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「金ちゃんの紙芝居」番外編 【池袋駅地下道の“三味線おばさん”と、山手線の傷痍軍人】

金ちゃんと緑さん ~池袋が最寄りの”大都会(マチ)”だった

金ちゃんこと、田中利夫さんは昭和16年生まれ。実家である貸席(当時のラブホテルのような存在)は、東武東上線・朝霞駅のすぐ前にあった。
朝霞駅は、池袋駅から急行で3駅。小さい頃から、池袋が、最も近い大都会というより、“東京”そのものだった。

高山のFACEBOOK(https://www.facebook.com/kazuhiro.takayama.3)に、よくコメントを寄せて下さる、岩手・花巻のアーティスト菅沼緑(ろく)さんは昭和21年生まれ。
5歳まで東京の椎名町(西武池袋線で、池袋駅から各駅で一つ目)で過ごした。やはり、池袋が最寄りの大都会だ。

池袋駅地下道の”三味線おばさん”

緑(ろく)さんは、こう書いている。
『 わたしの戦後は暗く湿った池袋の地下通路。赤ちゃんをおぶって、三味線を抱いた女性が出口に近いところに座っていた。通る人々は無視をするように過ぎて振り向くこともない。』

実は、5歳上の金ちゃんも、池袋駅で同じ風景を見ている。
『 地下道(通称、ションベンガードですよね)の“三味線おばさん”に、地下道西口出口側の水菓子屋「ゆう文」のおじさんがよく食い物を差し入れてたのも知ってます。 』

弱い立場の人に優しかった、老舗の果物屋主人

金ちゃんに聞くまで知らなかったのだが、「ゆう文(ぶん)」は老舗の果物屋(ついでに言うと、昔は「果物屋」のことを「水菓子屋」と呼んだことも、金ちゃんに聞くまで知らなかった)。

今は、東武池袋店で「ウォーターメロン」というジュース・スタンドを営んでいるということ。
気になったので、ネットで少し調べてみた。

*   「ゆう文」は1923(大正12)年に創業。しかし果物屋としては、2013(平成25)年に閉店
*   ジューススタンド「ウォーターメロン」は、地下2Fの食品フロア、エスカレーターの真下というわかりにくい場所にあるが、知る人ぞ知る人気で、食べログでも高評価
*   果汁たっぷりのジュースも良いが、ソフトクリームも美味。ミルクに、イチゴやメロンなど果物の繊維がたっぷり練り込まれている

戦後の混乱期に、困窮する女性に食べ物を差し入れていた老舗のご主人。
長く愛されている店というのは、弱い立場の人々にも優しいのだ、

山手線の傷痍軍人

あの頃、緑さんと金ちゃんは、もう一つ、同じ風景を見ている。

緑さんは書いている。
『 電車に乗れば、白衣から鉄のカギになった手に募金箱をぶら下げて乗客の前に突き出して、募金を要求する場面に出会ったものです。』

金ちゃんが応える。
『 お話のすべてが私の瞼に浮かびます。
電車内を歩き、無言で募金箱を突き出す白衣、戦闘帽の傷痍軍人は、その匂いまでも蘇ります。』

「あの二人が、明日の僕かもしれない」

金ちゃんは、傷痍軍人に関して、一枚の絵を描いている。

いちばん、右がニールさん

金ちゃん) 絵(ゑ)は、私を可愛いがってくれた米兵ニールさんを、今は「おばあちゃんの原宿」とよばれる巣鴨地蔵通りに案内した時に見た、傷痍軍人の様子です。

この時、ニールさんは10米ドル札を私に募金箱に入れるように託し、こう言いました。

「あの二人が、明日の僕であっても、なんら不思議なことはないんだよ」
「だから戦争はいけないんだよ」

アコーディオンからは ♪夕焼け小焼けの赤トンボ♪ のメロディーが流れていました。 

日本贔屓のニールさん

ニールさんというのは、金ちゃんが高校生の頃、つまり昭和30年代前半に、金ちゃんの実家が営む貸席に、足繫く通っていた職業軍人。
サエコさんという恋人(つまりオンリーさん)を貸席に長期滞在させていたからだ。

金ちゃん) このニールさんっていう人は、日本語はペラペラで、日本の文字で文章を書ける人だったんです。
それで聞きましたらね、「私は職業軍人です」と。
「だから、派遣される国の言葉を知っておいた方が有利だ、要するに、階級も上がるんだ」
「階級が上がるということは、給料も良くなる。私は職業軍人だから、そうすることが当たり前だと思っている。だから、日本語を勉強して日本へ来た」と。

━━ なるほど!

金ちゃん) とにかく日本贔屓で、「日本にいる以上は日本のものを食べなければいけない」ってなことを言ってね、蕎麦でも何でもよく食べましたよね。私の父親と碁や将棋をやったりもしていました。そういう人なんです。


昭和30年代前半、参拝客でにぎわう巣鴨で、ニールさんが金ちゃんに、「傷痍軍人に渡してくれ」と託したのが、10米ドル札だった。 

金ちゃん) もうその頃になりますと、傷痍軍人の姿はあんまり見なくなった。
でも巣鴨に行くと間違いなく、高岩寺の入り口、お地蔵さんの参道入り口に立ってたんですよ。
赤十字のついた白い箱を前に置いて、アコーディオンを弾いたり、歌を歌ったりしたんだけど、殆ど、お金を入れる人もなくてね…、たまに、お婆ちゃんが、ちょっと立ち止まって入れるぐらいのもんだったんですよ。

━━ うんうん。

金ちゃん) そんなのをしばらく見ているうちに、ニールさんが10ドル札を出して、「トシロ―(※1)、これ、入れてきてあげなさい」って言うわけね。

なぜ、ニールさんさんは自分で渡さなかったのか?

「ニールさん、自分で行ったら」って言ったらね、「いや、僕が行くと、多分、あの人たち二人は可哀想な思いをする」っていうような言い方をしてました。
それ…、私、なんとなく分かったんですよね

━━ うん、うん、うん。

金ちゃん) 「この人、いい人だな」と思ってね。
それで10ドル札を私が入れました。

私も、このドル紙幣を広げたまま入れるのは、やっぱりちょっと違うかなと思って、小さく折って、二人にドル紙幣と分からないようにして入れた思い出があります。
「アメ公のドル紙幣なんか!」と思わないとも限らない、と思いましてね。

━━ うん、うん

「だから戦争はいけないんだよ」

━━ 最後に、ニールさんが「だから戦争はいけないんだよ」て言ったっていうのが、すごく印象的なんですけれども、職業軍人は、言ってみれば、戦争が仕事なわけじゃないですか? 
それでも、そういうことを言ったんですね?

金ちゃん ) 言ってましたね。

「あの二人が、明日の僕であっても、なんら不思議なことはないんだよ、トシロー だから戦争はいけないんだよ」

と言ったんですね。

━━ うーん。

その後、ニールさんとサエコさん、そして2人の間の子・リサちゃんの3人が、いつ貸席からいなくなったのか、金ちゃんははっきりとしたことを覚えていない。

ただ、姿を消す前にニールさんが「僕は朝鮮語の勉強を始めたんだよ」と言ったことを記憶している。

とすれば、3人は韓国に渡ったのか?
今はもう、確かめる術はない。

戦後、池袋の地下道で三味線を弾いていた女性や、山手線の車内で無心する傷痍軍人。
誰もが生きるのに必死だった。
それは、パンパンと呼ばれた女性にも通じる。

実際にそれを見た人々は、どんどん少なくなっている。
だからこそ、そうした人々の記憶に耳を傾け、記録しなければいけない。


※1) 金ちゃん(田中利夫)をかわいがってくれた米兵は、皆、「トシオ」の発音が叶わず、「トシロー」「トシロー」と呼んだそう。


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