静かな時を求めて
同志社大学、寒梅館。
法科大学院を併設する寒梅館は、学部生の講義が無い。
そのため、いつも静かな雰囲気に包まれている。
その入り口左手にある細長いテーブル席。
そこに僕はいつも座っている。
静謐な空間でお気に入りの寒梅館だが、
テスト期間だけは例外で。
そのあおりを僕は今、もろに受けている。
いつもは物音すら憚られる空間に、
学生達の声がこだましている。
正直、嫌だなと思う。
そこに嫌悪感を覚えるのは、空白の時間に耐えられず、結果としてたわいもない話をし、それによって周囲に迷惑をかけている事に、自分が耐えられないから、だと思う。
辻まことが「〜」と言っていたけど、彼の言葉が、僕の感じるものに近い。
そうした行動の背景には、空白(隙間、間)に耐えることができず、つい話出してしまうのが辛い、という気持ちがあるのではないかと思っている。
何を隠そう、自分がかつてそうであったから。
孤独は辛いものだと、ずっと思っていた。
しかし、孤独はむしろ自分(内面)との対話の時間になる。
そして、その時間こそが、自分を豊かにしてくれる。
だから、その時間を大事にして欲しいと願う。
そう思うが故に、他人が耐えきれない姿を見るにつけて、
行き場のない気持ち、嫌悪感を覚えるのだと思う。
そんな事を考えながら、ふと思った事がある。
「静かな時が日常から少しずつ消えていっている気がしてならない」と。
静けさを楽しみ、孤独を味方につけるための手引きがなくなっている。
また、それを可能にする空間の存在が薄れてきている。
僕が孤独と友達になれたのは、書く事を習慣化できたり、空白の時間を作り、自己内対話を重ねる機会が作れたからだと思っている。
就職活動というタイミングに、ぼんやりと思っている事を、書く事で整理できるという事、言葉を大切に選んで表現する事によって生まれる”力”があることへの気づき、サウナに入って強制的に自分との時間を作れた事、そのどれもが偶々うまい具合に自分に作用した事で、孤独を愛せるようになったんだと思う。
だからいま僕は、静かな時を求めている。
静かな時は、静かな場所に訪れる。
静かな場所は、自分で作れる。
静かな時こそが、自分を豊かにしてくれる。
それを僕は信じてやまない。
自分自身が、それを実践しているし、
今後もそうあるつもりだ。
元々は落ち着きのない性格で、
授業中はずっと歌っていた中学生時代。
まさか自分が、こんな風になるとは思わなかった。
でも、自分の感覚が確かだと言っているから、
この感覚に従っていきたい。
静けさを今後も求めて。
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