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ノスタルジーではない、確かに存在した村:東京都奥多摩町倉沢集落跡地を訪れた

 2020年からの断続的に続く緊急事態宣言の影響で、都内近郊から気軽に足を運べて大自然を感じることができる東京の西側、奥多摩エリアが都民の観光スポットとして脚光を浴びています。山梨県との県境に接する奥多摩町は東京の「奥座敷」とも呼ばれており、町の94%を占める森林と鋭い渓谷の地形が、およそ東京とは思えないような光景を形作っています。

 そんな奥多摩町の深い山の中に、いくつかの廃村があるのをご存知でしょうか。町の北部に位置する日原には、かつて「倉沢」という集落が存在しました。伝えるところによると南北朝時代からの歴史を持ち、2000年代初めにひっそりとその歴史の幕を閉じた倉沢集落。その跡地に足を運びました。

切っちゃいけない木

 JR青梅線奥多摩駅からバスに乗り込み、日原川に沿って伸びる日原街道を北上していきます。昭和の初めまで日原道は坂道が多く手車(荷物を運ぶ車輪のついた台車)が入らなかったため、お米や木炭、その他の生活必需品を人が背負い上げて運んでいたそうです。米一俵(60kg)を運べるのが一人前とされていた……そう考えると、現代人の自分はなんだか申し訳ない気分になってきます。「倉沢」というバス停で下車し、少し歩くと「倉沢ヒノキ上り口」の看板が見えてきます。こちらが倉沢集落跡地への入り口となります。

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倉沢ヒノキの案内板

 切り立つような尾根道は緩やかな傾斜とはいえ、リモートワークに慣れた体には少々応えます。しかし倉沢ヒノキは奥多摩の観光スポットとして紹介される場所でもあり、普段から人の往来があるのか、廃村へと続く道とは思えないほど「道」らしさを保っています。

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 20分ほど歩くと、天をつくような立派な巨木が現れます。胸高周囲6.3m、樹高34m。都内に現存する最大のヒノキとされ、奥多摩町の天然記念物にも指定されています。奥多摩町に住む人々に取材しさまざまな証言を集めた『奥多摩の世間話』(青木書店)に、次のような興味深い話が掲載されています。

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圧倒的迫力の倉沢ヒノキ

「切っちゃいけない木ってのは天狗様の、小さくても祠のあるまわりの木とか、それから途中に穴があってまた一本になっている木ね。そう、キツツキなんかが開けた穴じゃなくて、枝が交差してそれがくっついちゃったためにその先が枯れてこうなっちゃった木があるね。どうかするとね、宿り木とかなんとかいってね、それは山の人が嫌ってますね。倉沢の方にもあるし、ショウノ岩にもあるしね」

「倉沢の方にもある」木が、倉沢ヒノキのことを指すかはわかりませんが、山人にとって木がいかに神聖な存在であるかを感じさせる証言でしょう。

 しかし今回の目的地はここではありません。ヒノキを回り込み、木の枝と石が散乱する道ともつかない道をしばらく進んでいきます。本当にここに人が住んでいたのだろうか。疑問を感じながらも歩いていくと、テラスのようなひらけた空間にたどり着きます。ついに倉沢集落に到着しました。

森の静寂に包まれた集落跡地

 慣れない山歩きで乱れた呼吸を整えて、あらためてあたりを見回すと、この集落が段々畑のように山の斜面に沿って形成されていることがわかります。

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 石垣が何層にもわたって、上へ上と連なっています。段々は階段で結ばれており、上ってみると建物の基礎をいくつも確認することができます、家屋は残されていませんが、分解された建材があちこちに放置されています。確かにここにはかつて人が住んでいたようです。

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上へ上へと伸びていく階段
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建物の基礎が残る

 集落跡を散策していると、炊事場や共同浴場など、生活の痕跡を至る所に認めることができます。急な斜面にへばりつくように形成された集落は、現代人の目から見ると決して住みよい環境には思えませんが、倉沢集落には最盛期、実に200人もの人が住んでいたといいます。

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 集落の外れ、川のせせらぎがよく聞こえる陰地にひっそりとお墓が建てられています。この集落の人々を祀った先祖代々のお墓のようです。傍らの墓誌を見ると「坂和 連 2005.3.13」の名前で打ち止めとなっています。最後の住人が世を去っておよそ20年近く。果たしてこの村は、どのような歴史をたどって来たのでしょうか。

山を中心とした信仰空間

 倉沢の地にいつ頃から人が住むようになったのかはようとして知れませんが、先ほど紹介した墓誌には「先祖が1340年頃この地に住みその後約320年間の記録は不詳」と書かれています。事実はともかく、集落の伝えとしては1340年、南北朝時代の前後が出発点となるようです。

 倉沢の歴史を物語る上で外せないのが山岳信仰です。日原街道に沿って流れる日原川には、いくつかの谷筋から川が注ぎ込んでいます。その支流の1つが倉沢川。この川沿いに位置する倉沢鍾乳洞(封鎖済み)は倉沢山神社(倉沢山大権現)の社殿として、古来より厚い信仰を集めていました。神社を管理していた坂和家保管の明細帳によると、寛永年間(1624〜1645)の初めには、東叡山寛永寺(台東区上野)の所属となり、「古来遠近ヨリ参詣スルモノ踵ヲ尋ギ絶ル事ナシ」と記録されるほど、修験道の霊場として栄えたようです。

 倉沢の信仰空間の中で、先ほどご紹介した倉沢ヒノキもまた御神木として崇められたと言います(『巨木探検 森の神に会いにいく』)。それと関係のするのか定かではありませんが、『奥多摩町史料集第五十五号 坂和家文章(二)』所収の、集落の所有する切畑(山の斜面などを切り開いて作った畑)の位置を表していると思しき複数の絵図を見ると、ちょうど倉沢ヒノキのある辺りに「山の神戸」「字山神戸」「山神」などの地名が書かれています。

山は切り崩され、狐は怯える

『奥多摩町誌 民俗編』によると、倉沢集落で代々生活を営んできた坂和氏は、江戸時代初期から戦前まで4戸あり、他に倉沢から降った家が2戸あるだけだったとされ、集落の規模は一貫してミニマムであったことがうかがわれます。しかし素朴な山村であった倉沢の有り様を、奥多摩に押し寄せる近代工業化の波が一変させました。

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倉沢の古い絵ハガキ

 青梅の成木地区など、多摩川上流は古くから消石灰の産地として知られ、それは江戸城や日光東照宮の修造にも使われてきました。現在、山梨県甲府市から東京都新宿区を結ぶ青梅街道(旧成木往還)が開かれたのも、この石灰を江戸に運ぶためだったとされています。

 明治時代以降、倉沢のある日原地区もまたセメント原料である石灰石の供給源として注目され、1927(昭和2)に浅野セメント株式会社が日原の一部を買収。1937(昭和12)年には、石灰の発掘と、御嶽から氷川までの鉄道敷設を目的として、日本鋼管と鶴見造船との共同出資で奥多摩電気鉄道株式会社、後の奥多摩工業株式会社が設立されました。同年に発生した盧溝橋事件に端を発する中国との紛争はいよいよ激化し、それにともなう軍需工場の急拡張は、鉄鋼製造のための高炉建設を促し、建設に必要な石灰石の需要を高め、採掘のための諸工事も急ピッチで進みました。

 自然界への巨大資本の進出は山の精霊にとっても、大きな事件だったようです。先述の『奥多摩の世間話』には、「山の神」と題された日原小菅住人の次のような証言が記録されています。
「奥多摩工業が始めて入ってきた時、発破かけたりして削っていったら、毎晩狐が鳴いたので、鳥居を建てて祭ったら、やんだ。自分のところが壊されると思ったらしい」

『奥多摩工業二十年のあゆみ 創立二十周年記念写真帖』の年表を眺めていると1944(昭和19)年9月10日に「倉沢社宅合宿・食堂等 16棟竣工」と記録されています。ようやく結論にたどり着きましたが、倉沢集落跡地に現在も残る多数の住宅の痕跡は、奥多摩工業社員のための社宅だったのです。当時建設された内容は以下の通り。

家族住宅 20棟 31戸
合  宿 5棟 29室
食  堂 1棟 29坪
集. 会  所 1棟 63坪
浴場、診療所売店、理髪所 4棟 48坪
出典:『奥多摩工業二十年のあゆみ 創立二十周年記念写真帖』
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水場のようなものがある。おそらくここが食堂だったのだろう
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公衆浴場と思しき建物。ボイラーのようなものも打ち捨てられている

 数字だけを見れば、社宅はそれなりの規模であることがわかります。また人里離れた山奥でも心身健康に暮らしていけるような最低限の設備は整えられていました。なんと映画などを上映する劇場まであったそうです。おそらく集会所の中に上映設備があったのではないかと推察されます。

 索道の建設が完了し、実際の営業が開始されたのは戦争終了後の1946(昭和21)年のこと。生産量は倍々ゲームで増えていきますが、次第に日原鉱床は貧鉱化していき、1960年代からはさらに奥地の天祖山鉱床へと採掘の前線が移動していきます。1950年代末以降には日原地区により大規模な社員寮が作られました。拠点としての役目を終えた倉沢集落からは人が去っていき、元からの住人も下界へと居を移し、最後には坂和 連さん一人が残されました。

木工、畑作、養蚕、林業、炭焼き

 2003年刊行の『山と渓谷 通号820号』には、最後の住人、坂和 連さんのインタビューが掲載されています。連さんの口からは村の人々がどのような生業をして生活をしていたかが語られています。集落の暮らしぶりがうかがえる貴重な証言だと思われますので、最後に紹介したいと思います。

 まず、1月から3月半ば頃までは箸などの木工に従事していたそうです。かつて日原は「箸割村」と呼ばれていたほど多くの家が箸造りを行っていました。江戸時代から明治時代にかけて、江戸市民は正月三が日の雑煮箸は日原の白箸で祝うしきたりがあったとも言います。

 4月からは畑仕事。じゃがいもや菜っぱ、麦などを作ったそうです。山間部は平らな土地がないため、耕作をするたびに作土を下から上へかきあげて耕地を確保します。おそらく社宅が造成された場所は、かつては集落の段々畑として機能していたのではないでしょうか。現在の集落跡地にも斜面に作られた畑地のようなものが見受けられますが、その一面あたりの狭さを見ると、いかに斜面が急であるかを感じていただけると思います。またこの地では焼畑も盛んに行われていました。

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この斜面も、かつては畑だったに違いない

 5月から9月半ば頃は養蚕、9月から12月頃はわさびの収穫。その他、連さんは植林作業にも従事したそうです。また、インタビューでは触れられていませんが、これは奥多摩に限らず山間部の村ではお馴染みですが、炭焼きの仕事もまた貴重な収入源となっていました。焼いた炭は冒頭で紹介した手車などによって江戸東京の方へと運ばれていきます。三度の引用となりますが『多摩の世間話』の中にも、倉沢に炭焼きの仕事に行った男が、道中狼の声にひどく脅かされたという話が出てきます。

なぜ山に暮らしたのか

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倉沢集落跡から渓谷を臨む 

 奥多摩の山奥に廃村があるらしいと知った時は、正直なところノスタルジックな甘い期待を抱いたのも事実です。人里離れた秘境の村で人知れず生活を送る民、その神秘性。ところが現地に足を運び、いろいろな史料に目を通していくうちに、朝靄のような幻想は解けて、倉沢集落の輪郭はリアリティを帯びてきます。陸の孤島だという私の勝手なイメージも間違いで、人や情報の往来も少なからずあったことが、坂和家に残された数々の文書からうかがい知ることができます。

 現代人の目から見ると倉沢は山奥の、険しい山肌にしがみついた、いかにも生活のしづらそうな空間に思えますが、何百年の昔に人々が定住の地をここに定め、何世代にもわたって住んできたのには、何らかの合理的な判断があったはず。山の暮らしのリアリズム。狐の妖怪や天狗、山の神などの精霊たちすらも、きっと彼らにとっては圧倒的なリアルだった。

 人々の去った集落、そして巨大なヒノキは、ひっそりと押し黙っていますが、それは何か言葉を内に秘めているような不思議な沈黙でもあります。幻想を乗り越えて、そこにあった「リアル」を真摯に見つめることで、ようやく私たちは彼らの声を耳にすることができるのかもしれません。

参考文献

奥多摩工業株式会社 編(1958)奥多摩工業二十年のあゆみ 創立二十周年記念写真帖 奥多摩工業株式会社
奥多摩町誌編纂委員会 編(1985)奥多摩町誌 民俗編 奥多摩町
平岡忠夫(1999)巨樹探検 森の神にあいにゆく 講談社
新多摩川誌編集委員会 編(2001)新多摩川誌/本編(下) 河川環境管理財団
勝峰富雄(2003)奥多摩山中 九十六歳ひとり暮らし--倉沢・坂和連翁--ある山村の現在と近過去のものがたり 山と渓谷,820号,190-193
渡辺節子 編(2010)奥多摩の世間話 ダムに沈んだ村で人々が語り伝えたこと 青木書店
奥多摩町教育委員会 編(2020)奥多摩町史料集第五十五号 坂和家文章(二) 奥多摩町教育委員会

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