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告白された場所で告白する

「あのさ、これ…」
「…」

他人の恋愛事情など、あまり興味ないと思うので、手短に書こうと思う。


2年前、都内のある場所で、それも交差点の近くというなんの変哲もない場所で私は告白された。デートの流れということもあって、そんな場所での告白だった。

告白といっても「好きです」のようなストレートな台詞ではなく、人生を歩んでいくパートナーとしての考えを伝えてもらった。

彼女との出会いは10年前だけど、連絡を取ったのはここ数年で歳の差は12も離れてる。

生きてきた時代は違うけれど、お互い好きなものや趣味、考え方は似通っていて、ふたりの時間はいつも心地よくそして穏やかに過ごせる。

なのに私はこの彼女と、離れようとした。


生い立ちは人格形成に大きな影響を与える。

私は、機能不全家族で育ち、慢性うつ(気分変調)がある。どうにかして永らえ生きてきたが、なかなか自尊心を育めず、将来ふたりの歩幅で歩んでいくイメージができなかった。

そこに昭和生まれという「価値観の固定化」も相まってか、甲斐性のない男に価値はないといった概念もこびりつき、リアルに稼ぎのない私には「彼女は過ぎた存在」という不安が心を支配した。

けれど、なかなか離れることはできなかった。

彼女は私をひとりの人格として捉え、99の悪いところよりも、1つの良いところを見つけ出し、それを一緒に育もうとしてくれた。

よく、精神に問題があるカップルのどちらかは「共依存」というケースを聞くが、彼女は相手にぶら下がったり、それを強要したりすることのない女性だ。


その彼女自身にも、苦労があった。

苦労のひとつに父との関係性がある。やや高圧的な父親の態度は、幼いころの彼女の精神に一つのくさびを刺した。

だが彼女は私などと違い、そのたくましい生き様によって、誰よりも「心配り」ができる精神の持ち主になった。彼女は心の視野が広いので、それが原因で”目に余る”こともあるが、視野が狭く、塞ぎ込みやすいの私の心の目となってくれて、いまでも支えられている。

まさに「パートナー」と、云うだけある。

恋愛とは「支え合い」なんだと。しかし私には、彼女を支えられるだけの器量がない。


ひとりで生きていけるふたりが、 それでも一緒にいるのが夫婦だと思う。

tiffany

結婚とは、社会的自立をしているふたりが織りなす人生のイベント。tiffanyの素敵なフレーズだが、だとすれば、私に彼女は相応しくない。

そんな私に、彼女はこう言ってくれた。

「仕事で悩んだとき、人生に迷ったとき、そこにあなたが居てくれた。だから今度は私が傍にいて、そして一緒に歩みたい」

私は、何もしていない。彼女になにも与えられていない。でも、そうじゃない。彼女が教えてくれたことは『分かち合い』だった。

先述した「支え合い」と似ているが、私の中ではすこしニュアンスが違う。支えるのであれば双方に力量あってのことだが、分かち合いとは共有であって、お互いが一つとして歩んでいこうとする、”絆意識”だと感じている。

自分でも気づいてなかった。

知らず知らずのうちに、彼女と分かち合っていたことを。


つい先日、私は指輪を渡した。

婚約指輪だなんて大層なものではなくて、値段は言えないぐらい安いが、今の私にはこれが精一杯。

「あのさ、これ…」
「誕生日ちかいでしょ」
「…あと、これからもよろしく」

告白した場所は、そう。
なんの変哲もない、あの場所で。


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