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太鼓が紡ぐ一揆の記憶 郡上宝暦義民太鼓の軌跡

岐阜県郡上市の郡上おどり、白鳥おどりといった盆踊りにて長く歌い継がれている、歴史的事件がある。それが、宝暦4(1754)年に美濃国の郡上藩にて起こり、その後5年間にも渡って続いた郡上一揆(宝暦騒動)だ。盆踊りでは、いわゆる”口説き”という七七が繰り返される句型で、騒動の顛末が滔々と語られる。踊り子たちはその調べに任せて身体を動かすうちに、自然と250年以上前の農民たちの血湧き肉躍る壮絶な戦いについて知ることになる。

郡上市各地には、各部落に義民と呼ばれる一揆の立役者たちの供養碑が立てられている。この地に住む人たちにとって、郡上一揆とはどういう意味を持つのだろうか。一揆についてあらためて 調べてみると、その内容の凄まじさに驚く。発端となったのは、藩の税制改革で年貢収取を強化するために新しい年貢徴収法を採用したことにある。農民の反発は数百人規模の藩に対する強訴(領主などに対して集団で訴え出ること)につながり、反対運動は郡内に広がり、百姓たちは組織化され、江戸に出向いての藩屋敷への直訴、危険を顧みない老中への駕籠訴、目安箱へ訴状を投入し将軍直々に訴える箱訴と発展する。訴状は受理され、三奉行などの五手掛かりによる僉議(せんぎ)、まさに国家クラスの大事件として取り扱われた。結果、郡上藩金森家は改易、幕府役人の失脚、そして農民の側も責任者13名が獄門・死罪となった。

白鳥おどりを通じて出会う、優しくて穏やかな地元の人々の顔を思い浮かべる。この人たちの心の奥底にも、やはり農民たちのようにマグマのような反骨精神が渦巻いているのだろうか。ふと、そのような疑問をぶつけると、一揆主導者の一人である定次郎の在所、前谷村のとある方はこう呟いた。「僕たちは百姓やからなあ」「底辺やから」。その言葉の真意はわからないが、下から突き上げるエネルギーが、白鳥おどりの源なのではないかと思った。

さて、本題に移ろう。毎年8月13日〜15日にかけて行われる徹夜おどり(朝4時まで踊りが続く)のオープニングには、「郡上宝暦義民太鼓」という太鼓の演舞が披露される。郡上一揆の顛末を激しい太鼓の演奏とともに農民の視点から戯曲化したものだ。一揆のリーダーを秘匿するため放射状に名前を連ねた傘連判状の幕を背景に、かがり火のあかりの中で演じられる太鼓は、とても幻想的である。

義民太鼓のクライマックス、一揆の勝利に沸く農民たちが「宝暦義民口説き」に乗せて踊り出す。唄はやがて白鳥おどりの代表曲「源助さん」へと変わり、列をなして踊る農民たちの後へ踊り子たちが続き、それがシームレスに徹夜踊りの開幕へとつながっていくのだ。250年の時を超えて、人々が重なる瞬間。現代が「一揆」の歴史と地続きであることを、いやが上にも感じさせる、感動的な演出である。

宝暦義民太鼓について理解を深めることが、郡上一揆への理解、ひいては白鳥おどりを生み出した土壌、白鳥という土地への理解に繋がるのではないか。郡上宝暦義民太鼓保存会の前会長曽我さん、現会長の渡辺さんにお話を伺うことができた。

取材・文:小野和哉
写真:渡辺 葉

太鼓もない、太鼓の叩き方もわからなかった

ーー曽我さんは元々、こちらの生まれなんですか?

曽我 はい、本っ当の白鳥っ子です。中学を卒業してから10年ほど床屋の修行で、岐阜の柳ケ瀬にいましたけど、それ以外はずっと白鳥におります。

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相談役:曽我孫治さん。

ーー曽我さんは床屋をやられてますね。お父さんの代から床屋だったんですか?

曽我 ではない、僕の親父は「郵政」やった。おじいちゃんは桶の職人。だから僕はまるっきり違うことをやった。

ーー現会長の渡辺さんは何をやられているんですか?

渡辺 スキー場を定年退職してから、現在はスキー場でアルバイトで働いてます。リフト関係。自分は3歳の頃からスキーをやってましたんで。

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会長:渡辺裕二さん

ーーこの辺りの人はみんなスキーできますよね。夏は盆踊りで、冬はスキー。

曽我 渡辺さんは、鮎釣りと太鼓ですね。まあ、僕もそうやなあ。

渡辺 50年くらいやってます。

曽我 指折りの中に入るくらい上手や。体力もあるし。

ーー曽我さんも鮎釣りをやられているんですか。

曽我 はい。でも何でもそうですけど、歳をとってくるとダメになります。僕のような年齢で川に入るのは少ないですね。というのは非常に危険なんです。石がゴロゴロしてるし、流れがあるし。

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白鳥の町を貫くように流れる長良川。天気のいい日は釣り人の姿がちらほら見える。
撮影:小野和哉

渡辺 鮎っていうのは石に付く海苔を食べるんです。だから滑りやすいんですよ。30m、40m流されることもありますね。

曽我 ドボーンと落ち込んで流されたら、死に繋がることもあります。うっはっはっは。だから、みんなに迷惑がかからないように、気をつけてやります。野暮はできないわなあ。

ーー話は戻って、曽我さんは床屋を現役でやられているのですか?

曽我 仕事は卒業しました。息子や孫に任せて、僕はしたいようなことをやってます。忙しい時は手伝うけど、そうでない時は太鼓と釣りの方が主です(笑)

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曽我さんの家がやっている床屋さん。「SOGA」のロゴがおしゃれ。

ーー3世代でやられているのですか。すごいですねえ。それでは、義民太鼓について聞きたいんですけど、そもそも郡上宝暦義民太鼓保存会はどういう経緯で結成されたのですか?

曽我 保存会が結成されたのは昭和50年(1975年)のことです。故郷のために命を捨ててでも自分たちの住む場所をいいところにしたい、住みよいところにしたい、そういう農民たちの痛烈な想いを太鼓にしようと始まりました。

ーー宝暦義民騒動のことを、後世に伝えようという想いで始まったんですね。最初から太鼓と笛を使って義民たちの物語を演じていくというのは構想としてあったんですか?

曽我 それが目標でした。やっぱり一揆を太鼓で伝承していこうじゃないかという。物語を、物語という言い方はあれやけど、史実に基づいて、太鼓にしていますから。普通、太鼓というとものすごい大きな大太鼓を中心として太鼓を並べてドッドッドと叩いていくものが多いです。ところが義民太鼓の場合は、昔の郡上はこうやったよという「語り」も入れながら、全部で4場面構成で、最初は傘連判状太鼓、次は直訴太鼓、3番目は乱闘太鼓、最後は平和が来てみんなで喜んで踊ったという踊り太鼓、ミュージカル仕立てになっているのが、他に類を見ないのではないかと思います。

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昭和50年10月、郡上市白鳥体育館(通称:町体)・落成式での義民太鼓演奏。1場面・傘連判状太鼓のシーン。
写真提供:曽我賢太

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同じく義民太鼓・3場面・乱闘太鼓のシーン。右側の白い衣装は曽我孫治さん本人。
写真提供:曽我賢太

ーー最初はどのようなメンバーがいたんですか?

曽我 まず、三島重郎さんという、その人は白鳥の町長さんやったんです。(任期が)長かったな、重郎さんは。

渡辺 長かったですね。

曽我 それから僕の二代前の会長に曽我信一という人がおった。その方が、義民太鼓の初代会長さんでした。それから歴史の先生の坪井市次郎先生。坪井先生には、口上の文句を考えてもらいましたね。それから音楽の先生で、羽土治さん。そのほか、総勢13名のメンバーで始まりました。最初は大変でしたね。まず、道具がない。太鼓がない。太鼓っていうのもがどういうものかもわかりませんでした。当時は岐阜県下にも太鼓のチームを結成しているところはなかったんです。その後、ブームでバーっと広がりましたけど。

ーー太鼓もない、演奏できる人もいない。かなりチャレンジングでしたね。

曽我 はい。羽土さんは音楽の先生だったんですけど、太鼓に関しては失礼ですけど初心者でしたので、みんなどうしていいかわからん(笑)。苦労しましたねえ。

ーーそんな状況から、どうやって太鼓を始めたんですか?

曽我 石川県は太鼓が盛んな土地なのですが、御陣乗太鼓という有名な芸能をはじめ各部落に有名な太鼓がいくつもあって、御陣乗太鼓はいい音がするもんで、つい訪ねて行ったんです。浅野太鼓楽器店という400年ほど続く太鼓メーカーがありまして、そこの方が非常に協力的でええ人でね。太鼓をタダで貸してくれたり、いろいろとアドバイスをいただきました。

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石川県輪島市名舟町の御陣乗太鼓。写真は神奈川県横浜市「いちょう団地」の団地祭りにて披露されたもの。
撮影:小野和哉

ーーまずは、それで太鼓のめどはついたと。

曽我 それと、練習をするのにも苦労しましたね。当時はどこに行っても「オトコウガイ」と言って嫌われたんです。

ーーオトコウガイ?

曽我 音の公害、「音公害」です。小学校の体育館などを借りてやってたんですけど、もうとにかく音がうるさいって近所から苦情が来ましたね。そら上手に叩ければいいですけど、ダカダカダカーって(うるさかったですからね)。そこで、夏場は油坂スキー場という、スキー場のヒュッテが(オフシーズンで)空いてたので、そこを借りて練習してました。音をいくら出しても山の中なので。

ーーそんなところまで行って練習したんですね。

曽我 はい。当時はほんっとうに嫌われたんです。

ーー本当に嫌われた(笑)

曽我 そうやよ。公民館なんかでやっても音がうるさいもんで、本当に怒鳴られました。

ーー練習場所もままならず。よほど大変だったんですね。

曽我 最初は13名の会員で、試行練磨の連続でした。13人が「こうやったれー」「あーやったれー」って言って(アイデアを出し合いながら)。はっはっは。なかなか、形にはできなかったです。

ーーちなみに、義民太鼓は演奏中につけられているお面も印象的ですよね。あのお面はどのような意味があるのでしょうか。

曽我 義民太鼓の面は喜怒哀楽を表すためにつけています。微笑んだ顔、怒った顔、悲しい顔など場面に合わせて面をつけ変えています。面は会員の手作りで二代目会長の蓑島博さんが左官の材料で作った面と、創設メンバーである 故・蓑島菊四郎さんが木彫りで作った面を当時から今に至るまで使い続けています。

語りと唄の魅力

ーー全体を通した演出なんかも、皆さんで考えられながら作ったんですね? 例えば、太鼓の場面場面で入ってくる「語り」なんかも。

曽我 そうやなあ。さっき言ったように、語りの文句は坪井一次郎先生に作ってもらいました。

ーーあの語りが非常に味わい深いですよね。現在は、曽我さんが務められていますが。

曽我 以前は、前会長の曽我信一さんが担当されていて、いまは僕がやらしてもらっとるところやけど。次は現会長の渡辺さんにやってもらわないと(笑)

渡辺 いやいや、まだ他の者もいますので。

ーーまた、義民太鼓の中には語りだけでなく「唄」も入ってきますよね。冒頭の「古調かわさき」、第四幕の最後は「げんげんばらばら」を唄いながら農民たちが踊ります、いずれも白鳥おどりではなく、郡上おどりの唄であることも面白いです。

曽我 実はそこもいろいろ試しているんです。最後の唄は「シッチョイ」で踊っていた時もあるんですけど、唄がゆっくりだったので(流れに)合わなかったんです。

渡辺 曲調も明るすぎるかもしれませんね。

曽我 それから踊りが難しい。白鳥の人はすぐ踊れるんだけど、「シッチョイ」は難しいところがあるな。「げんげんばらばら」は2番くらいまで唄うと、全体の流れとしてちょうどいいんです。

ーーなるほど。

曽我 でも、(「げんげんばらばら」にこだわらず)今からでも変えても面白いと思います。それこそ昔は「神代」で試してみたこともありました。

ーーえー、「神代」はかなり軽快ですね。でも、面白そう。

渡辺 「八ツ坂」なんかも、そもそも「宝暦義民口説き」の歌詞で踊る唄ですから、いいかもしれませんね。

曽我 せっかく白鳥おどりなんで「源助さん」に変えても悪いことはないし。

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「こんな唄やってもええなあ!」と盛り上がるお二人。

ーー皆さんの柔軟な発想に驚きです。

曽我 唄といえば、最初の「古調かわさき」を唄われているのは見付さんという方なんやけど、ほんっとうにええ声をされているんや。

ーー白鳥おどりのヤグラの上でも音頭取りを務められていた方ですね。

曽我 そう! よう知ってみえるわ。東京の武道館でも(民謡大会で?)岐阜県代表で唄われたんやけど、上手下手やなしに見付さんの特徴がやっぱり哀愁がこもった歌というか、やるぞーっていうような気持ちになる、ムードを作ってくれる。「郡上のな~」って始まると、つい太鼓にバチを持つ手に力が入る、そういう感じやったな。今は体調を壊されているので、北山さんが(唄を)やってくれています。見付さんは大工をやられてみえるので、実は太鼓の台なんかも見付さんが作ってくれてるんです。

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白鳥のレジェンド的音頭取り、見付義勝さん。

ーーまた、歌声が聞けるといいですねぇ。僕は最後の「げんげんばらばら」の踊りから、「源助さん」に変わって、そこから盆踊りがはじまるという演出が大好きなんです。

曽我 (農民役の人たちが)先頭になって踊ってってくれるよな。そのあとに保存会の人が入っていって、踊りの輪ができていく。いいつながりになってる。

ーーちゃんと考えられているんですね、あの演出は。

曽我 八幡の郡上おどりにはない雰囲気っていうか。そういうのをやっぱり白鳥で作るといいなあと思って。八幡に太鼓はないもんで。それに太鼓をやっとると、大勢の人が見にきてくれるもんで、それでまた盛り上がったムードで踊りに入ってくるから、余計に盆踊りが盛り上がるような気がします。

始めることより、続けることの難しさ

ーー宝暦義民太鼓は、最初から白鳥おどりと連動して活動を行われていたのですか?

曽我 当時から白鳥おどりの日に演じていました。以前は、駅前に即席の舞台を作ってやったこともあります。太鼓は太鼓、踊りは踊りって別々にやっていたんですが、あっちこっちでやっていると、それこそ「音公害」やないけど、うるさいと言われてしまうので、いまのように同じ場所でおどりの前に太鼓をやるようになりました。

ーー白鳥おどりの場以外でも、宝暦義民太鼓を演奏されることはないのですか?

曽我 何か大きな舞台に呼ばれて演奏することがあります。岐阜の国際会議場とか、名古屋の東急ホテルとか。結婚式などの祝い事の席に呼ばれて太鼓を演奏することもありますけど、義民太鼓はどうしても物語的な内容になってしまいますので、そういう時は「郡上宝暦義民餅つき太鼓」をやっていますね。義民太鼓は祝いに合わんでな(笑)

渡辺 暗いイメージがありますからね。

ーー餅つき太鼓とはなんでしょうか。

曽我 郡上一揆で農民が勝利したことを祝って老若男女が楽しく踊る、そういう場面をイメージした楽しい曲打ちの太鼓です。

渡辺 主に5月に行われる春祭りで演奏されます。町内を巡って餅つき太鼓をして、餅を振る舞うんです。

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写真提供:白鳥観光協会

ーーまた義民太鼓とは打って変わって、楽しそうな雰囲気ですね。

曽我 祝い餅つき太鼓の始まりなんですが、平成7〜8年に富山の福光っていうところに会員5~6人で行って、向こうの「餅つき大会保存会」の方と交流会をやったわけです。そこで餅つき太鼓を教わって、「義民太鼓さん、やってよろしいよ」とお許しをいただいて、白鳥でも餅つき太鼓をやるようになったんです。だから根っからの白鳥の太鼓ではないのですが、いろいろとアレンジをしながら現在に至っています。

ーー義民太鼓と同じように、北陸由来の太鼓なんですね。

曽我 昔は、全国各地に太鼓の組織がありましたね。それを束ねる強力な組織があって、東京の虎ノ門で、全国の会長さんが集まる交流会もあった。羽土先生や、曽我信一さんにも役職をやっていただいたこともあるけど、今は各部落でやっていたり、プロの団体も現れてますし、組織というのは薄れてきていますね。

ーー先ほど、太鼓がブームになった時期があったと聞きましたが。

曽我 流行ったね。郡上でも高鷲から始まって、白鳥、大和、明宝、美並と太鼓がありました。ブームの時はバーっと広がっていくのですが、だんだんやめていくというか、活動が薄まってしまったり。

ーーそう考えると、未だに続いているのはすごいことかもしれませんね。

曽我 はい。それが一番大事なことやなあ。始めることより、続けることの方が難しいんです。

後進を育てる、小学5年生への太鼓指導

ーー義民太鼓のメンバーの方を見ていると、非常に若い方々が多いように感じるのですが、いまメンバーは何名いて、どのような年齢構成になっているのでしょうか。

曽我 20歳以上の大人のメンバーが30人、高校生以下が9人、 計39人おります。 

ーーすごい。層が厚いですね。

曽我 僕が80代、てっちゃんが70代、60代が会長の渡辺さん。

渡辺 僕が61です。自分らの世代が一番危ないですね。両親の介護とか孫の世話とか、そういうのがあるので、いまほとんど出てこないです。

ーーメンバーとしては在籍しているけど、家庭の事情でなかなか活動に参加できない方がいるということですね。

渡辺 そうですね。でも、若い者も活躍してますよ。いま高校生で、義民太鼓の四場面全部に出ている子がいますね。乱闘のシーンでは三回出てきてたり。

曽我 素晴らしいなあ。素質があるし。

渡辺 頭がいいし、覚えがいい、キレがいいんだよね。

曽我 体も柔らかいしなあ。迫力もあるし。

ーー若いメンバーはどういった経緯で、保存会に入るんですか。

曽我 平成6年から、地元の小学校で、小学5年生に授業の一環で祝い餅つき太鼓の指導をさせていただいているんです。平成16年からは非常勤講師として参加して現在に至っていますが、そこで教えた子たちが高校や大学を卒業して、どこかに行って、そして白鳥に帰ってくる。そんな子に声をかけると小学校の時に経験しとるもんで……そうやって入ってくる子が多いな、経験者は。さっきお話しした高校生の子も、私が小学校で太鼓を教えた子です。授業中にもウロウロ〜って教室から出てきて、俺につき回ってたよ(笑)

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曽我さんが小学生に指導をされている様子。
写真提供:曽我賢太

ーー地元の子は、みんなこの太鼓を経験しているんですね。義民太鼓の経験を通じて、郷土の歴史の学習にもなるので素晴らしい取り組みですね。

曽我 子どもたちにこの太鼓はどういう意味やと聞かれた時に、郡上はなあ250年はこんなところやったんやと、こんなに苦しかったんやと。僕んたも小学校5年生の頃は、学校の運動場も耕してまって、畑にして、食糧難で、豆や芋を作ったよというような話から初めて。君たちは今こうしてどえらい校舎の中で勉強してるけどこういう時代もあったんですよっていうような話をしよるな。

苦労した映画制作の資金集め

ーーそういった伝統や文化の継承という意味では、「郡上宝暦義民太鼓」のテーマとなっている宝暦4年の郡上一揆ですが、2000年公開の映画『郡上一揆』の題材にもなっています(原作は戯曲の『郡上の立百姓』)。曽我さんはこの映画の制作にも関わられたと聞きました。

曽我 はい。神山征二郎監督が『郡上一揆』を作ってくれたんです。

ーー神山さんは自身も岐阜県出身で、白鳥を舞台とした映画『さくら』を作ったことが宴となり、『郡上一揆』の制作につながったとか。同じく神山監督が岐阜を舞台に作った映画『ふるさと』(1983年)も感動的でした。

曽我 緒方直人さんとか、有名な俳優さんがいたけど忘れてまったな。市島村の孫兵衞をやった人はなんて人やったっけ。今でも見る、体格のいい……(筆者注:調べたら永島敏行のことのようです)。

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当時、地元のために命をささげた義民の慰霊法要が衰退する状況のなか、映画を作って後世に残そうという機運が高まったことも映画の企画が立ち上がったきっかけの1つだとか。
撮影:小野和哉

渡辺 女性は岩崎ひろみさんとか、錚々たるメンバーでした。

ーー撮影はこの辺り(白鳥町)で行われたんですか?

渡辺 そうですね。

曽我 郡上北高校の体育館に、牢屋のセットとか作って撮影しました。

ーー地元の高校生など、エキストラも相当な数が出演されたと聞きます。

曽我 僕も直接顔は写ってないですが、後ろ姿は随分映画に出てますよ。

ーー揆というだけに、大勢のエストラによる群衆のシーンはすごい迫力でしたね。曽我さんは、どのように映画に関わられたのでしょうか。

曽我 映画を作るのにただでは作れん、お金がかかるで、お金を集めるのが大変やったわあ。

ーー地元の人たちも出資していたんですね。

曽我 そうそう。億という単位の資金が必要やったんで、一口数万円で、2000万くらい集めたよ。他にも大西組って、当時勢いのええ、やんちゃな社長やったけど、その人にも5千万円借りたり、JAにも一億やらを借りて。今は全部返済したけど、そういう帳簿をつけたり、交渉をしたりということをやりましたね。

ーー映画の中でも農民たちが苦労して一揆の資金を集めるシーンがありますが、まさにそれを彷彿とさせますね。

時代に合わせて変わりゆく伝統の形

ーーこれから郡上宝暦義民太鼓を続けていくにあたって、後進の育成や、活動範囲の拡大など、やってみたいこと、考えていることはありますか?

曽我 後進を育てるのはもちろん、遠征に関しては東京に行ったり随分したで、それよりも地元で定着することや、自分で言うのもおこがましいですけど、お盆には義民太鼓を見に郡上、白鳥に行こう、と思っていただくことが大事だと思いますね。

ーー東京の大きな舞台でやる、というよりも、まずは地元ファーストで、さらに白鳥に義民太鼓を見に行こうと、わざわざ来てくれるくらいの目玉になろうと。

曽我 こういっちゃなんですが、義民太鼓は街の中でやるよりも、白鳥神社とか、あるいは長滝白山神社でやるとか、余計こうバックがええかしらんが、合うような気がするなあ。ビルの中でやるよりも、蛍光灯がないところで、かがり火だけでやると、すごい感じになると思います。

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今年で45周年を迎える、郡上宝暦義民太鼓保存会。写真は10周年、20周年、40周年に作られた記念誌。

渡辺 なんか亡くなった方の霊が舞うような、そんな雰囲気になりそうですね。また、太鼓のやり方も、僕の代になってからだいぶ変革を起こしています。

ーーそれは、どのようにでしょうか。

渡辺 乱闘の最初のシーンは太鼓が3つあるんですね。大太鼓があって、それが以外の死んでる太鼓が2つあったんです。これを生かそうと思って、農民が出て来て、さあこれから一揆が起こる、乱闘するぞということで叩き合いをして、最後は大太鼓で締めて、そこから乱闘に入るという感じにしたり。傘連番状のシーンも、小さい太鼓に人が入るようにしました。

ーーより迫力が出て来そうですね。

渡辺 また、最近では小さなスペースでも義民太鼓を演奏できないか挑戦しています。昨年末(2019年)に地元白鳥のイタリア料理店「ピッツェリア・ゴンザ」さんからお店の3周年記念で義民太鼓をやってもらえないかと相談がありました。そこで孫治さんと一緒にお店に行ってレイアウトを見て、太鼓はここに置こうとか、連判状はなければダメだとか、話し合って。10分でやって欲しいという相談でしたが、客層に合わせて唄を省略して語りだけにしたり、最後を餅つき太鼓に変えたり、そんな風にちょっとずつ短い時間でもできるように調整していきました。最終的には15分になりましたね。

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写真提供:渡邊里衛

ーーピッツェリア・ゴンザは僕も行ったことがありますが、あのオシャレなイタリア料理屋さんで義民太鼓をしたとは。これからも可能性は広がっていきそうですね。

曽我 義民太鼓は太鼓1つあれば、あとは面があればやれるで、まんだいいわなあ。大きな太鼓の団体だと、太鼓の輸送にも相当お金がかかると思うし、大きなスポンサーでもって全部やらないかん。

この世で怖いのはお天道様だけじゃ

ーーみなさんがこの太鼓を通じて伝承している郡上一揆の物語は、やはり白鳥や郡上に住む人にとっては、 どういう意味を持つのでしょうか。

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白鳥周辺の各部落には、地元の義民を讃える碑が立っている。写真は寒水村由蔵供養碑。
撮影:小野和哉

曽我 自分を犠牲にしてでも故郷というか、郡上の生活をちいとでも楽にしたいということで始まったことです。あまり若い人に言ってもわからんかもしれないけど、年配の方は大体、郡上一揆のことは知ってみえますね。それと勝利というか、勝利という意味ではないけど。この一揆で農民たちが目標を達成したということで、その後生活が楽になったということはなかったけど、その当時、殿様や老中を巻き込んで吟味が行われたというのがすごいことやと思います。

ーー強訴、駕籠訴、箱訴と続け、ついには国の中枢を動かした当時の人たちは、本当にすごい反骨精神ですよね。

曽我 (一揆の中心人物である)定次郎は首を切られる時、何て言ったと思います?

ーー何か言ったんですか?

曽我 俺の命なんかとうに承知しとる。この世で一番怖いのはお天道様だけじゃいって(笑)。逆に首切る役人が怯えてまって、その度胸に。太陽が照ってくれなければ、コメも取れんし、生活もできない。この世で怖いのはお天道様だけじゃと言って役人を睨みつけた。定次郎という人は、そういう男やったらしいです。

(取材を終えて)

私が曽我孫治さんとお会いしたのは、実はこの取材が初めてではない。遡るること数ヶ月前に、とある人の紹介で私は曽我さんと少しだけお話をする機会に恵まれた。義民太鼓の関係者ということでお引き合わせいただいたのだが、時間が足りなく十分なお話を聞くことができなかった。もっと詳しく宝暦義民太鼓について聞いてみたいと、そのお孫さんを通してあらためて取材のお願いをして、今回に至ったわけである。

この義民太鼓が北陸地方の太鼓文化に影響されていることや、農民たちが喜び勇んで終わる最後のシーンでかつては「げんげんばらばら」ではない別の盆踊り唄が歌われていたという事実は収穫であった。そして何より、結成から45年が経ちながらもなお、時代に合わせた新しい形を模索されている姿勢には心打たれるものがあった。「始めることより、続けることの方が難しい」郷土芸能に携わるものなら誰もが思うところであろうが、この郡上宝暦義民太鼓保存会は、続けるために変わることを恐れない人たちであると思った。

さて、白鳥に住む人々にとって「郡上一揆」とはどういう意味を持つのだろうか。私が当初から胸に抱いているこの問いについては、まだ明確な回答を得ることはできていない。ただ、印象深いのはやはり曽我さんの言葉である。最初に曽我さんとお会いした時、「宝暦義民太鼓保存会はどのようにしてできたんですか?」と聞いてみたのだ。そうすると曽我さんは保存会の設立経緯ではなく、時間を飛び越えて宝暦義民騒動の歴史を頭から語り始めた。まるで記憶の中にある過去の出来事を話すように自然に、その言葉は曽我さんの口から溢れ出てきた。曽我さんやその仲間たちが信じてきた「義民太鼓」は、紛れもなく郡上一揆の「歴史」と地続きになっているのだ。

そんな曽我さんが着ているTシャツの胸には「義民魂」という言葉が刺繍されたいた。250年前の義民たちの魂は、やはりいまも白鳥の人たちの胸に宿っているようだ。そう私は思った。

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取材協力:上田楽器店
参照文献:高橋教雄著『歴史探訪 郡上 宝暦騒動』(2016)梨逸書店



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