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自己紹介

ご覧いただきありがとうございます
山口一生(やまぐちかずお)と申します。

長野でデジタルマーケティングとメディア運営の会社「サンメディックス」を経営しています。

2013年に創業して今年で10期目になります。

弊社のことをもっとたくさんの方に知ってほしいと思い、代表者個人としてnoteを始めることにしました。
もともと文章を書くのが苦手で、、、子育て情報誌を発行している会社を経営しているのに、、、です笑。実はnoteを始めたのを同時に、放置プレーしていたTwitterも再開しました。Twitterを再開した理由も、自分の考えていることを、思っていることを文章化して文章作成力を鍛えるためです。
しかしTwitterは140文字なので、長文の文章作成力は鍛えにくいので、Twitterで端的に伝える文章力、noteで長文の文章力を鍛えていこうと思います。

すでに2本ほど投稿済みですが、自己紹介がまだだったので、私が何者かをお伝えさせていただきます。

  • 千葉出身なのに、なぜか長野で起業したよそ者社長

  • 財閥系商社の子会社を1年で辞めたバカ者社長

  • 起業願望ゼロからノリと勢いで創業

社長業も10年目に入り、国税庁の数字によると、会社が10年続く確率は6.3%程度、つまり16社のうち1社しか生き残れない中で、弊社は運良くここまで生き残っています。ともに駆け抜けてきた社員、弊社のクライアントの皆様に感謝してもしきれいないぐらいの思いでいっぱいです。

10年を振り返ると山あり 谷ありで、10年も経つと会社が安定して軌道に乗っていると思っていましたが、10年経った今も変わらず山あり 谷あり、アドベンチャーな日々を過ごしています。

今回は、自己紹介なので、私自身の生い立ちから起業に至るまでの話をしていきたいと思います。


公務員の長男として千葉に生まれた話し

1980年7月18日、千葉県千葉市で、熊本出身の父と群馬出身の母の長男として生まれました。兄弟は姉が2人の3人姉弟です。現在41歳です。

父は学校の先生、母は専業主婦でしたが、小学校低学年ぐらいから働きはじめました。

地方出身の父と母が大学で出会い、そのまま千葉に住み着いたので、典型的な核家族でした。末っ子長男として、今思えば甘やかされて育ち、小学校時代は、週刊少年ジャンプと、ビックリマンとミニ四駆などみんながハマるものに一緒にどっぷりハマる普通の少年でした。

中高一貫の男子校

私の転機のひとつが、小学5年の時に中学受験するために塾へ入れられたことです。今ほど中学受験ブームもなく、4クラスある小学校でも中学受験したのが4人ほどでした。
最寄り駅にあった市進学院に入って、小学校とは違った授業は楽しくもあり、楽しく通っていたのですが、この時の私には復習という概念がなく、また中学受験の難しさも認識せず、受験を迎えたため、結果は散々たるものでした。唯一合格した千葉日本大学第一中学校へ進学しました。

今はかなり有名になった渋幕も受けましたよ。まあ受かるわけない記念受験でしたけど。もしかしたら受かるかもなんて淡い期待もありましたが、、、。

今では笑い話ですが、私はこの学校が入学式に男子校だと気づきました。そもそも小学生の私には女子校は認識していても、男子校というものがあることを知りませんでした。まだ思春期に突入する前だったので、男子校なんてあるんだなぁぐらいの気持ちでした。その後、中高一貫なので、男だらけの6年間を過ごすことになりました。

エスカレーターでそのまま高校へ。大学もそのままエスカレーター!?

中高一貫だったので、普通に勉強していたので、そのままエスカレーターで千葉日本大学第一高等学校に進学。しかも日本大学の付属だったので、普通に勉強していれば、日本大学へ進学できる、しかも8割は日大進学の内部進学組でした。
でも中学受験での失敗体験から、高校受験もせずにスルーしたので、大学受験は自分の実力を試したいと思いました。というのはキレイ事で、学力に対して劣等感があったんだと思います。
そこで高校3年から千葉駅前にある御茶ノ水ゼミナールへ、親に頼んで通うわせてもらいました。高校の最寄り駅が津田沼駅だったのに、津田沼駅には代ゼミもあったし、河合塾もありましたけど、なぜわざわざ千葉駅まで通うったかと言うと、高校の同級生がだれも通っていないので、勉強に集中できるかなと思ったからです。
高校は内部進学組ばかりで、他大学を目指している同級生は1クラスだけ。そのクラスでも本気で他大学を目指していたのは数名。「友人と一緒に励まし合う」という環境ではなかったので、高校とはちょっと距離を置こうとおもったのでしょう、たぶん。結構しんどかったですけど、茶ゼミでは他の高校の友だちもできて、それなりに楽しく通うことができました。

おお明治!

気持ちは早慶レベルをと思っていましたが、高校3年からの1年で、現役で進学するとなると、MARCHレベルまでしか偏差値を上げることができませんでした。姉2人とも私立大学だったので、親孝行を考えると国公立とも思いましたが、どう考えても私立文系3科目に絞ってしか合格のイメージがわきませんでした。3教科受験に逃げたってことです。父母、親孝行できずにごめんなさい。

MARCHレベルで、自宅から通えてと考えて、明治と立教に絞って受験しました。学部は無差別で、法学部、商学部、政経と、2大学で5学部ぐらい受験したはずです。
その中で唯一受かった、明治大学政治経済学部に進学しました。

こちらは卒業式の写真ですが、、、

パラダイス政経で、大学生活をエンジョイしすぎた話し

私が進学した政治経済学部はパラダイス政経略してパラセイと呼ばれていました。何がパラダイスだったかと言うと、テストだけ受ければ、単位が楽勝でゲットできるという意味です。
最初は学ぶぞと意気込んでいましたが、徐々にパラダイスの波に飲まれました。中高と続けていたテニスをサークルでも続け、あとはアルバイト。
時給が高かったホテルの配膳のバイトで貯めたお金は、サークルの遊興費と、あと長期の旅行に行きました。
ニューヨークとモンゴル、ヨーロッパに行きました。

卒業旅行で、サークル男子とヨーロッパ旅行

911ニューヨークの旅

3日前に登ったワールドトレードセンターの展望台チケット

実は2001年9月11日にニューヨークにいました。ニューヨークを選んだ理由は世界の中心をこの目で見たいと、全米オープンテニスを生でみたいと思ったからです

そんな軽い気持ちで選んだニューヨーク旅行でしたが、9月11日帰国する当日、飛行機まで乗ったのですが、その飛行機は飛ぶことはなく、そのまま2週間ニューヨークに滞在することになりました。

ワールドトレードセンターのツインタワー

やらずに後悔するより、やって後悔したほうがよい

このニューヨーク旅行も私の転機のひとつです。何を感じたかをというとやりたいことをやりたい時にやるべき、という考えです。時間ができたらとか、お金ができたらとか、◯◯できたら△△するって、後回し後回しにしてやらずじまいってありますよね。
でも人生っていきなり死が訪れます。言葉では簡単に言えますが、ワールドトレードセンターで働いていた多くの人にとっては、普通の朝を迎え、普通に出勤して働き始めた。しかしビルに飛行機が突っ込むというありえないことが起こって、多くの方が亡くなった。
もしかしたら、このnoteを書いているこの瞬間に隕石が落ちてきて死ぬかもしれない。その瞬間に「あゝあれをやっておけばよかった」と思わないような人生を歩みたい、それが今の自分の根底に流れる考え方であり、それを2001年9月11日のニューヨークでの延長した2週間で考えさせられたことです。

学生時代は海外にいきました。こちらはモンゴル旅行

公務員家庭に育ち、帝王学を叩き込まれて育ったわけでもなく、高学歴でもなく、コンサルで修行を積んだわけでなく、起業の準備をしていたわけでもないけれど、2013年に起業したのは、やりたかったから、その一言に尽きます。

就職活動での挫折

そんなこんなで充実した大学生活を過ごしていましたが、就活の準備もまったくせず、スタートしてしまった就活。

結論から言うと、準備不足からの、失敗。

CMしているような有名企業ばから受けて、ことごとくお祈りメール。
今思えば、それで受かろうと思っていたのって思えるレベルでのぞんでました笑。

唯一、内定もらえたのは財閥系商社の石油販売会社だけ。


石の上にもたった1年

最終面接で、勤務地希望ある?って社長から聞かれた私は、憧れだった一人暮らしがしたかったので、東京以外でしたらどこでもと回答。

入社後の配属は広島でした。
広島は営業所だったので、所長がいて、ひとつ上の先輩が1人、あとは地元採用の事務員が2名と私の5人のメンバーでした。
皆さん面倒見がよく、とてもアットホームで居心地も良かったのですが、仕事は物足りないものでした。営業職でしたが、ルート営業がメインで、お得意先を回る。商品も差別化が図れるものではないので、値段次第。値段も元売りが決めているので、それに合わせて上げて下げてだけ。

今思うと参入障壁の高い商材ってなんて素晴らしいんだ。
財閥系だったので、福利厚生がしっかりしていてなんて素晴らしい。
なにもしていないのに、1年目の冬のボーナスは2ヶ月分。

今なら分かる。その会社の素晴らしさ。
でも若気の至りで、刺激が少なく、物足りなかったんでしょうね。
1年で辞めることを決意しました。

新天地を求め転職

転職と言っても転職活動はせず、知り合いに誘われたということで、その会社にお世話になることになりました。

その会社は長野県諏訪市にある中小企業。といっても10億の売上で社員は60名ぐらいいました。中小というよりも、地方では中堅企業です。起業してから気づきましたが、中堅企業ですが、とても立派な会社です。ここまでの会社にまだ育てることができていないので、地方で10億規模の会社に成長させた創業者の血の滲む努力が分かります。起業したから分かったことのひとつ。地方で建設系や製造業でなく、サービス業で10億規模って意外と少ないです。そんな中で、10億規模、現在は20億ぐらいになっているようです。

そろそろ4,000字超えたので、To Be Continued。

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