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箱根駅伝における「日テレ節」の継走

前編 / 実況アナ運用体制の特性

箱根駅伝から、はや一週間が経とうとしています。

僕もかつてラジオ局で実況担当として12年、制作統括として3年、合計15年の年末年始は箱根駅伝に心血を注いでいました。感染症が流行る季節に、ましてやこの3年間はコロナが蔓延している状況で、どれだけ気持ちを張り続けながら当日を迎えたのだろうと想像すると頭の下がる思いがします。

箱根駅伝の価値は日本テレビとともにあります。それは、僕が以前子会社のラジオ局にいたからおべんチャラを使っているのではなく、国内のあらゆるスポーツ中継の中で、日本テレビの箱根駅伝が品質として最高峰の一つだと思っていて、それは高校生時分から変わっていないからです。

アナウンサー陣の実況アナウンス技術の全般的な高さもその要素の一つで、それを担保するための独特の仕組みとして、陣容の体制があります(図1を参照)。出雲駅伝(フジ系列)や全日本大学駅伝(テレ朝系列)と比較すると分かります。前哨戦の2つは、キー局の局アナ中心ながらも系列局アナウンサーも実況に加わり系列全体として支援体制を作っていて、いわばオープン型です。大会自体が全国規模であるのと同じように、中継アナも「全国選抜体制」と言って良いでしょう。そうしている理由は、メイン制作局の社員アナだけでは頭数が足りず、リソース不足を補う必要があるかもしれないことや、系列のアナウンサーのスポーツ実況力を底上げする戦略的な意図もあるかもしれません。

一方、箱根駅伝(日テレ系列)はクローズ型です。制作スタッフ人員や資材などは系列局の資源を最大限に活用していますが(復路エンディングのスタッフロールを見ると分かります)、アナウンサーについては日テレの局アナしか起用しません。これは頑ななくらいに毎年一貫しています。小川光明さんや芦沢俊美さんが実況されていた頃は定かではないですが、僕が認知している限りは、極めて閉じた体制で運用しています(間違っていたらご指摘ください)。こちらも大会が関東の大学の出場に絞っているように、中継アナも「東京選抜」だと言えます。そうしている理由は何だと思うでしょうか。

図1:大学3大駅伝のテレビ中継におけるアナウンサー起用体制の違い

僕は理由として2つあると考えていて、一つは情報とナレッジの集約と活性化、もう一つはアナウンサー集団としてのステーションブランド構築への寄与です。

前者は、組織における知識創造の仕組みが内製化によって効いている点です。しかしここではその論点は割愛し、後者について考えます。

アナウンサー集団としてのステーションブランドとは何でしょうか。例えば、夏の高校野球だとNHKとABCという選択肢があります。先日もサッカーW杯で地上波(NHKなど)とAbemaという選択肢がありました。多くの人がCM有無や解説者の顔ぶれで選択しているかもしれません。しかし、考えてみると、最も言葉数を多く発していて中継全体を支配しているのは実況アナウンサーです。夏の高校野球のNHKとABCの違いは象徴的で、アナウンサーが作り出す世界観が全く異なります。流派が違うのです。NHKは場に余計な要素を追加せず美しさを追求する実況、ABCは攻撃的で独特な表現を自ら創り出すことを好む実況です。シンプルな塩ラーメンとマシマシの濃厚豚骨ラーメンくらいに違います。

僕らは知らず知らずのうちに、アナウンサーが作り出す雰囲気や品質に感情を左右されているはずで、例えば五輪の実況はなんだかんだNHKだよなあという意見が世論レベルで成立していると思っていますが、こうなるとNHKのアナウンサー集団が作り上げている立派なステーションブランドだと言えるでしょう。NHKはそれを明確に認識して戦略的に世界観をコントロールしているはずです。

ステーションブランドの構築にもいくつか要因があると思いますが、ここで言及したい要素はアナウンスメント技術です。視聴者も認識が可能なテクニックです。それは、師匠や先輩の喋りを見よう見まねで会得した「型」であり、極言すれば日テレアナウンサーにとっての「お作法」とさえ言えるかもしれません。今年の箱根駅伝においても、複数のアナウンサーから「日テレ節」とも言える表現方法が炸裂していました。この点について深掘りしていきたいと思っています。

ようやくここでタイトルの内容に到達するのですが、続きは後編として書きたいと思います。


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