黒を帯びていく、○○という男性。

 「こちらが、春さんにお世話になっているのですよ。おっと、後ろのお嬢さん、止血してあげてくださいね」


 「確かにそうだな。...失礼」

 冬人は先のことなど無かったかのように、改めて女性へと振り向いては、屈み、彼女の手に触れようとした。その手にはいつの間にか、黒いハンカチが載っている。咄嗟に、手を引っ込める女性。


 「だ、大丈夫です、ごめんなさい」


 「謝る必要はない。むしろ私が、謝らねばならぬのだろう。では、自分で止血してくれ。…ふむ、殺し損ねた記念と言うわけではないのだが、名前を聞いてもいいかな」

 彼女には、この場の状況の一切を、否、一片でも把握する機能など、そもそも備わっていなかった。後ろの男性は、警察の人間だろうか。それにしては、言動に緊張感がない。ここで数歩、歩み寄ってきたことにより、その全貌が露わになる。影にいようがいまいが変わらぬほど、異様に黒い出で立ちで、○○という男は不敵な笑みを湛えていた。むしろ、冬人と言う男よりも、不審に見えてくる。…救われたのだろうか。兎にも角にも、彼女がなんとか絞り出したのは、やはりか、自分の名前であった。再度勧められた、冬人と言う男のハンカチを、受け取る。


 「あ、新川、新川杏、です」


 ふふ、と、口元を緩ませることもなく、声だけそう漏らす冬人という男。

 「それはそれは。旬の果実を逃してしまったようだ。良い名前だ、懸命に生きるといい」


 「…はい」

 ここで、後ろの○○が、杏へと話し掛けた。よく聞けば、優しく染みる、低い声をしている。

 「さて、ご覧の通り、この方はもう貴方にどうこうするつもりはありません。ここから最寄りの交番となりますと、公園前交番か、黒門交番か、ですかね。お手数ですが、ご自身の脚で、警察の方を尋ねて頂けるでしょうか。私が、彼を此処に引き留めておきますので。まあ、万が一、迷ったり、あるいは、"行かなかったり"しても、ふふ、既に手配済みですので、焦らず、どうぞ」


 杏は、血が出ている手元、...自分を殺そうとした人間から貰ったハンカチでぎゅっと押さえ付け、背筋を気持ち伸ばし、頷く。自分と言う存在が、正に奪われる場所であった筈だというのに、其れをまったく感じさせない雰囲気を、二人が明確に創り出していた。杏の平常心が、遠くから漸く、顔を覗かせている。

 「用意が周到なように見えて、ひとつ手順を余計に置いている。はじめから隣に警官を連れて来ていたならば、この時点でお縄にできると言うのに。さては、意図的だな?」

 もちろんですとも。そう、黒尽くめの、○○という男が口を開く。

 「理由は二つ。恐らく同行させていたのであれば、貴方はきっと尾行に気付く筈です。その"持ち前の感性"、とやらでね。そして何より、もうひとつは。"其れ故に"少しでも、二人きりで話をしたかったのですよ」

 目をきらきらと輝かせながら、更に一歩だけ、冬人へと寄る○○。…話をしたい、とは、何のことだろうか。持ち前の感性? 杏は、目を細める。淡々と、次は冬人が言葉を返す。

 「二人きりで、と言うが、まだ彼女が居るだろう。それに、私がこの場を何とか切り抜けようとした時のリスクは考えていないのかな」


 「そういえばそうです、新川さん、ささ」

 どうしようもなくぎこちのないウィンクと同時に、○○の手の平で鳴らされたクラッピングによって、これまた不思議と、新川の硬直が途端に消え失せた。立ち上がり方も、思い出せる。左手を押さえながら、顔を伏せて、駆け足で二人を置いて交番へと向かう杏。…この辺りで働いて随分経つと言うのに、黒門交番とやらが分からない。とりあえず、上野駅に向かえば、いいのか。足止めをしておくと言っていたが、○○とやらは、何者なのか。...救われたのだろうか?



 問答を自分の中で巡らせる彼女の背中へと、姿が見えなくなるまで手を振り続ける○○。冬人へと振り返ることもなく、続ける。


 「さて、先の話の続きですが、貴方ほどのお方が、そのような安い脅しをするものではありませんよ。貴方は現場さえ押さえてしまえば抵抗はまずしないだろうと、確信と言う名の勘が働いたものでしてね」

 なるほどな、と、冬人は口だけで相槌を打つ。

 「やはり、そういうことか。さてさて、私も直に会い、話すことは初めてでね、些か動揺をしていることは隠さずに伝えておこう」

 口元を、確かに緩ませる冬人。



 「聴き人だね、○○くん」



 ほう、と、声を上げて感嘆に代える○○。

 「聴き人! どうしてそのような趣のある呼び名を思いつかなかったのでしょう! いやはや、やはり、先人を侮ること勿れとは、よく言ったものですね」

 ここで、風もないのに、路地裏の地面に転がっている、ビール缶が、ころと音を立てた。齢に代えれば八十は下らない、皺がれた声が、頭上の雲を割けることもなく、啼く。


 「エドゥ=バル、エドゥ=バルよ。自身の両の掌に、何を乗せられたのかも知らぬ秤よ。物の重さを比べるのは良いが、その本質には決して偏りを与えるな。エドゥ=バルよ、何故、人がお前に物を載せるかを思考せよ。罪を犯した文字すら知らぬ咎人も、識者が決して見出せぬ金言をもつ。さて、エドゥ=バルよ、今、お前の目には”何”が映っている? エドゥ=バルよ、お前に載せられぬ、重いものなど、在るのだろうか」


 「ここまで楽しい時間を送れるのは、娘と過ごしているときを除いて他にないだろう。そして、先のきみの勘だが、全くにその通りだ。既に暴かれた時点で、この殺人絵巻も終わり。想いを込めて長く筆を認めてきた分、予想以上に呆気のない幕切れとなったよ。得てして人生とは、そういうものなのだろうが。...”父さんみたいな人に会った”、か。愛娘の言葉を十分に推し量ることなく、過ごしてしまったことがすべてだったようだな。人並み程度の悔しさが、沸々と込み上げていることを、正直に白状しておこう」



 「では、化け物同士、少しお喋りでもしようか」


 冬人の言葉を皮切りに、この寂れた路地裏へと複数羽、不思議と急いたカラスが寄ってきては、化け物二人の上へと足を降ろした。そうして、電線を揺らしながらその首を、きょろきょろとさせるばかりで、鳴かずに屯をし始める。晴れ時ならば、夕暮れに照らされてその濡羽色の美しさを覗かせるものだが、しかしこと人々に対してその魅力を改めて知らせるには、例え晴れ時であったとしても、いつの時代も、彼らは少々高みの見物が過ぎていた。



 南無八幡大菩薩。確と引き絞られ、上野へと放たれたパトロールカーの中の空気は、張り詰めていると言うよりは、何処か浮ついていた。助手席に座る神保は、気が逸り前のめりになっては、しかし倉野への後ろめたさもあって、決して右側には視線を配らず、窓越しに過ぎ去っていく景色へと目を流している。先程まで、デスクに積まれていた調書を、…併せて、倉野が担当していた送検手続きの書類を捌いていた矢先。先日の休暇の折、”気を配っておいてください”と言われて久しからず、○○の位置情報と、短く添えられた一言が神保のスマートフォンに飛んできたことが今回の出動の発端となった。課の周囲の目を掻い潜り、かつ急ぎ早で乗り込んだ反動で荒くなった呼吸も、もう大分落ち着いてきている。


 対して倉野は、そんな神保に勢いよく囃し立てられるがまま、現在まで理解が追い付くことなく、運転させられる羽目になっていた。とは言っても、神保が慌てて運転しようとしていることに変な危うさを感じ、半ば強引にハンドルを奪い取ったわけではあるのだが。顎を擦る暇もないままに、都心を走る倉野も、さすがに、”この事態”に○○が絡んでいるのだろうとは何となくは勘付いている。神保がこちらに全く顔も見せないことが良い証拠だ、何か隠しているのだろう。まだ、荒い呼吸に混ぜて、溜息を吐く。


 「…とりあえず落ち着け。○○が、何か仕出かしたのか?」

 終始無言を貫いていた神保は、数秒躊躇った仕草を見せた後に、倉野の方へと首を曲げては、頭を下げた。

 「申し訳ありません、倉野さん。…少々込み入った話となるのですが、要約しますと、現在。恐らくですが、○○さんは例のケースの、カマキリを押さえている状況にあります」


 「…はあ?」

 折よく赤信号に変わり、ブレーキを踏む倉野。車内で吸うわけにはいかないために、内ポケットに入れていた煙草の箱を右手でなぞり出す。メンソールはもう、止めてしまった。


 「…お前さん、知ってたな?」

 眼を逸らさず、頷く神保。

 「はい。四宮冬人、という男性が犯人ではないかと、○○さんは以前より睨んでいたようです」


 「四宮… はん、なるほどな」

 折よく青信号に変わり、アクセルを踏む倉野。車内で吸うわけにはいかないために、内ポケットに入れていた煙草の箱から、火を点けるでもなく一本を口にくわえる。倉野によって上下に揺らされる煙草を見遣り、事の顛末の説明を促されているのだと理解した神保が、話を続けようとする。



 と、同時に、倉野は意識を、その四宮とやらと、○○へと集中させ始めていた。四宮冬人。あの高校生の血縁者。勝手な憶測だが、恐らく、父親だろう。以前より睨んでいた? どの時点から? まさか、あのサ店で初めて四人が、会った時からか? ...それはない。カマキリの話を最初に振ったのはこちらからだった。それを聞いての、例の○○の意気揚々とした持論の展開も、いつも通りのもので、知らないフリをしていたとは到底思えないものだった。...否、思い返せば初日から、○○は、最後に、"なるほど"と、"秘密だ"と言っていた。そして次に会った時には、あの、まるで犯人像を断定しているかのような、長い付き合いでも見せなかった飛躍した持論と、口振りだ。...あの時にはもう、勘付いていたのだろう。だが、それにしても、あまりに出来過ぎている。○○をしてぶっ飛んでいると言わせた犯人が事実、実在してしまっており、事実、○○が持論通りに像を描いたが故に、独りで追い詰めてしまっている始末だ。つまりは今、あの春という、ホシの娘に当たる高校生を介して、化け物同士が出逢っていることになる。...途中から、気には掛けていたつもりだったが。あの高校生、いったい、何だ。



 「先日、○○さんと神奈川は江ノ島へと赴き、気になっておられるという、或る水死のケースの現場検証と聴取を、申し訳ありません、勤務外ながらに行いました。その時点で○○さんは、否、もしかすると、その以前から、春さんの父親が犯人である確信を持っておられたようです。私もその時に気付いたのですが、いち個人としても、警察官としても、犯人特定の明言や、その他協力行動に移ることは、こちらが指示するまで控えてほしいと、強くお願いされたものでして。…重ねて、申し訳ありません」

 ふう、と息を漏らす倉野。くわえていた煙草が途端に苦しそうにぴくぴくと痙攣しては、斜め四十五度を向いた状態で硬直した。


 「まったく、色んなもんに首を突っ込んでは出しゃばるのが仕事の俺らに、指示をするたあ。…癪だが、俺ら警察が動けば、その四宮ってのが確実に尾行に気付くと思ったのだろう。前の○○の持論、犯人像を聞くに、あいつなりの追い方でない限り、現場を押さえるのは無理だと踏んだんだな」

 「そうだと思います」

 「現状、その位置情報の先で何がどうなっているは分からんが、あいつのことだ、万が一にもリスクを負うようなことはしない筈だ。どうせ、俺らが到着する頃合いすらも計算してしているだろう」

 神保が相槌を始める前に、だが、と、言葉を普段よりも大きめの声で続ける倉野。口の中で噛み切られたのだろうか、煙草は、先程とは打って変わって、萎びては俯いてしまっていた。


 「だとしてもだ。俺らのことは信用しなくてもだ。自分が危険に晒されても構わない、どうせ自分一人の話だから、って言いたいようなあの立ち振る舞いが前からいけ好かんっつうんだ。...人が好きなくせして、人に頼らんから、あいつはダメだ」


 「…まるで、父親みたいですね」

 あまりに気持ちの籠った、厳しい字面と裏腹の、塞き止め切れていない優しさを確りと認識した神保が、口元を緩ませる。


 …こいつはこいつで、苦い思いで、必死で抑えていたのだろう。こいつの正義感からして、容易いことではなかっただろうに。其れを吐き出せたが故の、口元の緩んだ神保の表情を見て、倉野も口から煙草を取る。


 「馬鹿野郎、あんなやつが息子に居て堪るか」


 警視庁から上野は、そう遠くない。問題は、パトカーを止めてから、また駆け出すとして。神保に後れを取らないよう、どれくらいの距離を走らされるかにあった。さっきみたいなのは、もう身体が持たない。禁煙をするつもりがない者として、週明けからの"これ"というのは、致命的であった。



 下手に寝付けないまま、昼を過ぎた辺りで目を閉じた春を叩き起こしたのは、やはり枕元に置いていたスマートフォンからの、初期設定のままの発振音であった。快復の兆しがある中で、更に大事を取った甲斐があったようで、覚醒の度合いが妙に研ぎ澄まされているのを自覚する。おはようからおやすみまで、登校から下校まで。また神田からのものだろうと画面に目を通すと、午後七時は回っていたようだった。くわえて春の目に飛び込んできたのは、○○、という文字列。謎の擬音を漏らしつつ、素早く出ようとする余り、スマートフォンが指の間からするりと抜けて弧を描き、ベッドの下へと音を立てて飛んでいく。ホラー映画宜しく、上半身だけ、ベッドからぬるり滑り落としてそれを拾う春。

 

 「は、はい。四宮です」


 「春さん、こんばんは。風邪気味であると伺ったのですが、声から察するに、元気そうですね。良かった。…なるほど、少し着込んできてくださいとのことです、よい人をお持ちだ。私の位置情報を転送しますので、出来る限り早く、タクシーを用いて来てください。代金は、私が立て替えます。…おっと、出しゃばりが過ぎたようです。すみませんね、ふふ、ついつい」

 その話し振りから、頭を働かせるまでもなく、春は或る事実の確認を行う。

 

 「…父が、そこにいるのですか?」

 「その通り。やはり貴方は、聡明ですね」


 褒め言葉をそっちのけ、春は布団を放り投げて、クローゼットへと勢いよく身を走らせる。肩と頬でスマートフォンを固定し、部屋の明りを点けることも忘れて、ハンガーで吊るされた木々を掻き分ける春。何だ、何が起こっている? 父と、○○さんが? とうとう、この日が、来てしまったのか。危惧していたカタストロフとやらだ。しかも、自分がぬくぬくと油断し、過ごしている日に限って。...偶然に出会ったのか? 仮にそうだとして、それくらいで、私を呼ぶだろうか? そう、父ならば、其れを止める筈だから。

 

 「急ぐには急ぎますけど、着替えやら何やらありまして…」


 見え透いた時間稼ぎで濁したのにも関わらず、一瞬。いつもは即座にそれを見抜き、笑いながら毒を交ぜて突いてくる筈の○○が、変調を意識したわけでもないだろうに、一拍を置いて、押し黙った。感応して、春の動きも止まる。

 嫌な予感が、する。

 

 「春さん。犯人が車に乗り込むまでの猶予というものは、ドラマで見るほどには与えられないものですよ? 幾ら、今回”良い人たち”を手配済みだとし――」

 

 ○○の言葉を最後まで聞く前に、スマートフォンを耳から離し、春は即座にその電話を切断した。次いで即座に、猶予を挟むことなく、インターネットアプリを開いては、タクシーを呼ぶ手配を始める。何度も、何度も、必死に。陽が沈み、暗く静まった部屋で唯一、光る画面へと指をこれでもかと走らせ、タクシーの電話番号を検索するところから。日々、暇を持て余し次第、考えを巡らせる前から、無意識に操作するものだと言うのに、それでも。フリック入力が、思うようにいかない。打ち間違いなど、いつもはしないのに。遂には表面を、ボタンでも付いているのかのように、押し込み始める。思うように、手が動かない。手の震えが、止まらない。もう鼻は詰まっているわけでもないのに、口呼吸へと切り替わっている。自分の浅い呼吸が、部屋に、春の頭に響く。身体ももう、動くのを止めていた。いつもは穏やかな、脳に広がる庭園が、灼熱を帯び始める。


 「くそ、くそっ」


 さらに、呼吸が乱れ始める。いつもは電話番号など、一瞥して記憶できる筈なのだが、今や最初の三桁すらままならない。もう治ったものだと思っていた例の鈍痛が、何故か再び、後頭部の辺りで蠢き出した。目の麓からは、知らず涙が零れ落ちていて。いつからか自分の奥底に潜んでいた、隠していた、疑念と言う名の蜷局が。とうとう解かれた。


 どうして、と、やっぱりと。途方もない優しさ、と、どうしようもない嘘と。春の脳内にはどの感情に対しても座る椅子が用意されていない様子で、くそっ、と言う、どうしようもない二文字だけが、口から出続けるばかりであった。上下の歯が、噛み合い方すら忘れて、カチカチと音を立て始める。


 そうこうしつつ、どうにかタクシー会社の番号を空見で言えるくらいに、溢れ出る情動を抑え付けられ始めた頃合い。聞き慣れたポップアップの音とともに、○○から位置情報が届く。


 そうだ、この人も、嘘を吐いた。こっちの気も、知らないで。何が、楽しき杞憂だ。何で、あんな嘘を吐いて、安心させた? あれだけ以前から、うちの父親を嗅ぎ回っておいて、その癖、最後の最後まで、大事なことは、言葉にしないで黙ったままで。へらへら、笑いながら。誰のために、そんな態度を取り続けて、誰を、安心させていた? ...その答えを、もう十分に知っているから、この涙が、止まらないのだ。


 「上野…」


 どうせ、着込んで来いとか言ったのはあいつだ。それは、娘が病み上がりだということから、夏先とは言え、陽が落ちれば冷えることもあるだろうという、混じり気のない気遣いでしかなかった。いずれにせよ、あいつの一挙一動はすべて、自分のことをただただ案じる、ありふれた父親の、何にも勝る愛情から来ていることは、疑いようもない。中学生の頃からのお気に入りで着続けている、故にもうすっかり色も薄れて、外の曇り空を皮肉るような、白に近しい灰色のパーカーを、春は羽織る。序でに強く、その袖で涙を拭った。



 「…冬人め」



 このスイッチが入れば、もう大丈夫。涙とかいう、恥ずかしいものも、流れて来てはいない。いつもの、澄ました顔の、あらゆる物事に対して斜に構えた生きてきた自分が、帰ってきた。こんな自分は、たまに自己嫌悪にこそ陥るものの、案外、そこまで嫌いでもないのだ、実を言えば。そう、面倒で込み入ったことは、後で、ゆっくりで良い。いつも通りに、適当に流して。眉間に皺が寄る度に、とりあえず父の所為にしておけば、良いのだから。




***




 「ふふ、可哀想に。私なりに気を遣いこそしましたが、それでも今頃、泣いていますよ? ご自宅からの道のりからして、予め手配しておいた同胞よりも早く着くだろうと踏んでいたのですが、そうするには足取りが重いかもしれませんね」

 

 見縊ってもらっては困る。そう、○○へと、冬人は言葉を返す。

 「案ずることはない。私の娘のことだ、タクシーに乗り込む迄には、その涙を。気に入っているパーカーの袖にて拭きながら、私の名前をぽつりと、怒りを込めて独り言ちているだろう」


 薄ら、時を経るにつれ、ぼんやりと黒が差し込み始めた上方を、一瞥するカラス。その優れた色覚能力を以てしても、二人が織りなす舞台を前のめりで観劇するには、未だ街灯の照明が息をしていなかった。逢魔ヶ刻も、それは人が通りを歩いてこそのもの。通行人もちらほらと、この外れた通りへ、近道としてだろう、姿を見せるようになってきていたのだが、誰にとってもやはり、このカラスの群れと、歪な人紛いの二匹で整えられた三竦みを見せつけられては、当然。若干の好奇心を懐に忍ばせながらも、その周りを、なにも見ていないかのように、あくまでも普段を装う仕草のままで、通り過ぎていく。


 「ふむふむ、聴き人、聴き人。なんと美しい響きでしょうか。さてさて、冬人さん。興奮を覚えているのは、私とて同じ。富士の頂には敵わずとも、積もる疑問がありまして。幾らか、伺っても?」

 冬人は、先まで杏がもたれていた壁に、倣って体重を預けながら、手で促す。

 「無論だ。時間の許す限り、幾らでも」

 それでは遠慮なく。○○は、満面の笑みを浮かべながら、模型を組み立てるための部品の山を眺めては、果たしてどの部位から作ろうか迷う子どものように、更に冬人との距離を詰めた。残り、五歩分。


 「貴方は現在、聴こえていませんね?」

 「イエスだ。…なるほど、春が何かしら噛んでいる、というわけだな。では、確信を以て問うてきている以上、確信を以てその答えも導いていることだろう。さて、”いつから”だと思う?」

 微塵も狼狽える様相を見せずに、むしろ、被せて○○を試し始める冬人に、おお、と○○は目を閉じて、大きく息を吸い込む。いつものわざとらしい所作ではなく、それはまるで、ぱちんと、手の中で模型のパーツが上手く噛み合わさった時の子どものような、ふと漏れた彼の素を示すものであった。


 「...心地良く、味わい深い。聴き人同士のお喋りとは、斯様なものなのですね! ふふ、初めて人を殺めたときからでしょう? なるほど、そういうトリガーがあるのですね」

 疎らながら更に、通りへとちらほら、人の影が現れる。其れを見かねたのか、街灯のセンサーが腰を上げたようで、唐突に、二人へと仰々しいスポットライトを当てた。漸く照らされた舞台へと、号令があったわけでもないのに、方々から屋烏が一羽ずつ、途中入場をし始める。冬人は、左手先を覆うレザーに生じた光沢を、愛でると表現するには遠い顔つきで眺めている。

 
 「二十五のときだった。今は亡き妻と出会い、娘を授かったときにね。そう、聴き人の私が、所謂、愛や幸せを享受したわけだ。きみからすれば、不思議に思うことだろう」

 「そうなんですよ、そうなんですよ。伴侶をもち、子を成す。想像もつかぬ故に、興味深いところです。貴方に”彼ら”の声が、どのように聴こえていたかは存じませんが、その差でしょうか。恋慕、ねえ」

 首を振りながら、冬人から。残り、四歩分。


 「理屈ではないよ。いずれきみにも、この人、という人が現れることを、心から願う」

 参りましたね、と顎を擦る○○。その自分の仕草に遅れて気付いては、おっと、と、手を顎から離し、続ける。

 「手早く、手早く。少し、脱線してよろしいでしょうか? 冬人さんは、聴き人である頃、声の主からは何と呼ばれ、どのような学びを享受していたのでしょう?」

 冬人は、肩を竦める。一言、学びか、と。


 「申し訳ないが、力になれそうにはない。人を殺めた時点で、経験こそ蓄積され、活かすことは出来ているのだが、何と呼ばれていたか、何を聴いていたかはさっぱり、思い出せないのだ。...言われてみれば、自分の名とは異なる、聞き慣れぬ諱で呼ばれていたことだけは、記憶している。"そういうもの"なのだろう。途方もない虚無感に襲われことだけは覚えているよ。まあ、私には既に娘もいたから、否、いるからこそ執り行ったことだったから、耐えることはさして難しいものでもなかった。ただ、もしも、その”何か”がないままに声を喪うとなると、自らの命を絶ってしまいかねないものだっただろう。それほどの、その程度の喪失感だったよ」

 目の輝きはそのままに、あらら、と、残念そうな言葉だけ、○○の口から漏れ出す。

 「それはそれは。しかし、実のある情報には疑いなく。…人を殺めるなど、愛や幸せを享受したものが起こすとは、くわえて聴き人であったならばこそ。頭に過ることすらないと、思うのですが? 難儀しましたよ」


 「はて、本当に難儀したのかな? 春の気付き有りきだったとはいえ、犯人像くらいは絞っていたことだろう。そうだな、例えば、修行僧のようである、など」

 素晴らしい、その称賛を以て、冬人の言葉を受け止める○○。

 「しかし、他人が描き出した像など、所詮は帳子の虎。当の本人が何を口から紡ぎ出すかはまた、別のお話しです。お聞かせください」

 

 少し長くなる、と、冬人はぽそりと呟く。

 「先に理屈ではない、と言ったが、愛や、幸せなど。そのようなもの、を、図らず手にしてみたまえ。真に尊いものを得ると言うことは、同時にそれをいつか失うかもしれない、という虚ろな棘を身体に纏わり憑かせては身を捧げ、日々抉り取らせて往くを良しとすることを指す。夜に移ろう星を待たず、暇が顔を退かせる度に、実体のない恐怖として左心室から襲って来るのだ。…この感覚はしかし、多くの人間も有することであろうが、賢しければ賢しいほど、その情動は強まる。皮肉にも、くわえて私は聴き人だったのでね」


 「期せず、初心な童が小町と目合うては、何とやら」

 鳴かぬカラスが、くわえて数匹。ありふれた立ち話としての距離には申し分なく、しかしもう、辺りを包む、常ならぬ気配を、知らず察しているのか、先までの人影はもう、見えないでいる。残り、三歩分。

 

 「ふふ、耳が痛いな。その通り、一度知ったが故の、生じる跳ね返りは、想像を絶するものでね。ただの人であればと、どれほど願ったか。聴き人故の苦悩ではあるが、しかしこれまた、故に何かに打ち克つこと、そのための知恵には長けていてね。成すべきことを見出すには、さして時間もかからなかったよ」


 「他人の愛や幸せを奪うことを、躊躇しないように、他人を殺すべきだ、と」


 頷きながらも、少しニュアンスが異なる、と続ける冬人。

 「奪う、というよりも、背負う、が正しいのだろう。子を、春を授かったときに、一目見たときに。私は愛するこの子を守るには、命とはどういったものなのかを、十分に知らず生きていたのだと、理解したのだ。そう、今一度、問う羽目になってね。事が起きてから、己が弱さを嘆くことは人間がすることだ。”慣らしておかねばならなかった”、いつかのために、命の重さというものに。だが、最初の命を殺めたとき、聴き人としての力の喪失と引き換えに、あることを理解したのだ。奪う、奪われる、そのどちらに於いても、其処に生じる恐怖は同一なのだと。それぞれの命に、それぞれが経てきた生き方、たとえば一途な愛情が、たとえば多事多難な哀情がある。侵してはならぬが故に、皆の其れらは、死ぬと同時に霧散するのではなく、奪った側へと、情動の結晶となって同じだけ蓄積され、背負うようにできていたのだ。言うまでもなく、たったひとつの命の喪失は、ありとあらゆるものへと伝播する。たとえば想い人、たとえば系譜、たとえば世の流れを容易く狂わせ、捻じ曲げる。その顛末を鮮明にフィルムに収める想像性を有していればいる程、殺めた瞬間に立ち会う程、その重みが、その命を通じて。放電し続ける情報として私へと流れ込んでくる。喜怒哀楽など、よくある言葉で誤魔化されている情動の灼熱が、命を奪う度に流れ込んでくるのだ。最早、当初にあった、慣れるなどと言う幼い覚悟は、二人目を手に掛ける頃には棄てていたよ。奪う側としての責務、その灼熱の輪廻からは最早逃れられん。なればこそ、この命ひとつで、どこまで背負うことができるかとね、道を進み続けることにしたのだよ」

 

 じっと、口を開かず、冬人の演説に耳を傾けていた○○が、二呼吸置き、重い言葉を吐き出すの前の、一歩。残り、二歩分。表情から笑みは消え失せ、眉間に皺を湛えている。冬人の右隣、壁上を走るスプレー犬の眼が、○○へと光る。


 「エドゥ=バル、エドゥ=バルよ、未だ強さを知らぬ、片脚引き摺るひもじい駄犬よ。其の鼻で嗅げる匂いなど、所詮は本能に従ったもの。本能とは、無くては成らないものではあるが、人は、お前は、其れだけあればよいのか? エドゥ=バル。それでは、力の強き者だけが、智の有無問わず、正しいこととなる。エドゥ=バルよ、人の世の理を教えてくれ。では何故、人には智が宿る? 更なる力を求めるためか、或いは。エドゥ=バルよ、力に頼らぬ道を見出すためか?」



 「それで、春さんを守るほどに。強かに成れた、と思いますか?」



 時が止まる。冬人は、目を伏せた。


 「…きみの言う通りだろうな。結局は、今ではもう、私もただの人、であったということ。立ち止まらなければ、何が肝要であったかを、振り返ることは出来なかったようだ。想いを背負えば背負う程、強かに成れたと、修行僧のような道を歩んだつもりだったが、其の者は然し、犠牲にするのは常に己が身ひとつ。やはり、人の命を殺めて、善いことはない、ということかな。ふふ、良い子は、真似しないように、というやつだ」

 いつの間にやら、微笑みが貌に戻っている○○が、まあ、と言葉を口にした。


 「そうと気付けたのであれば、なんのことはないでしょう。今から遅いと言うこともありません、踏まえて、では、何が強かであるかを、ふふ、僧のように独り、独房の中で求道しなければなりませんね」

 ふん、と、口から言葉だけの鼻笑いを飛ばす冬人。


 「…変わったやつだ。説法は、説いてくれないようだな」

 通る声で笑う○○。ぴくっと、その言葉に反応して、カラスが、喚き立て始めた。これにより、張りつめていた一帯の空気が、融け出す。

 「達観の仕方は十人十色。それが正しいのか、そうでないのかはいつも、自分の中でしか判断がつきませんから」

 ただし、と、○○は付け足す。残り、一歩分。


 「現世の法には触れる。其れに従うのは、現世に生きるものの責務です。貴方を見逃し、春さんに今まで通りの暮らしを、と想う私の欠片も当然いますが、私の今後に関わってくるであろうリスクのみならず、いずれ訪れるかもしれない春さんへの、そしてこの世に今、生きている人々へのリスクを考慮すれば、貴方を捕える理由としては、十分に事足ります」

 

 「…そうだな」

 ここで、間隔の短い割には軽やかには聞こえない、たったっ、と、という足音が、東から響いてくる。見えてきたのは、この場にいる二人にとって、愛おしくて仕方のない、病み上がりの女子高生であった。自分よりも、煌びやかな命が現れて妬いたのか、そんな場に、自分の漆黒がそぐわないと察したか。頭上を占領していたカラスたちが、これまた号令があったわけでもないのに、行く宛てなく、灰の空へと飛び去っていった。残り一歩分は、また、別の機会に。



 息衝いの荒い、可愛らしい声が、その対象年齢外の通りに染み行く。その様子を、仕草を、これでもかと、目にて愛でる二人。



 「お姫様のお出ましだ」

 「春さん、こんばんは。ふふ、間に合いましたね」

 息を切らしながら、○○の横で立ち止まり、じっと父を見つめる春。先の冬人の言っていたことではないが、その眼には、紅潮する頬を霞ませるほどの、確かな灼熱が宿っていた。

 「言っただろう、○○くん。娘は私に対して、眉間に皺を寄せることが好きなのだ。だがそれもまた、可愛らしいものでね。春、息を整えなさい」


 「…やっぱり、そうだったんだ」

 ふむ、と相槌だけ返す冬人。


 「”いつから”かな?」

 ふふ、と、その問いを春の代わりに受け取る○○。隙あらば口を挟もうとする春を、手で制し、宥めた。


 「私に逢う、幾らか前から、ですよ。それ以降は、見るからに、言葉に代えるほどに、その疑念が強まっていたようです。私が確信を以て貴方を尾行しようと考えたのは、ふふ、つい先日の話。”潮の匂い”ですよ、冬人さん」


 千でも、万でも億でもきかぬ。懺悔の時間すら与えぬ、許さぬ言葉の濁流が、春の口から一度に出るには、狭すぎたようで。細胞レヴェルで、息が苦しいと、身体が悲鳴を上げては、肥大化を始める。口元から溢れ出すのは、短絡的な言葉だけ。


 …やっぱり、そうだったんだ。


 「なるほどな。無論、娘の疑念にはとうの昔から気付いていたが、誤算はそれを漏らした相手だったようだ。ところで○○くん、春は”知っている”のか?」


 
 おっと、その話でしたね、と、息が整ったのにも関わらず、苦悶の表情を浮かべる春とは対照的に、○○は話を陽気に弾ませる。

 「これがですねえ、冬人さん。春さん本人には何も語り掛けないのですが、我々聴き人に聴こえる声を、傍から聴き取ることができるのですよ。即ち、我々は春さんからしたら、聴かれ人にしか過ぎない、というわけです。まさしく、ネクストジェネレーション、と云う、ふふふ」

 ほう、と、眼を開き、娘を見遣る冬人。ここまで表情を豊かに浮かべた父を見るのが初めてで、春は、少しのけ反る。

 「その意味でも、気にはなっていたのだ。私のような人間から、子が生まれた時にどうなるのかと。私譲りで冴えている子だとは思っていたが、まさかだったようだ」



 「…父さん、どうして」

 小さな頃から、このような抽象的な聞き方をしてはいけないと、目の前の男から再三に渡り注意されてきたのだが、これ以上、春の言葉が続かない。吐き出さなければならない言葉は有り余るものの、それらを思うままに父へとぶつけていたら、朱に染まる臓腑ごと逆流しては、何れぐにゃりと溶け出してしまいそうな感覚に陥っていたからであった。口を噤む娘の予想の通り、開口一番、冬人は娘に苦言を呈する。

 「抽象的な聞き方をしない方が、つまりは春のためになると何回も言っているだろう。…だが、この場では、その四文字だけで具体的だな。其れについては、先程、○○くんに、すべて話している。短いスパンで同じ話を繰り返すことは、性に合わないのだ」


 狙ってか、こちらの気を再び逆立てる父へと、春は噛み付こうとしたのだが、それよりも先に放たれた、○○のひとつの問いによって、声を失うこととなる。

 「今まで、何人殺しました?」


 「二百七十九人。大まかな内訳なら、自らの手で殺めた人数が百三十人になる。今日でタイマーはストップだが」


 春の脳神経の一切が一度、中継機能を停止させ、直近の録画分の確認に急遽、入る。白紙に戻る、とは正にこのことであった。この、目の前にいる、父であるこの男は。二百七十九? その数字は、いったい、何処から来ている? もう古く、価値のない空気が、口腔内に滞留。何を示している? 殺した数? ひとりで? 漏れ出す。ひとりの人間が、それだけの、同じ人間を、殺すことが出来るのか?

 この春の問答は、ある一つの仮定を、たったひとつを捨象すれば、しかし成り立つものであった。この男は、此れは、"人間ではない"。


 だが、こちらも、この人で無しの娘だ。どうせ、当の自分も、化け物と、何ら遜色がないのだ。今この時もそう。初動の衝撃にこそ、未だ耐性はないが、頭の中が窮地に追い込まれた時の、この謎めいた思考回路のリカバリーの速度が、その片鱗であり、証左なのだと。それどころか、今ではもう、ヤオロズとかいうやつらの声も聴こえるのだ。

 ”常人ぶるな”。荒れた手つきでまた、筆を手に取り、白紙に戻ってしまった脳へと、同じ文字数だけ、春は即座に書き起こし始める。


 「なんとまあ! その方面に明るくないのですが、下手したらギネス記録ではないですか?」

 その合間に、こちらの空気もまったく読めないままに、場を茶化す○○を、ほぼ反射と言っていい速度で、目を細め、睨み付ける春。

 「○○さん」

 これは失礼、といつものようにヘラヘラとしながら謝る○○。…むかつきこそするが、この人が変わらないままでいてくれるから、辛うじてこの場においても、自分を保てている節があるように、春には思えた。


 

 「…母さんが。あれほど優しい人はいないって。いつも言ってたのに」

 決して、女性の特権、武器のように、絶対に頬を伝わらせるものかと、していた涙が。母を想っては、自然とまた、伝い始めた。先の独りで流したものとは違い、この人生の中で最も見せたくない、二人の目の前で、よりにもよって。その涙を捉えては、視線を冬人に移す、○○。

 「春さんから以前、お聞きました。自転車事故であったと」

 

 それに対し、冬人は頷く。

 「涙を拭きなさい、春。その通りだ。当時、住んでいたマンション近く、或るスーパーの手前の交差点は、よく車が往来するものでな。くわえて朝方、また夕暮れ時にはよく大型のトラックが通っていたのだ。工業地帯が近かった、というのもあるのだろう。特に雨の日などは交通事故が一ヶ月単位で発生するもので、巷ではよく知れた名地だったよ。故に、自転車で行くのは止めた方が、あるいは、別のスーパーで買った方が、と、何度も説得したのだが、籠があって楽だ、何より近い、と言ってきかなくてな。暇を見付けては妻の使う自転車の点検、清掃をするようになり、いつしか趣味のひとつになっていたよ」

 反芻しているのか、目を閉じて。以上をすらすらと話す冬人に対し、声を震わせながら詰め寄る春。


 「…まさか、母さんが死んでから、そんなことをし始めたの? そんな風に、母さんを、使わないで」

 拭いて尚、零れる涙に構わず、怒りを湛えた言葉と、表情が、冬人を突き刺す。が、冬人は人差し指を、蟀谷に当て、重い溜息を吐いては、首を横に振り出した。その仕草に、声を荒げようとした瞬間。


 声を高らかに、横の○○が笑い出した。先に散ったカラスだろう、その鳴き声が、向こう側で返事をしている。二人の逸した様相に、理解の追い付かない春の感情が、夕暮れに融けていった。○○は、横目で、春に、次のように口を開く。



 「お父さんにとって、心から愛する方の、”自転車点検”は、さぞ念入りだったことでしょうねえ、春さん」

 まったく、と、冬人が同調する。

「まだまだ察しが鈍いな、春。私の娘だ、精進しなさい」



 春の、柔い頭蓋が。じりじりと焦げ付いていく。頭頂部やや右から、パシッと、罅の入った音まで聞こえて、広がる世界がブラックアウト。目と口からの、排熱が間に合わない。涙など、瞬時に蒸発した。がたがたと、冬にはまだ、まだ遠いというのに、歯と歯が傷付け合い、全身がぐんと、硬直して、動かなくなる。右耳に掛けていた筈の髪が垂れて来て、目の前を覆い隠してしまったようだが、それを掻き分ける力もなく、開いていても何も見えないし。もう目の前にいる何某を映すことも、したくなかった。


 こいつだったのだ。

 


 「…悪魔め」

 「心外だな。悪魔から天使は産まれんよ」



 何処かで聞いた台詞を耳にした途端に、春の全身は脱力し、へたりと、急に足に力を亡くしては、よろけ、倒れ込む。○○はそっと、その春の肩を支え、ゆっくりと、腰を下ろさせた。


 青い啜り泣きだけが響く。その通りへと、東から少しのガヤと、いつも夜中に、家の窓越しに聞くくらいの、あのサイレンが混ざり始めたのは、或る父親が悪魔と判定を下されてから、一分も待たない頃合いだった。像を再び結び始めた視線を横目で流していると、小走りで、春にとっても見覚えのあるスーツの二人組が雪崩れ込んできた。こちら三人を捉え、状況整理および把握に努めるために動きを止める二人へと、独りだけ未だ目を送らず。確りと、愛娘だけを見据えて、悪魔は諭した。


 「覚えておくといい、どれだけの賢者であっても、ただこれだけ、と想えるものなど、いつもただ一つだけなのだ。母さんのことは今、思い返しても、身体の全てが引き裂かれる、春。まあ、○○くんとの予想とは少し違うものだがね。私の妻だ、直接この手で殺した。雨の日の自転車横転での頭部損傷、意外と多い死亡例だ。母さんは、至上の体験と苦しみを、私へと与えてくれたよ」

 娘と、途中で合流したばかりの二人が、この言葉に息を呑んだ。淡々と、表情を湛えることもなく、気の触れたようなことを口走る男に、支配される。この沈黙も、放っておけば十秒は続いたのだろうが、しかし舞台には、もうひとり、"同じような"、カラス譲りの黒を纏った主役が残っていた。

 

 「すべては春さんのため。ですが、悪魔が愛を以て何をしても、所詮は悪魔の所業です。ふふ、御愁傷様」

 ふん、と、冬人はまた、言葉だけで○○の皮肉を一蹴する。

 

 「…だが、良かった。まだ、悪魔と呼ばれる程度の、器で収まったことは」

 未だ状況を掴めないままの倉野でも、ここが契機だと言うことは分かったらしい。腰に掛けていた手錠に腕を伸ばしながら、神保を追い越し、…少々荒い息のまま。冬人へと、近付く。



 「…四宮冬人。殺人未遂罪の容疑で逮捕する」

 倉野は、この台詞を、敢えて其の娘に聞こえるように、容疑者へと告げた。冬人は抵抗することなく、両の手を差し出す。すんと、倉野の匂いを肺に入れる冬人。


 「…やはり、まだ○○くんが言う程には、私も鈍ってはいないようだ。御二方、娘が何度かお世話になったようですね。ご迷惑をお掛けしました、有難う御座います。...そう言う私も、積もる"もの"がありまして、ご迷惑を、お掛けする次第ですが」

 目を丸くする倉野と、神保。一目見た段階から、これが例のカマキリかと身構えていたわけだが、其の口から出る、――理解が及ばない節々の言葉以外は、佇まいからも、言動からも、一切犯罪の匂いを感じさせないものであった。本当に、ただの、いち市民でしかないこの男に、澄んだ礼を言われたことから、一瞬、倉野は手錠を構えた腕を、止めてしまう。


 「…そんだけ人を殺したってんなら狂ったフリでもしといてくれ。情報量が多すぎて、どう扱っていいのか分からんようになる。余罪に関しちゃ、とりあえず署で聞いてからだよ。…何人やった?」

 

 改めてガチャリと、警察が介入しているがために野次馬がちらほらと現れ出した路地裏へと、予想以上にその鉄の匂いが広がる。冬人が答える前から、意気揚々と、その数字を。もう暗い空を見上げながら、鼻歌を交えながら、横槍を入れる○○。

 「やれ二百七十九、それ二百七十九。すごいですよねえ?」

 「に…」


 正義を背負う二人が戦慄したのは、年端の行かぬ春でも見て取れた。やはり、誰にとっても異質なのだ、ここまでの次元というのは。数秒経って二人は、聞かぬ振りでもしたのかと思うように、"普段通り"を装い始める。どちらも、目線が冬人から逸らして、泳いでいる。正常化バイアス、とか、聞いたことがある。たぶん、それなんだろう。

 
 「○○さん」


 とりあえず、怒気を孕んだ声で神保が責めたのは、調子付いている○○であった。失礼、失礼、と、鼻歌を止めては、わざとらしい咳払いをしている。冬人が、そんな○○へと、声を掛けた。そうしながらも手元は、手錠の感触を確かめるように、鎖に音を与えて、遊んでいる。


 「…○○くん。春を頼んだ、すまない」

 「いいえ、最初から、そのつもりですよ? …お二方、」

 倉野と、○○に次いで野次馬へと矛先を向けては立ち振る舞いで威嚇している神保の双方に○○は請う。言わずとも、倉野は察することができていた。


 「手短にな。遠目からは見させてもらうぞ」

 すっと頭を下げ、礼を述べる○○。

 「貴方がたに頼んでやはり、正解でした」

 顎を擦り、笑みを零す代わりに、顔を逸らす倉野。

 「よせ。見つかったら、始末書では済まん」

 冬人の手元を無地のハンドタオルで覆い、遠目から見た時に三人の姿が違和感のないように見せては、距離を置く倉野と神保。


 神保は、その光景を遠くから、倉野とはまた異なる面持で、見つめていた。何を、話しているのだろう、と。話を聞く限りにおいては、あの異質な、...化け物と、その娘と。そして、その隣で、顔をほころばせながら、落ち着くことなく、二人を囲んでは歩き回る、○○と。あの輪に立ち入らぬ、警察とは。先の春の折、息捲いては桜並木を横目に、正義へと己が身を駆り立てた、自分とは。確かに、あの犯人は、もしも"そう"だとするならば、自分どころか組織としてみても、手に余るほどの狂人だが、それでも。黄色い嘴と言われようが、啄むことすら敵わなかったと言うのか。何のための日々の研鑽だったのか。...否、まだ未熟なのだ。では、何が正しいのか。

 神保はそう思考している合間に、ここまでの異常性を孕んでいるがために仕方のないことだとは思うのだが、まだ倉野も気付いていない、根本的な穴を冷静に捉え、認めることに成功した。しかし、これもまた、自分がまだ未熟であることの裏付けなのだろう、その開いた穴は同時に、別の警察官二人を引っ提げて、気遣いの足りぬ急いた足音とともに、現場へと戻るため、こちらへと駆けて来ていた。その女性は、引き攣った面持ちで、左手首を抑えてはいる。


 それを見て神保は、青さ混じる、誰に向けたでもない妬みを、そっと胸の箱に仕舞った。明日からはもう、誰かがあのカマキリに捕食されることはなくなるのだ。それで、今は十分なのだ。


 「落ち着いたか、春」

 「…気安く話し掛けないで」

 「これは手厳しいな」

 
 まあまあ、と、そんな二人の会話を、にこにことしながら横で聞いていた○○が、口を開く。


 「何はともあれ、ですよ。手短に、手短に。お二方、話したいことを、話しておいてくださいね」

 はい、と気丈に振る舞い、頷く春だったが、正直に言って最早立っていること自体がやっとだった。もういいから、早く帰って、あのベッドにまた、潜り込みたい。眠くはないけど、風邪は治っているけれど、そうしたい。この父擬きの何某への恨み辛みとか、明日からどうしていこうとか、いやでも、さっき○○さんが手助けしてくれるとか言ってたな、とかいう安心感とか。もういいから、明日になってから、考えたかった。

 

 「春」


 再度冬人は、娘の、その短い名前を、重い言葉で声に現す。

 「この人は、決して私のようには成らない。まあ、私と違い、聴き人だと言うのに、ここまで人懐こく飄々としていることに関しては、甚だ疑問が絶えないのは確かではあるが。春に声が聴こえるというのも、彼との出逢いも、私の終わりも。覚えておきなさい、やはりすべてに意味がある。離れず、○○くんの傍にいるといいだろう。...最後に、誠勝手ではあるが、やはり偶には会いに来てほしいというのが率直な思いだ。恐らく、葛飾に運ばれるのだろうがね。お前の顔を見たいという思いを抱くくらいは、ふふ、悪魔と言えど、もっていても、いいのではないかな」


 ふざけるな、というありったけの、春の憤り冷めやらぬ思いが、全身を駆け巡り、容赦なく、冬人へとぶつけられる。筈だったのだが、やっぱり、口から出る言葉は、未だに制御できた試しがあまりなくて。その直後から後悔の念と、気恥ずかしさが警報クラスの波浪となって押し寄せてくるのも、もう知っているけれど。今はもう、何でもよかった。


 「…考えとく」


 はじめて。春が今まで、生きてきた中で初めて。冬人が、父が笑った。見逃さなかった。ぎこちなさも何もない、自然と、家族へと普段から微笑み慣れてるかのような、何処にでもいる、けれど唯一の父親の顔をしたのだ。時にして刹那のものではあったが、春にとってしてみれば、もう今後、忘れることは決してないだろうと言うくらいに、鮮明に海馬へと焦げ付いた。温もりと言うには、幾らか痛みが伴っている。


 「ありがとう」


 呆気にとられ、返事がままならない春から直ちに目を逸らし、さっと、真顔に戻る冬人。

 「さて、そろそろ行かねばならん。○○くん、どうか、改めてではあるが、春を頼む」

 ええ、ええ、と二度頷く○○。

 「改めてではありますが、もちろんです。この世界を救うには、私一人では荷が重いものでしてね」


 冗談交じりに、冬人が口で嗤った。

「ふん、きみはキリストにでも成ろうというのか?」

 ○○は、この問いに関しては、珍しく即答でなく、どころか冬人の言葉に被さるように返した。先までとは異なり、笑みは絶やしていないが、足を止めている。


 「いいえ、殺しますとも。あの場所を頂きます」


 冬人は、その言葉を聞いて、じっと、○○を、口を少し開けて、見遣る。実に、二秒。春から見ても、その眼は、確かに輝いていた。宝でなく、その在処が記された布切れを見つけた冒険家のような。こんな眼の色を、していたのか。

 「今、すべてに合点がいった。そのように、"本来は"使うのか。なるほどな」


 ○○は、肯定や否定で返さない。

 「貴方も、独房でのんびりするばかりの余生にはなりませんよ? その折は、どうかよしなに」


 うーむ、と顎に手を遣る冬人。


 「なるほど… いや、なるほど。なるほどな」

 「...頭、悪くなってる」

 ここぞと言わんばかりに、今までの仕返し程度に、毒を吐く春。今、○○の放った一言は、前に言っていた、継承やら何やらに関する話なのだろう。ただ、前に聞いていただけだけれど、ちょっぴり。春は父に対し、背筋を反らした。...我ながら、痛々しい。



 「む、すまん。だが、そうかもしれん。○○くん」

 「はい」

 「もしきみが、私が聴き人と呼ぶ者に出会った際には、是非とも私のところを尋ねてきてほしい。幾らか示し合わせることくらいは出来るだろう」

 そうしたいのは山々なんですがねえ、と困り顔で冬人に首を振る○○。

 「実はもう一人、既に当てがないこともないのですが、これがまた、難儀なものでして。うーん、私の忍び足を以てしても、貴方の顔を見に行くことは、容易ではないでしょう」


 「随分、含みのある言い方をする」

 むふふ、と気色の悪い笑みで、○○は続ける。


 「砕いて言いましょう。その人、ヤバい気がします。もしかしたら、私も貴方も、殺されるかもしれませんね」

 地面にたまった泥が、気持ち揺れる。そうか、と続ける冬人。

 

 「な、何、何の話?」

 途端に、二人が死ぬかもしれないと言う言葉に動揺してしまったのと同時に、話についていけなくなった春が、慌てて確認を求め出す。

 「春は心配しなくていい。が、尚更、春には生きてもらわんと困ると言うことだ」

 「その通りです」


 「重いんだけど…」

 このトリオの緊張が良い具合に解れてきたというときに、これまた仰々しい、別のサイレンが、通りへと近付いてきていた。これ以上引き延ばしも効かない頃合いだと、神保と倉野が、三人の方へと歩み寄る。



 「...はあ」

 溜息を漏らしたのは、倉野だった。○○は今度、こっぴどく説教するとして、今回は、終始、神保に悪いことをしてしまった。本当に、この前は、ただただ○○という人間を、紹介したかっただけだと言うのに。どう穴埋めをするべきか、確かにそれもそうだが。もう今回の件で嫌気がさして、自分の隣にいることに懲りてくれないかと、そう願ってしまう、正直な自分もいた。自分で言うのも何だが、桜田門は伊達ではない、もっと、こいつを育てられる良いやつなど、ゴロゴロいるのだ。このカマキリとやらの所為で、どうせ煙草の本数が、明日から増える。


 これでも神保が、自ら去らなかったとしたならば。その時は、今まで以上に横で煙を吹かせては、最近幾らか取れていた眉間の皺の数を、また元に戻してやればいい。






続 - 御もとに詣づ


 悪魔が一匹消えた程度では、迂闊に眠ることも許されぬ、東の都は中央区に座する、銀座。日比谷との境として機能する高架の下で賑わうコリドー街には、今日も、浮ついた心持ちを、口を並べては品と代える若い男女で溢れていた。交錯する、口紅と香水、横目と小声と、意図せず喉を通る唾液。店の並びには、銀座という名を冠しながらも、膨らんだ財布を持たずして愉しめる居酒屋も構えており、それらの換気扇を掻い潜っては、無秩序なままに混交された匂いが、はたまたどうして。不快とも断ずることも出来ない、無二の麝香として、こちらの食指を動かし、足を運ばせる作用を生み出している。その所為で、人と云う雑音が、上層に響き渡る車輪の音では飽き足らず、昼時にその色の付いた情を衣の下へと隠していた反動だろう、口をかぱり開け、駆け回る。


 他方、亥の刻に入った頃合い。其のさざめきを他所目に、泰明に構えている某小学校では、ちらほらと申し訳程度、明かりをまだ絶やしていないようで、西洋の気品を取り入れた、その特徴的な外装に知らず適当な翳を与えては、寂寥さを脚本もないままに演出していた。その近くのビルのひとつに踏み入り、二階分下へ音を鳴らせば。うねる飛び石と、その傍にぽつり佇む行灯と、木地色の全面格子が。温もりある橙の色香で、今宵も客をもてなしている。

 二十一時二十三分。軽やかな、しかし確かに響く、からからからという、格子の声。特定の店を贔屓にすることは滅多にない彼が、何故この店を、珍しく気に入っているのかは、自分を出迎えてくれるこの音が、実に好みであるから、という理由が大きいらしい。



 「先生、」


 少し驚いた顔持ちの、調理白衣の袖が揺れる。


 「こんばんは。ふふ、お久しぶりですね」

 「丁度、寂しくしておりました」

 「あら、今日は建て前では、ないようです」


 勘弁して下さい、そう言う店主の右手で遊んでいた包丁が反転、その洗練された波紋を、暖色の灯りに反射させた。

 「機嫌が、よろしいようです。何か、いいことでも、ありましたか」


 「ええ、とても。さてさて、今日は奮発しに参りましたよ。久々に、のどぐろを、と思いましてね。カップ麺の食べ比べにも、少々飽きが来ていたのです」

 「お身体、大事になさって下さい。貴方が倒れると、困る方が多いのでしょうに」

 「おや? 最近のカップ麺界の発展の具合をご存じでないようで。ほんとうに美味しいのですよ?」


 今まで出会った人の中で、頭一つ抜けた聡明さをもつ方だと言うのに、この人はいつも会話の途中で、このようにキャッチボールのリズムをわざと崩すことを好む。不器用ながらに何故そうするのかは、理由こそ聞いたことはないが、お蔭で自然といつも、相対して張っていたこちらの気が和らぐことも確かである。

 「私は体調のことを慮っているのですが… ジャケットは、どうぞそちらに」


 「ありがとうございます」

 「お飲み物は?」

 「ふむ。...では、作を、一合」

 「先生…」


 ちらと店内に目を遣る。週の明けだからだろうか、今日は気持ち、いつもよりも混んでいない様子だ。店主の真ん前を陣取る形で、カウンター席へと腰を下ろす。座椅子のクッションは、言葉に起こすほどには、柔くない。しかし、これくらいで、よいのだ。

 

 「いいじゃないですか、今日は古き伊勢の宮を想い、反して現を抜かしている銀座で浸りたい気分なのです。そうは言っても、東海の方面など、久しく行ってはいないのですが」

 「ご多忙とは思いますが、普段からの激務に対するご褒美代わりに、休暇を取って、参られてみては?」

 「そうですね。ふふ、パワースポットの手も借りたいほどですから」


 店主は、ここで口にはしなかったが、確かなことをひとつ、知っている。この人はパワースポットなどに、今までも、これからも。露一つ分の気すら、留めることはないだろう。


 「...どうぞ。お疲れ様でございます」

 「ありがとうございます」


 作の中でも、一層花香る其れが、せせらぎの如く、滑らかに彼の喉を通る。…実を言えば、作は、そこまで好きではない。だが、この舌触りが、微かの過ぎるものではあるが、自分の好みと薄ら異なるから、また心を擽られる。こうして喉へと通す度、舌の上で転がす度。では、半年後に来てみようか、と期待をしてみるのだ。経験上、舌は年齢で変わる。皺がまた一つ増えた頃、美味になっていることも、今まで多くあった。


 「歩いて来られたのですか?」

 「ええ。鼻歌交じりに。若いとはいえ、やはり健康にも、気を遣わなければ」

 「暑かったでしょうに」

 「それが、夏の楽しみ方ですよ」


 「はは、今日は、良く喋って下さりますね、先生」

 「もちろんですとも。久方ぶりに舞い上がってしまい、旧友に電話をかけてしまったほどです」


 ...はじめて、先生から、友人の話の聞いた。切り身を捌く指先の力が、自然と薄まる。


 「それはそれは。疎遠になっていたのですか?」

 「半分、半分です。私では行えないことも当然ありましてね、そんなとき、たまにお手伝いを願うのです」

 「先生にできないこと、ですか。はは、ないように思いますがね」



 「そうですか? 例えば、ふふ、人殺しであるとか」



 「これまた、冗談のお強い。聞いていなかったことにしておきます、警視殿」

 「あら、最初に日本酒を、と言う私を止めなかった貴方の責任でもありますよ?」


 「参ったなあ。...お待たせしました」


 出された肴が、艶やかに灯りを羽織る陶磁器を以て、外上の前に出る。箸でその身を掴んで、口に入れて、咀嚼して。そうそう、こののどぐろの、俗に云う旨みが凝縮された濃厚な味わいが、一口の大きさながらに舌上で、野原に放たれた童のように、駆け回る。

 本当に、嫌いだ。己が日本人としての、生来の奥ゆかしさを、根元から殺ぐ味だ。...そう言えば、九州では泥パックの温泉が著名だと、山本警部補から聞いた。試したことはないのだが、本当に、泥をそのまま顔に塗るのだろうか。その効能は? 成程、伊勢も然うだが、今度の休暇は、もう少し遠出をしてみても、よいのかもしれない。


 とても、美味しいです。そう店主に伝えて外上は、さっとスマートフォンを取り出す。無難なところで良い。皆にとっての、一抹の話題になれば、それで良い。


 その画面の壁紙は、久しく白一色のものにしていたが、のどぐろの油が口の中でこびり付いていることへと眉を一瞬、店主の目を盗み顰めたためか、外上はとりあえず今の気分のままに、黒一色に変えてみた。...成程、こうすると、自分の顔が、映ってしまう。それも別に好まぬが故に、どうしたものかと、この食事処の風情も十分に愉しめぬまま。くわえて作の加減だろう、この日はもう、九州の温泉地を仔細に検索することはなかった。そうしてまた、翌日の勤務中に、外上ははっと、思い返す。



 真の夏、蜃気楼二歩手間。疎らではあるが、整えられた針葉樹と豆腐が並ぶほっそりと敷かれた歩道に複数人。疲弊した命一つ。その横に、その命嗤う命一つ。


 「さてさて。春さん、代えとなる苗字、何がよろしいですか? 私も決めあぐねているのです」

 先日までの、暇を知らぬ、重なる聴取で、傾げる首も重たくなってしまった春は、適当な相槌を以て返した。


 「何が、と言われても... と言うか、単純に○○でいいんじゃないんですか? ...○○、という名前、気に入ってるんじゃ」

 「ちっちっち、春さん。気に入るものにはね、"順番"があります。あと、そうするのにも色々と理由がありましてね。...そうだ! 江藤とかどうです? 江藤春。ふふ、何処かで聴いた名では、ありませんか?」


 「…絶対来ますよ」


 眠気はないにせよ、もう回す頭も持ち合わせていない春でも、容易に想像できたように。二人の道端に転がる小石が、溜息交じりに噛み付いた。


 「何と情けない、エドゥ=バル、エドゥ=バルよ。人の情を指の輪に代える、愚かにも契約を形にした人の末路よ。呆れる、とはこのことなのだな、エドゥ=バル。お前自身は変わり往くものでなければならないが、それは不変の其の名有ればこそ。新たな発見を与えてくれることは光栄だが、呆れることは喜びには繋がらない。それとも、お前が、私たちに呆れているのか? 教えてくれ、エドゥ=バル、で、あれば。私たちは、何のために此処にいる?」


 良い線いったと思ったんですがねえ、と、顎を擦る○○。春は、申し訳ないという念から、アスファルトへ顔を伏せる。

 「引き取り人とか、苗字変えるのとか、...転校の手続きとか。大変なんじゃないんですか? 迷惑掛けるのであれば…」

 んん、と彼は喉の音で春の言葉を遮った。

 「私は案外、こう見えていろんなお得意さんが居ましてね。頼めば、ちょちょいのちょいです」

 「口調が段々崩れてきてますよ…」


 この人は"そのようなこと"を、微塵も。頭の片隅に置いていないのだろうが、恐らく同じ、屋根の下で住むことになる。だが、だからと言って、何かが起こるわけでも決してないのだ。娘名義というだけで、とりあえず"上がり"。それでも、確かに脈打つ高揚感があることを、もう春は隠さないことに決めていた。○○も、きっと、気付いているのだろうが当然、触れることをしないでいる。


 「そういえば春さん、神田さんには、さよならを伝えましたか?」

 更に十度、下に視線を調整する。あの時、胸の奥底に刺さったままの硝子の槍が、また春へと痛みを思い出させた。

 「…電話で。夏休み中には、会おうねって」

 「それはまた、会った時には、気まずそうな顔を、互いにするんでしょうね!」

 「なんで喜んでるんですか…」


 元はと言えば、貴方が突き回したからではないのか。こっちは、貴方と出逢ってから。...どうにか皮肉を、喉に滞留する其れを吐き出したい春は、彼を刺き指す言葉を捻り出すため、脳髄へと右手を入れて、語彙のスープをぐじゅぐじゅに掻き回し始める。


 「…○○さんと出逢わなければ、今まで通りで。父は、父のままでしたよ」


 そんな精一杯の、言の葉も。想定した通り、彼には通用しないようだった。

 「ふふ、そうは言いつつ、すっきりしたでしょう? 顔に書いています」

 

 「…はあ」


 人の気も知らず、蝉がもう喚いていると言うのに、この道へと植えられた、自然と言うにはほど遠い、人工植林が、しかし何処かまだ、新緑の匂いを鼻腔へ届けていた。そういえば、聞けず仕舞いだった、多忙だろうと踏んでいた○○であるが、平日の昼間から、自分なんぞに時間を割いて、良いのだろうか。


 こちらが気を遣っているとも、知ってか知らずか。前を行っては、お勧めだと言う店のために、春の数歩遅れた足取りを振り返ることなくすいすいと、人込みを掻き分けていく○○。それでも、背丈が高いために、黒いために。春も見失うこともなく。時折、人込みに当てられ過ぎることで、なぜ今自分が、此処を歩いているのかを見失いがちになる東京だが、もうそこまで、嫌だと言うほどでもない。


 「もうすぐ、着きますよ。ふふ、絶品ですから、お覚悟をば」

 「…何が、美味しいんですか?」


 「何って。貴方、サザエに決まっておりましょう」

 こちらへ振り返った○○を確りと認めてから、春は思いっきり眉間に皺を寄せた。

 「...下衆な…」


 「しかし上衆よりは気さくでしょう? おっと、ここです」

 

 なるほど、上衆というのもあるのか。またひとつ、いつ使うのかも分からない知識を脳に送りながら、昭和を想起させる格子戸を鳴らし、○○の後に続いて店内に踏み込む春。そういえば、と、席に座る前から、乍らのままに。明日、埼玉に移りますと○○から聞かされて。そこからはもう、満足にサザエの味を味わえず、どころか夕暮れまで。詰問と言って差支えのない勢いで○○を拘束し続けたという話も、後日あいつに会ったときのネタのストックとしたならば。



 比べるとこの人は、悪魔とたとえるには、可愛げが過ぎて。

 しかし神とたとえるには。言葉が過ぎて、幾分たちが悪い。




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